蘇るウォルト?!

 ウォルト・ディズニーには数々の都市伝説がある。なかでもその最たるものは、ウォルトの遺体が冷凍保存されているというものだろう。一説によれば、それはカリフォルニアのアナハイムにあるディズニーランドの「カリブの海賊」の地下にあり、トランス・タイム社の冷凍カプセルに入って来るべき未来に蘇るべく安置されているという。
 もちろん、これはゴシップ紙のネタにすぎない。というのも、ウォルトは1966年12月15日に息をひきとり、火葬されてロサンゼルスのフォレスト・ローン墓地に埋葬されているからだ。
 とはいえ、ディズニーにこうした想像をかきたてる何かがあったとすれば、それは何だろうか。じっさい2013年には、ミッキーマウス短編シリーズ史上初の3D作品『ミッキーのミニー救出大作戦』(『アナと雪の女王』と同時上映)において、アーカイブからウォルトの声が抽出され、ミッキーの身体を通して21世紀のスクリーンに蘇った。「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と述べたのは、『2001年宇宙の旅』で知られる英国のSF作家アーサー・C・クラークだ。では、ディズニーの魔法はどのように創出され、どこに向かおうとしているのだろうか。そしてまたディズニーが探究してきたリアリティとファンタジーの世界はどのように展開してきたのだろうか。

 本稿では、しばしば自然/人工という二分法のもとで語られがちなその境界が、ディズニーの世界において、どのようなメカニズムによって語られ、書き換えられ、ずらされてきたのか。またそれによって私たちの知覚、世界の認識の仕方そのものがどのように変容しているのか。拙著『ディズニーと動物―王国の魔法をとく』でも提示したさまざまな論点の中から、「都市と自然」にまつわる主題を抽出・展開するかたちで探ってみたい。

「自然」とは何か──エコミメーシスの可能性と陥穽

 ところで、ここでいう「自然」とは何だろうか。というのも、1893年、歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーが国勢調査(1890年)によるフロンティアの「消滅」を告げて以来、アメリカはいわゆる「ウィルダネスの悩み」と言われるパラドクスに直面していた。原初的で無垢な手つかずの自然は、ひとたび人間の手が触れるともはや自然ではなくなってしまうというパラドクスだ。ウォルトが育った20世紀初頭のアメリカでは、フロンティアの消滅、都市化/郊外化の進行、そして自然回帰運動が隆盛をきわめ、自然をめぐる認識に根本的な変化が引き起こされていた。
 哲学者ティモシー・モートンは、私たちが「自然」と呼んでいるものはロマン主義時代の発明品であるという。自然は中世には悪と同義だった。けれども、その後にロマン主義の芸術家たちがこぞって自然を美的なものとして描き出し、「自然」は社会的な善の基礎として考えられるようになる。自然の観念は、まるでショーウィンドウに飾られた商品のように対象化され、消費されるようになったというわけだ。
 ロマン主義において、人間は一度は切り離した自然との融和を望み、近代社会が損傷させたものを治癒する方法として自然を語るようになる。つまり、ロマン主義によって発明された自然は、料理の味付けにかかせないスパイスのように、美的な対象物として創出され、資本主義のイデオロギーと深く結びついていく。では、そのロジックとその後の展開はどのようなものだったのか。 
 ここで重要なのは、このプロセスにおいて、新たなメディアテクノロジーが鍵を握っていたことだろう。というのも、たとえば銃による狩猟はカメラにとって代わり、自然をめぐる写真や映像は、自然保護の意識を高める啓蒙的な役割を担うようになる。

▲クリフォード・ベリーマンによるセオドア・ルーズベルト大統領の狩猟の風刺画

 反狩猟のプロパガンダとなったディズニーの『バンビ』やその後に展開する「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」シリーズ(以下「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」)を思い出そう。これらの映像には人間が姿を現すことはない。人間は、動物たちの暮らすファンタジーの世界を破壊しかねない危険な存在だからだ。
 従来のサファリ映画は、動物を射止める人間の「偉業」に焦点をあてていた。対して、「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」は、人間の不在のみならず、人間が手を加えた「汚れた」自然の風景を映すことすらしない。ディズニーは、人間の存在を映画の空間から除外し、野生動物の生態を人間が目撃者としてこっそり「のぞき見る」という新しい方法を使った。動物の生態をカメラに捕獲し、動物たちに個性を与えながら、「手つかずの自然」と動物の世界を「驚異」と「冒険」の物語として描き出していったのだ。それにより、「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」は、新たなフロンティアを開拓するかのように、未知の世界を味わう旅のメディアとしての役割も果たすことになる。

