1.萩尾望都の残した課題の継承者・よしながふみ

2000年代、少女漫画は「24年組」的な母と娘の課題――〈母〉探しの主題――を発展させる。
1991年に描かれた『イグアナの娘』から10年以上経ち、萩尾望都の描いた母娘の課題をオマージュしながらも更新したのが、2003年によしながふみが描いた『愛すべき娘たち』(白泉社)の最終話であった。
雪子の母・麻里は、客観的に見ると美人だが、50歳を過ぎて尚「私は美しくないわ」と頑なに自称する。ある日、雪子は母の頑なさの理由が祖母にあることを知る。麻里は小さい頃から母に「不細工だ」と言われて育っていたのだ。しかし祖母は雪子に「昔の友人に、美人なのを鼻にかけた意地悪な同級生がいた」「麻里にはあんなふうになって欲しくなかったから、容姿を褒めないようにしてきた」と語るのだった。
『イグアナの娘』のリカは客観的な評価(=美人な女性)と自己評価(=イグアナ)が、母の言葉によって乖離していた。『愛すべき娘たち』の麻里もまた、客観的な評価と自己評価が母の言葉によって乖離している。母のコンプレックスが娘に投影され、母の言葉によって娘のコンプレックスが生まれる構造は同様である。
『イグアナの娘』の帰着点は、娘が母のコンプレックスを理解することにあった。だが本連載でも指摘したように、リカのコンプレックス=自分がイグアナに見える呪いは解けずに終わった。それが『イグアナの娘』の課題であった。萩尾は娘に完璧な〈母〉を与えなかった。夫は〈母〉的なキャラクターだったが、しかし彼は彼女の母との軋轢を理解せず、リカのコンプレックスを解かずに終わるからだ。その後、萩尾は「母から受けた傷の回復」という課題を、長編漫画『残酷な神が支配する』に継承した。課題は少年の身体に転換され、もはや少女の姿はそこにはなかった。
だがその10年後、よしながふみは女性の身体でその課題を語り直す。50歳を過ぎて、いまだに容姿のコンプレックスが解けず、そして若い男性と再婚した麻里は――リカが、年齢を重ねた姿だった。
麻里もまた、最初の夫との結婚や、雪子を出産したことなどでは、コンプレックスが解消することはなかった。さらに麻里はリカと同様に、母(雪子の祖母)がなぜ自分に不細工だと言ったのか、母にどのようなコンプレックスがあったのか、つまり雪子に祖母が伝えたような事情を理解しているのだ。その証に、麻里の再婚相手・健は呟く。

「けどそういう事情が分かったところで一旦できあがっちゃった彼女のコンプレックスがなくなる訳じゃない 分かってるのと許せるのと愛せるのとはみんな違うよ」
「それに親を好きになれなかったのは不運な事だけどでもそれだけの事でしょ」
(よしながふみ『愛すべき娘たち』p199,200、白泉社、2003年)

そして健もまた自らの「イグアナ」つまり自らのコンプレックスを語り始める。健は麻里のコンプレックスについても、自らのコンプレックスについても、「だって何も犯罪みたいに悪い事してる訳じゃないんだ よってたかってそれを治さなきゃって彼女に言ったりはできないよ」と述べ、他人がコンプレックスを治すことを強制する必要はないことを強調する。つまり健自身にもまたコンプレックスがあったが、麻里と結婚することによって、そのコンプレックスを矯正せずに受け入れることができた――イグアナのままで幸せになる方法を得たのである。そして健は麻里のコンプレックスを完全に治癒することはできないことを「分かったうえで」、それでもなお共にいようとすることを決めているのだった。
健が作ろうとしているのは、リカの夢見たイグアナの国なのである。麻里と健は、お互いそれぞれ矯正することができないコンプレックスを抱きながら、その傷を受け入れつつ生きている。傷の治癒を断念し、呪いが解けることはないと分かったうえで、それでもゆるやかな日常の中で共に過ごすのである。
『愛すべき娘たち』は「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」という結論に至る。それはつまりよしながによる、完璧な〈母〉などどこにもいない、という少女漫画の〈母〉探しへの一つの回答であった。
雪子も、麻里も、そして麻里の母もまた、不完全な女であった。母の不完全さは、娘の不完全さを生む。そうして母と娘は不完全さという名の傷を継承する。
つまり、娘は誰もが「イグアナ」を抱えており、母は誰もが「イグアナ」を娘に手渡してゆくものである。それが『愛すべき娘たち』の主題である。そして母を好きになれなかったリカも麻里も、「それだけのこと」だと、本作は〈母〉を喪失した傷を柔らかく削弱しようとする。
『愛すべき娘たち』に登場する男性も女性も、誰もが他人の完璧な〈母〉にはなり得ない。それは自分の「傷」つまり自らの不完全さを他者に治癒してもらえる期待を断念する世界でもある。つまり『残酷な神が支配する』で描かれたような、「傷の回復」は、ほとんどこの世に存在し得ないのだ、とする結論である。
母から娘へ、不完全さという名の傷は受け継がれる。その呪縛を断ち切ることを断念しながらも、しかし不完全さを抱えて生きることこそが「愛すべき娘」たちの生きる道筋であることをよしながは提示する。

