空想都市設計者たちの、街を見る視点

──今回は空想地図作家として知られる今和泉隆行さんと、フィクション作品の設定考証に携わり、PLANETSが運営しているメールマガジンやWebマガジン 「遅いインターネット」でも「東京そぞろ歩き」を連載中の白土晴一さんに、「現実の都市をどのように見ているのか」「空想都市のリアリティを生むにはどうすればいいのか」というテーマでお話ししていただきます。まずはお二人がどのような活動をされているのか、簡単にご紹介していただいてもよろしいでしょうか。

今和泉 7歳の頃より、実在しない都市・中村市の地図を書いております。特に観光名所もなければ見どころもない、人口が150万人くらいいる何の変哲もない都市です。

白土 「設定考証」と言って、基本的にはアニメーションやゲーム、漫画などフィクションの世界観を作るための設定を考えるという仕事をしています。この仕事にステレオタイプ的なものはなく説明がしにくいのですが、僕の場合はその世界観に合う街並みや、キャラクターの立場に忠実なセリフを考えたり、美術の人に地形の発注をしたり、作品のディテールを構築していくというのがだいたいの仕事です。

 僕は地理も地図もすごい好きなので、今和泉さんの空想地図を見たとき、これは褒め言葉ですが、極北の趣味を歩いていらっしゃるなと思いました(笑)。「タモリ倶楽部」などに出演されたときも「これはすごいな」と思って、うちの業界では地図を描く人が足りないので何か依頼しようかなと考えたくらいです。実際に地図を作るというのはかなり大変なんですよね。

今和泉 わかります。私はテレビドラマの小道具として空想地図を作ることもあり、そのたびに実感することですが、地図や地理に対して博識で緻密な方は逆に作れないと思っています。厳密になりすぎると実在するどこかの場所にものすごく似てしまう。そうすると空想地図ではなくなってしまうので、ある程度わからないまま作ってしまう、思い切りやある種の適当さがないと作れないんです。

 一方でそのために修正点が多くなることもよくあって、実際ネットに上げたものでも時々「ちょっと違うな」と思ったときには修正をしています。たとえば都市の規模から考えると、地下鉄を描いてしまったことでつじつまが合わなくなってしまうことがありました。地下鉄があるということは人口が少なくとも100万人ぐらいはいるはずなのに中心市街から半径1~2kmの場所に農地ができてしまっていたので、少しずつ都市郊外の住宅地を広げていったというような経緯があります。

▲インフラ構造に合わせて都市の規模を修正(今和泉さん作成)

白土 なるほど。そういうときフィクションの場合なら、地下鉄ができた理由は何だ、と考えます。たしかに地下鉄市街の人口は150万人クラスでも採算が取れるかどうかギリギリのレベルなので、農地の近くにあるとしたらそれは軍事的な理由なのか、政治的な意図か、それに伴う産業的な意図か、そういった理由がないと作れない。

今和泉 そうなんです。もちろん地下鉄を消すこともできたんですが、あえて広げてみたのが最初の修正です。

 ちなみにこの後に、大学の建物の配置も直しました。地図の下絵を作ったのが高校生のときだったので大学の構造をよくわかっていなくて。

▲大学内の構造をより詳細に(今和泉さん作成)

白土 その大学は建てられて何年くらいというイメージですか?

今和泉 古いところは、大学になってから60〜70年、新しいところが20〜30年です。

白土 昭和のベビーブームに伴って大学の規模が広がった時期ですね。

今和泉 いわゆる団塊の世代が学生になったころに急増したような大学です。

白土 僕としてはこうやって建物やインフラの起源を探るのがすごい好きなんですよ。僕の友人に漫画家の速水螺旋人さんという人がいて、彼と旅行に行った時はその地域の普通の道路や街並みを撮影し続けました。観光地である必要がまったくない。「この街の商店街はこの形だからこんなところがあるんだろう」とか「道路の幅がこれくらいだから道路の都市計画は後から行われたんじゃないか」とか、何気ない街中でもそういう話をずっとしながら歩いている。

▲茨城県日立市にて(白土さん撮影)

今和泉 すごく自分と似た移動の仕方をしている気がするんですけど(笑)、私も観光地には行かないんです。行ったとしても10分くらいで観光は終わりにして、観光ガイドに書いてあるような情報は誰かと一緒に行くときでないかぎりわざわざ確認しません。ただその観光地が、遠方の人が来るようなところなのか、海外の人が来るのか、それとも地元の人にとっての観光地になっているのかというような導線の部分は気になるので、目の前までは行ってそれを確認したらすぐに引き返してしまいます。