 こうして「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」は、大自然に生きる野生の動物たちの生態をカメラで捕獲し、「ウィルダネスの悩み」を視覚的に解消しながら、同時にディズニー流のセンチメンタルな味付けを施したロマン主義的な「エデュテインメント(教育+娯楽)」として人気を博していく。 
 ここで確認しておきたいのは、視聴者はけっして「汚れた」世界にふれることも、なんの危険を冒すこともなく、一方向的に「見る」ことで、「自然」を心地よいエコロジカルな知の対象として客体化し消費していることだろう。
 この見るものと見られるものとの距離は、主体/客体という構造を生み出すと同時に、視覚以外の知覚を追いやることによって成立する。
 つまり、カメラというメディアを通して創出された「エコミメーシス」の世界は、一方で本来あるはずの自然や動物たちとの距離の解除を物象化し、他方で物象化されたメディアそのものがこの距離を維持する装置のなかで機能しているのである。
 イギリスの美術批評家ジョン・バージャーは、近代の擬人法の歴史を、物理的に消滅していく動物たちを人間が文化的に記録していくプロセスとしてとらえた。ディズニーがスクリーンに創出した動物たちは、人間が自然と動物とのあいだに生みだしてきたこの距離を埋めるために、物理的な自然/動物の消滅に反比例するかたちで、過剰に現前していったのかもしれない。いや、むしろこの対象との距離を解消する感覚を与える魔法として、数々の作品を生み出してきたと言えるのではないだろうか。

「ワイルド・センチメント」と境界をめぐるレッスン

 じっさい、この魔法はディズニーの世界においてさまざまな技法で更新されながら展開されていくことになる。
 そのひとつは、デイヴィッド・ウィットリーが「ワイルド・センチメント」と呼ぶ、自然と動物を飼い馴らすディズニー独自の手法である。「ワイルド・センチメント」は、おとぎ話の毒を抜きながら善悪の論理を提示する「ディズニーの呪文」のひとつとしても機能している。
 たとえば、『白雪姫と七人の小人』(1937)において、愛と平和を象徴する鳩と共に登場する白雪姫と、死を象徴するカラスを手下にする魔女がそうだ。姫と魔女のキャラクターはディズニー映画では二人をとりまく動物たちによって象徴される。
 また、原作のグリム童話では、魔女は火で熱した鉄の靴を履かせられ、踊り狂って息を引き取るという残酷な仕返しと復讐によって最期を迎える。だが、ディズニー映画では、魔女は落雷によって崖から転落し、死を象徴する二羽の禿鷹がそれを見下ろしてあざ笑う光景でその帰結が暗示される。この「悪い女」は、あたかも不慮の事故として「自然」の成り行きで退治され、白雪姫と王子はけっして自身の手を汚すことなく、ハッピーエンドを迎えるというわけだ。

▲『白雪姫と七人の小人たち』プレミア上映の翌週1937年12月27日号の「タイム」誌の表紙

 とはいえ、「ワイルド・センチメント」を何より特徴づけるのは、ディズニーの動物たちが姫たちと結んでいる特別な関係だろう。たとえば、白雪姫の指示に従いながらも、愉快なリズムにのって愉しげに皿を洗い、床を掃き、洗濯をこなす動物たちがそうだ。彼らは、メアリ・ダグラスが『汚穢と禁忌』で述べたように、人間社会の秩序を脅かし、汚れを象徴する存在ではない。むしろ、城から逃亡してきた姫の生を刷新する役割を担っている(ダグラス 2009)。森は「死」と「再生」の理念を象徴する異世界の舞台であると同時に、人間の優位性と動物との境界を保持しながら、しかしその境界を取り消したいという人間の切な欲望を叶える白雪姫のファンタジーが実現する舞台として機能しているのである。
 ここでは、動物たちはそれぞれの習性を組み込みつつ、テディ・ベアのようなおもちゃ/ぬいぐるみの論理によって描き出されている。つまり、野生動物のリアルさではなく、野性性を削ぎ落とし、鋭い爪や牙、性的器官など、所有者である中産階級の子どもたちを脅かすことがないよう変身を余儀なくされた人間の夢と欲望の詰物となっているのだ。ぬいぐるみとは、人間が自らを規定するために産出し、にもかかわらず、動物とのあいだに再び調和をつくりだそうと試みた現代社会の「部分的なトーテム装置」であると言えよう。

