書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」。今回は吉本ばななの作品を取り上げます。彼女の小説やエッセイに「食事」の場面が頻繁に登場することを指摘したうえで、その背後に存在する「母と娘」の関係性を明らかにします。

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端的に言うとね。
1.少女の物語はどこにあるのか?
古今をつうじた文学の三大傑作が、どれも父親殺しという同じテーマを扱っているのは偶然ではない――ソフォクレスの『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、そしてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。これら三つの作品ではどれも、父親殺しの動機が、一人の女性をめぐるライヴァル関係にあることも明かされる。
(ジークムント・フロイト著、中山元訳、『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫、光文社、2011年)
上に引用したのは、現代で最も有名な父と息子の物語である。精神分析学者であったフロイトは、いわゆる「エディプス・コンプレックス」と呼ばれる、息子は母をめぐって父殺しを実行したいという欲求を持っている、という枠組みを提示した。たしかにフロイトの言う通り、世界中で知られている文学作品『オイディプス王』『ハムレット』『カラマーゾフの兄弟』はどれも父殺しの物語である。
フロイトは父母息子の三角関係をもって古今東西の文学を読み解いた。そして私たちは考える。「娘はどうなんだ」と。だからユングは、エディプス・コンプレックスの娘バージョンを思いついた。父母娘の三角関係――「エレクトラ・コンプレックス」は、父の仇を討つために母を殺す娘エレクトラの物語を指す。これを真剣に検討したのはラカン派の精神分析学者たちだった。
が、私にとって興味深いのは、フロイトの物語は、息子たちの文学作品を読む枠組みとして機能していたことだ。ぶっちゃけた話、私は実際に精神分析の位相でどのようなことが起こっているかあまり興味がないしそもそもよく分かっていない。ただ文学を読む構造としてこの父殺しの構造を興味深く思っている。つまりは「スター・ウォーズ」の話、「エヴァンゲリオン」シリーズの話、「スパイダーマン」の話として。いまだに力を持っている少年の物語としての「父殺し」の構造のことを面白く感じている。
しかし「母殺し」の物語はどうだろうか。果たして文学作品の中に、エレクトラの構造は存在するのだろうか。
私は寡聞にしてそれを有名な文学作品の中に見つけることができない。とりわけ、日本で生まれた文学のなかでは。
だとすればいま必要なのは、フロイトの描いた少年の物語を反転させるのではなく、少女の物語を点検することであるはずだ。
文学作品に描かれた母と娘の物語を考えるとき――つまりは少女の物語を考えるとき、私たちは新しい構造を発見する。それは決して少年の物語をただ反転させただけではかなわない。
私たちは文学作品の中から少女の物語を発見するとき、はじめて、ただ「父と息子」の対にしただけではない、本当の「母と娘」の物語を見つけることができるはずではないか。
2.〈娘〉の物語
少女の物語を考えよう。といっても残念ながら少年の物語と比較して、現代に残っている古典的な少女の文学は多くはない。女性の書き手によって描かれた物語に限定すれば尚更である。そこで民話に目を向けてみる。たとえば『シンデレラ』でも『白雪姫』でもいい。そこにあるのは、少女が男性=王子様に愛されて結婚するというゴールに向かう物語だ。
しかしゴールに向かう前に、重要な要素がある。それはどちらの物語も、母から拒否される過程が描かれていることだ。白雪姫は継母から呪いにかけられ、シンデレラは継母に苛められ本来の美しさを手放すことになる。このとき、父はどちらの作品においても一度も登場しない。
そしてこの継母はシングルマザーであることが特徴である。そして母に傷つけられ、つまり母から捨てられた少女たちは、王子様を探し始めるのだった。
つまり、『シンデレラ』や『白雪姫』といったヨーロッパ民話に描かれた少女の物語を点検すると、以下のような構造が見て取れる。
- 母に捨てられる
↓ - 王子様を探す
↓ - 王子様と結婚する
この「王子様」とは何だろうか? なぜ母に捨てられた少女は、新しい母ではなく、王子様を探すのだろう。
すると、ひとつの仮説に突き当たる。
王子様とは、新しい母なのではないか。
考えてみればこのような物語における「王子様と結婚すること」の先には、王子様の子どもを産んで母になる、というゴールが見える。だとすればこのような少女の物語とはつまり、母に捨てられた娘が、母の代わりを探し、そして発見したところで自ら母になることができる、という通過儀礼の物語として提示することはできないだろうか。
