JR中央線の地場産業はアニメと思えるくらい、中央線沿線にはアニメスタジオが多い。
 アニメ制作に関わるようになれば、脚本や美術設定などの打ち合わせで、自然と中央線のいろんな駅に降りるようになる。もっとも、最近はリモート会議も増えているが。
 それでもスタジオの多くがあるのは、新宿駅から立川駅くらいまでだろう。なので、仕事で立川駅よりも先に行くことはあまりない。
 しかし、仕事とは関係なしに、作業に詰まるとよく中央線で立川を越えて、気が向いた駅で降りて気分転換の街歩きをしている。
 東京と言っても立川まで来ると、急に武蔵野の原野という趣の風景が増え、都心の23区内とはまた違う雰囲気を漂わせている。
 江戸時代から武蔵野の原野は、あらゆる文化人が文芸や絵画のネタにしているので、私も古人に倣って、作業の問題を打開するアイデアが降りてこないかなぁと願って歩くのである。

 頼まれたアニメ企画の設定に煮詰まったので、この日も中央線に揺られて立川駅へ。特に目的はないが、立川駅で青梅線に乗り換えて2駅、東中神駅で下車する。東京に長年住んでいる人でも「東中神駅はどこにありますか?」と問われても、答えられない人の方が多いのではないだろうか?

国土地理院地図より

 青梅線の東中神駅は広大な国営昭和記念公園の昭和口に近い場所にある駅。正直、住んでいる人以外が降りることはあんまりないと思う。隣駅の西立川駅が、ちょうど立川市との市境で住所的には昭島市玉川町となる。
 なんとなく気分で、多摩川方向の南側の駅前口に降りてみるが、UR団地が周囲を囲むように建っている。見渡しても団地しか視界に入ってこない。

 昭島市は市内多摩川河川敷でクジラの骨が発見され、アキシマクジラと名付けられたこともあって、地域のイメージキャラとしてクジラを推している。駅前には「あきちゃん たまちゃん」と呼ばれるクジラの像が設置され、下を見ればマンホールもクジラが描かれている。

 ここの駅前商店街はUR団地の地上一階店舗で形成されているが、この商店街の名前も「くじらロード」。団地にクジラが点在する不思議な雰囲気。

 この「くじらロード」のような団地の一階が商店街というのは、戦後の高度経済成長の頃に建設された団地ではしばしば見られるが、現在では店舗が閉まったシャッター商店街になっているところもある。しかし、ここは団地商店街が駅前商店街であるためか、営業中の商店も多い。

 東京近郊の駅前にこうした団地があるのは、昭和30〜40年代に当時の日本住宅公団(現U R都市機構)が都心に通勤する中流サラリーマン家庭のための団地を、鉄道沿線に多数建設したからである。
 そうした通勤サラリーマン家庭のために団地併設の商店街を作ったのだが、こうした徒歩圏内で生活に必要な施設をあらかじめ配置してコミュニティを作るという思想は、1920年代にアメリカの都市計画家クラレンス・ペリーの提唱した「近隣住区」(Neighborhood unit)などが先駆だろう。
 「近隣住区」という理念は、人間の徒歩範囲に地域コミュニティが形成されやすいよう、あらかじめ施設配置などを計画しようという理念で、世界中のニュータウン構想に影響を与え、日本の都市開発にも取り入れられている。

 このUR中神団地をさらに南に進み、江戸街道こと都道153号線立川昭島線を渡ると、低層の住宅街が広がっている。
 しかし、この住宅街、ちょっとおかしい。
 まっすぐだが変な角度で道が伸びていたり、路地がなんだか曲がっていたり、計画的な区割りのように見えるが、不自然な角度の交差や不自然な形の敷地もある。
 武蔵野に作られた住宅地には、昔の田んぼや畑の畦道が残っていて、不規則な道や敷地があったりするが、ここはそうしたものとは違うような気がする。

