コンピューター・サイエンスを生み出したアメリカの知的風土とは?〜理想主義と観念論

開発中のENIACと哲学者アーサー・バークス(1946年) Douglas Harms, (2007), “Techniques to introduce historical computers into the computer science curriculum”より引用

 本連載でこれまで主に焦点を当ててきたのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという3名の数学者、および彼らの知的背景にある「ドイツ的」と対比されるものとしての「オーストリア的」なものだった。第二次大戦後、アメリカ市民となった彼ら3名は、今度はアメリカの知的風土と向き合うことになる。そしてそのアメリカの知的風土こそがまさにコンピューター・サイエンスを生み出す土壌となるわけである。ということで、今回はアメリカの知的風土の話をしたい。
 アメリカの知的風土ということでまず挙げるべきものは、アメリカの独自の哲学として知られるプラグマティズムであろう。とりわけ、本連載でこれまでに見てきたような、哲学者のライプニッツやカントの数学観を背景に、数学者のフレーゲやヒルベルトが生み出し、発展させた数理論理学という抽象的な学問から、コンピューターという具体的な現実のモノがアメリカにおいて生まれたのは、プラグマティズム──ときには「実用主義」という全く本質を外した訳語が当てられる──との邂逅こそがきっかけだったのだ、というストーリーには、なにか腑に落ちるところがある。
 困ったことに、このストーリーがまったくの大間違いだとも言えない。実際にプラグマティズムとコンピューターには一定の関わりがあるのだ。例えば、史上初のコンピューターとも言われるENIACの掛け算機構開発を担当したアーサー・バークスは、ミシガン大学の哲学科で博士号を取得し、ENIAC開発終了後には母校に戻って教鞭を取ったプラグマティズム哲学者だった。哲学科で博士号を取得した後にコンピューターの開発に携わるなどというのは、アメリカならではの感があることだろう。

 しかし、当然のことながら、事態はそう単純ではない。そもそも「プラグマティズム」という言葉でどのようなことを念頭におくべきかは難しいという問題がある。典型的な教科書では、「プラグマティズム」を代表する哲学者として、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイという19世紀生まれの3名の名前が載っている。しかし、彼らがみな同じ「プラグマティズム」を信奉していたのではない。むしろまったく逆だ。パースは後年、プラグマティズムを広く知らしめたジェイムズとの根本的な違いを主張し、自分の立場を「プラグマティシズム(pragmaticism)」という、今日では忘れ去られた名前で呼び始めた。デューイもまた、自分の立場をプラグマティズムとは考えず、むしろ「道具主義」という名称を積極的に用いていた。彼ら3人の間に共通点ももちろんあったとは言え、当人たちにとっては違いの方が重要だったのだ。
 プラグマティズムの捉え方の幅広さは、このような代表者たちの間の相違に留まらない。著名な思想家リチャード・ローティの著作『哲学と自然の鏡』(原著出版は1979年)では、プラグマティズムは分析哲学と相反するものとして位置付けられているが、それから30年後、プラグマティズム研究者シェリル・ミサックの著作『プラグマティズムの歩き方』(原著出版は2013年)では、逆にプラグマティズムは分析哲学と互いに影響しあい、入り混じったものとされている。そもそも、プラグマティズムの捉え方が一筋縄ではいかないということ自体、今から百年以上も前、1908年の段階で既に、アーサー・ラブジョイが論文「13のプラグマティズム(The Thirteen Pragmatisms)」で指摘している。プラグマティズムを特定のイメージで語ることは極めて危うい行為なのだ。
 もちろん、ここで読者に「プラグマティズムとは何か?」という哲学史上の問題につきあわせるつもりはないので安心されたい。本連載で注目するのは、「プラグマティズム」と呼ばれる多様な相違を内包した思想が19世紀末のアメリカで誕生し、世紀をまたいだ20世紀にアメリカ全土へと広まっていったという事実である。この「プラグマティズム」なるものの誕生と広まりを可能にした背景こそが、数理論理学からコンピューター・サイエンスへの橋渡しも可能にしたアメリカの知的風土にほかならない。

