アメリカへの移民供給元となっていた19世紀後半のオーストリア

 本連載第8回でも言及したが、ドイツからアメリカへという知の流入は、19世紀半ばに始まる。特に、1848年のドイツ三月革命の失敗後、弾圧の対象となったリベラル派のドイツ人知識層がアメリカにやってくる。アメリカ建国期からの支配層に牛耳られていた東海岸に安住の地を見つけられなかった彼らが向かったのは中西部であり、その中心地となったのが、オハイオ州シンシナティ、そして「セントルイスのヘーゲル主義者たち」がいたミズーリ州セントルイスだった。だが、こうした知識層のアメリカ移動は、ドイツだけではなく、オーストリアでも起こっていたのだ。いや、それどころか、オーストリアはドイツよりもずっと多く、アメリカへの移民を生み出していたのだ。
 ドイツ三月革命では、ウィーンでも民衆蜂起が起きており、ウィーン会議を取り仕切った帝国宰相メッテルニヒが失脚していた。同時期に、当時はオーストリア帝国に属していたチェコのプラハでも民衆が蜂起した。時の皇帝フェルディナンド一世は、ウィーンの暴動を鎮圧するのを優先すべく、民衆の声をいったん聞きいれ、彼らが要求するチェコ人とドイツ人(ドイツ語を母語とするオーストリア人)の平等を実現するために仮政府が樹立される。
 だが、これを良しとしなかったものもいた。チェコ国内に住むドイツ人だ。チェコはドイツと隣接しているだけでなく、チェコ(厳密にはチェコ西部であるボヘミア)自体はチェコ語を話すチェコ人の国でありながら、古くから神聖ローマ皇帝の支配下にあり、有力な帝国諸侯の一つとしてドイツとの往来も頻繁で、多くのドイツ人がチェコに住んでいた。
 加えて、当時のオーストリア帝国は広大な多民族国家であり(第2回)、帝国内での移動は日常的におこなわれていた。外国人と区別するために、オーストリア国籍とは別に、国内のどこの地域が出身地かを示す「本籍(Heimatrecht)」を定める法律があったほどだった。このようにオーストリアは、帝国本体が多民族国家であるだけでなく、帝国を構成する諸国もその内部では様々な少数民族を抱えていたのだ。特にドイツ人は帝国の支配階級であり、各国に散らばっていた。彼らにとって、当時盛んになっていた民族自決主義は、自らの立場を危うくするものでしかなかったのだ。

 チェコで民族対立が広がりつつあった1848年5月、ドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開催される(第8回)。この「ドイツ統一」の対象となったのは神聖ローマ帝国を構成した諸邦だったのだが(第2回)、オーストリアの一地方ながら旧帝国諸邦の一つでもあったチェコにも議員を派遣するよう、要請が来る。チェコ人主体の仮政府は当然のように、フランクフルト国民議会への議員派遣を拒否する。このことはチェコ国内のチェコ人とドイツ人の対立をさらに激化させ、やがて首都プラハで暴動が発生する。それを見たオーストリア政府はすかさず方針を転換し、プラハを軍事制圧するのである。仮政府も解散させられ、プラハの革命はかくして失敗に終わるのである。
 チェコと同じくオーストリア帝国の版図に含まれていたハンガリーのブダペストでも、革命が起きようとしていた。ここでもまたオーストリア皇帝は、いったんハンガリーの立憲君主制への移行を約束し、ハンガリー人を中心とする新政府が発足する。しかし、こうした恩恵を得ることができたのはハンガリー人だけだった。ハンガリー国内にはドイツ人のみならず、クロアチア人やルーマニア人など様々な民族が住んでいたのだ。ハンガリー新政府に対する彼ら非ハンガリー人の反感は、チェコと同様、大きいものだった。
 1848年11月、プラハをはじめとする帝国内部での暴動を次々と鎮圧していたオーストリアは、最後の反乱分子となっていたハンガリーに宣戦布告する。ハンガリー新政府に批判的な非ハンガリー人を中心とした部隊を組織するというオーストリアの戦略は功を奏し、翌1849年1月にはブダペストを占領する。
 このように、19世紀の後半には、ドイツ人だけでなく、チェコやハンガリーをはじめとするオーストリア帝国を構成する諸国からも、政治的対立や圧政を受けてアメリカへと移民するものが相次いでいたのである。

