1.解けない「イグアナ」の呪い

ひとりの少女の話をしよう。
それまでどんなフィクションにおいても彼女が存在することを看過されてきた、ひとりの少女の話だ。
男女雇用機会均等法が1986年に施行されてから6年後。1992年に萩尾望都によって描かれた、ひとりの少女。彼女は「イグアナ」だった。いや、それは正確にいうと彼女は「イグアナ」であるという呪いを母にかけられていた。
物語は出産の場面から始まる。ある母が産んだ赤ん坊は、イグアナの姿をしていた。母親は、「こんなトカゲにしか見えない子が自分の娘なんて」と絶叫する。
リカは母の影響で、卑屈な想いを抱えて育つ。だが実際のリカは、美人で勉強もできる娘なのだ。そして大学卒業と共に、牛のような、愛する夫と結婚するに至る。
リカも子供を出産した後、母の訃報が届く。そして見た母の死に顔は、イグアナそのものだった。
リカは夢を見る。夢の中で、イグアナの姫が魔法使いに「人間にして」と頼んでいる。魔法使いは「王子様がおまえをイグアナだと気づいたら、おまえのもとを去っていくよ」と忠告する。そして目が覚めたリカは、あのイグアナの姫は、母の姿だと気づくのだった。

「でも もういい あたしは夢でガラパゴス諸島へ行って 母に会った
 あたしは涙と一緒に あたしの苦しみを流した
 どこかに
 母の涙が 凝っている」
(『イグアナの娘』)

興味深い点は、リカの夫は作中「牛」として描かれているのだが、どこか理想の〈母〉――欠点を含め、自分のありのままを暖かく包み込んでくれる優しい存在――に見えるところだ。たとえばリカが夢の中で「夫に噛みついても大丈夫だ」と安心する場面があるが、まるで赤ん坊が〈母〉に対して少しくらい乱暴を働いてもいいと甘えているような描写に見えてくる。
リカは、自分をイグアナだからと捨てた母に代わる〈母〉を、異性に見出し、結婚する。そして自分も母になる。だが愛されて母になったとしても、リカは「イグアナ」の呪いを解くことはできなかった。
この話がもし萩尾望都による少女漫画ではなく、おとぎ話だったら、愛する異性と結婚した段階で「イグアナ」の呪いは解かれるのだろう。しかし萩尾は、娘たちにかけられた母の呪いの強固さを物語る。たとえ自分が異性によって肯定されても、あるいは幸せな家庭をつくっても、そんなことで母の呪いは解けることはないのだ。

2.萩尾望都は母性を否定しない

『イグアナの娘』という作品の面白さは、リカに呪いをかける母親もまた、かつてはイグアナの呪いをかけられた少女だったことを表現したところにある。
母がかけられた呪い。それは、「イグアナのままでは結婚できないよ」というものだった。これを伝えるイグアナの魔法使いは、リカの母の母(つまりリカの祖母)の比喩ではないか、とすら思えてくる。
恋をした娘に対し、「そのままじゃ男性に好かれないよ」と母は呪いをかける。傷ついた娘は、姿を変え、そして結婚を目指す。それはまさに女性が母から「女らしくしていないと、あなたの野蛮でがさつなところをなくさないと、モテないよ」という呪いを比喩的に表現したものだった。
「わたし絶対気づかれないわ イグアナだったことなんて忘れて 人間として生きるわ」
と、「イグアナ」としてのリカの母は呟く。
それは、〈娘〉として受けた母の抑圧だっただろう。
最期までイグアナであったことを忘れて生きようとしていた母は、ラストシーンで、小さなイグアナとして川を泳ぐ。リカの母は、死んではじめて、解放されたイグアナとして、男性に好かれようとして矯正された姿ではなく、ありのままの姿で水中を泳ぐことができた。化粧もせず、洋服を着ることもなく、ただ小さな一匹のイグアナとして、リカの母は泳ぎ続けている。静かに、美しい、涙の凝る場所で。
それは死んではじめて、結婚のために矯正していない、自分の本来の姿を受け入れることができた女性の姿だろう。
イグアナの呪い、つまり〈娘〉の物語は引き継がれてゆく。母もまたひとりの〈娘〉であり、そして娘もまた〈娘〉の物語を生きていれば母になるのである。終わらない循環の物語を萩尾は描き出す。
興味深いのは、『イグアナの娘』をはじめとして、萩尾の描く少女たちは、母性を否定しない点だ。同様に母娘の物語を描いた萩尾の短篇『小夜の縫うゆかた』の小夜も、『イグアナの娘』のリカも、母の死後、自ら母になる役割を引き受ける〈娘〉である。
しばしば『イグアナの娘』は萩尾望都の母に否定された実体験が入った物語であるかのように語られる。が、むしろ『イグアナの娘』をはじめとする萩尾が描く少女、つまり〈娘〉の物語は、母の喪失を体験しこそすれど、母性は否定せず、むしろ積極的に母性の役割を引き受ける。
一方で、本当の意味で母性について葛藤するのは――萩尾の描く、少年たちのほうなのだ。