 では、その知的風土とはどういうものなのか。これを一言で述べるのは難しいが、あえてキーワードを挙げるとするならば、「理想主義(idealism)」と「観念論(idealism)」の二つ──あるいは数え方によっては一つ──である。
 アメリカが理想主義の国であることには、それほど違和感はないのではないだろうか。アメリカは明確な建国理念がある珍しい国の一つである。アメリカ独立宣言はその冒頭で、人間の平等や生存権、自由権などが自明の真理だとみなすと宣言されている。また、「アメリカン・ドリーム」やオバマ前大統領のスローガン「Yes We Can」には、理想を追い求めることに肯定的な国民性がうかがえる。
 一方の観念論についてはどうだろうか。アメリカと観念論哲学の関係についてはほとんど知られていないだろう。しかし、実は19世紀後半から第一次世界大戦までのアメリカでは観念論が支配的だったのだ。しかも、興味深いことに、その発端となったのは、ハーバード大学やイエール大学、コロンビア大学、プリンストン大学といった日本でも馴染みのある名だたる名門大学が位置するアメリカ東部の諸州ではなく、オハイオ州やミズーリ州、ミシシッピ州といった中西部の州だったのだ。いったい19世紀のアメリカ中西部では何が起きていたのだろうか?

1858年、セントルイス〜「セントルイスのヘーゲル主義者たち」

 1858年のミズーリ州セントルイス。ミシシッピ川に面するミズーリ州最大のこの街で2人の男が出会ったことがすべての始まりだった。若い方の名はウィリアム・トーリー・ハリス。1835年に東部のコネチカット州で生まれたハリスは、名門イエール・カレッジ(正式にイエール「大学(University)」となるのは1881年のことだ)で学んでいたが、卒業前に公立学校の教師の職を得てセントルイスに来たばかりだった。年長の方は、ヘンリー・コンラッド・ブロックマイヤーという1826年プロイセン生まれの男だ。かの宰相ビスマルクの甥であるブロックマイヤーは、16歳の時に単身アメリカに移住していた──極めて信心深い母親にゲーテの詩集を燃やされたことがきっかけだったという。ニューヨークやケンタッキーで職を転々としていたブロックマイヤーがセントルイスにやってきたのは、彼が20歳の頃だった。そんな一見したところ何の共通点も持たない彼ら2人が意気投合したものこそ、ヘーゲルに代表されるカント以降のドイツ哲学、すなわち、いわゆるドイツ観念論(German Idealism)だったのだ。

ウィリアム・トーリー・ハリス(出典
ヘンリー・コンラッド・ブロックマイヤー(出典

 当時ブロックマイヤーは、まだ英訳がなかったヘーゲルの著書『大論理学(Wissenschaft der Logik/ Science of Logic)』の英訳作業に手をつけたばかりだった。ブロックマイヤーの知識と情熱に深い感銘を受けたハリスは、当初乗り気でなかったブロックマイヤーを説得し、読書会を主催することになる。週に一度、セントルイスのアパートの一室で開催された彼らの集まりは、「カント・クラブ(Kant Club)」といい、彼ら2人と仲間たちは、後に「セントルイスのヘーゲル主義者たち(St. Louis Hegelians)」と呼ばれるようになるのである。
 このことには少し背景の説明が必要だろう。本連載第2回で触れたように、ヘーゲルは1818年、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツで覇権を争っていたプロイセン帝国の首都にあるベルリン大学の教授となり、多大な影響力を誇った。しかし、その影響力が国や言語を越えて影響力を発揮するのは、インターネットが発達した今日のようにすぐにはいかなかった。イギリスやアメリカでヘーゲルが広く知られるようになるのは、それからおよそ半世紀後、1865年にスコットランドの哲学者スターリングが『ヘーゲルの秘密(The Secret of Hegel)』という著書を出版してからのことだ。もちろん当時のイギリスやアメリカの知識階級はフランスやドイツに留学することも多く、彼らの間ではヘーゲルは知られていたのだが、影響は限られたものでしかなかった。まだ英語への翻訳がなかったため、ドイツ語に習熟していないとヘーゲルの著作を読むことができなかったからだ。