フロイトの提示したエイディプス・コンプレックスとは、少年たちの普遍的なイニシエーションとして描き出される。だからこそ数々の少年の物語の枠組みとして機能する。王という名の父を殺し、自ら王の座に就くことが、『オイディプス王』という物語の結末だったのである。
だとすれば少女の物語もまた、少女側の普遍的なイニシエーション――つまり「母になること」を結末に据えていると考え得る。
もちろんこれは近代以前に生まれた民話の枠組みであるため、近代的な観点を持ち込むと女性の可能性を狭める物語である。だがまずは近代以前の枠組みを点検しよう。これは少女たちが〈息子〉と同じように生きることのできなかった〈娘〉の時代の物語なのである。
そしてこの物語に、父は登場しない。多くの場合、母はシングルマザーである。母と娘の間でイニシエーションは完結する。これがフロイトの提示したエイディプス・コンプレックスと異なる点である。
この構造を本書では〈娘〉の物語と名付けよう。
- 母に捨てられる
↓ - 母の代理≒王子様を探す
↓ - 王子様と結婚し自分が母になる
このような構造をもって〈娘〉の物語は完結する。
〈娘〉の物語は、母から傷つけられることで、家から出ていくことになる地点から始まる。だとすれば、母の代わりを求めてさまよう様子を描いた物語こそが、少女の物語であった。ディズニーがプリンセス・ストーリーとしてこの構造を焼き直し続けているのは、まさにこの工程が、〈娘〉側のイニシエーションだからである。
このような作業仮説をもって、文学の世界を見渡すと、たしかに女性の書き手によって少女が描かれた作品には、〈娘〉の物語――つまり母に捨てられ、そして母の代わりとなる異性を探す物語――が存在する。
たとえばモンゴメリの『赤毛のアン』を考えてみよう。物語は、孤児であるアンが、義母となるマリラに「男の子がよかった」と言われる場面、つまり母から拒否される場面から始まるのだ。しかもマリラは独身、つまりはシングルマザーである。マリラの兄であるマシュウはむしろアンに好意的である。しかしマリラは頑としてアンを拒否しようとする。なぜ作者はこのような配置にしたのだろう。男の子が欲しかったという言葉を発するのは、物語の展開上はマシュウでもよかったはずだ。なぜこれを発言するのは、父でなく母だったのだろう? それは〈娘〉の物語がそのような構造になっているからではないか。
もう少し見ていこう。バーネットの『小公女』においても同様である。主人公の少女セーラを拒否する「母」として、ミンチン女史が登場する。不在の実の母の代わりに、セーラの敵はやはり男性ではなく、女性の寄宿学校の院長として存在するのだ。ミンチン女史もまた独身である。お金持ちの父・クルー大尉が亡くなった際、寄宿学校のミンチン女史はセーラのことを「貧乏人として私のもとに残された」少女だと述べる。これはまさに意地悪な母としてミンチン女史が機能していることを示した台詞である。
オルコットの『若草物語』もまた、父は不在であり、ほとんどシングルマザー状態の母が四人の姉妹を育てているところから物語が始まる。平和に過ごしていたマーチ一家であったが、ある時、母マーチ夫人は夫の看病のため家を出る。この母は意地悪で家を捨てたわけではないのだが、構造として少女たちは「母に捨てられる」ことになる。そして母のいない場所で、困難は起こる。ベスが病気になるのだ。これを契機に姉妹たちは己を振り返り、そして第一巻の最後、メグが婚約して物語は終わる。まさに母に捨てられ、結婚して終わる構造である。
このように古典的な少女文学において、まず少女を傷付ける存在として、年上の女性が設定されていることは注目に値する。フロイトは「古今をつうじた文学の三大傑作が、どれも父親殺しという同じテーマを扱っているのは偶然ではない」と述べていたが、それを言うなら、「古今をつうじた少女文学の傑作たちが、どれも母に拒否される場面を挿入している」こともまた決して偶然ではないだろう。
一般に少女期の開始というテーマは、たとえば生理が来ることなどで表象されると考えられやすい。が、少女たちにとっては生理が来たり第二次性徴が起こることなんかよりも、母に捨てられることのほうがよっぽど「もう子供じゃない」と思う契機なのである――と、数々の少女文学が告げている。
このように本書が提示する〈娘〉の物語は、少女の成熟過程を以下のような構造で描き出している。
母に捨てられる【少女期の開始】
↓
母の代理≒異性の結婚相手を探す【少女期】
↓
異性と結婚し母になる【少女期の終了】
文学作品で少女たちに提示される〈娘〉の物語は、母から捨てられ、そして母の代理を探し、自分が母になるまでの物語なのである。
3.『キッチン』、そして母の代理
母から捨てられ、母の代理を探し、自分も母になる物語。それが〈娘〉の物語である。私が提示したい構造はこれなのだが、吉本ばななは、まさにこのような構造を描く作家である。