白土 すごくわかります。県内レベルで人が集まるところなのか、国際レベルで集まるのかで明らかに観光インフラが違いますよね。

今和泉 そうなんですよ。それによってその土地の産品を名産品として売っていくのか、リーズナブルな価格で売っていくのかといった価格戦略も変わってきます。地元向けのものはそこまで高くなりませんが、観光客の出身がその土地から遠くになればなるほどどんどん価格がつり上がってくる。なので私の場合そういった観光地では食事をせず、あえて地元民向けの商店街に無雑作に入って飲食店を探すといったこともします。

白土 わかります。僕はその前に地元のスーパーに入ることから始まり……。

今和泉 私も地元のスーパーは大好きで、特に商店街、大型商業施設、百貨店、駅ビル、この辺りは必ず全フロア周りますよね。というのは、「街がどんな人をどのように集めているか」がよくわかるからです。たとえば百貨店というものは、40〜50代以上で品質の高い商品を求める層が集まる、と思って実際に入ってみると、意外とそうではない百貨店もあったりするんです。近隣でいえば柏の高島屋や二子玉川の高島屋などは客の年齢層が比較的若めです。

 反対に、イメージ通り百貨店が年齢層が高めの人に向けて作られている地方に行けば、それと対になるかたちで建てられた駅ビルや大きめのスーパーなどが若者を集めているかと思いきや、こちらも若者向けの商業施設がスカスカだったりすることがあるんですよ。「おや?」と思うわけですよね。ここには首都圏と地方での年齢層の違いが現れていて、地方では大都市部より生産年齢人口のど真ん中、30~40代を見かけることが少なくて、バスに乗れば高齢者とと子供しか乗っていません。いったいどこに行っているのかと思って、試しに郊外のイオンモールに行ってみると、若年層から40代まで、ここにたくさんいたわけです。イオンモールと一口に言っても首都圏と地方ではまったく違うので、初めて訪れた土地ではショッピングモールをくまなく周らなければいけないんですよ。

白土 ショッピングモールの設計では、ポーカーゲームで切る手札を熟考するように、どのテナントをどのように出店させるかを戦略的に考えるのが経営の肝なんですよ。たとえばコーヒー店がスタバなのかそうでないのかはディベロッパーの選択によるわけです。また明らかに若者向けでないような高級お菓子店などが入っていると、「これは恐らく贈呈品目当てで来客する層を想定しているから、利率はよくなくても置いておくことに意味があるんだな」という分析ができるわけです。群馬など地方のショッピングモールを周ると、こういったデパート的な役割を担っているところがいくつかあって。

今和泉 前橋のけやきウォークには紀伊國屋書店が入っていますけど、あそこも少し百貨店的な役割を感じましたね。

白土 もともとショッピングモールを考えたのは、オーストリア出身のビクター・グルーエンという建築家です。ウィーンの城壁撤去後に作られた環状線、リングシュトラーセにできた市民が自由に歩き回れる空間から着想を得て、そうすれば郊外と中心部の人たちが交流しコミュニティができるはずだという理想があったんです。それをアメリカでどう実現するかと考えたときに、郊外と街中の人たちをつなぐには、巨大な駐車場を作って大量の車が集まれる場所を作ればいいということでショッピングモールが生まれました。日本でもモールはそのコンセプトで設計されてます。

▲埼玉県羽生市のイオンモール(白土さん撮影)

 また彼の伝記『Mall Maker ;Victor Gruen, Architect of an American Dream』という本が非常に勉強になったのですが、ショッピングモールの内装をまっすぐにせず必ずカーブを描かせるのは、広くて見渡せる長いものは圧迫感が大きくなってしまうので、それを少し緩和させ、あらゆるものを融和させようという考え方からなんです。これをグルーエン・エフェクトと言います。

今和泉 あれはグルーエンのアイデアだったんですね。

白土 元々はそうですね。でもこれは街の中でも同じですよね。浅草のように見通しのいい露地などは観光地としての価値が高まっていると思います。逆に雑多な人が集まる商店街をみてみれば、東京都内だと暗渠に併設するようにしてできたところが多いですけれど、その暗渠通りの曲線が場所によってはわりと「グルーエン・エフェクトっぽいな」と思うようなこともあって。

今和泉 なるほど。商店街は設計されたものではなくて、偶発的にできたものではありますが、そんなこともあるんですね。

設計意図から外れたものの魅力

白土 今和泉さんは、ご自分で地図を描くときにたとえば「こういう商店街にしたい」というような考えはありますか? 

