書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」。今回は漫画家・山岸凉子の作品を取り上げます。『天人唐草』や『日出処の天子』などの代表作から、山岸がどのように「母性」と向き合っていたのか考察します。

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端的に言うとね。
1.なぜ山岸凉子のキャラクターは細いのか?
なぜ山岸凉子のキャラクターは、細いのだろう。
いや、山岸凉子の描くキャラクターは絵柄の問題というよりも実際に「細い」場合も多い。なぜなら彼女はバレエ漫画をよく描いているからだ。『テレプシコーラ』も、『アラベスク』も、細い。しかしバレエ漫画以外のキャラクターも細い。ちなみに本人も細いらしい。[1]
萩尾望都の回想録『一度きりの大泉の話』では、一度編集部に「顔を丸く描け」と言われて変えた絵柄を戻し、「長い顔」を描き始めたエピソードも収録されている。そう、山岸凉子の描く作品において、顔および容姿の長さ、つまり細さは重要な要素なのだ。たかが絵柄の話だと思われそうだが、実は「細さ」が少女たちにとっては重要なテーマであり、さらにJUNE的世界の中ではなにより重要なことであるのだと述べたのは、中島梓であった。
肥満は決してJUNE宇宙に存在してはならない。肥満がおタクの絶対的ではないまでも強固な特性のひとつであるとすると、肥満したおタクと、拒食症の少女たちとは、おたがいに相手を拒否しあい、おタクはアニメのロリポップに理想の恋人を見出し、拒食症の少女たちはおっとも肥満の影もない美少年にみずからをなぞらえ、たがいに悲痛な同類嫌悪におちいっているのである。
(中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年)
1991年に刊行されたこの論旨は、さすがに現代で読むと些か乱暴すぎるきらいがあるが、それでも美少年同士の恋愛、つまりは萩尾望都や山岸凉子あるいは武宮恵子、あるいは栗本薫が描いていた少年同士の関係性に熱狂した少女たちにとって「細い美少年」は自分を委託する相手として最も望ましい存在だっただろう。
栗本薫は少年愛を描く少女漫画を「異性をも社会をも拒んだ清浄な『同一の存在だけの宇宙』」だと評しつつ、漫画を読む読者たちの本当に欲しているものは「失われた母の胎内の全能感であるのだ」(『コミュニケーション不全症候群』)と指摘する。この「失われた母の胎内」とは、江藤淳が「母の喪失」と指摘したのをはじめとして、日本のサブカルチャーの批評家たちが指してきた正体だろう。だとすれば少年愛に熱狂する少女たちもまた、栗本薫の論で言うと、全能の自分を受け入れてくれる母的空間を求めていた。そしてその発露として「JUNE宇宙」が構築されるのである。細い美少年という、男でも女でもない性別しか存在しない、いわば性のない世界に。
山岸凉子はそんな少女たちに、『日出る処の天子』で聖徳太子の姿を「美少年同士の恋愛」として世に放った。
山岸の描くキャラクターはいつだって細い。だが何もしなくても細くいられる少年たちと違い、山岸作品の少女たちは、自ら「細くあろう」と執拗にダイエットをする。たとえばカーペンターズをモチーフにした漫画「グリーン・フーズ」(KADOKAWA、初出1987年)や『舞姫テレプシコーラ』(KADOKAWA、2000~2006年連載)には、拒食症という主題が描かれる。あるいは短編漫画「鏡よ鏡…」(集英社、初出1986年)には、母の嫉妬がきっかけで、ダイエットをして、アイドルとしてデビューすることにする娘が主人公に据えられる。どの少女も細くあるため、そして歳を取らないため――つまり成熟しないためにダイエットを志す。
そう、山岸作品の中で細いことは、成熟のない、性が存在しない世界に住んでいる証でもある。