 その理由は、もう少し進むとわかる。
 この住宅地を抜けると、急にオープンスペースとなり、日本ではあまり見かけないものが姿を現す。

 ラウンドアバウト、環状交差点である。地図で見ると、八つの道、八叉路のラウンドアバウトであることがわかる。

国土地理院地図より

 ラウンドアバウトは、中心の島をぐるりと道路が囲み、信号機や一時停止がない交差点である。車などはここに入って旋回して、交差しているいずれかの道に入るという仕組み。ヨーロッパでは、パリの凱旋門のラウンドアバウトが有名で、日本では道路交通法で右回りとなっている。
 日本では現在126箇所だけ設置されているラウンドアバウトがわざわざ設置されている以上、この住宅地はなんらかの計画的な都市設計が行われたのは間違いない。
 実はこれにも前述のクラレンス・ペリーの提唱した「近隣住区」が関係してくると思う。

 クラレンス・ペリーの「近隣住区」は、ものすごくざっくり言えば、大きな幹線道路に囲まれた場所に、コミュニティが作りやすい区画を設定して、安全のため自動車などがスピードを出しすぎないように意図的に曲げた道などを作り、中心部に住民に必要なコミュニティセンターや郵便局などを配置するというもの。商店などは地区外の訪問者や商品搬入を考えて、幹線道路沿いの境目になるべく配置し、住民が徒歩圏内で生活可能な空間を作るという都市設計のコンセプトである。
 言葉で説明するとわかりにくいので、下に1947年に建設省建築研究所が出した資料から、マンチェスター市「近隣住区」のモデルプランの図を。

 このマンチェスターの「近隣住区」モデルプランとこの住宅を見比べると、放射線状の道路網や中心を作ろうという意図など、どこか同じような思想を感じ取ることができる。
 実はこの住宅地は「八清住宅」と呼ばれ、こうした海外の思想も組み入れた戦前の先進的なニュータウンだったのである。

 明治大正にかけて、このあたりは桑畑が広がる養蚕が盛んな地域であった。多摩川の流れで作られた河成段丘によって、南側になだらかな傾斜がある地形には雑木林と田畑が並び、開けた景観から高台の別荘地もあるという土地だったとか。
 ところが、東京から鉄道の便もよく、武蔵野の平らな地形と用地確保が容易であったことから、大正末期に帝国陸軍が立川陸軍飛行場の建設に着手する。この跡地が現在では国営昭和記念公園や立川防災基地などに転用されている。
 この陸軍飛行場の建設によって、当時の勢いよく成長中であった日本の航空産業の会社が多摩のあちこちに工場を作ることになった。
 理由は色々あるが、やはり当時の航空産業の最大の客は軍であるから、その近くに生産や研究の拠点を置く方が都合が良かったのだろう。
 当時、北多摩郡昭和町及び拝島村と呼ばれた現在の昭島市(戦後合併時に昭和と拝島の1字ずつをとって昭島と名付けられた) にも、昭和飛行機工業が広大な工場を建設している。現在の昭島駅付近にある商業施設モリタウンは、この跡地に建設されたものである。
 つまり、コンピューター産業がシリコンバレーで発達したならば、戦前日本の航空産業は現在の立川市を中心とした多摩川沿いのエアロヒルズ(航空丘陵)で発展したと言っていい。
 さらに、昭和15年には名古屋の陸軍造兵廠の航空製造部門を担った立川兵器製造所(のちに陸軍航空工廠)を昭和村(現昭島市の東部)に移転されることになると、かつての養蚕地帯は一大テクノロジー産業都市へと加速するが、こうした産業を支える工場従業員の住宅不足が問題化してくる。

  下の写真は東中神駅の北側になる「陸軍航空工廠の碑」。

 特に陸軍航空工廠は官営なので、官営宿舎を建設するのが一般的であった。
 まず、最初に紹介した駅前商店街「くじらロード」のあるUR団地の場所には、戦前には官営の陸軍航空本部住宅「金鶏住宅」が建設される。戦後にその区画に住宅公団が団地を建設したのである。
 しかし、最大時の1万8,000人とも言われる航空工廠の従業員の住居を確保するのが難しい。最先端の工場従業員なので、当時の日本の中では生活環境はかなり配慮しなければならなかった。
 昭和16年に出版された『労務者厚生と環境整備』(坂本金吾著、東洋書館)という本には、「国民各自の健実なる厚生は、一国の繁栄と国防力の基礎である」と文言が掲げられており、環境が整備された労務者住宅地区総合整備計画設計(下図)が例示されている。