 ハリスとブロックマイヤーが出会ったのはその前だ。知識階級どころか大学を卒業してもいない彼らにとって(ブロックマイヤーもセントルイスで財を成した後にブラウン大学で学ぶが、結局中退している)ヘーゲルは、大学在学中に耳にしたことはあっただろうが、決して身近な存在ではなかった。しかし、当時のアメリカ中西部にはヘーゲル哲学が広まる下地はすでにできあがりつつあったのだ。
 アメリカ建国は、ピルグリム・ファーザーズに代表される、イギリス国王からの弾圧を逃れたピューリタンたちによって始められた。今日でも「WASP(White Anglo-Saxon Protestant)」という言葉があるように、ピューリタンを含むプロテスタントがアメリカの上流階級の多数を占めるとも言われている。しかし、1840年代にカトリックの移民が増加するのである。その中心となったのは二つの国だ。一つはアイルランド。暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領も、曽祖父が1848年にアイルランドからアメリカへと移民してきている。そしてもう一つの中心がドイツ移民なのだ。
 1812年、ナポレオン率いるフランスに敗れ苦境に陥っていたプロイセンは、国家再建のために大学改革に着手し、ユダヤ人にも自由な経済活動を認め、産業の重工業化を推進して神聖ローマ帝国解体後のドイツ諸邦の中心的地位を得る(本連載第2回)。そこで起きたことの一つは、自由な商業活動を謳歌する市民階級の誕生であり、彼らの間でのリベラリズムの勃興だ。そして、1848年にはヨーロッパ全土で「1848年革命」と呼ばれる一連の革命が勃発する。まずウィーン会議の後、王政が復活していたフランスで二月革命が起き、第二共和政が成立する。これが3月にドイツ諸邦に飛び火し、オーストリアではウィーンで民衆が蜂起、ウィーン会議を取り仕切ったメッテルニヒが失脚する。これによって火がついた民族自決運動が後のオーストリア・ハンガリー二重帝国成立の引き金となる。ベルリンでも暴動が起き、プロイセン国王が立憲君主制への移行を約束することになる。こうした動きはオーストリアとプロイセンにとどまるものではなかった。5月には、ドイツ全土から選挙で議員が選ばれて、ドイツ統一と憲法制定を目指す「フランクフルト国民議会(Frankfurter Nationalversammlung/Frankfurt Parliament)」が開催されるのだ。最終的にこれら一連の「ドイツ三月革命」は失敗に終わり、ドイツ統一は1871年のドイツ帝国成立まで持ち越されるのだが、この際に弾圧されたリベラル派がアメリカへと逃げ延びてくるのである。こうしたドイツからの新たな移民たちにとって、建国前からの支配層が確立されていた東部は安住の地ではなかった。だから彼らは、中西部のミズーリ州やミシシッピ州に移り住むことになるのである。

フランクフルト国民議会の様子(出典

 そうしたドイツ移民が集まった街の一つとして知られているのが、オハイオ州のシンシナティだ。シンシナティはアメリカ独立の少し後に3人の開拓者によって建設された比較的新しい街であり、その名前はその3名が所属していたシンシナティ協会(Society of the Cincinnati)という、アメリカ独立戦争に参加した士官の子孫のみが入会を認められた結社から取られたものだ。こうした経緯により、当初の住民はシンシナティ協会関係者が多かったのだが、1830年頃からドイツ移民が激増し、1855年にはドイツ移民と旧住民との間で衝突が生じたほどだった。
 ちなみに、そのシンシナティに最初に建てられたカトリック系の教会は、フランシスコ・ザビエル教会という。この教会を建てたのはイエズス会であり、日本にもやってきたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがその名の由来だ。そのザビエル教会には、ザビエル・カレッジという学校があり(現在はザビエル大学となっている)、J・B・スタロという後にマッハやラッセルとも交流を持つようになるアメリカ最初の科学哲学者が教えていた。そのスタロもまた、ブロックマイヤーと同じくドイツ生まれであり、16歳だった1839年に一族でアメリカに移民している。当時のアメリカ中西部には、このようなドイツ系の知識階級が少なからずいたのだ。
 セントルイスはそうしたドイツ移民が多くやってきた都市の代表格だ。1840年に2万人だったセントルイスの人口は、1860年にはなんと16万人を超える。その多くがアイルランドとドイツからのカトリック系の移民だった。当時のセントルイスは、非アメリカ的かつ国際的な都市であり、ヨーロッパから来た共和主義者が日々集う革命前夜のような雰囲気があったと言われている。そんな都市だったからこそ、プロイセン生まれのブロックマイヤーを中心にヘーゲル哲学を学ぼうという若者が集まることができたのだ。

「セントルイスのヘーゲル主義者たち」がいた頃のセントルイス(1874年) Parsons & Atwater New York : Published by Currier & Ives, c1874. / Public domain

