「人間拡張」から「自在化」へ

──地球規模のパンデミックが日常化することで、リモートツールやVR/ARといった技術の定着をはじめ、かつてない勢いで生活環境のDX(デジタルトランスフォーメーション)が加速しています。僕たちの身体感覚が否応なく拡張させられていく中で、この変化を良きものにするためには、どのような社会を構想していくべきなのか。
 そんな問題について考えるため、人間拡張工学・超人スポーツ提唱の第一人者で、コロナ禍以降の新たな身体像を展望した共著『自在化身体論』が話題の稲見昌彦さんと、分身ロボット「OriHime」をはじめ多様なかたちのコミュニケーションを媒介するロボットの開発を推進している吉藤オリィさんをお招きしました。

 まずは稲見さんが最近刊行された『自在化身体論』の内容をベースに、議論をスタートしたいと思います。この本の、そして稲見さんの研究のキーコンセプトである「自在化」とはどのような概念なのか、簡単にお話しいただけますか?

稲見 一言で言えば、自在化とは「機械によって拡張された能力を、人が自らの身体のように自由自在に扱えること」です。この自在化技術の研究を進めるため、「稲見自在化身体プロジェクト」という研究チームを組成し、①感覚の強化(超感覚)②物理身体の強化(超身体)③心と身体を分離して設計(幽体離脱・変身)④分身⑤合体という5つのテーマに取り組んでいます。①と②は、2016年に『スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える』を刊行した頃から取り組んでいる「人間拡張」の研究の一環と言えますが、自在化は人間拡張にとどまりません。
 人間拡張とは、人が主体的にできることの範囲を増やしていく過程だと思っています。一般に、エージェンシー(行為主体感)が広がっていくとオーナーシップ(自己身体所有感)を得やすいと言われているのですが、エージェンシーを持てる範囲を体外まで増やしていきましょうという考え方が、人間拡張です。

 私が「自在」という言葉を言いはじめた当初は、「自動」の対立か、もしくは並立概念だと思っていたんですよね。自動運転車のようなものに対して、自由自在に動けるような「自在」というものがあると思っていたわけです。しかし、自動化されていて自分はエージェンシーを持たないけれども、オーナーシップを持てるプロセスはたくさんあります。人の無意識のプロセスだって、ほとんど自動的とも言えるわけですしね。

吉藤 OriHimeが10個あったとして、一人の人間が10個のOriHimeを同時に動かすことができるようにするのが、「人間拡張」だと。しかし、それはあまりにも大変すぎるため、ある程度は自動化し、自分の意思によって切り替えられるようにしていくことが「自在化」だということですね。

稲見 おっしゃる通りです。自己の意識のフォーカスを動かすことによって、身体の範囲を自由自在にコントロールできることが「自在」だと思っています。そのフォーカスを動かせる範囲こそが、私の定義する、新しい意味での「身体」です。できることを増やすと、「後は自動化に任せる」と手放すプロセスも増える。丸投げではなく、「いつでも自分が介入できる」可能性を担保できる部分こそが身体なのだと、気づいたわけです。
 こうした自在化の概念を磨き上げていくうえで、一つヒントになったのが、ダニエル・デネットという哲学者が記述した「自分とはなにか」の定義です。デネットは面白いことに、自己を「自ら直接制御できるものすべて」と定義しているんです。自由に動かせる自分の手足はもちろん、もっと言うならば「所有」しているものですら、自分が使いたいときに使えるなら、ある意味では自分の身体の延長とも言えるかもしれない。一方で非自己、つまり自分が直接制御できないものには、自然界のものはもちろん、心臓や腸の動き、そして足を踏まれて「イテッ」と思う感情なども含まれるかもしれません。

 自在化身体プロジェクトを進める中でわかってきたのですが、「歩きスマホ」はめちゃくちゃ面白いんですよ。歩きスマホをしているときは、足のことをほとんど意識しませんよね。これはすごいことで、「ASIMO」のような自立した二足歩行ロボットの上に、我々が乗っかっている状態とも捉えられる。さらに興味深いことに、自分の意識は、スマホ画面を触っている指先を通じて、デジタル世界の奥のほうにあるソーシャルメディアに入ってしまっているわけですよね。
 つまり、腰から下は他者である一方、指先の延長はデジタル世界に没入しているわけです。そして、つまずきそうになったときだけ、他者であった脚がパーンと自己に戻って、自己と非自己の界面が移動する。この界面を自由自在に動かせる範囲こそが、自己の定義かもしれないと、最近は思いはじめています。ままならない範囲を減らし、自己の範囲を拡張していくための方法として、OriHimeのようなテクノロジーが活用できるのではないでしょうか。

