デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『”kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は、スマートフォンとSNSが引き起こす問題を「20世紀的な成熟」への欲望として読み解きながら、ダイアクロンというおもちゃに刻まれた美学を検討します。

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端的に言うとね。
21世紀におけるテクノロジーと成熟のダークサイド
前回、ミクロマン=ジミニー・クリケット=情報技術=スマートフォン(LLM)を並べて考えることで、完全な主体が「乗り物」に「乗る」ことで社会に接続されていく20世紀的な美学に対して、不完全な主体が「魂を持った乗り物」の介入を受けむしろ「乗られる」ことを21世紀的な男性性の新しい美学として立ち上げたいという提案をした。
しかし、自動車に象徴される20世紀的な男性性には、たとえばトレジャー・ワルザックに象徴されるダークサイドが存在していた。当然、スマートフォンに象徴される21世紀的な男性性にもダークサイドは存在する。それはたとえばSNS(と、その運用)に象徴されるだろう。
SNS――ソーシャル・ネットワーキング・サービスという言葉そのものは広い定義とそれなりに長い歴史を持つ。その全体像について論じることは本連載の主旨ではないため、執筆時点の状況に的を絞って記述したい。SNSについてはさまざまなサービスが存在しているが、2025年時点ではX、Facebook、LINE、YouTube、Instagramあたりが代表的なものといえるだろう。我々はおおむねスマートフォンを通じて、これらのSNSの一部あるいは全部に日常的にアクセスしながら生活している。
もちろん我々がそれを使用しているのは、生活において有用であるからだ。Xで匿名ゆえの大量の生の情報を得て、Facebookを通じて同窓生や仕事相手などとの弱く広い繋がりを保ち、LINEによって家族や友人など近しいコミュニティメンバーとの絆を維持し、YouTubeはもはやテレビを代替して多様な番組を擁しており、Instagramでフォトジェニックに彩られた生活を相互に共有している。そしてそれらは基本的にスマートフォンという一種のウェアラブルデバイスを通じて、人間とほとんどダイレクトに接続されている。
しかし20世紀において人間が自動車に接続されることによってさまざまな恩恵と問題を同時に引き起こしたように、スマートフォンを通じてSNSに接続された人類もまた、これらの恩恵と同じウェイトの問題を生成している。あえて露悪的な表現をするなら、Xは偏った正義感による炎上を繰り返し、Facebookではマウントと居酒屋的愚痴に満ち、LINEはその閉鎖性からいじめの温床になり、YouTubeはアテンションを得るための陰謀論拡散とキャバクラ的集金装置となり、Instagramは実生活と乖離した画像データによって等身大のセルフイメージを破壊している。これらはそれぞれ大きな社会問題になっており、SNSを通じた人間の過剰な接続と結託は、さまざまなかたちで死者を出してさえいる(大規模な中傷を受けての自死など)。
SNSという自動車に乗り込んではいけない
それでは自動車が20世紀的な成熟のイメージを象徴する存在であるとしたら、スマートフォンによってアクセスされるSNSはどのように21世紀的な成熟のイメージを担っているのだろう。
逆説的であるが、本連載では次のように考えている。こうしたSNSの問題が発生するとき、そこではスマートフォンとインターネットというテクノロジーが、自動車的に運用されている。
どういうことだろうか。本連載において、自動車が象徴する成熟のイメージとは、完全な精神が自動車という肉体の拡張を通じて社会に短絡していく想像力だった。そこでは主体を即座に世界に反映させて社会そのものを巨大な「乗り物」としてあやつれるようになることが理想の成熟であり、人々はそれを欲望して自動車という「乗り物」に没頭し、そしておもちゃもまたその成熟のイメージをさまざまに変奏していったのだった。
21世紀の人類が、精神を社会に短絡させ、世界を所有するためにSNSを活用するとき、そこに20世紀と同じ問題が発生している。「アカウント」という主体がSNSという空間において完璧な「大人」の社会的肉体を表現しようとするその欲望と、原理的に理想のかたちでは成熟できない現実とのギャップを埋めようとする行動が、こうした問題を引き起こしているのではないか。