 こうしてディズニー映画の姫たちは、動物や自然に対して優位性を保ったまま親和的な関係を築き、人間にとって理想的な異種協働の世界を体現する特異なファンタジー的存在として描き出されていく。
 さらに、ディズニーの世界を独特のものにしているもうひとつの特徴として、キャラクターの動きをアニメートする独自の技法に注目してみたい。
 アニメーション研究者のドナルド・クラフトンは、アニメーションにおいて、モノがその演技の仕方によっていかに行為者性を獲得するのかを「体現的パフォーマンス」と「修辞的パフォーマンス」という概念によって考察している(Crafton 2012)。
 「修辞的パフォーマンス」は日本のアニメにもよく見られるものだ。スティービー・スアンが論じるように、たとえば、アーチ形になる目がキラキラしたり、「学校に遅刻しそうな女の子キャラクターがパンを噛みながら必死に走っていくというパターン」によって寝坊したことをほのめかすといった場合がそうだ。「修辞的パフォーマンス」では、共有された記号性やコード化された動きが異なる文脈で頻繁に引用、反復される。それによって「個人主義的な自己」というより、集団的で「複合構成的なもの」としての「自己」が展開されていく。ここでは、キャラクターは個人というより、タイプとしてコード化された行為を通して視聴者に物語世界への参加を促す(スアン2017)。
 これに対して、「体現的パフォーマンス」では、動物、植物、モノといった「人間」にとって他者とされるキャラクターも、近代的な個人主義的な自己として個別化される。それぞれの個別性は個々の動きを通して獲得され、ひとつの完結した行為主体として可視化されていく。たとえば、『ズートピア』にでてくるナマケモノのフラッシュの動きや表情、その姿にイライラして耳をピクピクさせるウサギのジュディ、あるいは『美女と野獣』のポット夫人親子がそうだ。
 「体現的パフォーマンス」では、キャラクターは「個人」として身体の輪郭と境界を固持し、それぞれの身体的パフォーマンスから人間的な「自己性」が宿った個人としての行為者が成立する。そして、クラフトンが「体現的パフォーマンス」の典型として取り上げるのがディズニーなのである。

 1930年代、ディズニーは『白雪姫』にはじまる長編映画を手がけるにあたり、短編のようにギャグと笑いだけでなく、長時間の視聴に堪えうる「ストーリー」とキャラクターに個性を与える新しい表現形式を確立した。「ナイン・オールド・メン」として知られるアニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンは、「本当にいるのだと信じさせ」、「自らの意志で考え、決断し、行動しているように見える」ドローイングのリアリティから構成される、この「戯画化されたリアリズム」を「生命の幻影」と呼び、他のスタジオにはけっして真似のできないディズニー特有の芸術形式であると述べている(トーマス&ジョンストン2002:13)。
 現実よりもずっとリアリティに富んだ虚構世界。アニメーションの魅力のひとつは、私たちの意識を解放し、徹底した虚構の世界を人工的に創出するドローイングの魅力だった。だが、「生命の幻影」はあくまで現実に立脚点をおいてそのリアリティを追求していく。そのため、人間と動物が自在に境界線を越えて変容する世界ではなく、より現実の論理に即したかたちで物語世界が展開するようになる。
 とはいえ、二次元のアニメーションに生命を与える「生命の幻影」の美学は、じつはウォルトの壮大な構想の序奏にすぎなかった。というのも、ウォルトが真に探究していたのは、「生命のリアリズム」とでも呼ぶべきファンタジーからなる現実の都市だったからだ。