山岸は無理に成長を止めようとする少女をダイエットという形で描く。あるいは少年を細く、軽やかな、肉体を持たない存在として描こうとする。そこにあるのはまさに中島梓が指摘した、性のない宇宙を実現しようとした、少女漫画的世界そのものだった。
しかし山岸作品は、誰よりも少女漫画的な世界を描きながら、しかし誰よりも少女漫画的な価値観に厳しかった。王子様を夢見る少女の物語を描きながら、ロマンティック・ラブ・イデオロギーへの懐疑を示した。美しく細い少年同士の少年愛を描きながら、少年愛の世界に留まることを許さなかった。
つまり山岸凉子は、王子様という名の完璧な〈母〉を探す〈娘〉たちの物語に対して、「完璧な〈母〉など、どこにいるのか?」と伝えることを辞さない。
山岸凉子は日本の少女漫画史、というよりも日本の文学史において、ひとつの達成をおこなったのだ。それは女性の言葉でロマンティック・ラブ・イデオロギーを1970年代に既に内側から否定したことだ。山岸凉子は、女性の内側から、女性の物語――未成熟で愛されていれば、男性に見初められて幸せになれる――が引き起こす抑圧を発見し、打ち砕いたのだ。
そして打ち砕いた先にある景色が、お花畑のような幸福ではなく、茫然と広がる孤独であることを、山岸凉子だけが知っていた。
2.『天人唐草』で山岸凉子が否定したもの
前章では萩尾望都の課題を「少年たちには他者による母性の回復経路を用意しつつ、少女たちには自ら母性の再生産をする経路のみを残して終わった」ところにあると述べたが、同世代の少女漫画家である山岸凉子は、まさに「母性」をこれまでになく冷たく見つめた作家であった。
1979年に発表された短編漫画『天人唐草』(小学館)は、無自覚にシンデレラストーリーを夢見る主人公・岡村響子の物語である。彼女は父の厳しい躾を受け、過剰におとなしく、周りの目を気にする女性に育つ。父に「慎みのある、はしたない女性にならないように」と厳しく言われ続けた響子は、役所に就職しても、柔軟性のない新人だと思われ周囲から距離を取られる。だがある日父と母が立て続けに亡くなってしまう。そして響子の前に現れたのは、まさに父が禁止した、派手で煙草を吸う「慎みのない」女性だった。彼女は、父の愛人だったのである。うちひしがれる彼女に、悲劇が起こる。帰りの電車で気弱そうにしている響子を、ある男が狙ったのである。そして響子は、夜道で襲われる。後日、響子は狂った格好をして、空港にひとりで現れるのだった。
本作について、山岸はインタビューで「響子と私の生い立ちに共通点が多すぎて、息苦しくなっていたのね。うちの場合、父は寛容でしたけど、母はつねに男女の役割が頭の中にある人でしたから」と語る[2]。つまり本作で父の抑圧として描かれていたものは、山岸にとっては、自身の母が強いていたものだったのである。
それを踏まえると、『天人唐草』は山岸凉子が描いた〈娘〉の物語であったと言えるのではないだろうか?
だが山岸は〈娘〉の物語を描いただけでは終わらない。『天人唐草』の結末では、〈娘〉の物語、つまり母の代理を求め、結婚を目指す少女の物語のフィクション性をとうとう暴き出したからだ。
岡村響子は、〈娘〉の物語を夢見る少女である。謙虚に、慎ましく、家事をして、女らしくしていれば、王子様という名の完璧な〈母〉が自分を見つけてくれるという夢を見ていた。だが現実は、何事にも受け身な彼女に対して厳しかった。岡村響子は悲劇に遭い、気が狂った女性になってしまう。