たとえばデビュー作『キッチン』(初版1988年)を見てみよう。
『キッチン』という作品は「キッチン」と「満月――キッチン2」の二部構成になっている。第一部の「キッチン」は、主人公のみかげをずっと育ててくれていた祖母が、ある日亡くなるところから始まる。これからどこに住もうか考えていると、同じ大学の田辺雄一が突然家に来て「しばらくうちに来ませんか」と唐突に述べる。誘い通り、みかげはしばらく雄一の家に住むことにする。その家にいたのは、雄一の母と紹介された美しい女性・えり子だった。えり子は実は整形した男性であり、本名を雄司といった。雄一の母(つまりえり子の妻)は既に亡くなっていたためその家で、みかげ、雄一、そしてえり子の三人の暮らしが始まった。
しかし第二部の「満月――キッチン2」では、職を得たみかげが田辺家を出た後、えり子は殺されてしまうところが描かれる。
つまり第一部の「キッチン」は、祖母という母を喪ったみかげが、田辺家という新しい家族を得て回復する物語。そして第二部の「満月――キッチン2」は、えり子という母を喪った雄一が、みかげの支えによって、回復する物語なのである。
母に捨てられた少女が、母代わりの異性を得て、母となる。それが〈娘〉の物語だとすれば、『キッチン』はまさに〈娘〉の物語の構造なのだ。
母代わりの祖母を亡くす =〈母〉に捨てられる
↓
雄一に拾われる =〈母〉代理を発見
↓
母えり子を亡くした雄一を支える =〈母〉になる
つまり第一部「キッチン」でみかげは祖母を亡くし(=〈母〉から捨てられる)、雄一に拾われる(=〈母〉代理と出会う)。だが雄一が母えり子を亡くしてしまい、みかげはその母代わりになって支える(=〈母〉となる)。このような構成によって『キッチン』という小説は成り立っている。
といってもこの図式化だけだと些か乱暴に思えるかもしれない。細部を見ていこう。たとえば、田辺家にやってきたみかげは、「このままこの家にいいのか」と悩む。しかしそのとき、みかげは夢を見る。みかげと雄一が、昔いた家の台所の掃除をする夢だった。そして目が覚めたみかげは、雄一とその夢を共有していたことを知る。その際、雄一は、母えり子が買ってきたジューサーでグレープフルーツジュースを作ってくれる。
母の買ってきたジューサーで、ジュースを作ってくれる。それは、雄一がみかげに対して〈母〉の役割を担ってくれていることの比喩ではないだろうか?
料理と家族。それは『キッチン』の中で密接に結びついている。みかげは祖母を亡くしてから、狂ったように料理を作り、その末に料理研究家の弟子になる。それもまたみかげの母を埋める行為のように見えてくる。そしてその料理を食べながら、みかげと雄一はお互いが「家族である」ことを確認するのだ。
いくつもの昼と夜、私たちは共に食事をした。
いつか雄一が言った。
「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」
私は笑って、
「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない?」
と言った。
「違う、違う、違う。」
大笑いしながら雄一が言った。
「きっと、家族だからだよ。」
(「満月―キッチン2」『キッチン』)
一緒にものを食べていて、おいしいと感じることが、家族の証である。『キッチン』で吉本ばななが示したのはその定義だった。そしてそういう意味で、みかげと雄一は、恋人というよりも家族――お互いに喪った家族を埋め合わせる存在――なのである。
吉本ばななという作家のデビュー作は、ここから始まっている。みかげも、雄一も、母を亡くした子どもであった。しかしお互い食事をすることによって、母の代わりを得るのだ。
食事のシーンは、まさに、喪われた家族を取り戻す行為であった。
母えり子が亡くなってショックを受ける雄一に対し、みかげはカツ丼を持ってゆく。カツ丼を一緒に食べる行為が、雄一の精神の回復に繋がる。カツ丼を持っていくことは、雄一にとって、母を回復させることだったのだろう。
4.よしもとと吉本の狭間、そしてエッセイと小説の狭間
少女文学――「母に捨てられた少女が、母の代理を探し、母になるまでの物語」への葛藤を語る文学装置は、この国にたしかに存在している。だが名付けられていない。純文学だとか、エンタメ小説だとか、ミステリだとか、SFだとか、そういう名前がつけられていない。小説も漫画も含め、この国には少女文学というジャンルがあるのだと名前をつけてやるべきではないか。
名前。そう、名前の問題でもある。
男性作家の作品が大半を占めていた戦後日本の出版界の中で、男性に評価され得る女性作家としてではなく、女性に読者を持つ女性作家のひとりとして「少女文学」を打ち立てた作家のひとりに、彼女がいる。よしもとばななだ。いや、吉本ばなななのである。