社会改革を目指す哲学〜ヘーゲル主義、観念論、理想主義

 そのような、どこかしらドイツの自由都市にも似たセントルイスの彼らにとって、ヘーゲル哲学は現在の我々がイメージするような抽象的で難解な哲学ではなかった。いや、ヘーゲル哲学が難解であることは彼らにとっても同様で、だからこそプロイセン生まれでドイツ語がネイティブであるブロックマイヤーを中心に読書会を開催することにしたわけだが、彼らがヘーゲルに求めたものは、弁証法や形而上学というよりは、国家や社会についての哲学だった。その中心にあったのは教育である。教育を通じてより良い社会の実現を目指す。これが「セントルイスのヘーゲル主義者たち」の共通理念だった。実際、ハリスは後にアメリカ合衆国教育長官となり、ブロックマイヤーも政治家に転身してミズーリ州の副知事となる。彼らにとってヘーゲル哲学は、現実とは離れた哲学者の思索などではなく、政治や教育という困難な現実に対処する社会改革を目指す哲学だったのだ。セントルイスのヘーゲル主義者の多くがハリスと同じく学校教師だったのも偶然ではない。
 日本でも、特に学生運動が盛んだった1960-70年代、ヘーゲルは何よりもまずマルクスに強い影響を与えた哲学者として読まれていた。それから半世紀を経た今日ではその印象も薄れつつあるが、フランス革命を支持していたヘーゲルは高名な社会思想家でもあった。少なくとも、セントルイスのヘーゲル主義者たちにとって、「ヘーゲル」や彼によって代表される「ドイツ観念論」とは、そうしたものだったのだ。
 当時、このような「ヘーゲル」観はアメリカだけのものではなかった。イギリスに目を向けよう。上述のように1865年に『ヘーゲルの秘密』が出版されたこともあり、1870年代から第一次世界大戦までのイギリス哲学の中心となったのは、ヘーゲル哲学であり、観念論だった。それを代表するのがオックスフォード大学の哲学者トーマス・ヒル・グリーンだ。彼や彼の教え子たちは「新ヘーゲル主義者(Neo-Hegelians)」と呼ばれ、ヘーゲルそしてカントに基づき、当時のイギリス哲学で中心的だった経験論や功利主義を厳しく批判した。グリーンの哲学の中心は倫理学と政治哲学だ。彼の政治思想は極めてリベラルであり、個人の自由を社会の中で保障するのが国家の役割だと考えていた。また、実際の政治にも関わっていた。それまで女性の入学が許されていなかったオックスフォード大学に女性も入学できるようにしたのもグリーンだ。グリーンもまた、教育を通じた社会改革を推進していたのである。
 グリーンが新しく生み出したヘーゲルやカントに基づく新たなイギリス哲学の流れは、今日では「ブリティッシュ・アイデアリズム(British Idealism)」と呼ばれ、日本では文脈に応じて、「イギリス観念論」もしくは「イギリス理想主義」と厳密に訳し分けられる。しかし、重要なのは、こうしたイギリスの「ヘーゲル主義」者は「観念論」者でもあり、「理想主義」者でもあったということだ。そして同じことがセントルイスの──そしてアメリカの──ヘーゲル主義者たちにも当てはまるのである。

ヘーゲル主義からプラグマティズムへと続くアメリカ観念論の伝統

 さて、セントルイスのヘーゲル主義者たちの読書会は程なくして中断を余儀なくされる。南北戦争(1861-1865)が始まったためだ。ミズーリ州も戦場となる。民主党員でありながらリンカーン政権を支持していたブロックマイヤーは、開戦前から州議会に選出されており、副知事に任命されるのも戦争中だ。その後しばらく彼は、政界に身を置くこととなる。
 一方、ハリスは教師の職を続け、南北戦争後の1868年にはミズーリ州の教育長官に任命される。彼が主にしたのは教育制度の整備だ。公教育のカリキュラムを拡充し、高等学校の制度を確立した。アメリカで最初に安定して経営することに成功した公共幼稚園の設立にもハリスが携わっている。
 教育と並行して、ハリスは哲学でも積極的に活動していた。1866年にはセントルイス哲学協会を設立。続く1867年には『思弁哲学雑誌(Journal of Speculative Philosophy)』を創刊する。このジャーナルは、英語で出版された最初の哲学専門誌である。まさにトファルドフスキがレンベルク(ルヴフ)大学でしたようなことを(本連載第6回)、ハリスはセントルイスでしたのである。ただし、大学の外で。

英語で出版された最初の哲学専門誌である『思弁哲学雑誌(Journal of Speculative Philosophy)』第一号の表紙(1867年)。ハリスの名前と出版地であるセントルイスの地名も見える。