ラストシーン、響子は美容室で金髪に染めてもらいながら、彼女は「ほら 見て この服 結婚式のお色なおしなの」と言う[3]。彼女は金髪にフリルの服という戯画化した少女漫画的世界観を体現した格好で、寄声をあげながら、ひとり歩く。それは「狂気という檻」のなかで解放された、ひとりの女性の姿だった、と作品は告げる。この姿はどういう意味だろうか? つまりこの狂った響子の姿は、山岸が「少女漫画を突き詰めた先にある」ものとして描いた姿なのだ。響子は空港に降り立ち、「結婚式」に向かう。その結婚式とは誰との結婚式だろうか? 答えは決まっている。自分だけの完璧な王子様、つまり完璧な〈母〉との結婚式を挙げるつもりなのだ。
岡村響子とは、〈母〉を求める〈娘〉を永遠に脱しない姿なのである。
30代になって尚、岡村響子は言う。私も、〈母〉が欲しかったのだ、と。貞淑なままで、受け身で、性を抑圧した世界で、私をありのままですばらしいのだと褒めてくれる〈母〉が欲しかった。しかし山岸が『天人唐草』で示したのは、そのような自分を肯定してくれる〈母〉を探す〈娘〉でい続ける悲劇性だった。
『天人唐草』が傑作であるのは、少女漫画のフォーマットで少女漫画の欺瞞を描いたところである。つまり少女漫画とは、要は自分をありのまま肯定してくれる王子様と言う名の〈母〉を求める〈娘〉の物語を肯定する世界である。だがそのような〈娘〉の物語を貫こうとすれば、辿り着くのは岡村響子の姿である。
山岸は岡村響子の悲劇の原因を、「甘え」にあると表現する。
「従順であること でしゃばらないこと―――
それが女性の美徳だと信じこもうとした
その裏に自己犠牲を払わないですむ虫のいい依頼心と甘えがあった」
(『天人唐草』)
『天人唐草』以降、山岸は最後まで受け身であったがゆえに悲劇的な結末を迎える女性の物語をしばしば描く。短編漫画「朱雀門」(初出1991)、「グリーン・フーズ」(初出1987)、「死者の家」(初出1988)。それらの物語は常に、異性に対して積極性を持てない女性を描く。貞淑で、内気で、女らしい少女。それはほかでもない少女漫画が肯定する〈娘〉像である。だが山岸は、その〈娘〉像の悲劇性を指摘していたのだ。
そして女性に貞淑であることを求めること、つまりは性の抑圧というテーマは、山岸作品を貫く通底音となっている。なぜなら少女漫画の〈娘〉の物語は、女性の未成熟を前提としているからだ。その問題と向き合ったのが、山岸作品だった。
〈娘〉として〈母〉を求め続けることの功罪。『天人唐草』以降、それが山岸作品のテーマとなったのである。
3.『日出処の天子』の母の嫌悪とミソジニー
『天人唐草』発表の翌年、山岸はひとつの長編漫画の連載を開始する。聖徳太子は同性愛者であり超能力者だったという設定から始まる『日出処の天子』(白泉社)である。
1980年から1984年にかけて連載された『日出処の天子』は、蘇我毛人が厩戸王子と出会う場面から始まる。池で泳いでいた美しい厩戸のことを、毛人は女性だと思い込む。しかしのちに出会った厩戸と同一人物であることに気づく。偶然彼が不思議な力を使うところに出くわした毛人は、厩戸が暗示をかけようとしても、なぜかかからない存在。こうして毛人と厩戸は十代のうちから交流と深めることになる。
厩戸は毛人と出会った当初から、はっきりと女性への嫌悪を口にする。「大嫌いだ」とまで叫ぶ。この姿勢は物語中終始一貫しており、彼は毛人に恋をしながら三人の妻を娶るのだが、その誰にも愛情を感じていない。厩戸がはじめて恋した相手は唯一、男性である毛人だった。
女性嫌悪を抱え、男性に恋をした美しい男性。本編で女装することも多い厩戸は、どこか両性的な存在として描かれる。これについて上野千鶴子は「女嫌い」と「少年愛」の関係性を指摘する。
少女は少女のままでは自分を愛せない。少女の自己愛は、必ず挫折する運命にある。というのは、男性文化の中で少女は自分の性を自己嫌悪しているからである。
少年愛マンガにも異性は登場する。だが、作者がそこで示すあからさまな女性嫌悪misogynyは興味深い。
(中略)
山岸凉子の『日出処の天子』でも、両性具有の超能力者、厩戸王子は、あからさまな女嫌いを示す。(中略)