今和泉 地図を描く際に自分がどの立場にいるのかということを考えるわけですが、結局私は「設計者」ではないんですよね。設計者の視点になってしまうと、「計画通りに事が進んでいるか」という視点で街を見ることになってしまいます。しかし都市計画がいつも理想通りに実装されるかといったらそんなことはほとんどないので、どちらかというと元々の計画がどのように変化し、どのように現実に着地していったかということの方に興味があって、それをただ観察していたいんです。

白土 それはわかります。意図と外れた部分は魅力的ですしね。

今和泉 そうなんですよね。たとえば那覇などに行けば、合理的な設計者の視点からすると外れていることだらけだというのがわかります。というのは、まず彼ら彼女らは土地や地形よりも、地縁的つながりを非常に重視する社会で生きていると思います。ここには少し悲しい歴史がありまして、たとえば戦前の市街地は国道58号線というメインストリートより海側にあったのですが、ここが米軍に接収された際には内陸部に移動しました。そして接収解除がされてからは石川栄耀という人が都市計画をして再び市街地を整備したのですが、街がそこに戻ることはありませんでした。一応そこには門があって「ここからが街だよ」と知らせてくれるものはかろうじてあるのですが、どちらかというといまは、観光客も寄りつかないような少し危ない雰囲気の住宅地になってしまって、昔はそこが市街地だったという匂いはほぼ残っていません。どうやら、先祖代々の土地に住んでいるということよりも、いま誰と誰が繋がっているのかという人的コミュニティを大事にしているらしいということがわかります。

 こういったことを知らないで沖縄を歩くと違和感が生じてしまうんですよね。「沖縄の中心都市はどこだろう」とか「那覇の中心はどこだろう」といった設計者に近い視点で歩いていても、そういったものは見つからないんです。国際通りが市街地かと思いきや、あそこは単に観光客用の商店街になっているし、沖縄県庁の周辺を見てみると一見ビジネス街に見えるし、百貨店や駅ビルのようなものもあるので、首都圏の人にとってはここが中心かなと思いがちなんですが、地元の人は特にそこが中心だと考えているわけでもない。多くの人が集まるわけだから「歩いて1、2分くらいのところには飲食店なんかが集まっていてもいいよね」と思いきや、何の変哲もない駐車場が広がっていたりする。モノレールも通っているし、那覇バスターミナルも近いわけだから、合理的に考えれば観光客向けのレンタカーや駅からアクセスの良い学習塾などはそこにあってしかるべきですよね。ところがどれも全然とんちんかんな場所にあって、「中心部にはこれがあるはずだ」という思い込みがことごとく裏切られていくんです。都市設計の視点を理解できる私からすればモヤモヤするところですが、この違和感を沖縄の人に話しても全然わかってくれないという……。

白土 わかんないでしょうね。石川栄耀といえば日本の土地計画の中ではすごく大きな影響を持つ人で、都心の周りにいると彼の世界が少し感じられるんですよ。ただ時々、そこから外れるところが見え出してくる。より中世的なものが残っている街や、「なんでここが本村なんだろう」とか、近代的な都市計画とは外れたところを見出せるところがあって、那覇はおそらく近代になったにもかかわらず、石川栄耀的なものから少し外れたような都市が広がっていて、僕らからするとそれは魅力的なんですよ。

今和泉 考えさせられますよね。あの合理的な法則性の見えない感じに慣れてこそ沖縄の人になれるのかな、なんてことを思いながら58号線のバスに乗るんですが、どうにも慣れません(笑)。

白土 どうしても、現代の都市計画というのはヨーロッパからの影響が強いわけです。中核都市があり、壁の向こう側がサバーブになっていて、権力構造が都市の中に囲われていく。城壁を取り払ったところでどういうふうに発展するかという発想で西洋近代が始まったわけですが、日本にも城郭都市自体はあったので、その考えが近代化の際に適用された。もちろんそれが悪いわけではないですが、もっと小さく分散している都市構造を見ると、「何かから逃れているな」という雰囲気が感じられて気になってしまいます。パリのようにガチガチの都市計画で作られた都市はすごく好きだしおもしろいと思うんですが、やはりベルヴィルやモンマルトルのようなパリの中心部から外れた場所に惹かれます。

▲ポンピドゥー・センターから遠望したモンマルトル(出典

 城塞から離れていたのでもともとはあまり人が住んでいなかった地域なんですが、そのうちに家賃が安いということで画家などの文化的に嗅覚が鋭い人たち、それこそピカソなんかがモンマルトルに住み始め、やがてカフェができたりすると中心部とは別世界のような地域ができ始めました。そこが少し変わった文化的拠点になっているというのがおもしろくて、何回か見に行ったこともあります。パリの市内なのにいまだに葡萄畑を維持していたりするんですよ。

▲パリ市が管理するワイン用葡萄園「ル・クロ・モンマルトル」(白土さん撮影)

 ああいった、都市の中心ではないところに何らかの文化的拠点が意図せずできあがっていくような現象を見るのがおもしろくて、僕にとっては常に魅力的に思えるところです。

今和泉 東京で言うと山手線の西側などは、都市計画の手が及ばないままに都市化してしまったところだと思うので、パリのモンマルトルの文脈に近いと思います。

──これまで、都市設計というのはすべてが計画通りにいくわけではない、むしろ偶然性に支えられたある種の生命的な動きをするからこそ魅力があるというようなお話があったと思いますが、それでも都市計画というのは考えてするものですよね。そうした偶然性を空想で作っていくことの難しさを改めて感じているのですが、フィクション上の都市を作っていくときに気をつけていることや考えていることなどはあるのでしょうか?