Xにおいて自分が正しいと思い込んで他人を中傷するのも、Facebookで自慢がやめられないのも、LINEで思い通りにならない誰かを排除したくなるのも、YouTubeで陰謀論を信じて世界の複雑さから目を背け、あるいはアイドルに投げ銭することで部分的にそれを所有することも、Instagramで写真を無限に加工し続けることも――我々は自分の精神が未熟なものでないことを証明するために、理想の「大人」であるという感覚を得るために、こうした行為に没頭し、SNSに「乗る」ことになる。そしてソーシャル・ネットワークによって接続した他人をその手段として使用することで、トレジャー・ワルザックと同じように、それを自らの「手先」としてしまうのだ。
かつて20世紀の魂なき乗り物――自動車の万能感にハンドルを奪われた人々は、危険な運転によって人間を轢き殺してきたし、あるいは制御を失って自分自身を自動車ごと破壊してきた。同様のことがスマートフォンとSNSにおいても起こっている。
であれば、精神を鍛錬し「完全な主体」「完全な成熟」に至れば、こうした「事故」は起こらないのだろうか? それがもはや成立しないことは、本連載ですでに指摘している。自動車の想像力の先に進んでいったルート(劇場版『トランスフォーマー』シリーズ)は、こうしたアメリカン・マスキュリニティが最終的にイギリスからアーサー王伝説まで遡り、その暴力性が不可避なものであることを結果として証明してしまった。同じことが自動車だけでなくスマートフォンにも起こっている。我々はテクノロジーに「乗る」のではなく、そこから「降りる」こと、そして「乗られる」ことを受け入れなくてはならない。
「大人」を目指しながら「少年」であり続けること
そのためには、まず「完全な精神」を断念する必要がある。そもそも「完全な精神」というもの自体が、人類には到底到達できないフィクションであるということを、永久に争い続けるトランスフォーマーは教えてくれていた(アニメーション『トランスフォーマー』シリーズ)。我々という主体は、常に未成熟な「少年」に留まらなくてはならない(勇者シリーズ)。だが未成熟な主体であることによって、社会から切断されてもいけない。単に成熟を断念するだけでは、社会は成立しないからだ。未成熟のまま社会に接続されようとする――「少年」のまま「大人」になるために必要な想像力が「魂を持った乗り物」によって主体が干渉を受け複数化するという「サイボーグ」化である(サイボーグライダー)。そしてそのもっとも進んだかたちが「魂を持った乗り物」が対話可能な主体(ジミニー・クリケット)となり、そのサジェスチョンを生活の中で常に受けながら生活するミクロマンの想像力であった。
ミクロマンの想像力において、我々という主体は常に未成熟な「少年」にとどまる。そこで「少年」はなにかに乗り込んだり、あるいは誰かを手段として所有して「手先」にすることはない。自動車のような巨大なものにアクセスしないゆえに、精神と自意識を肥大化させることなく、常に1/1スケールの「等身大」のものであり続ける。
しかし「少年」であることは、子供部屋に留まっていていいということを意味しない。我々がこれまで見てきたおもちゃたちは、すべてその想像力の中で戦いを繰り広げてきた。そしておもちゃは伝統的に「子供のもの」であったがゆえに、その想像力は常に少年の成長を描いてきた。永遠に理想のかたちで成熟できないということは、成長しなくていいということとイコールではない。おもちゃには理想の成熟のイメージに「少年」を近づけようとする力が託されてきたゆえに、そこには常に「成長」が織り込まれてきたのだ。
少年であり続けること。無理に大人になろうとしないこと。他人を支配したり所有したりしないこと。自動車を降りること。スマートフォンを手にすること。スマートフォンに「乗らない」こと。むしろ「乗られる」こと。成熟を錯覚したいという欲望に負けず、成長し続けること。それによって社会と(もう一度)接続されること――20世紀の男性性としての「かっこいい」を過去のものにし、21世紀に「kakkoii」へとアップデートするために、おもちゃというプロダクトは象徴として必要になる。
ミクロマンからダイアクロンへ
さて、ここでいったんダイアクロンというおもちゃシリーズについて考えてみることにしよう。ダイアクロンは80年代から存在しているおもちゃシリーズで、変身サイボーグの後継として作られたミクロマンを直接的に継承する作品である。またダイアクロンの一部商品がアメリカ向けにローカライズされる過程で生まれたのがトランスフォーマーであることは、本連載でもすでに説明した。