ファンタジーの転回──「生命の幻影」から「生命の創造」、そして人工環境都市へ

 『創造の狂気』の著者ニール・ゲイブラーによれば、ウォルトの関心は歴史よりもむしろ生命を創造することにあった。じっさい、ウォルトはディズニーランドを計画していた当初、そこにチャイナタウンを建設する計画を進めていた。そのレストランでは、ロボットの孔子が客の質問に拡声器で答える仕掛けを考えていたという。すでにアブ・アイワークスが孔子の頭をつくり、口をきくように工夫していた。が、ゴムの皮膚が破れ、この計画は実現することはなかった(ゲイブラー 2007 : 519)。
 その努力が実を結ぶのは、1964年に開催されたニューヨーク万博のイリノイ州館に展示された「リンカーン大統領の偉大なひととき」である。ここでウォルトは、死者を復活させるかのごとく、南北戦争下のアメリカを統率したエイブラハム・リンカーンの生命を蘇らせ、演説(言語を使う機械(モノ)の人間化)を行わせるという境地に達する。
 当初この構想をウォルトから聞いた牧師は、「おとぎ話に生命を与え、人間のようなネズミをつくることはよしとしても、人間をつくろうというのは、神への冒瀆です」と諫めた。けれどもウォルトは「ロボットのリンカーンだけが最もリンカーンらしく見え、リンカーンらしく振る舞える」と反論したという(ゲイブラー 2007 : 520)。

 ニューヨーク万博ではリンカーンの演説の他にも、絶滅した恐竜や原始人といった太古に存在していたものたちがオーディオアニマトロニクスとして召喚され、死したものたちの復活が実演されることになった。それは、人間とテクノロジーの関係を再考させ、生命をめぐる私たちの認識そのものを揺り動かす出来事だった。
 オーディオアニマトロニクスによる死者の復活が過去から現在へと向かうものだとすれば、ニューヨーク万博のさなかにウォルトが構想し始めたEPCOT「実験的プロトタイプ未来コミュニティ」は、科学技術による未来のヴィジョンを現在にもたらすプロジェクトである。
 ディズニーランドでは、テーマパークの世界観に関係のない裏側の仕掛けはゲストの目に触れないようにバックヤードに覆い隠す配慮がなされている。アニメーションと同じく、環境を完全にコントロールすることで、テーマパークとしてひとつの世界観を貫くためだ。

 過去の古き良き記憶の選別から実装化されたのがディズニーランドなら、ニューヨーク万博とEPCOTはそれを都市へ、そして世界へと拡張する未来の実験場だった。EPCOTは、最先端のテクノロジーによってあらゆる無駄を省いた効率的な未来都市として設計されていた。制御された自然、選別された消費者たる居住者、効率的な交通システム。その背後には、グルーエンが設計したショッピングモール構想とエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」計画との融合、さらに1950年代のアメリカが抱えていた都市問題からの脱却が考慮されていた。しかし、何より驚くべきは、ウォルトがフロリダ州議会をはじめ、地元の自治体とも手を組んで、州政府から電力、ガス、上下水道、消防、建築基準、道路建設など、警察権と司法権以外の都市のインフラのほとんどを独自に運営するという例外的な特権を手に入れていたことだろう(速水 2012 : 90-91)。
 ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクは、外部にあったものを内部へと引き込んだ温室のような空間の最初の兆候を1851年の万国博覧会におけるロンドン水晶宮に見てとった(Sloterdijk 2013)。EPCOTはそのひとつの帰結ともいえよう。なぜなら、そこは、雨、気温、湿度を完全にコントロールする「気候管制区域」が構想されたジオエンジニアリングからなる空間であり、グローバルな資本主義が生のあらゆる条件を決定する「資本の内部空間」でもあるからだ。
 私たちはその一端を映画『ズートピア』にも見ることができる。肉食動物と草食動物が仲良く共存し、高度なテクノロジーが発達した文明社会。そこは、テクノロジーによって実装された動物版EPCOTであり、「誰もが何にでもなれる」というスローガンを掲げた、「動物たちの、動物たちによる、動物たちのための楽園」である。
 ズートピアはリアルな都市計画に基づいて設計され、完全にバリアフリーが行き届いた架空のハイテク都市である。動物たちの種族間の格差はテクノロジーによって埋められ、それが民主主義の土台となっている。
 たとえば、川から吸水して湿気を生み出す人工樹林から高温多湿の環境をつくった熱帯雨林エリア。そして頂上のスプリンクラーから雨が散布されるレインフォレスト地区。あるいは、ネズミのような小さな動物たちが暮らすミニチュアサイズの街リトル・ローデンシアは、この街は高いフェンスで囲まれ、大きな動物たちが侵入しないよう「配慮」されている。一方、ホッキョクグマやトナカイは降雪装置によって雪の量や天候が調節された極寒のツンドラ・タウンに暮らし、ツンドラタウンを冷やすエアコンの排気が、サハラ・スクエアに送られる。こうして効率的に砂漠の街の暑さが維持されるというわけだ。さらに、キリン用の背の高いクルマ、「小さい動物用」と「大きい動物用」に分けられた列車の扉など、動物たちの「多様性」への「配慮」がいたるところで演出されている。 
 なるほど、ズートピアの住民はみな「進歩」を遂げ、その街は安全で快適な都市のはずだった。だが、この完璧に実装された進歩的な未来都市は深い闇を抱えていたのだ。