今和泉 まずは完全に実現させないというところがミソですよね。そもそも計画通りにいかないのはなぜかというと、元々そこに人が住んでいたり、建物があったり、そこに住んでいる人たちの意思があるからです。とはいえ、なら民主的に決めればいいかというと、民主的なやり方ではおそらく都市計画はできない。

白土 できないですね。ある程度の強制力がない限りはできないところがある。

今和泉 たとえば道路を敷くにしても住民からすると「突然道路作るからどけって言われてんだけど、なんでそっちの家は残ってるんだ」というような事態も起こりうるので、ある程度強制的に計画を進める場面も出てきます。しかしその強制力が効くところもあれば、効かずに道路が途中で止まるというようなことも往々にしてあって、そういった権力と住民の意思のせめぎあいのような要素は必ず入れるようにしているんですよね。

▲道路計画が完全に理想通りには進まなかった部分を再現(今和泉さん作成)

 近代都市計画的なものだけを完全に実現してしまうと、ル・コルビュジエが言うところの、最短距離で人が最適に移動し仕事をし、寄り道をせずスマートに家に帰るといった構造が出来上がります。しかし途中で道路が止まった結果、妙にぐにゃぐにゃした道が出来上がり、そのために家賃が安くなった結果建物がたくさん集まったりする。すると面白い店がたくさんできて「この辺りの飲食店が美味しいんだよね」というような状況が生まれるわけですが、これは計画で作れるものではないんですよね。

 計画的に進めようとしすぎるとどうしても家賃が高くなってしまいます。たとえば最近では渋谷に宮下パークができましたよね。かつてストリートカルチャーの発信地だった宮下公園をアップデートしようとするものですが、三井不動産が主導しているので家賃は高いでしょう。そうすると、儲けを度外視した実験精神に満ちたテナントはなかなか参入できないし、そもそもディベロッパーが描く世界観にある程度合っていないと入れないんです。そうなると先ほど言ったような、偶然性がもたらす文化の創造といった余地は生まれにくいのではないかという気がしています。

白土 なんとなく整理されたものと未整理なものを共存させながら描いていくというのは大変なような気がするのですが。

今和泉 地図を描くときには頭の中にあらゆる層の住民を飼っていて、たとえば下北沢を思い浮かべるなら、道路計画に熱心に反対して元々の下北沢の雰囲気がいいと思っているような住民を想定しつつも、しかしその住民の視点だけに従ってしまうと、都市全体の流れをトレースできない。なので防災の観点ではどうだとか、法律の観点ではどうだとか、地価を上げるにはどうすればいいかとか、そういった利害関係を持つ人たちは住民をどう懐柔していくかということを考えて、同時にいくつもの人物を自分の身体の中に飼い、その人たちを闘わせながら地図を描くとリアリティが生まれるかなと考えています。だから僕が地図を作るときに意識しているのは、生き物としての都市の動きがあって、それをある程度都市計画が補強したり止めたりすることはあっても、元々持っている流れそのものは抑えきれないということです。そのダイナミズムを静かに追いながら、賛成も反対もしないという立場で地図を描いています。

白土 素晴らしい。それはもう王様の趣味だと思う。僕が関わる作品の中にも都市は出てくるんですが、僕は都市や歴史、地学などがものすごく好きなので、わりと理詰めで作りこんでしまう可能性が高いんです。そういうときには、あえてほかの人に「都市のこの部分だけ作って」と言って、あとは丸投げするんですよ。そして上がってきたものを見て「この街にはこんな人が住んでいるな」とか「ここだけは区画整理されずに残ったな」といったことを想像して、僕の意図から外れたものを取り入れています。もちろん作品によっては都市計画で完璧に作られたものが世界観と合う演出になることもありますが、そうでないときはやはり設計者の意図が見え過ぎると面白みがなくなってしまいます。