2003年から2015年まで「よしもとばなな」を名乗っていた彼女は、2015年、「吉本ばなな」に改名した。
「よしもと」と「吉本」の差異。その狭間で想い起こされるのは、やはりもうひとりの偉大なる「吉本」姓の思想家である。吉本隆明、言うまでもなく吉本ばななの父だ。
吉本ばななのエッセイには、父との思い出が異様なまでに反芻されている。たとえば吉本の近著のエッセイ『私と街たち(ほぼ自伝)』(河出書房新社、2022年)は、自伝と銘打ちながらも、綴られる回想は父・吉本隆明と墓参りした思い出なのである。
父への思慕。それは自らの名を「吉本」ばななであると、作家が名前を変えてまで、主張したかったものではないか。
吉本の小説『どんぐり姉妹』(新潮社、2010年)には「私は親を亡くしたことから立ち直るのに、異常に時間がかかったのだと思う」という台詞が登場するが、この小説をまるで吉本は反復するかのようだと感じてしまう。
そのような観点で小説を眺めると、『どんぐり姉妹』はしばしば吉本自身のエッセイを反復している。たとえば吉本のnoteには、「両親の死に関係する食べ物をなぜか食べる気にならない」という旨が綴られている。母が長くないことを直感した際に行った「牛タンの店」に二度と行けないのだ、と吉本は書いている。一方、小説『どんぐり姉妹』には、両親に突っ込んできたトラックが「お刺身を届ける」車だったため、それ以来お刺身を食べられなくなった主人公が描かれているのだ。
エッセイと小説の奇妙な反復。それは作家の意図を超えて、「食」と「両親」がぴたりと貼りついて離れない様子を見せている。
5.ごはんを作らない母、そしてごはんを作る父
吉本ばななは、食事の場面を反復する。過剰なまでに。
たとえばデビュー作『キッチン』の最初の一文は「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」だった。あるいは『ハゴロモ』のほたるはインスタントラーメンを、『TSUGUMI』のまりあは父のくれたせんべいを、『哀しい予感』の弥生はカレーを食べていた。あるいは彼女の最新シリーズである「吹上奇譚」シリーズにおいても、主人公ミミはアイス屋であり、さらにミミの母のつくる親子丼が効果的に挿入される。
そして吉本自身もまた、食欲旺盛な作家であることを自負する。エッセイとして発表される吉本ばななの文章は――ある意味、無防備に――食事への執着を語る。
あるエッセイで彼女は、食事という主題に、自身の母をめぐる葛藤が潜んでいることを明かしている。
私には(そういう意味では)お母さんはいなかった。
私の具合が悪いときに、何が食べたい? と聞いてくれる人はいなかった。
(吉本ばなな『お別れの色 どくだみちゃんとふじばな3』p33、幻冬舎、2018年)
「何を食べたい?」と聞く人。これが吉本にとって、母の定義なのである。だが自分の母はごはんを作らない人だった。吉本はエッセイの中でそう綴っている。
ここで思い出されるのは、2004年に刊行された吉本の小説『High and dry (はつ恋)』(文藝春秋社、2004年。以下『はつ恋』。引用は文春文庫による)である。『はつ恋』の主人公・夕子の母は、たまに「上の空モード」になる。
注目したいのは、その症状を夕子が挙げる際、必ず「最初に」、「ごはんを作らない」点を挙げることだ(傍線部は筆者による)。
たとえばうちのお母さんは、本に熱中したり、何かですごく落ち込んだりすると、ごはんを作るのも電気をつけるのもそうじをするのもみんな忘れてしまう。(『はつ恋』p68)
もう私はかなり大人になってきたので、自分で何か作って食べたり、勝手に風呂をわかして入ったり、自分の選んだ時間に寝たり起きたりできるから全然かまわなかったのだが、幼い頃にそれが起こると、かなりきついことだった。(p69)
多分、村上さんのお母さんはうちのお母さんと違って、人であるまえにまず、プロのお母さんだろう。
だから、晩御飯作り忘れたり、十四時間も寝っぱなしだったり、子供の送り迎えをすっかり忘れてしまっていたりすることは絶対にない。(p70)
そして夕子が語る理想の母親像は、2017年のnoteで吉本自身が語った「私の具合が悪いときに、何が食べたい? と聞いてくれる人」という理想の母親像とほぼ一致する。
いつでも同じ時間にごはんを作ってくれる人がいたら、どんなにいいだろう。「時差ぼけのお父さんが起きてきたときにみんなでいっせいに夜中の二時にファミリーレストランに行く」そういう種類の楽しさは大好きだけれど、でも、いつでも振り向いたら私を見てくれている、いつでも家に、私のためにいてくれて世話をすることがいちばん大事だというお母さんがいたらどんなにいいだろう。
(『はつ恋』p70-71)
そもそも『はつ恋』は、思春期の女の子の初恋を主題とした小説である。そのような青春小説において、ふいに作者自身の葛藤の対象である「ごはんをつくらない母」の影が登場するのは、やや違和感を覚えないだろうか?