2.よしながふみは永遠の夢を見ない

完璧に治ることのない傷を引き受けた者同士の繋がり。それはまさに、よしながふみという作家が描き続けてきた世界だった。
よしながは、『西洋骨董洋菓子店』(新書館、1999~2000年)でトラウマを抱えつつゆるやかな関係を保ちあう男性たちを、『きのう何食べた?』(講談社、2007年~)でお互いの苦労を理解し合いつつ共依存的に至らないカップル像を、『大奥』(白泉社、2004~2021年)では江戸幕府というエリート階級における、「信頼」の絆で繋がり合う女性同士、傷を受けたまま寄り添いながら生き延びる男女を描いた。それはまさに完璧な〈母〉が存在しない世界なのである。
ある意味、現代的なシェアハウス的関係ですらある。つまり誰かを親として神を君臨させるのではなく、横並びのゆるやかな――つまりなにより重要なのは、流動性を残した関係性なのだ。
〈よしながふみ的関係〉というものがあるとすれば、流動性を担保していることが、その特徴のひとつである。よしなが作品の登場人物たちは、いつかこの関係は終わるかもしれない、という緊張感を常に背後に漂わせる。よしながふみは永遠の夢を見ない。流動性を残すのだ。その代わりに、固定された閉塞的な場所に縛られることもない。常に関係性が終わるかもしれない可能性を残しながら、それでも一緒にいるという選択をする、その瞬間をよしながは描く。だからこそここには、完璧な〈母〉が存在しないのである。
よしながふみは、完璧な〈母〉の発見を断念する。たとえば『大奥』においては複数人の恋愛事情が描かれている割に、誰かが恋愛の場で完璧な〈母〉になりそうになると即座にその相手は物語から退けられるという規則が存在する。作中序盤に登場する有功や右衛門佐や天璋院など、少女たちの傷を癒そうとすれば〈母〉としての役割はすぐさま取り上げられ、そして関係性は終わる。
それは『愛すべき娘たち』においても同様である。母がずっと母でいてくれる訳ではないことを描いた第一話、あるいは恋人関係も友人関係も流動的なものであることを描いた第二話と第四話、そして家族を捨てて修道院に入ることを決意する女性を描いた第三話と、関係が「離れる」瞬間が作中常に示される。そう、繰り返すが、よしながふみは永遠の夢を見ないのだ。〈よしながふみ的関係〉とは、いつか終わるかもしれない関係そのものなのである。
だからこそ〈よしながふみ的関係〉は、完璧な〈母〉を否定し得る。それによってむしろ「傷は治らないままで、日常を生き延びることができる」ことを描くことに成功する。
『西洋骨董洋菓子店』の橘は悪夢を見続け、『きのう何食べた?』のシロさんは親との関係が完璧に修復することはなく、『大奥』の天璋院は喪失を受け入れながら明治を生き延びることを決意し、そして『愛すべき娘たち』の健も麻里もコンプレックスを抱えたまま人生を送る。つまり自己犠牲的に傷を治癒しようとする完璧な〈母〉を退けることは、傷の存在を削弱できる効果も持つのだ。傷はあるかもしれないが、治ることはなく、しかし治らずに生き延びられる。〈よしながふみ的関係〉はそう常に説いている。

3.00年代の少女漫画と流動的な同体

これを踏まえて2000年代の少女漫画のヒット作を見ると、〈よしながふみ的関係〉つまりは流動性のある共同体による肯定の物語が目立つ。
たとえば『NANA』(矢沢あい、集英社、2000年~2009年休止)は母に捨てられて育った〈娘〉ナナが主人公の物語である。だが彼女は、ナナとハチという女同士の関係、そしてバンドメンバーという共同体のなかで、その傷を癒す。ナナとハチの関係は「いつか終わるかもしれない」という緊張感が常に漂う。そしてバンドメンバーの関係も「バンドはいつか解散する」という緊張感を抱えながら、それでもお互いに傷を癒し合う。『NANA』はまさに2000年代的な関係性を描いた〈娘〉の物語なのである。
あるいは『花より男子』(神尾葉子、集英社、1992~2004年)は90~00年代の漫画であるが、ドラマは2005年、2007年に放映され大ヒットとなった作品である。この漫画は、母に玉の輿の夢を押し付けられて学園に入れられた〈娘〉つくしの物語である。つくしが出会うのは、自分をいじめてくるF4という4人の男性グループなのだ。これが従来の物語だったらつくしが出会うのは道明寺ひとりだったのかもしれない。が、つくしを迎えるのが4人の男性であり、時には傷つけあうこともあり、そして結局5人で行動するようなところに私は2000年代性を感じるのだった。
また『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子、講談社、2001~2010年)『ハチミツとクローバー』(羽海野チカ、宝島社/集英社、2000~2006年)のように、大学のグループを舞台にした物語も生まれたが、これもまた「いつか学生時代の終焉がやってくる」という期限を意識する共同体の物語である。このようにオケや美大といった卒業を前提とする関係性が、主人公たちを包む。それはまさに2000年代的な関係性そのものなのかもしれない。
もちろん主軸となる二人の関係性はあるものの、都会的な流動性をもって、群像劇的な物語つまり共同体を中心に関係性を描き出すのが、当時の少女漫画の主流となっていたのである。

(続く)

これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。