3.「残酷な神」という名の母

母の不貞。これは萩尾作品にしばしば登場するモチーフである。
短編漫画『11月のギムナジウム』(小学館、初出1971年)の主人公エーリクは、母に隠し子がいたことを知る。自分とそっくりの少年トーマが、実は母が父とは違う男性と恋をしていた時に作った子どもだったのだ。
あるいは『ポーの一族』(小学館、1972年)において、アランは母の不貞を知りショックを受ける。そしてアランは、母の不貞の相手である伯父を階段から突き落としてしまうのだった。
同シリーズである『メリーベルと銀のばら』(小学館、1973年)には、シーラに一目惚れした幼いエドガーが、シーラとポーツネル男爵の結婚を知って、そっと傷つく場面がある。

きれいな人 きれいな人 
―ぼくはお母さまを知らないけれど
――きっとこんなかんじじゃないのかしら
(中略)
「…老ハンナおおばさまに今夜あうってなに…?」
「結婚の 結婚の許可をいただくの…あ…でも」
ああ…
「老ハンナ・ポーのお気にめすかしら…!」
 ああそう…
 …そうなの
(『メリーベルと銀のばら』)

シーラはすでに結婚していたが、ポーツネル男爵と不倫して駆け落ちしたことが明かされる。そしてこの母シーラが原因となって、エドガーはバンパネラになることになってしまうのだった。だがシーラは『ポーの一族』でクリフォード医師に色目を使われるなど、その後も男性を魅惑する女性であり続け、そのたびエドガーは苛立ちを隠せないのだった。
母の不貞。ここには「〈母〉に捨てられた」という主題が潜んでいる。
つまり息子たちは、母が家庭ではなく他の男性を愛していたことを知ることで、〈母〉らしさ――息子を愛し夫に貞淑を捧げる母性を母が持っていなかったことにショックを受ける、というプロットになっている。つまり初期作品から萩尾は既に、「〈母〉に捨てられた」という主題を、少年の視点によって描いていたのである。
〈母〉に捨てられたことに動揺する息子。その主題を長編漫画で描いたのが、まさに『イグアナの娘』を描いた翌年、1992年に連載を開始し、その後2001年に完結した『残酷な神が支配する』(小学館)であった。この物語の主人公は、母の再婚相手から性的虐待を受け、トラウマを持つ少年ジェルミである。
『残酷な神が支配する』は、ほとんど二部構成と言ってよい。前半はジェルミが義父から性暴力の被害に遭い、義父に復讐を決意するところを描く。そして後半は、義父の実の息子イアンとの関係によって、ジェルミが性暴力のトラウマから抜け出せるかどうかを描く。
だが萩尾は、義父の性暴力という圧倒的な悪を描きながらも、「イアンをもっとも苦しめる存在」として配置したのは、実はジェルミの亡き母サンドラなのだ。
そのため物語の着地点もまた、ジェルミは母の墓に自分の罪を告白できるか? という点に位置する。
つまりこの作品は、「母の連れてきた恋人から性暴力に苦しむ少年の話」という表層を展開しながらも「母の許さない罪を犯した罪悪感に苦しみつつ、自分を見棄てた母に対して怒りを覚える少年の話」なのである。
はっきり言って、かなり奇妙な構造ではないだろうか。父との話を表面的に置きながら、実はしっかり描いているのは母との話なのだ。
そもそもジェルミが義父の性暴力に耐えていたのは、精神的に弱い母を守るためだった。しかし母と自分を守るために犯した罪について「母は自分を許さない」とジェルミは叫ぶ。

「…いえない! 知ったら…彼女はぼくを許さない……!」
(萩尾望都『残酷な神が支配する』9巻、小学館文庫、小学館)

「母が許さない」。この言葉を萩尾望都は少年に呟かせた。そう、萩尾はおそらくジェルミという少年の身体に、少女の母に対する葛藤を忍ばせている。
萩尾は少年に「母が許さない」と叫ばせる。それは父からの性暴力という表面上の物語の裏にわざわざ仕込んでいた、萩尾にとって描かざるを得ない主題だった。『イグアナの娘』の翌年に始まった本作は、萩尾が当時発見した主題に向き合うための作品だったのだろう。
一見、『残酷な神が支配する』というタイトルの「残酷な神」とは義父グレッグのことを指すように見える。しかし物語の後半を読むと、実は「残酷な神」とは、母サンドラのことだったのだと分かる。なぜならジェルミが愛する母親が、実は、その弱さをもってジェルミを支配していたからだ。
義父グレッグのように、暴力=強さで支配してくる父は、自分が強くなりその支配から抜け出そうとすることができる。だが母性による支配は、子どもにとって、母は自分の犠牲になったという罪悪感から抜け出すことが難しい。ジェルミのように、母は弱いから自分が支えなくてはいけないと考える子どもは、母という名の「残酷な神」の支配から抜け出せない――萩尾はそのような母子の支配の構造を浮き彫りにする。