 こういう作業が作品世界を広げているところもあって、たとえば監督は事前に「こういう絵を見せたい」というイメージが頭の中に出来上がっているわけです。そうすると、監督の意図と、ほかの人に丸投げしてできた部分との間に僕が挟まるので、「この部分はこういう文脈を与えられる」「これは区画整理ができずに古い長屋構造が残ったからこうなっているんだ」というような説明を僕から監督にすると、監督のイメージも広がって絵の中の空間把握が明瞭になっていくんです。そうしたらたとえば監督が「土着の住民と政府とのせめぎ合いを見せたい」と言うのであれば「じゃあ一区画向こうのところは政府がものすごく強権的に区画整理したように見せましょう」といった提案ができるわけです。

 ただ、今和泉さんはこういうことを一人でやられているのがなかなか大変だなと思っていますけれど。

今和泉 そう、ワンオペなんですよ。そこがミソで、私も現実の都市を見たり、いろいろ考え込んだりすると、それをなぞりすぎてしまうところがあるので、地図を描くときはほかの地図を参考にせずなるべく自分の手の偶発性に委ねるということを大事にしています。だから描き直しがとても多いんです。まず一本線を描いて、もう一本線を描き、「AとBのつながりとAとCのつながりはいいけど、CとBのつながりがおかしくない?」と思えば「CとBの距離は離れてないとまずいな」とも考えて結局全部描き直し、なんてことはざらにあるんですよ。それでも自分の手の偶発性に任せて描くしかないので、それを修正が非常に多いことの言い訳にしています(笑)。

白土 「自分の手の偶発性」というのはいい言葉ですね。

今和泉 あるいはよく中村市の地名の由来を聞かれるんですが、知らないですね、と答えています。私の小さな頭では現実世界のすべてを把握できるはずがないのに、すべて説明がついてしまう空想都市を作ったとすれば、私の小さい頭で把握できてしまう程度の都市にスケールダウンしてしまうことになる。自分が小人であることを保ちながら大きな世界を作るためには、ある程度は自分が知らない、説明がつかないところを残しながら作ることが大切だと思っています。

白土 わかるわかる。自分の頭で考えたことというのは、しょせん自分の頭の中だけのものですよね。アニメーション制作は集団作業なので、僕の頭以外のものがポンポン入るんですよ。スタンリー・キューブリックのようなある種のコントロールマニアが魅力的なのは、彼の考えていることがほかの人にはまったく想像もつかないからであって、凡人の僕らが考えていることは同じようなことを考えている人には読めすぎるので、自分の考えだけで完結させない方がいいと思う。だから意図的に考えないようにするとか、ある部分は完全に別の人に任せるとかして、空白をどうやって設置するかということはストーリーの設定を作る際にも重要なので、おっしゃっていることはすごくよくわかります。

 僕のお師匠は横田順彌という作家なのですが、調べ方や取材の仕方が独特でした。客観的な情報よりも個人の感情や主観的な気持ちを重要視するんです。なぜそこまで客観的ではないものに執着するんですかと聞いたら、「小説っていうのは主観であるべきだろ、キャラクターだってそこの中に生きてる人間は主観で生きてるんだ、だから他人の主観というものをちゃんと受け入れない限り、世界の構築は完璧にはならない。他の人の主観というものに対して敏感になりなさい」と言われて。

今和泉 なるほど……!

街や地形を多角的に見る視座の獲得

今和泉 結局地図を作るときも他者の視点を入れないと、自分が理解しやすい地形ばかりになってしまいかねません。私は東京の日野市という八王子と立川の間に住んでいて、そこは河岸段丘の上だったので地図で河岸段丘を再現するのも得意なんです。ただ一方で、微地形の高低を描くのはなかなか難しくて。たまたま町田出身の人に上手な人が二人いるんですが、町田をはじめとした大都市郊外は、都市と田舎の混ざるところです。幼少期から都市と田舎の多様な風景を見て育つためか、空想地図作者は都市郊外出身者がとても多いのです。

白土 町田出身の人に地図の才能があるのは理解できる気がします。地形に対する肌感覚を地図に落とし込めているわけですね。それはちょっとおもしろい。

今和泉 いま、何人かの空想地図作者の地図を集めて私が解説するという本を編集していて、彼らにインタビューをするなかで等高線を描くのが上手い人に出身地を聞いたんです。特に私が上手いと感じている人に聞いたら、一人は青梅の人で、もう一人は埼玉県小川町の人で、どちらも関東平野のへりの方に住んでいた人たちです。なるほどね、と思いました。というのは、そのあたりに住んでいる人たちにとって高低差のある地形というのはかなり身近で、たとえば自宅から自転車で出かければすぐに平野のほうへ行ける一方、家の裏のほうには山があって、少し歩けばすぐ山に登れるような地域です。幼い頃からそういった微妙な高低差のある地形の中で日常を過ごしてきた人というのは、実際に足で踏み入れた地形と地図で描かれた地形を絶えず見比べて身体化していたのだと思います。

白土 山を描くにしても、澤になるところは大体水の流れで決まるんですが、上手い人は「こういうふうに山が切れるだろう」とか「こういうふうな角度になるだろう」とかいったことをなんとなく身体的に把握できる幼少期を送っていたということなんだと思う。

──今のお話は、住んでいる地形のもたらす身体感覚がそのまま地図感覚に反映されることもあるということだったと思うんですが、それ以外に都市を多角的に見る視点を後天的に養う方法などがあれば教えていただけますか?