彼ら両性具有的なヒーロー、理想化された自己像が示す女性嫌悪を、女性のマンガ家たちはどんな気持ちで描き、同じく女性の読者は、どんな気持ちで読んでいるのだろうか。
女が示す女嫌いは、自分の属する性からの離脱のために、必要不可欠な遠心力である。この反発力によって、少女マンガ家は、少年愛の世界を、嫌悪するに足る女性性の汚染が及ばない高みへと離陸させる。したがって、少女にとって自己愛は、マゾヒズムに満ちたものである。
(上野千鶴子「ジェンダーレス・ワールドの〈愛〉の実験」『発情装置』所収、岩波現代文庫p262-265、初出1989年)
つまり厩戸王子の叫ぶ女性嫌悪は、読者である少女たちの叫びそのものだと言うのである。
たしかに厩戸王子は男性でありながら、女装をすることも多く、どこか両性的な存在として登場する。彼は毛人に恋をしていながら、自身の政治における権力のために三人の妻を娶っている。それはつまり「男性に恋をする存在でありながら、男性に虐げられる立場にある女性ではない」という、少女の矛盾した欲望を体現する存在である。
しかし彼の女性嫌悪が、「母への嫌悪」から来ていることは、前述の上野による指摘において見落とされている。
厩戸王子は、母に対してかなり強い嫌悪感を示す。母に対する嫌悪は物語の冒頭から描かれており、母親の穴穂部間人媛のことを厩戸がじっと見つめるコマがいくつか存在する。それを見た毛人は不審に思うのだが、だんだんとその理由を察するようになる。
厩戸は普段、自分の力を隠しているのだが、母親の間人媛はなんとなくその力に気づいている。人間離れした、超常現象的な力を使えることに勘づいているのだ。そしてさらに、厩戸が政治権力の闘争のためにいろいろな罪を犯しているのではないか、と間人媛は思っている。そんな権力や能力を十代ながらに操ろうとする厩戸のことを、間人媛は不気味に思っているのである。
間人媛は彼を「異常」と評する。彼は人間らしくなくて、得体が知れない、と。

反対に彼女は、厩戸の弟である来目王子たちのことはいつも可愛がる。素直で、普通の子どもだからだ。
最初は間人媛を優しそうな母親だと思っていた毛人も、だんだんと、厩戸のことを気味悪がっていることを察する。そしてこの母の態度こそが、厩戸の計り知れない孤独を生み出していることを理解するのである。
「あの子が何をやってきたか わたしにはわかっているのです それで」
「間人媛 それではあなたが元凶だ!」
「ええ!?」
「王子の不思議を見抜けるあなたがそもそもの始まりなのではありませんか
王子はあなたの御子です
あなたのその“血”が王子に色濃く現れたからこその結果ではありませんか
あなたが嫌うその王子の“異常”とはあなたの“血”から来ているのです」
「え 毛人どの」
「あなたが王子を避けている理由がそれであるならあまりに……
あまりに王子がお気の毒です」
(山岸凉子『日出処の天子』第8巻、山岸凉子全集8、角川書店)
心の中で毛人は叫ぶ。
「違うやり方があったはずだ あなたがもっと…もっと王子を愛してくれていたなら 今の王子はああはなりはしなかった!」
厩戸王子の孤独の源泉は、母から愛されないことにあった。一見、類まれなる能力や美貌を持ち、人間ではない容姿を持ちながら、それを異物として遠ざける母親の存在が、厩戸王子も自分で気づいていないほどに彼を傷つけ、孤独にしていた。
さらに興味深いのが、厩戸が母の女性性を強く嫌悪している点である。母親が若い男性との間に子を身籠ったことに対して、厩戸はショックを受ける。
「貞淑な母親面をしておきながら中身は穢らわしいただの女ではないか
そうだ ああいった女だ あれは! 女など皆ああなのだ
穢らわしい! わたしは憎悪する! あんな女の腹から生まれてきたことを憎悪するぞ!」
(山岸凉子『日出処の天子』第7巻、山岸凉子全集7、角川書店)