 じつのところ、1848年の革命失敗によってアメリカ移民が増えたという点では、ドイツとオーストリアは変わらない。だがその後、両者の立ち位置は対照的なものとなっていく。当時のドイツ諸邦で主導権争いをしていたのは、プロイセンとオーストリアだった(第2回)。しかし、大学改革に成功したプロイセンは、産学協同を軸に重工業化を進め、オーストリアとの主導権争いに勝利。1871年にはプロイセン中心のドイツ帝国が成立する。アメリカは、こうして国力でも学問でも世界をリードする国家となったドイツを手本とするようになるのである(第9回)。
 一方、カトリック国家であったオーストリアの大学は、相変わらず教会の強い影響下にあり、旧態依然としたままだった。工業化も一部の地域でしか進まず、取り残された地域では、より強まったオーストリア帝国の圧政のもとで農民たちが貧困に喘いでいた。彼らの中には、職を求めてドイツやフランスといった国外へと出稼ぎに行くものがいた。広大な多民族国家だったオーストリア帝国では、国内での出稼ぎは当たり前のようにおこなわれていたからだ。そして発展を続けるアメリカもまた、やがて主要な出稼ぎ先の一つとなっていた。19世紀終わり頃のオーストリアは、ドイツとは対照的に、アメリカへの移民の主要な供給元になっていたのである。
 彼らオーストリア移民が目指したのは、ドイツ移民と同じく中西部のオハイオ州やイリノイ州、さらには、その西にあるウィスコンシン州やミネソタ州にまで及んだという。ミネソタ州には、その名も「ニュー・プラーグ(New Prague)」という街がある。もちろん「プラーグ」とは、チェコの首都プラハ(Praha/Prague)の英語表記である。
 チェコの国民的作曲家のアントニン・ドヴォルザークは、1892年から約3年アメリカに滞在している。代表作「新世界より」を作曲したのはこの時期だ。ドヴォルザークは主にニューヨークで暮らしていたが、「新世界より」の作曲後、知人に招かれて中西部のイリノイ州スピルヴィルという街で休暇を過ごす。スピルヴィルには多くのチェコ人が住んでおり、そこにいる時は故郷にいるように感じられたとドヴォルザークは回想している。結局ドヴォルザークはホームシックのために帰国するのだが、ヨーロッパとは大きく異なる東海岸とは違い、中西部には故郷を思わせるものが数多くあったのだろう。

イリノイ州スピルヴィルのドヴォルザーク逝去75周年記念スタンプ(1975年)(引用) Public Domain

1902年、オハイオ州クリーブランド〜「オーストリア的」なアメリカの象徴

 そうしたオーストリア帝国からの移民の中心地の一つとなったのが、オハイオ州クリーブランドである。1900年前後の記録によれば、アメリカ国外生まれのクリーブランド市民(つまり移民)の出身国を見ると、最も多いのはドイツであり、残りはチェコ、ハンガリー、ポーランドなどのオーストリアないし周辺国が大半を占め、イギリスやアイルランドといった古くからの移民供給国の出身者は少数に留まっている。
 今日のクリーブランドには、「ブロードウェイ・スラヴィック・ヴィレッジ(Broadway-Slavic Village)」という地区がある。ここは、「リトル・ボヘミア」とも呼ばれ、かつてチェコ移民が多く住んでいた地区と、ポーランド移民が多く住んでいたワルシャワ(Warszawa)地区が合併してできたものだ。どちらの地区にも、チェコやポーランドに由来する地名が今でも残っている。
 クリーブランドの町自体は、1796年にコネチカット州の軍人、クリーブランド将軍によって建設されたもので、特に移民とのつながりはなかった。ここに最初にやってきたのはドイツ系の移民で、ドイツ移民の中心地だった同じ州のシンシナティから少し遅れてクリーブランドにも入りだす。その代表例が、ジョン・ロックフェラーだ。1810年ニューヨーク生まれのロックフェラーはドイツ移民の末裔であり、1870年にクリーブランドで「スタンダード・オイル・オブ・オハイオ」という石油会社を設立する。のちに「スタンダード・オイル・トラスト」となるこの会社は、アメリカ中の石油産業を独占し、アメリカで反トラスト法が制定されるきっかけとなる。巨万の富を得たロックフェラーが設立したのがロックフェラー財団であり、フォン・ノイマンがヒルベルトの元で研究するために得た奨学金を出していたのもロックフェラー財団だった(第5回)。
 19世紀の後半に入ると、ドイツ移民によって活気付いていたクリーブランドに、さらにオーストリアからの移民がやってくるようになる。最初にやってきたのはチェコなどのドイツに近い国からの移民だ。彼らの多くは英語が堪能でなかったが、ドイツ語での意思疎通には慣れていたため、ドイツ人が多く居住する地域を選んで移民してきたのだ。また、オーストリアの非ドイツ人知識階層はドイツ語を話すことができた。オーストリアの大学の大半はドイツ語で教育がおこなわれていたからだ。こうしたドイツ語に堪能な移民が来た後には、彼らと同郷の移民がやってくることとなった。その多くはハンガリー人やポーランド人だ。こうしてクリーブランドは徐々に「オーストリア化」していったのである。