私は『はつ恋』が作家の私小説であるなどと言いたいわけではない。むしろ作家自身が無自覚に描いてしまう「ごはんをつくらない母」の反復が見えてくることに、注目したいのである。
そして「ごはんをつくらない母」と対比されるかたちで、「ごはんをつくる父」もまたnoteエッセイに登場するのだ。
夏のある暑い日、吉本はふいに両親ともに元気だったころの夏休みを思い出す。「ただごろごろして退屈だ退屈だと言っていた」夏休みの象徴として、彼女は「父のつくったごはん」を挙げる。
晩ご飯は父が作る牛肉のしょうゆ炒め。もう一度食べたいけれど二度とは食べることができないあの味。
(吉本ばなな『すべての始まり どくだみちゃんとふしばな1』幻冬舎文庫p11、幻冬舎、2020年)
吉本隆明の最期の自筆連載は『開店休業』(プレジデント社 、2013年4月)という「食エッセイ」であった。さらに吉本のエッセイにおいても、元気なときに会った最後の父の姿は、姉の素揚げしたむかごを食べるエピソードだったのだ。父である吉本隆明と食事の存在が吉本ばななのなかで結びつきが強いことがよく分かってくる。
これと同じく、亡き両親が健在だった頃を思い出す場面が小説『どんぐり姉妹』で描かれる。
かなり寒い時期までよく外でごはんを食べた。おにぎりも卵焼きも外で食べるとおいしいね、と父はよく言っていた。寒くても暑くても、外だとなぜかぴったりのおいしさになる、と。(中略)お腹いっぱいで、少し冷えた体で家に帰っていく道は、この世のどんな道よりも平凡で退屈に思えた。
(『どんぐり姉妹』p80-81)
ごはんのことを思い出す際、母よりも先に登場する「父」。そして「退屈」だった両親のいた日常。
まるでエッセイが小説場面を反復したかのように、食の場面で描かれる要素は、小説とエッセイでかなり似たものになっている。
母も私も愛したかったが、どうにも都合が悪いしかわいくないし、体調も悪くなっていたし、相性も悪かった。母はそれに正直だっただけで、お互いによくがんばったと思う。
相性ってそういうものだし、運命ってそういうものだ。
私は私の楽しいことを探し、気にしないようにして父とはツーカーで仲良くし(父は普通の父以上に優しかったので私は生きていられた)、外へ外へと出ていった。
(『お別れの色』p33-34)
母への反発と父への思慕。その二つの感情は、エッセイにおいて、あまりに素直な言葉で綴られている。
6.アイス、そしてみたらし団子
吉本は自分の母は、父の作ったごはんによく文句を言ったと語る(『すべての始まり』p49)。
正直に文句を言って、そのまま父を悲しませて、家族の雰囲気が悪くなって、でも正直でいた子どもみたいなかわいい人だった。
あまりにもそれらを見聞きして育ったので、私は人の作ってくれたもののおいしさに過剰に反応するようになった。
なにもかもがありがたすぎる気持ちでいただいているから、ほんとうは自然にふっとほめたいんだけれど、つい大げさになってしまう。
それはあの頃、父の作った晩ごはんに箸をつけない母を見ていた哀しい名残りなんだなと思うから、気にしないで取っておこう。
(『すばらしい日々』p124-125)
あまりにあっさりと書いているため見過ごしそうになるが、吉本自身が食事のおいしさに対する自分の執着の原点は、「父の作った晩ごはんを食べない母」であることを書いているのだ。
だとすると実生活の現実での食事への執着だけでなく、小説のなかで吉本が執着し続けてきた食事の場面もまた、ごはんに文句を言うだけだった母への反発、そしてごはんを作ってくれた父への思慕が背景にあるのではないか。これまで見てきた小説と現実の反復を見ると、ついそう考えてしまう。
『はつ恋』においては、夕子の想い人であるキュウ君が、母親への不信感を払拭する場面において食べ物が背景に山積みであることが強調される。さらにキュウ君は夕子の母が来た際いっしょに「ごはんを食べる」ことを提案する場面がある。これらの場面にはどうしても「食事」と「家族」の連関が見える。また小説『どんぐり姉妹』では、姉がデートを重ねる場面で韓国料理をひたすら食べる描写が続くが、デートを重ねても二人はプラトニックな関係を続ける、という記述がある。これはまるで、たくさん食べるからこそ二人の関係が恋人でなく家族であるかのように解釈できる。