この母への嫌悪が、厩戸王子の女性嫌悪を生む。母が自分を愛さなかったことに傷つき、一方で、母の性的な側面を憎む。その母の性への憎悪が、女性性をもった女性一般への憎しみへと変わる。
『日出処の天子』について対談した穂村弘と川上未映子は、厩戸王子の女性嫌悪について以下のように語る。
穂村 厩戸の孤独は、母親との確執はもちろんだけど、それゆえに「人類の半分の種族」である女を憎んでいることにもある。実は僕、そこがちょっと不思議で……。お母さんにアンビバレントな気持ちがあるからって、そんなに女自体を激しく憎むものなのかな、と。
川上 母親のなかにある「女」を憎んでいるから、なのかもしれません。のちに母親が若い夫に惹かれたり、子供をつくったりしたときも、厩戸は嫌悪感を示していましたよね。異性愛者の男性におけるミソジニーは「なぜ自分より劣った存在が、こんなにも性的に男の自分を苦しめるのだ」という怒りが憎しみに変わるものだけど、厩戸は同性愛者だからなのか、娘の母に対する感覚とちょっと似ている気がする。母の「女」の部分を見たとき、自分のなかの女性性にも気づいて、汚いものとして嫌悪する。個人差はあれど、女性ならわりと理解しやすい感覚だから、「母を憎む=女を憎む」という構図に私はあまり違和感がなかったな。同時に、厩戸は男性として描かれているから、私たちは彼の痛みや孤独を自分たちとはやや違うものとして、客観視することができて、より心に響く。
(『ダ・ヴィンチ』2018年12月号、KADOKAWA)
川上が指摘する通り、厩戸王子はどこか「息子」というよりも「娘」としての側面を見出すことができる。つまり山岸は、厩戸王子という男性の身体を借りて、少女たちのもつ女性嫌悪を叫ばせたのだ。厩戸王子の女性性への憎悪は、『日出処の天子』を貫くひとつの通低音となっている。
「わたしは女が大嫌いなのだ!」
「か弱さの仮面を被り その下で男に媚を売る女というものがこの世で一番嫌いなのだ!」
(『日出処の天子』第8巻)
媚びる性、誘惑する性への否定。厩戸王子は、女性性を拒否する。読者の少女たちは、厩戸王子という少年の姿を借りて、私たちは母から受け継がれた「女性嫌悪」つまりミソジニーを叫んでいる。
そして女性嫌いの厩戸王子という男性が愛したのは、同性の男、毛人であった。
そう、『日出処の天子』もまた〈娘〉の物語だったのである。母に拒否されて傷ついた厩戸王子が、母の代理としての毛人に出会い、そして毛人と一緒になろうとする。ひとりの〈娘〉の物語だった。
6.『日出る処の天子』『ポーの一族』それぞれの代理母
物語の終盤において、厩戸は毛人に「一緒になろう」と伝える。厩戸は、「女性などいらない、同性同士の自分たちが一緒になれば、この世で思い通りにならないことなんてない」と告げる。事実、毛人と一緒にいると、厩戸の能力は自分ひとりでは達することのできない領域まで達するのだ。一緒にいると、天地を動かすような能力を手に入れられる。だから自分たちは一緒になるべき運命なのだと厩戸は告げる。
だが『日出処の天子』という作品は、毛人という同性との道を選ぼうとする厩戸を真正面から否定する。つまり『天人唐草』で見られたように、山岸は〈娘〉の物語を内側から打ち砕いて見せる。
毛人は、厩戸の誘いを拒否する。ふたりで一緒にいると、完全になってしまう。ならばそれ以上自分たちは、どこにも行くことができない。「元は同じではないかと言い張るあなたさまは わたしを愛しているといいながら その実それは……あなた自身を愛しているのです」。そう述べる毛人は、厩戸と一緒の道を行くことはできない、と告げる。
毛人が告げた言葉は、まさしく、厩戸にとっての〈娘〉の物語の否定だった。厩戸にとって、ありのままの自分を愛し肯定してくれる完璧な〈母〉は、毛人だからである。しかも彼は女性ではないため、妊娠して自分から離れる心配のない、完璧な〈母〉である。それは女性性を見せ自分ではない子を妊娠し、それでいて自分を拒否する間人媛に代わる、完璧な〈母〉なのだ。