拡張身体にも所有感や喪失感は生じる

吉藤 私が普段の活動の中で考えていることと、重なる部分が多いと感じました。たとえば、脊髄性筋萎縮症(SMA)という病気にかかり、生まれた瞬間から身体を動かすことができなくなっている人たちに、OriHimeを使ってもらうことがあります。そうした人たちにとっては、社会参加のほぼ唯一の手段であるOriHimeこそが、メインのボディであるような気がしてくるわけです。つまり、身体は選択することができる。
 よく考えれば誰にとっても、身体はわりと故障するし、うまく動かなかったり、急に震えたりすることもある。自分の意識だって、やる気を出してほしいときに出ないこともありますし、わりと乗り心地の悪い馬車みたいなものであると、私は思っています。身体は自分が思い通りにできるものではなく、だからこそ、一つの乗り物、アバターに過ぎないという考え方が必要なのではないでしょうか。

 また、歩きスマホ中は足が自動で動いているというお話も興味深いです。私がOriHimeを開発したときのことを思い出しました。最初はプログラミングからハードウェア作りまで全部一人で手がけていたのが、パワーを出してスピードを上げるため、いろんなものを少しずつ他の人に任せるようになっていく。するとチームができていって、自動で開発が進み、私が気軽に手を加えることはできない、離れた存在になってしまう。
 寂しさはありますが、それでも手放すことを選ぶのは、それによってできることが拡張され、またいざとなれば介入して「待て」と言える余地が残っているからだと思っています。つまり、自在さとは選択肢を持ち続けることであり、そこから自分らしさが生まれてくるのだと思います。これは将来我々の身体が動かなくなったのち、自分らしく生きていくためのヒントになり得るのではないでしょうか。

▲分身ロボット『OriHime』

稲見 そうした「選択できる可能性」としての自己がなくなってしまうのが、親しい人の死ですよね。たとえば、私がオリィさんに「ちょっとこのカバンを取ってください」と頼んで、実際にその行動を取っていただけているときには、ある意味でオリィさんは私の一部だったかもしれない。誰かが亡くなった悲しみとは、そうしてコミュニケーションしながら自分のために動いていただけたかもしれない、もしくは自分が他の人のために動けたかもしれない可能性が、確実にゼロになってしまう悲しみなのではないでしょうか。すなわち、四肢を事故などで欠損してしまった人が無いはずの部位の痛みとして感じる、幻肢痛に近いのかもしれないと思っているんです。

吉藤 たしかにそうですね。たとえば、腕を失ったときに生じる感情は、ものが掴めなくなったという悲しみだけではなく、単純に腕というもう一つの身体が失われたことによる喪失感も含まれているのではないでしょうか。それはただの役割や機能の喪失だけではなく、この腕をずっと使い続けてきたのに動かなくなってしまったという、関係性の喪失でもある気がします。

稲見 拡張身体でも、喪失感は生じるんですよ。以前、メディアアーティストのクワクボリョウタさんが、しっぽのロボットを作っていました。グッとお辞儀したときにしっぽがピッと立ったり、歩いているときにはヒュヒュヒュと動いたりといった、シンプルな動きがプログラムされているロボットです。
 ただ、そのしっぽをつけて10分ほど鏡を見ながら歩いていると、だんだんとしっぽがあった方が歩きやすくなってくるんですよね。そして、体験が終わると、「せっかくもらったしっぽ、返さなきゃいけないの?」とすごい喪失感があるんですよ。もちろん、いまある身体を失うことは、もっと大きな痛みを生むと思うのですが、拡張された身体にも喪失感があり得るとわかったのは興味深かったです。

 逆に、身体性を獲得し、エージェンシーを持っている対象が増えていくと、喜ぶ人が多いですよね。第三、第四の腕を動かせると、大抵の人は最初びっくりするけれど、その後すごくいい笑顔になります。

吉藤 いまより良い未来が見えると、希望が持てるからではないでしょうか。私はさまざまな難病の方と接していますが、昨日までできたことが今日できない、右肩下がりの連続であるわけですよ。このまま進行すると間違いなく動かなくなっていくと思うと、将来を想像したくなくなるんですよね。私も学生時代に不登校だったとき、1年前には人と話せたのにどんどんできなくなっていて、未来を考えると真っ暗で怖かった。人間との関係性、また機能的な面や果たせる役割が、ちょっとでも拡張される感覚があると、希望が持てるのだと思います。