 じつは、ウォルトはEPCOTを実現することなくこの世を去る。そのため、彼の夢が当初のままのかたちで実現することはなかった。けれども、ウォルトが構想したEPCOTは、のちに映画『トゥモローランド』(2015)のなかで、選ばれた者たちからなる「エリートの避難所」と化し、悪夢的で腐敗した世界として描かれることになる。
 それどころか、20世紀末にディズニーがフロリダのディズニーワールドに隣接して開発した理想郷「セレブレーション」(1996)では、2010年に殺人事件が発生し、三歳児の父親が自宅にバリケードを張り、警察に発砲してから頭を撃ち抜くという事件も生じている。   
 こうした事態が示すのは、完全に計算された人工的で快適なユートピアと、一見すると正反対に思われるディストピアとの区分はそれほど明瞭ではないということだ。
 徹底してつくりこまれた内部がすべてとなる外部のない人工環境下の世界。そこでは、自然に対する人間の欲望が剥き出しになり、資本を通じた独自のエコシステムが構築される。そう、東京ディズニーランドのジャングルが一年中青々と生い茂るためにビワの木々が植えられるように。気候によって棲み分けされてきた「ネイティヴ」の動植物よりも、ずっと「本物」らしい擬装した動植物が出現することになるのだ。
 人工/自然、内/外、虚構/本物の境界の書き換えと転倒。思えば、ディズニーの一連のプロジェクトは、人間を中心に、メディアテクノロジーと資本を通して、動物、自然界との共存を企図していく、人新世的な視座からなる未来像によって駆動してきた。とはいえ、ディズニーをたんにテクノロジーと手を組んだ資本主義の権化としてのみ捉えてしまうと多くのことを見逃してしまうだろう。そこで最後に、1998年に誕生したアニマル・キングダムに目を向けてみたい。

野生のファンタジーの行方

 フロリダの平地にアフリカのサバンナをまるごと移植する。この壮大なプロジェクトは、マイケル・アイズナーCEOのもと、「野生動物の保護に対するウォルト・ディズニーの姿勢」を受け継ぎ、動物の保護や教育、研究にも力を入れたエデュテインメント(教育+娯楽)として企画された。アニマル・キングダムは、ディズニー・パークのなかでも最大の広さを誇り、そこには多種多様な植物と300種20000頭以上の本物の動物たちが暮らしている。

▲ディズニー・アニマル・キングダム(筆者撮影)

 パークの中央には、巨大な生命の樹「ツリー・オブ・ライフ」がそびえ立ち、これを軸に七つのエリア(アフリカ、ディスカバリー・アイランド、オアシス、ラフィキズ・プラネット・ウォッチ、アジア、ディノランドUSA、パンドラ)が広がっている。ツーリストは、ガタガタと揺れるサファリトラックに乗って「アフリカ」のサバンナに暮らす野生動物たちを眺め、「アジア」を散策し、アニメ工学で生命を獲得した絶滅したはずの恐竜たちの姿を楽しむというわけだ。

▲ツリー・オブ・ライフ(筆者撮影)

 アニマル・キングダムは、「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」から多くの着想を得て手がけられた。とはいえ、すでに見たように、「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」は、リアルな野生動物の生態をドキュメントしているようでありながら、ディズニーがアニメーション制作で獲得した「間違いのないストーリー」からなる物語装置を組み込んだ独自のネイチャー・フィルムである。
 「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」が三次元の現実世界に広がる壮大な自然を二次元の虚構世界にドキュメンタリーとして映し出したとすれば、アニマル・キングダムは、自然と動物からなる二次元の虚構世界を三次元の現実世界に出現させる試みである。そこでは、人間の手によって自然が考案され、あたかも物語を語るように自然と動物が脚本化されていく。それゆえ、ここを訪れる者たちは、スクリーンを通して出会ったディズニーアニメの動物たちと、生身の野生動物たちとを重ねあわせずにはいられない。