4.少年の身体で描き出される〈娘〉の物語

しかし本作は、ある展開によってジェルミが救済されることで決着を見せる。それは、ジェルミが実母サンドラに求めていた完璧な〈母〉を、同性のイアンに託すことで終わりを迎える――というものだった。
後半の主眼となる、義父の息子イアンと、性暴力のトラウマに苦しむジェルミの関係。それはまるで、母と子のような関係に集約していく。
イアンは苦しむジェルミを世話し、愛し、宥めようとする。さらにイアンはジェルミをデートに誘ったり、献身的に世話をする。それはまるで母と息子の関係なのだ。ジェルミは「やだよ 恋人でもないのに恋人みたいにベタベタ」と言い、外でベタベタするのを嫌う(萩尾望都『残酷な神が支配する』10巻、小学館文庫、小学館)のだが、この描写もまるで反抗期の息子と、溺愛する母のような関係に見えてくる。
さらに直接的な描写を挙げるとすれば、ジェルミはイアンに「ぼくを……生んで…」と伝える場面がある。このシーンでジェルミはイアンの「はらの中の胎児のように丸まっている」。つまりこの時ジェルミはイアンという母の胎内に存在していたのである。
そして物語の終盤、ジェルミをイアンが抱きしめる際、イアンは「その日 オレはようやく 彼を生んだ――…――気がした」と心の中で唱えるのだった。つまり以前「生んで」と言われて胎児のように丸まっていたジェルミは、この時、完全にイアンによって「生まれた」=イアンの胎内から出てきたと解釈できる。
そう、イアンこそジェルミにとってまさに完璧な〈母〉なのである。イアンの痛みを知り、理解し、そして愛し支えるイアンの〈母〉の母性は、サンドラという若き母がなし得なかった、完璧な〈母〉の姿だった。
問題はここなのだ。ジェルミはサンドラという〈母〉を喪った後、イアンという代理の〈母〉を発見する。そしてイアンという新しい〈母〉を愛することを選択する。イアンとジェルミは別々のところに暮らしながらも、イアンの住むところにジェルミがたまに行くようにする。これはまさに故郷にたまに帰省する息子のようである。
『残酷な神が支配する』は、萩尾が少年の姿で描き直した〈娘〉の物語である。〈母〉サンドラに捨てられたイアンは、もがきながらも母の代理を探す。そして見つけたイアンは、新たな〈母〉としてジェルミの前に現れる。
――こうしてジェルミはサンドラという「残酷な〈母〉」を抜け出し、イアンという「完璧な〈母〉」の胎内から生まれ直す。それが萩尾の用意した「娘の救済」の物語なのだった。

5.「落ちる」ことを止められる翼

実は『残酷な神が支配する』で描かれたような、“母に求められなかった「完璧な〈母〉の母性」を、同性の(多くは同級生の)少年たちに求める”という型は、萩尾作品で何度も描かれている。
この「完璧な〈母〉の母性」とは何だろうか? それは萩尾作品における「翼」のことである。つまりは自己犠牲を伴った愛情のことだ。
『11月のギムナジウム』の発展ともいえる『トーマの心臓』で、このような台詞がある。

「もしぼくに翼があるんならぼくの翼じゃだめ?
 ぼく片羽きみにあげる……
 両羽だっていい きみにあげる ぼくはいらない
 そうして翼さえあったらきみは……
 きみはトーマと……トーマのところへ……」
(萩尾望都『トーマの心臓』小学館文庫p408)

少年トーマは、ある傷を負った同級生のユーリを生かすために死ぬ。このトーマの自己犠牲によって、ユーリは傷を回復するに至るのだ。
また『ポーの一族』においても、母の不貞を知ったショックで伯父を突き落としてしまったアランは、エドガーによって救われる。窓から現れたエドガーは、アランに手を差し伸べ、告げる。

「おいでよ……
 きみもおいでよ
 ひとりではさみしすぎる……」
(萩尾望都「ポーの一族」『ポーの一族』p122、小学館)