稲見 若いときにできたことができなかったり、昨日までできていたことができなくなったり、物覚えが悪くなったりしたとき、ショックを受けて歳を感じますよね。テクノロジーを使ってでも、昨日できないことが今日できるようになって、今日できないことが明日できるようになると信じられるならば、未来に期待を持てるようになると。
 これは「時間方向の身体性」と捉えられるかもしれません。自分の将来も、コントロールできる範囲と、そうでない範囲があるじゃないですか。災害や他者の動き、誰かに運命を定められていることなど、自分の力ではどうしようもできない範囲がある。だからこそ、自分の運命、未来さえも実は制御できると信じられる範囲が自己だと考えるならば、それが拡張すると嬉しいし、誰かによって減らされるとものすごい悲しい。

能力とは関係性である

吉藤 身体拡張とは人生の選択肢の拡張であって、難病になってしまったり、頸椎損傷になって身体が動かなくなってしまったりしたときに、OriHimeのようなテクノロジーがあれば選択肢を広げられるかもしれない。私は外出困難者がOriHimeを遠隔操作することでカフェの接客を行う「分身ロボットカフェ」という研究にも取り組んでいますが、こうした選択肢があることを知ると、気持ちとしてもラクになってくると思うんです。

▲「分身ロボットカフェ」の実施風景

稲見 その選択肢を増やしていくのが、我々の仕事だと思っています。私が所属している東京大学の先端科学技術研究センターの同僚である、小児科医の熊谷晋一郎先生が「自立とは依存先を増やすことである」とおっしゃっていまして。
 熊谷先生は幼い頃に脳性麻痺を患い、ずっと電動車椅子で移動されています。「依存するな」と言われ続けながら育ってきたそうなのですが、3.11のときに、エレベーターが止まってしまってまったく避難できなかったそうなんです。他の人たちは階段なり、脱出シューターなり、いろんな方法で避難できる可能性があったのですが、ご自身は電動車椅子だから使えない。そのとき、実は「健常者」の方々は、そうしたいろいろな手段に依存しているだけなのだと気づいたそうなんです。そうした依存先を増やせること自体が、実は自立につながるんだという考えは面白かったですし、今回の議論にも大いに関係するのではないでしょうか。

吉藤 そうですね。たとえば、車椅子ユーザーの方が駅の階段を下りるにしても、現状では駅員さんが4人がかりでサポートしなければいけない。もちろん、車椅子ユーザーの方が「自分は他の人と平等に扱われるべき」と主張することには私は大賛成で、どんどん声をあげるべきだと思っていますが、テクノロジーならどちらかが我慢しなければいけない状況を埋めることができます。

 また、「バリアフリー=道を平らにすること」とみなされている現状にも、大きく違和感を覚えますね。私は階段が大好きで、階段をなくされると困る人間です。だからこそ、車椅子をテクノロジーで改変することで、解決しようと思っているわけです。

稲見 同感です。実は私の研究室には、階段型のスタンドを置いてるんですよね。その階段を指さしながら「うちの研究室はバリアフリーです」と言えるくらいの技術を開発していこうと思っているからです。誰もが脚が不自由でも移動できるようになったら、階段だってバリアフリーであるわけですよね。

 ただ、身体拡張と環境整備、両方のアプローチが必要だとも思っています。自在化身体の研究を始めた当初は、身体を拡張して環境の障壁を乗り越えていくこと自体が、自由や自立につながるのだと思っていました。能力は身体や脳みそに紐づくものであり、自分の持ち物だと。でも、オンラインRPG『ウルティマ オンライン』において、耳が不自由で会話が苦手な方がチャット上で活発にメッセージをやり取りしていたという話を聞いたり、オンライン講義で匿名で質問できるようにしたら、学生がたくさん質問するようになったのを目の当たりにしたりする中で、能力とは環境との相互作用だと気づいたんです。

吉藤 私も能力とは、その人の行為によって喜んでくれる人や、その人との関係性に価値を感じてくれる人が、どれだけいるのかによって規定されると思っています。自分一人で「俺は能力がある」と思っているだけでは、それは能力なのかどうか怪しいのではないでしょうか。
 寝たきりの人でも、SNSはできる。目が見えず耳も聞こえず、またしゃべることもできずに、指だけでコミュニケーションしているような人たちでも、普通にチャットができる。それがインターネットの特性で、我々はその人たちも普通に能力があると思うわけですよね。ですから、人の能力というのは、単純にある/なしといった話ではなく、周りの人たちの関係性をどう構築するかに規定されるのだと思います。