つまり厩戸は毛人に愛されている限り、孤独を感じずに力を発揮できる。それはまさに母の胎内で愛を受け育つ子供のようなものである。だが山岸はこのような愛情を厩戸には渡さない。母に拒絶され、傷ついた厩戸に、孤独を強いる。
母性を引き継ぐことを毛人は拒否する。
ここに私は前章で見た萩尾望都と、山岸凉子の、決定的な差異を発見する。つまり少年が母の拒否によって母性を喪失したのちに、〈母〉の胎内を少年たちに移管させた萩尾と、毛人に拒否させることで〈母〉の胎内を「出て」孤独の道を選ばせた山岸の差が、明確に存在しているからだ。
前章でも見た通り、1970年代に萩尾望都が描いた『ポーの一族』で、ひとりになったエドガーはアランの手を取り、そして孤独の道をふたりで行こうと告げていた。
「おいでよ……
きみもおいでよ
ひとりではさみしすぎる……」
(萩尾望都「ポーの一族」『ポーの一族』)
だが1980年代に山岸凉子が描いた『日出処の天子』において、手を差し伸べた毛人に拒まれ、厩戸は呟く。
「では わたしはこのまま孤独が続くというわけだ
耐えられぬはずがない いままでもそうだったのだから」
「行ってくれ毛人 もう…そなたを追わぬ」
(『日出処の天子』第8巻)
山岸凉子は〈母〉を否定する。すべてを手に入れることのできる超能力者・厩戸王子が唯一手に入れられないものは、母だった。それは『ポーの一族』で萩尾が見せた永遠の旅路を行くエドガーとアランの少年愛よりももっと険しい、孤独の旅路であった。山岸の用意した結末のほうが極めて厳しい。山岸の冷たい目線は、少年たちが母の胎内に籠ることを許さない。そしてそれは同時に、少女たちに「完璧な王子様がいないように、完璧な母性など、存在しない」ことを告げている。
萩尾も『残酷な神が支配する』でイアンの口から「親も神ではなく人間だ」と告げさせているものの、イアンはジェルミの完璧な神になろうとしている。なによりも読者は萩尾の描く美しい同性愛に、少なからず女性性を脱臭したユートピアを見出してしまうだろう。だが『日出る処の天子』はそれを許さない。
この世は決してユートピアではない。母など存在しない、ひとりで成熟して人は生きてゆくしかない。それこそが『日出る処の天子』の結末であった。
7.性の存在しない黄泉の国
毛人という同性の胎内に籠ることを許されなかった厩戸は、女性性を持たない女性――白痴の少女を妻にする。その少女を見た時、毛人はハッとする。その少女は、厩戸の母・間人媛にとてもよく似ていたからだ。
白痴の〈母〉を手に入れた厩戸王子を見つめる毛人は、静かに思う。
「あなたはあの少女との黄泉にも似た道を 歩んでいかれるのですね」
この「黄泉にも似た道」とはどういう意味だろうか。厩戸が選んだのは、普通の女性ではなく、男性でもなく、性のない少女だった。それは厩戸が嫌悪していた女性性を否定した世界である。しかしそれは、「黄泉」、死にゆく道なのである。
厩戸王子は、母の女性性を憎悪し、女の女性性を嫌悪した。だからこそ同性の毛人と対になることで、性の存在しない家族を作ろうとした。しかし、彼の望むような女性のいない世界は、それはもう人間の世界ではない。毛人は、人類の半分を見捨てては何も成し遂げられないと言う。
性のない世界は、黄泉の国である。それがこの作品の示した地点であった。
『日出処の天子』は、少女自身の中にあるミソジニー――女性性への嫌悪――を描きながら、しかしそれでも、性がなくては生きていけない、という地点を描いているのである。
これは80年代において既に、少女漫画が描く少年愛的世界観に対し、山岸が批判を突き付けているとも解釈できる。