80年代のダイアクロンは1980年から1984年の4年間展開したシリーズで、その後はトランスフォーマーへと事実上吸収されていった。しかし2017年に大人向けとしてリブートし、そのシリーズ(便宜的に「リブートダイアクロン」と呼ぶことにしよう)は、2025年現在も続く例外的長寿シリーズになっている。2024年にタカラトミー社が立ち上げた大人向けおもちゃブランド――T-SPARKの成立は、ダイアクロンの成功が背景にあるとファンの間では噂されている。実際の影響関係を客観的に明らかにするのは困難ではあるものの、ダイアクロンシリーズ継続と商品点数の増加の後にT-SPARKが立ち上げられた、そしてそれはダイアクロン的な大人向けおもちゃの拡大戦略に基づいたものである――というところまでは言ってよいものと思われる。
このタイミングでダイアクロンを扱いたい理由はふたつある。ひとつはシンプルにミクロマンの直接的な後継作品であること。そしてもうひとつは、20世紀末のおもちゃ文化を21世紀的に再解釈したリブートダイアクロンというおもちゃについて考えることで、我々がSNSに接するためのヒントが得られると考えているからだ。
3cmの想像力
まず80年代に展開されたオリジナルのダイアクロン(便宜上「旧ダイアクロン」と呼ぶ)について確認していきたい。
まずシリーズの位置づけとしては、変身サイボーグ→ミクロマン→ダイアクロンという流れでおおまかに理解されるのだが、最大のポイントは、後の作品になればなるほどスケールが縮小していくことにある。変身サイボーグにおける中核的なフィギュアがおおむね1/6のサイズであるのに対し、ミクロマンでは1/18、ダイアクロンでは1/60――おおよそ3センチ/1インチへと小さくなっている。ただし、これはあくまで人間に対する比率であって、ミクロマンはスケールとしては1/1(身長10cmの小さな宇宙人)であるし、そのスケールにミクロマンの特異性があったことはすでに説明した通りだ。逆に言えばダイアクロンは1/60程度のスケールであり、ダイアクロンのフィギュアやマシンは玩具としてモデルアップする際に縮小したものだ。
スケールについて先んじて説明したが、商品としてのダイアクロンは、ダイアクロン隊員(ダイアクロンシリーズにおけるフィギュアをこう呼ぶ)が乗り込むマシンやロボットを中心にラインナップしている。ミクロマンの時点でもサイズが下がったことによって「乗り物」のラインナップが充実されたことはすでに述べたが、ダイアクロンではフィギュアのサイズがより小さくなっており、相対的に大きなスケールのものがラインナップできるようになっている。具体的には、変身サイボーグやミクロマンでは困難だった、巨大なロボットや基地といった大型のモチーフが多く商品化されている。
変身サイボーグはあくまで身体の部分を交換したり、あるいはヒーローに文字通り「変身」するという身体の書き換えがその遊びの中核にあった。そしてミクロマンでは、乗り物や基地といったより身体を大きく拡張する方向へと舵を切りつつも、結果として10cmというちょうどいいサイズと1/1というスケールが担保したポータビリティが、新しい想像力への扉を開いた。
こうして言葉だけで整理すると、ダイアクロン隊員は小さくなったことでより高いポータビリティを得たように思われるかもしれない。しかし実際には、そのような想像力――外にダイアクロン隊員を持ち出す遊びはさほどエンパワーされない。まず現実は当然1/1スケールなので、持ち出したところでスケールが背景とミスマッチである。そしてこちらがより決定的なのだが、ダイアクロン隊員はあまりにも小さすぎる。3cmしかないフィギュアを子どもがポケットに入れて公園に出かけるさまを想像してみるとよい。たとえ大人がオフィスに持っていくのであっても、細心の注意を払わなければ紛失は免れ得ないだろう。
巨大なものへの同一化
フィギュアのサイズが下がったことによって、ダイアクロンの遊びはダイアクロン隊員の身体を拡張していくのだが、その方向は大きくふたつある。