 昭和12年には日中戦争が始まっているから戦時下だったが、いや戦時下だったからこそ、生産の現場である工場従業員の居住環境は疎かには出来なかったのである。優れた労働者を確保するには、良い待遇、良い環境を提供しなければならない。

 しかし、戦時の物資不足もあって住宅建設は難しい。そこで軍は一人の民間人に住宅建設を依頼することになる。
 この人物こそランカイ屋として名高かった二代目八日市清太郎。ランカイ屋とは明治以降に盛んになった展示会や博覧会の取り仕切りを行う一種のイベント業者のことで、イベントで使用される仮設建物の建設や演出なども行う。『人生は博覧会 日本ランカイ屋列伝』(橋爪紳也著、晶文社)によれば、二代目八日市清太郎は父親からこのランカイ屋八日市屋を受け継ぎ、数々の展覧会の仮設建築の施工を請け負っていたらしい。
 陸軍はイベント仮設建築の専門家である彼が資材と短時間で施工を行えるノウハウを持っていることに目をつけ、デベロッパーとして安価な賃貸住宅建設を依頼したのである。
 本来ランカイ屋である八日市屋が陸軍から住宅都市開発を依頼されたのだが、彼は即座に用地を取得し、建築家であった田辺泰に区割りと施設配置のプランニングを依頼する。
 そして、昭和16年には当時では先端的な放射線状の街路網を持ち、水道と下水道完備、ラウンドアバウト付近にはタウンセンターなどの施設が配置されたニュータウンが完成する。今でもラウンドアバウト付近には郵便局やかつてのタウンセンター(昭島市東部出張所)が残っている(建て替えなどはされているが)。

 このニュータウンはデベロッパーである八日市清太郎の名前から「八清住宅」と名付けられたのである。
 プランニングを行った田辺泰は当時は早稲田大学の建築学科の助教授で、関東や琉球の建築史で名高いが、戦後に彼が書いた文章では「住宅の科学化」などを提唱しており、当然海外の都市計画にも精通している。クラレンス・ペリーの「近隣住区」も意識していたと思う。
 その証拠にこのラウンドアバウトから一区画離れた大きな通り「八清通り」は当時は銭湯や市場など配置されたが、これは「近隣住区」の商店などは幹線道路沿いのコミュニティーの境目に置くというコンセプトに沿ったものだろう。
 「八清通り」は現在も地域の方で賑わう場所だが、かつては映画館や銀行などが並び、近隣から訪れる者が多かった繁華街であったという。

 戦前の先端ニュータウンであった「八清住宅」を抜けて、さらに南に進む。
 すると地形の傾斜が緩やかながらも強まり、段々と河成段丘を感じさせる地形になってくる。

 それと同時に玉石積みがあちこちに現れる。

 玉石は昔は河原などでよく採集されて建築資材に使用されることも多かった。そのため、大きな川沿い(ここでは多摩川だが)の場所だと、玉石積みの擁壁などをよく見かける。ただ、多摩川も昔は砂利採集の産業が盛んで、砂利運搬用の鉄道が敷かれたほどだが、環境破壊につながるために現在では河原で石を採集するのは禁止されているのだが。
 なので、玉石積みだけが建設資材を付近の川から入手していた時代の痕跡という場合もある。

 この傾斜の先には、崖の連なりが現れる。
 多摩川の流れで侵食されて出来た立川崖線である。

 現在では崖線の緑地は保全事業が行われており、多摩川沿いの各市町村では崖線の景観保護も政策に組み込まれている。その一環で「多摩川由来の崖線の緑を保全する協議会」による現状評価で、崖線の状況がS、A、B、C、Dにランク分けされている。
 昭島市はSランク、Aランクも多くて、景観としても美しい。

 緑地だけではなく、崖線沿いに建てられた住宅を見ると、地形と人間の関係性も感じられる。
 あれこそ考えながら崖線の下を歩いていたら、いつの間にか立川市に入ってしまったので、再び崖線を登って西立川駅に向かう。

 本日の街歩きはこれで終了。
 煮詰まっていた設定のアイデアは出なかったが、気分転換にはなったので良しとしよう。

[了]

この記事は、2021年6月17日に公開しました。
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