 クリーブランドがどれほど「オーストリア的」かを物語るエピソードが、コシュート記念像建設事件だ。1901年、クリーブランド在住のハンガリー人団体が、クリーブランドの中心地に、ハンガリーの英雄、コシュート・ラヨシュの生誕100周年を記念する像を建設することを決定する。コシュートは、1848年の失敗に終わったハンガリー革命の中心人物の一人であり、新政府でも財務大臣を務めていた。オーストリアによるブダペスト占領後、コシュートはオスマン・トルコに亡命し、ハンガリー独立運動を続けた。また、アメリカ、イギリス、フランスを歴訪し、ハンガリー独立への支持を訴えた。その際、クリーブランドにも2日だけ滞在している。結局その後コシュートが母国に戻ることはなく、1894年にイタリアのトリノで死去するが、ブダペストでは彼の葬儀が盛大に執りおこなわれた。
 コシュートの死後、ニューヨークで記念像建設運動が始まる。1848年の革命に関わり、その後アメリカへと移住していたハンガリー人たちの中には、ニューヨークで財を成したものもいたが、この運動は大きく広まることはなかった。ところがクリーブランドで始まった運動は違った。発端こそ南北戦争に参加したハンガリー出身の退役軍人会だったが、ハンガリー語新聞やハンガリー系教会など、様々なハンガリー系団体が参加し、やがては全米から記念像建設のための募金が集まった。この運動に参加したハンガリー移民の中には、ハンガリー本国に先立ってコシュート記念像を建設することによって、自分たちがハンガリー人であることを証明したいという思いがあったという。最終的にこの運動はハンガリー本国にまで波及するほどになり、コシュートの像がハンガリーで彫像されてアメリカに運ばれることになる。その頃すでに100万人以上のハンガリー人がアメリカに渡っていたのだが、コシュート記念像建設運動は、彼らの本国への思いを強くし、ハンガリー系アメリカ人の新たなコミュニティが生まれるきっかけとなった。
 もっとも、コシュート記念像建設は全てが順調に進んだわけではなかった。除幕式の2ヶ月前、1902年7月に抗議運動がなされる。中心となったのは、クリーブランドのチェコ系およびスロヴァキア系の市民である。彼らの主張は、ハンガリーはハンガリー人だけのものではない、というものだった。上述のように、オーストリア帝国内のハンガリーもまた多民族国家であり、ハンガリー人以外にドイツ人やチェコ人、スロヴァキア人など様々な少数民族がいた。そもそもコシュート自身、スロヴァキア系のハンガリー人だったのだ。記念像建設に抗議した非ハンガリー系のハンガリー移民(オーストリア移民と呼ぶ方が良いかもしれない)からすれば、コシュートは非ハンガリー人でありながらハンガリー側に寝返り、非ハンガリー人弾圧を推し進めた裏切り者の抑圧者である。そんな人物の像が市の中心部にあるのは、ここ自由の国アメリカでは、あってはならないのだ。結局、コシュート記念像は、当初予定されていた市の中心部ではなく、別のところに建設されることになる。
 ある国家的英雄が、別の国では許しがたい犯罪者とされることはよくある。オーストリア帝国のような多民族国家では、同じことが帝国内のみならず、帝国を構成する国家の内部でさえも起きる。コシュート記念像建設事件がさらに際立っているのは、これがアメリカという別の国で起きたという点である。記念像建設運動に参加したものも、抗議運動に参加したものも、アメリカ人であり、本来であれば出身国の問題からは距離を置いてもよい立場にあった。だが、オーストリア帝国という多民族国家からやってきた彼らにとって、今の生活は祖国で得た地縁や血縁あってのものだという思いは、そう簡単には捨て去れないものだったのだろう。