 アニマル・キングダムでは、生身の動物は、ツーリストが探し求める、ディズニー映画の動物を反映した記号=サインと化し、それにより、オリジナルがコピーによってその正統性を付与されるというある種の転倒した関係が生じる。つまり、グリム童話ではなくディズニー作品が「オリジナル」であるかのように、オリジナルとコピーという二分法に回収されることのない複数のリアリティが重層的に交錯/共振する「キャピタリスト・アニミズム」とでも呼びうる現象が生じる場所となっているのである。
 さらに興味深いのは、このアニマル・キングダムの動物たちが、21世紀の新しいテクノロジーによって再び二次元のスクリーンのなかに出現することだろう。ただし、そこに映し出されるのは、リアリティに富んだ動物たちのイメージのみだ。
 2019年に公開された、実写でもアニメーションでもない、「超実写版」として知られる『ライオンキング』を思いだそう。クルーはみなVRのヘッドギアをかぶり、アーティストらが描いたコンセプトアートをもとにしたヴァーチャルなスタジオに入る。そのセットのなかを歩きながらドリーやクレーンを動かし、まるで実写映画を撮影するように照明やカメラのアングルを決めてロケハンを行う。そこでは声優もまた、従来のアフレコではなく、全方向型のシアターのなかでVRヘッドギアをつけ、大地を見渡し、プライド・ロックやゾウの墓を見ながら、臨場感あふれる状態のなかで録音が行われる。CGのアフリカ大陸をVRとして体験しながら制作されたこの『ライオンキング』の世界には、もはや現実のアフリカに存在する生身の動物はどこにも存在しない。
 身体的に「没入」できるその空間は、逆にいえば、私たちをイメージの幻想空間そのものに閉じこめる空間でもある。そこに出現しているのは、自然と人間が映像技術によって媒介され、その関係性そのものが大きく変容した超(シュールな)現実の世界だ。

 かつてボードリヤールは、ディズニーランドは〈実在する〉国、〈実在する〉アメリカすべてがディズニーランドであることを隠すためにそこにあると述べた(ボードリヤール 2008)。ディズニーランドが「本物」ではないことによって作り物としてのアメリカが「本物」になることができるからだ。
 けれども、今日、私たちの身体感覚は、すでに虚構世界のそれによってすっかり書き換えられているのかもしれない。物語のなかの虚構世界が現実世界で実装されるとき、これまであたりまえだと思ってきた私たちの現実を捉える知覚そのものが重層化し、大きく変容していることに気づく。 
 「ディズニーランドは永遠に完成しない」というウォルトの言葉は、ディズニーの世界が人間の欲望とテクノロジーの擬装を通して絶えず更新されることを意味している。そこに浮かび上がるのは、テクノロジーを通して、過去を召喚するだけでなく、未来の他なるものたちに対する責任にどう応じていくのかという問いかもしれない。ディズニーがグローバルなポピュラー文化の同意と抵抗の闘技場として、ゆっくりと、しかしたえず更新されていく魔法の壮大な実験場であるとすれば、その実験の担い手は、この世界に参加する私たち自身でもあるのだ。

参考文献
ゲイブラー,ニール『創造の狂気──ウォルト・ディズニー』中谷和男訳、ダイヤモンド社、2007年
スアン, スティーヴィー「アニメの「行為者」──アニメーションにおける体現的/修辞的パフォーマンスによる「自己」」『アニメーション研究』2017 年 19 巻 1 号 p. 3-15
速水健朗『都市と消費とディズニーの夢──ショッピングモーライゼーションの時代』角川書店、2012年
ダグラス,メアリ『汚穢と禁忌』塚本利明訳、ちくま学芸文庫、2009年
トーマス,フランク、ジョンストン,オーリー『Disney Animation 生命を吹き込む魔法── The Illusion of Life』高畑勲、大塚康夫、邦子・大久保・トーマス監修、徳間書店、2002年
バージャー,ジョン『見るということ』飯沢耕太郎監修、笠原美智子訳、白水社、1993年
モートン,ティモシー『自然なきエコロジー──来たるべき環境哲学に向けて』篠原雅武訳、以文社、2018年
Crafton, Donald. Shadow of a Mouse: Performance, Belief and World-Making in Animation, Berkely: University of California Press, 2012.
Whitley, David. The Idea of Nature in Disney Animation: From Snow White to WALL-E, Routledge, 2012.

[了]

この記事は2021年7月1日に公開しました。
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