さらに『はつ恋』の夕子は、母が「アイス」ばかり食べることを、大人でないことの象徴として語る。
吉本は『すばらしい日々』で母が死ぬ間際になって「みたらし団子」をおいしそうに食べていた思い出を語るのだが――「アイス」と「みたらし団子」という形のよく似た甘い嗜好品ですら、エッセイによる小説の反復に見えてしまう。
吉本ばなな作品における食事の場面は「家族」と結びつきながら、小説やエッセイのなかで反復され続ける。
私たちは彼女の日常生活を知らずとも、彼女の文章を読むと、食事の場面に惹かれてしまう。それはあくまで作家のなかでは無自覚に、小説の食事の場面が、作家自身の内側に強くはりついた「家族で食べる」場面の反復であることを読み取ってしまうからなのだろう。
小説の食べる場面に吉本自身の体験が影響を与えている可能性を検討してきたが、そこにあったのは「ごはんを作らない」母への反発であった。
ここで『キッチン』という小説を思い出すと、やはりあの小説で繰り返し描かれていた料理の場面は、料理を作らない母の代わりに、自ら料理を作る少女の孤独だったのではないか、と思ってしまうのだ。
一緒に食事をしてくれて、そして一緒に寝て起きてくれる少年・雄一は、母の代理だった。なぜなら母は一緒に食事をしてくれなかったから――そのような少女の物語が、吉本作品においては『キッチン』以降ずっと続いてきたのではないか、と感じてしまう。
吉本ばななという作家が日本の「少女文学」の開拓者であったこと。そして彼女自身の内部に母への抵抗という主題が潜んでいたこと。その二つの関係性は、決して偶然ではなかった、と私は思っているのだ。
7.「大川端奇譚」、そして自覚しない娘
吉本の「食」と「母」の関係についてはこれまで見てきた通りである。さて今度は「母」と「娘」(自分)についての関係について見ていこう。
「少女」を主人公に据えることの多い吉本は、『キッチン』同様、〈娘〉の物語の構造をそのまま小説に描き出すことも多い。たとえば短編小説「大川端奇譚」(『とかげ』所収、新潮文庫、1993年)がある。
主人公の明美は、紆余曲折を経て結婚を決める。結婚を父母に報告したとき、父にある秘密を打ち明けられる。それは明美が産まれたばかりのころのことだった。橋の上にいる母を見て、嫌な予感がした父が近くと、母は赤ん坊である明美を川に投げたのだという。
だから少し抱かせてもらって、何か、何でもない事を話していたら突然、お母さんが黙り込んだんだ。どうした、って声をかけたとたんにお母さんはただただ錯乱して叫びだして、ふいに君を川に放りこんだんだ。もちろんすぐに飛びおりて助けに行ったよ。運よく落ちた場所はそんなに深くなくて流れもほとんどなかったから君は何でもなくて、病院ではもう笑っていたけれど、お母さんのほうはショックで意識がもうろうとしていて、こわばったまま何も反応しなくなってしまった。
(「大川端奇譚」『とかげ』所収、新潮文庫p155)
明美はこの話を聞いて、「どこかで知っていたことを、しっかりと確認した」ような気さえした。彼女は結婚相手の部屋のそばには川があり、その風景に惹かれていた。その理由が分かった気がしたのだ。そして明美は「恋人という存在は、親から受けた傷をいやすためにあるのだ」と悟る。
母に川から捨てられる =〈母〉に捨てられる
↓
恋人と出会う =〈母〉代理を発見
↓
結婚する =〈母〉になる
まさに〈娘〉の物語の構造をそのまま小説にした作品である。
みんなが一度くらい親から決定的に拒まれたことをどこかでおぼえている。例えばおなかの中で、まだ目もみえないとき。話もできない時。だからもう一度、誰かが自分の親になってくれることを、本当に死にそうな時に物理的に共同責任をおってくれることを、理屈ではなく、ただとにかくむしょうに求めてひとはひとと暮らそうとするのだろう。
(「大川端奇譚」p158)
注目したいのが、明美にとって「親から決定的に拒まれた」と述べるこの「親」とはすなわち母であることだ。
小説のなかで彼女を拒んだのは、父ではなく母である。だが明美は、母から受けた傷を自覚しようとしない。彼女は自分がなにかしらの精神的な傷を負っていることは認識しており、その結果として性的に奔放になりすぎていた。だが明美は、母から拒絶されたことに対して傷ついていることそのものについて、最後まできわめて無自覚でいようとするのだ。