 『思弁哲学雑誌』の特徴は、現代の学術専門誌とは異なり、教育面が重視されていたことだ。ヘーゲルだけでなく様々なドイツの哲学者の著作の翻訳が掲載される一方で、若手の論文も数多く掲載された。パーズ、ジェイムズ、デューイをはじめとする初期のプラグマティストはみな、キャリアの初期に『思弁哲学雑誌』に論文が掲載されている。これは教育者であるハリスの編集方針によるものだった。実際、ハリスは投稿を躊躇する若きデューイに投稿を勧める手紙を書いているほどだ。教育を通じてより良い社会の実現を目指すという「セントルイスのヘーゲル主義者たち」の理念を、ハリスは『思弁哲学雑誌』でも実践していたのだ。
 『思弁哲学雑誌』は20年ほど刊行を続けるが、ハリスが1889年に合衆国教育長官に任命されたこともあり、廃刊を余儀なくされる。しかし、その頃にはハリスの撒いた観念論──あるいは理想主義というべきか──の種はアメリカ全土に広まっていた。1895年、カリフォルニア大学バークレー校で「哲学大討議(The Great Philosophical Discussion)」というシンポジウムが大々的に開催される。このシンポジウムは、ニューヨーク・タイムズに「巨人たちの闘い」として取り上げられるほど注目されていた。議論の中心となったのは、当時一世を風靡していたハーバード大学哲学科教授のジョサイア・ロイス。ロイスに対し、このシンポジウムを主催したバークレー哲学科教授のジョージ・ホームズ・ハウィソンが批判を繰り広げた。ハウィソンは、あの「セントルイスのヘーゲル主義者」の一人であり、1881年にはベルリン大学に留学してカントとヘーゲルを学んでいたのだが、彼は自分の講演で、登壇者の全員に共通するのは観念論だと述べているのである。

 このように、19世紀のとりわけ後半、アメリカの哲学は観念論を中心に動いていたが、20世紀に入るとプラグマティズムが台頭してくる。しかし、これは観念論が、それと真っ向から対立するプラグマティズムによって否定されたということではない。そもそもプラグマティズムの誕生は1870年代であり、特にその初期には『思弁哲学雑誌』との関わりも深かったことは上述の通りだ。むしろ、観念論からプラグマティズムへの移り変わりは連続的だと捉える方が適切であろう。もしかすると、かつては全くの別物だと考えられていた恐竜と鳥類が、今日では前者が後者の祖先であることに疑いないがないのと同じように、観念論はプラグマティズムの祖先なのだと言うべきなのかもしれない。
 一つ興味深い例を挙げておこう。今回の冒頭に挙げたプラグマティズムを代表する3名の哲学者の一人ジョン・デューイだ。デューイは3人の中でも一番年下であり、プラグマティズムは、デューイの死去と時を同じくして哲学の表舞台から一度姿を消す。その意味で、デューイは「最後の古き良きプラグマティスト」である。若きデューイは紛うことなきヘーゲル主義者であり、グリーンに傾倒し、『思弁哲学雑誌』にももちろん寄稿していた。プラグマティストとして知られるようになるのは、中西部のミシガンやシカゴでポストを得てからであり、特に教育理論で名声を得る。第一次世界大戦後には日本や中国を訪れ、大きな影響を与えるが、生涯を通じて社会哲学に関心を持ち続けた。そのデューイは、民主主義、そして社会改革は教育を通じて実現されると考えていたと言われている──ハリスら「セントルイスのヘーゲル主義者たち」、そしてグリーンらイギリスの「新ヘーゲル主義者」と同じように。

 今回はアメリカの知的風土として、「セントルイスのヘーゲル主義者たち」からプラグマティズムへと連なるアメリカ観念論/理想主義の伝統に焦点を当てた。ところで、これまで本連載では様々な学派が登場してきたが、この伝統には一点大きな違いがあったことに気づかれただろうか。それは、ハリスとブロックマイヤーは博士号どころか大学卒業すらしておらず、彼らの活動も主に大学の外にあったことだ。実際、こんなことは同時代のドイツやオーストリアでは考えられない。彼ら2人より100年前の人物であるカントも、200年前の人物であるライプニッツもちゃんと博士号を取得していることを考えれば、このことの異常さが理解していただけるだろう。この背景にあるのは、アメリカが若い国であり、大学制度の整備が遅れていたからである。
 次回は、このようなアメリカの知的風土を生んだ大きな要因であるアメリカの特異な大学制度について話を移そう。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年5月15日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年7月1日に公開しました。
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