現在もクリーブランド市内にあるコシュート記念像(引用) Warren LeMay from Cincinnati, OH, United States / CC0

「オーストリア的」なユダヤ人が自由を謳歌した世紀末ウィーン

 オーストリア帝国領域からの移民には、ハンガリー人やチェコ人とは別のグループがあった。ユダヤ人である。
 アメリカはイスラエルをも凌ぐ世界最大のユダヤ人を抱える国である。ユダヤ移民の歴史も古く、まだイギリスの植民地だった1654年に、オランダ領ブラジルからニューヨークにやってきたのが最初だと言われている。その後もユダヤ移民が絶えることはなかったが、大きな波となったのは、19世紀である。
 最初はナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体し、大小無数の国家へと分裂したドイツからだった。神聖ローマ帝国では、ユダヤ人は帝国臣民ではなかったものの、皇帝やドイツ諸侯はユダヤ商人を召抱えることで財政上の恩恵を受けていた。だが、ナポレオン戦争とそれによる帝国の解体の結果、ドイツ諸邦は安定した経済活動をおこなえる場所ではなくなってしまった。また、ナポレオン率いるフランス占領下ではユダヤ人にも様々な権利が与えられていたのだが、ウィーン会議以降の復古主義は、厳格なユダヤ人差別をも復活させることになった。1848年のドイツ三月革命によってドイツ移民が増えることになったが、それ以前から、ドイツ諸邦からかなりの数のユダヤ人がアメリカへと渡っていたのだ。
 オーストリア帝国でもまた、ユダヤ商人は多大な恩恵を受けていた。特定の土地や言語を祖国や母語として持たない彼らにとって、オーストリアのような多民族国家は安住の地と言ってもよいほどだった。祖国がどこであれ、母語が何であれ、オーストリア帝国の領土に居住しているものは帝国臣民、オーストリア人である。皇帝をはじめとする支配層はドイツ語を話すドイツ人だったが、非ドイツ人の方が数では大きく優っている。いかにユダヤ人差別があったとはいえ、オーストリアほどユダヤ人が法的に優遇されていた国はなかったのだ。むしろ帝国内のドイツ人にとって自分たちの国とはドイツ諸邦の一つであり、あるいはチェコ人やハンガリー人などの少数民族にとって、自分たちの国とはチェコやハンガリーといった帝国内諸国の一つであったことを思えば、帝国内のユダヤ人こそ最も「オーストリア的」な民だったと言えるのかもしれない。
 オーストリアのユダヤ人を後押ししたのは、まだ革命の最中の1848年12月に即位した皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と皇妃エリザベートだった。ドイツ語以外のオーストリア各国語を流暢に話すことができた二人は、民族融和的な政策を推し進め、文化や芸術を援助し、ユダヤ人にも様々な自由を与えた。こうしてリベラルで、多様な文化が花開く「世紀末ウィーン」が生まれたのだ。
 当時のウィーンでは、画家のグスタフ・クリムト、作曲家のヨハン・シュトラウス二世、作家のフランツ・カフカといった錚々たる芸術家たちが活躍していた。それに加えて、精神分析のフロイトやアドラーがおり、ゲーデルの博士論文を指導したカール・メンガーの父、経済学者のカール・メンガー(第1回)によって経済学のオーストリア学派が生まれていた。ウィーン大学でメンデルや、マッハ、ボルツマンらの科学者が科学を発展させ、それにウィーン学団の科学哲学者らが続いたのも(第4回)、こうした環境によるものだ。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世(引用
皇妃エリザベート(引用) Public domain