ひとつはロボットに象徴される、身体を拡張していく方向性だ。基本的にダイアクロンは、生身のまま戦うことはしない。なんらかのマシンに搭乗することで戦場に立つことになる。ダイアクロン隊を構成する乗り物は多種多様であるが、象徴的なものはやはりロボットだろう。ミクロマンにおいても登場型ロボットは存在していたが、ダイアクロンではこの方向の想像力が伸びていくことになった。ダイアクロンにおける登場型ロボットは、特に「合体」をコンセプトにしたものが特徴的である。ひとつひとつのマシンはあくまで飛行機や戦車などビークルの形状となっているが、それが合体することによって人型を構成する。人型を構成する際に、搭乗していたダイアクロン隊員は降りなければならないケースが多いのだが(たとえばオープンコックピットの飛行機は合体時に垂直に立てなければならないためパイロットは乗った状態を維持できない)、これは積極的にそうなっているというよりは設計上やむを得ないものと考えてよいだろう。基本的にはダイアクロン隊員が乗り込んだマシンは、合体することによって拡張されていくことになる。
そう考える理由は、もうひとつの点にかかわっている。それはダイアクロン隊員というフィギュアの扱いだ。変身サイボーグは明確に変身ヒーローというジャンルに乗っ取って、遊びの中心には単独のキャラクターが存在していた。それがミクロマンになると、多数のモデルあるいはカラーバリエーションのひとつひとつに固有の名前とプロフィールが与えられ、群像劇的な構造になる。そしてダイアクロンにおいては、プロダクトそのものにはモデルとカラーのバリエーションが存在するものの、それぞれの個性が描かれることは少ない。ダイアクロンは機械を身体に取り込んでサイボーグ化することでも、多様な能力を持ったメンバーがチームアップすることでもなく、巨大ロボットという存在に個を埋没させることによって戦う力を得るのだ。
ダイアクロンのもっとも象徴的なアイテムが、ロボットベースだ。これはその名の通り人型の巨大基地であり、その内部にたくさんのダイアクロン隊員が乗り込むことによって動くよう想像される。それはたとえば戦艦や成熟のイメージという観点からすれば、これはメンバーシップ的な日本の企業文化とも結びつくように思われる。以前フォートレスマキシマスについて分析した際にも触れたように、日本において戦後政治的正しさを失った軍事に対する憧れや組織の論理は、「企業戦士」という言葉に象徴されるように、経済成長を目指す企業の中に引き継がれた。そこでは巨大なロボットの顔のもとで、個々人がそれぞれの役割を果たすことで成熟していくことになる。
こうしたダイアクロンの美学を象徴する設定に、「ダイアクロン隊3つの誓い」というものがある。これは設定上ダイアクロン隊を定義する重要なフレーズとされており、ことあるごとに掲示される。具体的に以下のようなものだ:
ダイアクロン隊3つの誓い
- 正しいことには勇気を持って行動しよう!
- 平和を愛する優しい心をわすれるな!
- ワルダー軍団と戦おう!
まず「ワルダー軍団」について説明しておこう。ダイアクロンの世界には「フリーゾン」と呼ばれる超エネルギーが存在しており、地球に埋蔵されたそれを手中に収めるべくやってきた侵略者が「ワルダー軍団」である。ダイアクロンはワルダーから地球を守るべく結成された防衛隊である――というのがおおまかなシナリオだ。
この「誓い」の優れた点は、遊び手をダイアクロン隊の一員として参加させることだ。ダイアクロン隊員には個性が設定されていないということはすでに触れたが、逆に言えばそこにどのような個性を見出すかは遊び手に委ねられている。後のリブートダイアクロンでは、これは「ロールプレイ」という言葉で説明されている。つまりこのような「誓い」によってダイアクロン隊のメンバーとなった遊び手は、巨大なロボット・組織のなかで一定の役割を担うことによって成熟へと近づいていく。
しかしこの成熟のイメージは、たとえば20世紀末のJTCという文脈、あるいは軍隊においては正しい倫理として機能したかもしれないが、SNSという文脈では危うく映る。むしろ我々は、正しいことに勇気を持って行動し、自分は平和を愛する優しい心のゆえにそうすると信じ、そして「悪」と断じたものを徹底的に滅殺しようとするからこそ、個としてのアイデンティティを失い、巨大なロボットに乗り込むように主体性を放棄し、仮初の成熟を錯覚するために暴力性に身を投じていくのではないか。
21世紀的な成熟のイメージへのヒントを探そうとする本連載の視点から言えば、ダイアクロンの美学は、むしろ20世紀的であるかのように思われる。そしてそれは事実であると考える。
SNSへの接し方、情報技術のダークサイドに落ちないための手がかりは、このダイアクロンが2017年にリブートされたときに得られている。
(続く)
この記事は2026年3月20日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2026年4月27日に公開しました。
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