明美は自分には何か欠けているものがあるが、それを「何か美しいことで誤魔化そうとしてきた」と言う。ここでいう欠けているものが、母親からの拒絶が原因だったのだと小説の最期ではじめて自覚する。彼女はそれまで、欠けている原因に対して、見て見ぬふりをしていたのである。
母の拒絶に対して、本当はうすうす気づいているのに、表面的には無自覚であろうとすること。それが「大川端奇譚」という小説になっている。
吉本作品で描かれる母娘の関係は、直接的に対立することはほとんどない。母からの拒絶による傷と異性によるその癒しという〈娘〉の物語をはっきりと描いた「大川端奇譚」ですら、娘の明美は母を責めることはまったくしない。
しかし、その責めがたさこそが、小説で描かれる娘の傷をより深くしているように私には見えるのだ。母から受けた傷に無自覚でいなくてはいけない、という姿勢こそが、娘の明美の傷をより濃くしているように思えるのだ。
自分が持つ母への感情に、無自覚であることの抑圧。それは決して「大川端奇譚」だけの話ではなく、前述したエッセイにすら見える主題のように思えてくる。
自分は母に捨てられた子である――その傷こそが吉本ばななに食事の場面を反復させる。母に捨てられた傷を癒すため、吉本作品の少女たちは、食事をつくり、食べる。
私は吉本の良い読者ではないかもしれないが、この作家の描く「少女」性というのは、決して主人公の年齢によるものではなく、この「自分は母の娘である」という自意識にあるように感じる。
それは主人公が母になろうと変わらず、むしろその色はより濃くなってゆく。なぜ自分を捨てた母を、明美は責めないのか? なぜ母から受けた傷を、明美は自覚しようとしないのか? そのような問いの答えは、最新作「吹上奇譚」シリーズに眠っている。
8.「吹上奇譚」、そして母性への思慕
吉本の最新作である「吹上奇譚」シリーズにおいても、やはり主人公は、母から捨てられた少女である。主人公ミミの母は、眠ってしまうのだ。主人公ミミは、眠った母の傍らで失踪した妹を探し、旅を始める。ファンタジー世界「吹上町」を舞台にしたこの物語は、現在4巻まで刊行されている。
物語のキーパーソンとして登場する美鈴は、霊媒師であり、ミミの友人である。美鈴は、実母と義理の父に性的虐待を受けていた過去を持つ。そのようなトラウマから、美鈴は恋人である墓守くんとセックスができない。だが子供は欲しいと願っている。そして第四巻でとうとう美鈴はある理由からセックスなしに子供を身籠ることになるのだ。
美鈴の物語は、『キッチン』や「大川端奇譚」などでも見られた〈娘〉の物語そのままの構造となっている。美鈴は「なぜ恋人である墓守くんとセックスできないのか」と訊ねられた「墓守君はお母さんだから」という答えを出しているのだ。
美鈴は言った。そしてつぶやくようにぼそっと言った。
「師匠とはやれたんだがなあ、セックス。」
私は思わずお茶をふきだした。
「それはさ、彼が保護者でも親でもなかったからじゃないの? 墓守くんと違って」
あわてて服や床を拭きながら私が言うと、美鈴は真顔で、
「あのときは恋してたからなあ。そしてしょうちゃんはそういうのではなく、わしの……お母さんという感じに限りなく近いからなあ。」
と言った。
(吉本ばなな『吹上奇譚 第三話 ざしきわらし』幻冬舎、2020年)
墓守君は美鈴にとって捨てられた母の代理である、と作品自ら述べるのだ。
美鈴、母に捨てられる =〈母〉に捨てられる
↓
美鈴、墓守君と出会う =〈母〉代理を発見
↓
美鈴、母になる =〈母〉になる
分かりやすいほどに〈娘〉の物語そのものである。
ここで興味深いのが、美鈴は子供ができたことで、母性の存在を肯定するようになることである。
「墓守くんはいつ帰ってくるの。」
私は言った。美鈴は首をかしげてから続けた。
「しょうちゃんはすぐ戻ってくるって。わしは今、もう頭が働かなくて、何もかんがえられないから、なんでもいい。毎日が楽しくて楽しくてどうにかなりそう。って言うか、こんなにかわいい生きものを前にしてこういうふうに心が動かなかった自分の母親のことがどう考えても信じられない。
どれだけあの人たちがバカだったのか、よくわかった。
(吉本ばなな『吹上奇譚 第四話 ミモザ』幻冬舎、2022年)