そしてエドガーとアランは、永遠の旅に出るために、ふたりで窓から飛んでゆく。アランが手を取ること、つまりバンパネラになる自己犠牲的な選択とは、ふたりが飛ぶための手段――つまりは翼だった。母を喪った少年たちは、バンパネラになるという犠牲を伴いながら、永遠に一緒にいることを決めるのだ。
自己犠牲を伴った愛情、つまり「翼」こそが、萩尾作品における母性の正体なのである。
しかしそのような「翼」は、実際の母によってはもたらされない。なぜなら実際の母は母性を捨て、不貞を犯し、子を裏切るからである。
だが少年たちは、同性の少年によって「翼」をもたらされる。それは実の母=女性が宿し得ない、完璧な母性なのである。
それは、ある時はトーマの翼であり、ある時はアランが手をとることであり、ある時はイアンによる抱擁だった。
萩尾作品の少年たちは、〈母〉の喪失に動揺しながらも、同級生の少年たちに〈母〉を受け継がせ、そして少年同士慰撫しながら生きてゆく。
萩尾望都の作品には、「落ちる」運動がしばしば描かれる。今回挙げた『かわいそうなママ』にも、『ポーの一族』にも、『残酷な神が支配する』にも、あるいは『トーマの心臓』にも、母親が「落ちる」運動を描いている。
萩尾の描く母は、落ちていく。
転落する母。転落する母の不貞の相手である伯父。転落する、母を乗せた、燃える車。そして転落する、母の代理としての、少年。――そう、萩尾作品において、女性による不完全な母性は重力に引っ張られるように落ちてゆくのだ。窓から、階段から、崖から。
しかしその重力に抗うことができるのは「翼」を持った天使だけなのだ。
翼をもった者は、重力に逆らい、落ちずに飛んでゆくことができる。母性が「墜落する」代わりに、愛情という名の「翼」は、少年たちによって授けられる。
『残酷な神が支配する』の中で、ジェルミとのセックスを、イアンは「飛んでるみたいだった」と述べる場面がある。それはまさに「翼」をイアンからもらっている描写そのものなのだ。
少年にとって、母が喪失した母性は、同性の少年によって回復される。
かくして萩尾の描く〈娘〉の物語は、少年たちの身体によって、胎内のユートピアに辿り着く物語に変化する。
――なぜなら少年たち同士ならば、物語は、彼らを「母」にせずに済むからだ。

6.少年たちの胎内ユートピア

つまりこれが少女であれば、最終的に「母」になることを求められる。女らしくあり、美しくあるために努力し、そして最終的には結婚せよ、と言われる。それは『イグアナの娘』をはじめとして、萩尾望都がどんなに母娘関係に葛藤を持つ娘の物語を描こうと、彼女たちが母になる結末を描き続けたことから分かる。
だが少年ならば、母にならずに済む。だから自由に飛ぶことができる。同性の少年と、ずっと一緒に、ユートピアの中で過ごすことができる。
そう、母にならなくていい〈娘〉の物語を描くために、萩尾望都は少年の身体に娘たちの葛藤を移管しなくてはならなかったのだ。
少年の身体ならば、最終的に母にならなくていい、〈娘〉の物語を描ける。それこそが萩尾のもたらした発見だった。
しかし私はここに、萩尾作品における母性の描写の限界を見る。
なぜなら萩尾作品は、とうとう少女たちに翼を与えなかったのだ。ここにあるのは単純な男女の逆転ではない。萩尾作品にとって、少年がもたらす「翼」つまり「完璧な母性」とは、少年だからこそ可能であった母性の形――母にならなくていい、永遠の少年にだけ与えられる翼――なのである。そして少年は、永遠に母の胎内で守られる。
だが『イグアナの娘』をはじめとして、萩尾作品における少女の物語は、母が喪失した「母性」を娘が受け継ぐかたちで描かれる。結局、娘たちは母に捨てられた傷を母になることで癒す、つまり母性を自分で回復させるほかない。だがそれは娘にしか成熟を促さない方法ではなかっただろうか。
「母が許さない」と叫んでいたジェルミの罪悪感は、あっさりとイアンという代理母によって許されてしまう。だがそれは母の呪縛を抜け出したことになるのだろうか?
ジェルミの救済は、どこまでいっても、少年でしかあり得ない、少年同士のユートピアになってしまった。少女たちは、永遠にイグアナの呪いを再生産する〈娘〉の物語から抜け出せていない。
萩尾作品の少年は少年間で完璧な母性を回復することができる。だが、少女はどうだろう。母はどこにもいないままだ。
萩尾望都の描く母親たちは、落ちて、死んでゆく。一方で、落ちずに、翼をもたらされて、飛んでゆくことのできる少年たちは、少年たち同士で翼を羽ばたかせながら、永遠の夢を生きる。
かくして萩尾望都にも解けなかった呪いを残したまま、少女漫画というジャンルは、娘たちの〈母〉探しを描き続ける。
この国の母性信仰という濁流に流されそうになりながら、本当の〈母〉を探している娘たちの姿を。

(続く)

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