白土 うーん、俺のやり方だったら、まず、どこに行くかということを考えない。地図を見て目的地を定めて移動するのではなく、適当に駅を降りて、適当に周って、目についたものが不思議だと思ったら地図でチェックする、ということをずっとやっているとなんとなく法則性のようなものが見えてきた。「そぞろ歩き」という言い方をしているけれど、効率よく歩こうとしないのが一番なのかもしれない。

──街歩きだけではなく、「地図を見る」という俯瞰的な視点を一度挟むことも重要なのでしょうか?

白土 そうですね。地図は街並みの客観であり、読み解くための法則なので。あるいはいきなり地図を実際に持ちながら歩くのはハードルが高いのであれば、適当に裏路地をたくさん歩いてみるだけでも意外と変なものが見つかりますし、住宅地と一言で言ってもその形は本当にさまざまなので、自分が住んでいるところと見比べてみるとおもしろかったりするのかな。

今和泉 ああ、比較は重要ですね。それからいま地図の俯瞰的な視点を経由するのが大切だとお話ししていただきましたが、まさに「都市の日常を地図から読み解くにはどうすればいいか」という点に関する本は、実はこれまであまりなかったんです。

 たとえば「ブラタモリ」のような地形と歴史に詳しいものは既にたくさん出ていますが、地形と歴史は地図の中でも難しい部類でしょう。タモリさんが誰もわからないようなことをひたすら饒舌に語っている姿がエンターテイメントになる面もあれば、かなり難しいことを話しているからこそ、狭く深くハマっていくオタクの心を掴むという二つの刺さり方があると思います。ところが意外と空白だったのが、いま話した「都市の日常を地図から掴む」というところで、それを私の二冊目の書籍『「地図感覚」から都市を読み解く: 新しい地図の読み方』で書きました。私が何で本を書けたのかというと、もともと地図好きではない知り合いが多かったというところが大きい。正直私は小説もほとんど読まないし、特に文章が得意なわけでもないので「なんで私が本なんて書いているんだろう」と考えていたんですが、そういった需要に応えているんだということが最近になってわかってきました。

白土 なるほど(笑)。

今和泉 また、本を書いたりこういう話をしたりするなかで、白土さんや私のような人間がいかに地図を「面」でとらえているかということに気づかされるんです。地図を読んで楽しめる人は、ついつい経路ではないところや目的地と関係ないところを見てはそれぞれの関係に注目するわけですが、これがどうも伝わりにくい。大抵の人は地図を「線」で、つまり現在地と目的地を結ぶ最短ルートの検索ツールとして地図を見ています。

 ですから地図を面で見る布教活動はしていきたいんですけれど、それはあまりにもハードルが高いようなので、そこに至るまでのファーストステップを用意したいなと思っていて。というのが、道を歩きながら、左右の脇道の先にあるものを想像してみましょうということです。たとえば商店街を歩いていて「老舗の店があるから古くからの商店街なんだ」と思って、そこから枝分かれする左の道をちらっと見ると「あれ、意外と新築のアパートもあるぞ」とか「意外とマンションもあるぞ」とかいったことに気づくんです。こういうのは東京の西側の商店街にありがちなんですけれど、古くからやっていてもけっこう住民が入れ替わっていて、彼ら彼女らが惣菜や生鮮食料品を安く買うための商店街として利用している。これと同じことを地方でしてみると、脇道をちらっと見たときに建物がなかったり古いまま残っていたりして、住民の新陳代謝がなくて古い業態がそのまま残り続けているんだ、というようなことが見えることもあります。

リアリティを持つ空想都市の条件と現実の都市の歩き方

──先ほどのお話で意外だったのが、今和泉さんが小説などには疎いんだとおっしゃっていました。

今和泉 疎いです。

──空想地図というある種のフィクションを作るにあたって、いろいろなことを考えるのがお好きなのかなと思っていたので、小説なんかもお好きなのかと勝手に思っていました。

今和泉 いやあ、思いますよね。

白土 (笑)。

今和泉 小説そのものが嫌いなわけではなくて、これも「面」で捉えるか「線」で捉えるかの違いだと思っていただければ。要は文章言語というのは、かなり複雑なものを説明するときに、その複雑な事象を、いわば縦横に張り巡らされた糸を一本に束ねるように、順序だてて理解できるようにしますよね。小説も最初のページから順番に読むものでしょう。