 オーストリアでは、フランツ・ヨーゼフ一世によってユダヤ人の移動制限が撤廃され、国内を自由に移住できるようになる。このことは、商業活動に従事するユダヤ人に「オーストリア的」なものへの思いを決定づけた。だが、その一方で、問題を含むものでもあった。

 少し時を戻そう。1772年のポーランド分割により、ポーランドのガリツィア地方がオーストリアの領土となる。ガリツィア地方の首都がルヴフ(ドイツ語でレンベルク)であり、そこからルヴフ・ワルシャワ学派が生まれるのだった(第6回)。ポーランドは歴史的経緯により、ユダヤ人が多く住んでいる国であり、ルヴフのユダヤ人率は3割にも上るほどだったらしい。彼らの多くは商人であり、特にアルコールの販売で利益を得ていたのだが、1784年、宗教的理由によりユダヤ人によるアルコール販売が禁止される。結果として、オーストリアは、それまでの家業を失い、貧困に陥ったユダヤ人を多く抱えることになってしまうのである。
 旧態依然としたカトリック国家であるオーストリアが、こうした貧困化したユダヤ人たちを救済することは難しく、ユダヤ人貧困層が増え続ける中で、移動制限が撤廃されるのである。そこで起きたことは、首都ウィーンをはじめとする都市部へのユダヤ人の流入だった。それに輪をかけるのが、とりわけロシアや東欧地域で多発するようになった、ポグロムと呼ばれるユダヤ人に対する迫害行為である。迫害を受けたユダヤ人たちが選んだのは、それでもまだユダヤ人に融和的だったオーストリア領内に逃げることだった。19世紀終わりごろのウィーンでは、ユダヤ人の人口が1割を超え、貧民窟に住むものも数万人にも及ぶようになっていた。
 当時のウィーンにはユダヤ人富裕層も少なからずいた。哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの父、カール・ウィトゲンシュタインもその一人だ。もともとウィトゲンシュタイン家はドイツに住んでおり、カールの父の代にキリスト教に改宗してウィーンに移住していた。ウィトゲンシュタイン家のような、ドイツ語圏で成功した裕福なユダヤ人にとって、ポーランドや東欧からやってきたユダヤ人は、まったくの異民族と言ってよい存在だった。同じユダヤ人とはいえ、生まれた土地も違えば風習も違う。宗教的儀式のやり方さえ異なっていた。ウィトゲンシュタイン家のようにキリスト教に改宗していればなおさらだ。彼らにとってユダヤ人の貧困問題は、他人事と言ってよいほどのものだったろう。ウィーンにまでやってはきたものの、貧困から抜け出せないユダヤ人の中には、アメリカへと移住するものが現れるようになっていた。
 だが、貧しいユダヤ人の激増は、世紀末ウィーンで出自を忘れて自由を謳歌していた裕福なユダヤ人に、ユダヤ人であることを思い出させる結果となった。民族自決主義が強まっていくにつれ、裕福なユダヤ人は傲慢で鼻持ちならない金持ちとして、貧しいユダヤ人は汚らしく粗野な貧乏人として、排外主義の対象となっていったのだ。
 第一次世界大戦後、オーストリア帝国は解体される。民族ごとにそれぞれの国民国家(nation state)へと分割されたかつてのオーストリア領内は、ユダヤ人にとってまったく安心できる土地ではなくなってしまったのだ。1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合はそのとどめとも言えるわけだが、すでにそれ以前から、多くのユダヤ人がオーストリアから離れて、イギリスやアメリカに渡らざるをえなくなっていたのである。

 アメリカへと渡ったユダヤ人たちは、他の移民とは異なり、中西部へと向かうものは稀だった。中西部へと向かった移民の多くは、母国では農業を営んでおり、新天地でもそれを引き継ぐべく、広大な土地を求めて西へと進んでいったのだ。それに対し、商業を中心とするユダヤ人にとって必要なのは土地ではなく都市だった。そんな彼らの多くが行き先として選んだのがニューヨークだったのは当然のことと言えるだろう。最初のユダヤ移民が来た土地であるニューヨークには、多くのユダヤ人が住んでいた。しかし、当時のニューヨークもまた、新たにアメリカに渡ったユダヤ人にとって、安住の土地ではなかったのである。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年7月21日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年9月6日に公開しました。
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