美鈴は自ら母になることで、自分の母を否定し、そして本来の母性を肯定する。そしてその過程においては、夫つまり墓守くんの存在は必要がないのである。夫なしに、子と母の関係性のみで母性は発動され得る。そして美鈴を見ているミミもまた、母性をてらいなく肯定する。
美鈴はお腹を撫でながら微笑んだ。
その表情はまるで夢を見ている人みたいにぼんやりした美しさをたたえていて、この世でいちばん強いものは母親の愛だという言葉を実感した。
(吉本ばなな『吹上奇譚 第四話 ミモザ』幻冬舎、2022年)
「この世でいちばん強いものは母親の愛だ」――こんな台詞をてらいなく綴ることのできる作家が、今の時代にどれだけいるのだろう。その価値観の強固さに私は些か慄いてしまう。それはまさに吉本がいままで描いてきた、「自分は母に捨てられた子である」という自意識の反転にも見えてしまうからだ。つまり、母が子を捨てるなんてありえないことなのに、なぜ母は私を捨てたのか、という主題のことである。
そう、ここには前章で述べたような母性信仰の影が色濃く見えるのだ。
ここで私は、批評家・大塚英志が強く問題意識を持っていた、「少女漫画家たちはなぜ母性礼賛に“転向”したのか?」という問いを思い出す。
ある時期から、少女漫画家たちによる「出産本」ブームが続いていた。さくらももこの『そういうふうにできている』(新潮社、1995年)、内田春菊の『わたしたちは繁殖している』(ぶんか社、1994年)等、それまで母性に対して否定的だった女性漫画家たちが、突然自らの妊娠・出産体験から母性を主観的なスピリチュアル性をもって語り始めることに、大塚は奇妙な戸惑いを覚えたという。そしてこの傾向は、さくらももこの友人である吉本にも引き継がれる。「赤ん坊の寝息というのはなんでこんなにも人を安らがせるのだろう。宇宙のリズムと同じリズムがそこにあるのを感じる。」(『吹上奇譚 第四話 ミモザ』)等、宇宙と出産を並列して語る美鈴の出産体験は、母性礼賛とスピリチュアル出産語りが揃って描かれているのだ。
しかし吹上奇譚シリーズを読みながら大塚の提示した「少女漫画家たちはなぜ母性礼賛に“転向”したのか?」という問いについて考えてみると、この問いはむしろ前提を見誤っている。そこにあるのは「転向」ではないのだ。
むしろ「母から捨てられたことを嘆くこと=母の母性を否定すること」と「自らが母になることを肯定すること=自分の母性を肯定すること」はセットであり、むしろセットになってはじめて強烈な母殺しが完結するとも言える。
私は母のような母にはならない、という言葉は、自分が完璧な母になった、という夢をもってはじめて完遂する。「母は間違っていた」ことを示すためには、自らが母となり、そして母が私を愛さないことは間違っていたと示すほかないのだ。
自らが産んだ赤ん坊を見ながら、美鈴はこのように呟く。
ずっと触ってたい、ずっと。こんなにずっと触ってたいかわいいものをいじめるなんて、あの人たちは単に頭がおかしかったんだ。そして、わしはおかしくない。それがわかっただけで充分だ。何かが終わった。わしの中の暗くて重かった何かが少し軽くなった。
(『吹上奇譚 第四話 ミモザ』)
母探しの旅路の先に、母のような母にならない、という夢を吉本は描く。しかしその夢を体現しようとすることは、結果的に母性に期待し、母性を求める少女であることに変わりはない。だからこそ吉本ばななの描く主人公は、たとえ母になっていたとしても「少女」の自意識のままなのである。
母性への期待が、少女期を生み出す。少女は、母の母性を求めるからこそ、それが存在し得ないことを知り、傷つき、母の代わりを探す。現代日本の少女文学というものがあるとすれば、やはり本人も言う通り、吉本ばななによってその構造がぴたりと固定化されてしまったという可能性はあるだろう。
だがその母性の肯定は、過剰なまでの神秘主義との融合にも向かい、そこに残るのは主観的な世界でしかない。つまりは他人を他人として捉えず、自らの自意識の中で世界を配置しようとする世界である。する、赤ん坊が大人になる過程で、他人として母の前に存在してきたとき、果たしてどのように対峙できるのだろうか。
「母は間違っていた、私は子を愛せる」と叫ぶ母殺しを達成した娘たちは、しかし、彼女たちもまた娘にとっては「間違っていた」母になるという罠が潜んでいるのである。
(続く)