 逆に私は物事を面で捉えたがるところがあって、たとえば地図以外にも統計や図鑑、時刻表など同じ書籍でも真ん中のページから開いても読めるようなものを好んでいます。

 ただ一般的には「線」で理解するのが大多数のようで、いま挙げたような本に対して多くの人が思うらしいのは「どこから読めばいいかわからない」ということです。地図もどこから読めばいいのかわからないから、目的地があるときにその目的地と現在地を結ぶ最短経路が現れてようやく「読む」手がかりを得られます。だから文章言語というのはどこからどのように読むかってという順番を与えている点で親切なんだと思うようになっていて。『地図感覚』を書いたときには自分の捉えていることを、「文章」というある意味別の言語に翻訳している気持ちでいました。

白土 僕は小説にも関わりますから、その話はすごくよくわかります。小説やマンガ、アニメでも何でもそうですが、実は出す情報の順番は制作しながら考えるんですよ。つまり、その作品世界に対して読者にどんな印象を持たせるかをコントロールするために、情報を徐々に一つずつ積み重ねてストーリーを作るわけです。そもそも尺が決まっていることがほとんどなので、線で見せないとこちらの情報の出し入れの制御ができない。

 これとまったく逆の発想をするのがオープンワールド型のゲームを作る場合です。この場合、主人公がどう動くかを制作側が決めすぎない。プレイヤーは好きなように世界を動き回って、その中で取った行動が自身のストーリーになるので、世界のディテールを主人公の周りにちりばめるような設定の立て方になるわけです。本来はこの二つの狭間を行き来できることが最高のエンターテイメントだと思いますが、そう考えると地図というのはオープンワールド型のゲームの遊び方に近いですね。ストーリーは制作側が提示するわけではなく、勝手に遊んでくれればそれが自ずとあなたのストーリーになりますよ、という場を提供するのが地図のおもしろさだと思う。

今和泉 ゲームは面的かもしれないかもしれないですね。ただ今のお話を聞いて改めて「線」の親切さも理解できたのですが、どうしても「長いなー」と思ってしまうんですよ。

白土 なるほど(笑)。

今和泉 縦糸横糸を全部ほどいて一本の線にするということまではわかるんですが、あまりにもこの糸が長すぎると最初がどんな糸だったか覚えていられないんです。糸を飲み込んでいく過程でだんだん喉に詰まっていくということがあって、「いや、それ、縦糸と横糸とほどく前の面だったら、この小さい図でわかるのにー!」と(笑)。

白土 (笑)。逆に言ってしまえば、縦糸横糸とあるように、ストーリーというのはあらゆる情報を捨て去って残った部分なわけです。だから、実はストーリーの横にはものすごい拡張性がある。僕も設定を作るときには情報の9割は捨てます。

今和泉 そうなんでしょうね……。私もテレビドラマの小道具として地図を作ったときには、与えられた設定があって、なるべくその設定をかなえてあげようという気持ちで作っていましたが、実際に画面に映るのは全体の5%未満なんです。つまり、一生懸命地図を完成させたところで主人公が通るルートはごく一部なので、面積的に95%の部分は映らないし、どう作りこんだとしてもあまり意味はないんですよ。内容に関する指示もないし、映らないし、どう描いても怒られもしない部分が95%なら、結局言ってしまえば自己満足ですよね。

白土 もちろん。でも、やはりその映る5%のためにこそ、残りの95%が存在する。

今和泉 いや、本当にそうなんですよ。

白土 それこそが、その映らないディテールをどれだけ考えているかということが創作性に関わる。上澄みしか見せないんですが、結局周りが薄ければ上澄みも薄いものにしかならないので、やはり95%は必要なんですよ。それが創作の非情なところであり、おもしろいところでもあるのかなと思っています。

──おもしろいですね。現実の街歩きでもいかに僕が5%しか見ていなかったのかということを、まざまざと感じさせられています(笑)。

 今のお話の延長でお聞きしたいのですが、路上観察学会でトマソンというものがありますよね。ああいった、無用の長物を愛でるような感性もこれまでの話題と関連するところがあるかと思うんですが、お二人はあれをどういうふうに捉えているのでしょうか?