山岸をはじめとして、のちに24年組と呼ばれる作家たちは、少女漫画に少年愛の世界を持ち込む革命を起こした。それは女性性を嫌悪するミソジニーを内包しつつ、自分を受け入れ愛してくれる存在を描くロマンスを望む少女たちにとって、革命的な漫画であった。そんな少年愛を描いた少女漫画について、冒頭に引用した中島梓はまさに「性をも社会をも拒んだ清浄な『同一の存在だけの宇宙』」だと評した。だがこれはまさに厩戸皇子が望んでいる理想の宇宙そのものなのだ。つまり山岸は、少年愛的世界観=性のない宇宙を、毛人の口から「黄泉の国」と言わしめたのである。
『天人唐草』において、山岸凉子は少女漫画的な受け身で貞淑で性を抑圧した世界にい続ける〈娘〉の狂気を描いた。そして続く『日出処の天子』においてもまた、〈母〉に捨てられ、性を否定した世界に住み続けることになった〈娘〉こと厩戸王子の悲劇を描いたのである。しかしそれは成熟の存在しない、黄泉の世界を生きる道なのだ。
岡村響子も、厩戸王子も、女性性=「男に媚びる」女らしさを否定することによって、黄泉の国で成熟せずに〈娘〉のままでいる狂気を抱えて生きることになる。それは、完璧な〈母〉を求め続ける、〈娘〉の物語こと少女漫画を愛する読者の戯画化でもあり、あるいは少女漫画を描く自分自身の自画像なのかもしれない。
そう、『天人唐草』も『日出処の天子』も、同じ問題を描いているのだ。一方は「王子様」を望むロマンティック・ラブの世界を生きたいと願い、一方は「自分と同じ性の完璧な対」を望む少年愛のロマンティック・ラブの世界を生きたいと願う。しかしそれはどちらも性を抑圧した世界であるからして、実は黄泉の国の物語である。自分ひとりしかこの世にいない、現実を生きていない世界なのである。
そしてそのどちらの作品も、性を嫌悪する契機が〈母〉であることは注目に値するだろう(『天人唐草』において山岸の実体験では父の役割が「母」にあったことを鑑みると、父とは、家父長制に従う〈母〉として存在していたと解釈できる)。
つまり『天人唐草』も『日出処の天子』も、〈母〉に傷ついた娘は、性という名の成熟を止め、そして性のない代理の〈母〉を求める。しかしそこで完璧な〈母〉を求めても、応えてくれる他者などいない。性を否定し、未成熟なまま、自分を受け入れてくれる母の胎内へ帰ろうとしても、そこにあるのは黄泉への道なのである。山岸凉子はそう告げる。
欲望を去勢され、貞淑を求められた娘たちの悲劇。厩戸王子の選んだ黄泉の道は、もしかしたら、少女漫画を読む私たち自身が辿るかもしれない道である。
だが一方で私は、山岸凉子の才能をもってすら、厩戸皇子を母の呪縛から解放することはできなかったのか、とも感じる。
彼を救う方法なかったのだろうか。毛人という代理母を求めるのでもなく、母の呪いつまりは女性嫌悪を解き、厩戸が他者と共生する道はなかったのだろうか。孤独に黄泉の国を生きるしか、彼には進む道がなかったのだろうか。
結局、シンデレラストーリーを打ち砕いた先にある景色は、他人のいない暗い黄泉の国だった。厩戸皇子は海の底に手紙を沈めた。
山岸凉子の描く細い少女たちは、その先に何があるか見えない海の底を、今も彷徨い続けている。
[1]萩尾望都の回顧録『一度きりの大泉の話』(河出書房新社、2021年)では「細身」だと萩尾望都に評されている。
[2]「山岸凉子特別インタビュー」(山岸凉子『天人唐草』所収、文春文庫、文藝春秋社、2018年)
[3]襲われた後、響子は「わかってくれる わかってくれるわ きっと… あの人は」と述べる。この『あの人』とはだれか、作中では明らかになっていない。橋本治は『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出書房新社、1995年)の中で、山岸が描いた過去作品『アラベスク』のヒーロー・ミロノフ先生ではないかと指摘する。
(続く)