今和泉 トマソンのようなものを見る目は大事にした方がいいと思います。ただ、実は私は意外とそういうものに気づかないんですよ。なぜかというと、私は街を見る視点が「寄り」か「引き」かで言うと「引き」だからです。寄りの人は「ここに変な看板があるぞ」とか「ここにいらない階段があるんじゃないか」とかいった視点から、路上にはみ出している芸術のようなものに気がついてそこから何かを見出すことがあるんですが、もちろん私もたまにそういうものに気が向くことはありますが、それよりは街の全体像や歴史の流れのようなものに目が向いてしまいます。たとえば看板に電話番号が載っていてそれが9桁だとしたら、携帯電話の番号が9桁なのは91年より前のことなので、その看板が集まったのは30年以上前なんだな、といったことを考えます。

 街を見るにあたって、おそらく人それぞれにちょうどよく感じられるピントのポイント、いわばネイティブスケールのようなものがあって、私はどうも「引き」であると。ただ寄りの目を生かして楽しみたいならそれを大事にしたほうがいいと思っています。むしろ自分とは違うスケールの人間がいたときに、その人からはどういうふうに世の中が見えるのかをインプットして、私は自分の視点を補強しているんですよ。

白土 ネイティブスケールね、おもしろい。たぶん僕はスケール感が小さいほうだと思う。トマソンを見つけたら「何でこのトマソンがここにあるんだろう」と考えて徐々に掘り下げていくタイプかな。古いコンクリート橋の上に鉄柵が付き始めたりすると、これは何年度の複合技かなというようなことを考える(笑)。橋はどう見ても昭和の初期にできたものだけれど、柵が付いたのは戦後らしく、だとすれば何年のものかとか、近くに学校があるから生徒が落ちないようにという要望があったのかとか、そういうふうにディテールから徐々にスケールアップしていくほうが僕は好きです。最終的には地図にたどり着くんですが、たぶん僕は今和泉君とは出発点が逆だと思う。

今和泉 だから、ディテールの話を聞くと楽しいですね。私はどちらかというと、無駄なものがあったときに、これが正しく機能する世界や合理的である世界は何だろうというふうに考えてしまうので。

白土 でも、引いて見ることはまったく悪いことではないですよ。さっきの看板の例に則せば、僕はたぶん立ち止まって観察してしまうほうなので(笑)。

今和泉 そうですよね。立ち止まればいいんですよね。どいういうわけか立ち止まることを自分が許していなくて、歩き続けては全体を見ようとしてしまうんですよ。

白土 そこで立ち止まらないからこそ見える世界も絶対あるはずですよ。どちらが正しいというような話ではないでしょうし。両方組み合わせたほうがおもしろくて、同じところにたどり着きつつも今和泉君はやはり僕と逆の視点から考察していて、それを刺激に感じています。

──今のは自分なりのパースペクティブからいかに街を見る視点を広げていくかというお話だったと思いますが、そもそもそういった「視点を広げたい」とか「寄り道を楽しみたい」というような欲望はどこから生まれるのでしょうか?

今和泉 そもそも幼少期の子供は何でもゼロから知識を積み上げていくので、ほぼ全員が未知のものを楽しめるはずだと私は思っています。大人になる途中で自分から視点を広げるのをやめてしまう人が出てくるだけだと思うんですよ。

白土 僕は就職をしたことがなくてずっとフリーランスで生きてきて、しかも映像作品に関わるようになったのも本当にたまたまだったわけですが、別に目的からそれることは不幸でもなんでもない。まっすぐ目標に向かえなくても、意外におもしろいことは横にあるよということは、こういう趣味をやっていても見えてきますよね。

今和泉 コロナが収まってからでもいいのですが、白土さんの人生ストーリーを飲み屋で聞きたい気分ですね(笑)。

白土 僕からもご提案なんですけど、これもコロナが落ち着いたらでいいですが、実際に街に行ってお互いが考えていることを、地図を見ながら語り合ってみればいいじゃないですか。僕はたぶんディテールの話をすると思うし、今和泉君は地図から見た俯瞰的な話をすればいいと思うし、二人で「あー、なるほど。こう見えますね」と視点をすり合わせてみればおもしろいかもしれない。

──おもしろいですね。やりたいですね、それ(笑)。

今和泉 ぜひ、ぜひ。それぞれの路上観察者が、何をどのように見て、そこから何を想像し、未知の全体像をつかむ最初の視点をどこに置いてから広げていくかといった作法のようなものを提示していければ、街を見る視点を複数持つことができるようになりますし、ひいては自分が無意識に抱いていた視点を発見することにもなると思います。こういうことができれば、特に路上観察に興味があったわけではないけれども、好奇心は旺盛で、その矛先をどこに向ければいいのかわからなくなっているような人たちに対するいいナビゲートになるのではないかと勝手に思っています。

白土 マニアックな企画だと思うんですけどね(笑)。今回のお話は非常におもしろかったので、今後とも何かあったときには、ぜひ一緒にやりませんか。

今和泉 ぜひ、何かあっても、なくてもよろしくお願いします。

(了)

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年9月9日に配信した同名記事を再構成したものです。山口未来彦が司会を、徳田要太が構成をつとめ、あらためて2021年10月7日に公開しました。
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