稲見 我々はいま日本語のインターフェイスを使っているから、ペラペラと話せるわけです。しかし、英語という縛りが入った時点で、私は残念ながら七掛けから五掛けくらいの能力になってしまう。さらに中国語縛りが入ると、聞き取れも話せもしない、言葉が不自由な人になってしまうわけです。私の言語能力が下がったわけではないのですが、環境によってコミュニケーション能力が伸縮し、変わってきてしまうわけです。
 ですから、身体拡張だけではなく環境側のアプローチも大切だと思いますし、関係性もとても大切なんです。関係性も我々の身体だったのではないでしょうか。あえて雑な言い方をすると、「『人間』という漢字はよくできているな」というアラフィフのおじさんらしいことを、最近は思いはじめていて(笑)。「人」すなわち肉体だけでなく、「間」すなわちインタラクションも含めて「人間」であると。ヒトから人間になることで、人は社会性を持ったのではないでしょうか。ですから、人間を拡張していく際は、身体拡張だけでなく、環境との相互作用という部分にもきちんとアプローチしていく必要があると思っています。

テクノロジーで人間の関係性を拡張する

吉藤 いままで我々は、目を拡張するためにメガネをかけ、脚を補うために車椅子に乗り、言語の壁を補うために翻訳ツールを使い、身体を拡張してきました。ただ、まだ解決されてない問題として、たとえば、いかに知らない人同士が仲良くなるか、というものがある。総当り的に組み合わせると、1億2000万人もいる国で、まったく相性が合わない人を探す方が難しいと思うんですよ。しかし、外に出れない人は、そもそも人に出会えない。
 私も昔は引きこもりで、19歳までほとんど友達を作らなかった人間なのですが、「お前はすごい」とおだててくれる人がいたからこそ木に登れて、いまの自分がある。誰しも「あの瞬間に、あの人があそこにいてくれたおかげで、いまの自分がある」という経験があると思うんですよ。
 でも、それが成り立つためには、その人と自分が体を運んできていて、そこでコミュニケーションが成り立っている必要がある。ですから、身体が動かないことのハンデキャップは、単純に足が動かない、外に出れないというだけではないと思っています。関係性を維持するコミュニケーション機器としてはSNSがあるかもしれませんが、友達をうまく作ることができるようになるための、コミュ力の福祉機器が足りないのではないでしょうか。

稲見 出会いとは時間と距離の関数で、速度のようなものなのかもしれません。それがネガティブに作用すると、感染症の蔓延になり、「人は動くな」という話になる。けれども、動けない人は時間に任せるしかなかったので、インフルエンサーの輪の人たちの中に入ることもできなかったし、ハブにもなりにくかった。

吉藤 たとえば年間1,000人と会う人がいたとして、そのうち10人が友達として残るのであれば、友達になれる確率は100分の1になります。でも、寝たきりになってしまい、年間10人としか会うことができなくなったら、10年かかってようやく友達が一人作れる計算になりますよね。これってやばいじゃないですか。
 ですから、どうすればその「100分の1」という確率を拡張していけるか、という方向性でも考えていけると思っています。それも一つの、能力の拡張なのではないでしょうか。たとえば、OriHimeを活用して、寝たきりの人が手を振れる状態をつくったら、病院の中での扱いがまったく変わったんですよ。そうした取り組みによって、その人が関係性を増やすことができる人が、100分の3くらいにはなるかもしれないと思います。

稲見 扱いが変わると、関係が変わり、本人も変わるわけですよね。人間拡張によって、本人の心に影響があるのではないかと思っています。よく身体性の議論で話題にのぼるのですが、排気量の大きな車に乗った瞬間、運転や性格が荒くなる人がいますよね。OriHimeの場合は、ポジティブなかたちで、そうした影響が与えられているわけです。決して車に限らず、新しい身体性を得たり、新しい主観的な能力が増えたりしたときにあり得ると。それが力という空間的な話ではなく、時間的な能力についても起こったのが、宇野さんの言葉を借りれば「速いインターネット」の問題なのではないでしょうか。

なぜOriHimeは人を幸福にするのに、SNSは不幸にするのか?

──お二人の話を聞きながら、「なぜOriHimeは人をこんなに幸福にしているのに、TwitterやFacebookのようなSNSは不幸にしていることが多いのだろう?」と考えていました。もちろん、そのことによって幸福になっている人もいるだろうけれど、不幸になっている人もすごく多い。人間拡張という観点だけから見ると、たぶんFacebookやTwitterの方が、OriHimeより能力の解放の度合いが高いはずです。OriHimeのほうが不自由であるにもかかわらず、人間をより自在にしているのはなぜか? 
 SNSもOriHimeと同じく、単なる人間拡張ではなく、社会的身体の自在化を目指している。そのために、自動化できるところはどんどん自動化されている。しかし少なくともSNSがもたらす社会的身体の自在化は、人間を自分で考えることから遠ざけていると思う。人間が自分で問題設定をする力を奪っている。要するに自動化してはいけない部分を自動化してしまっている。

稲見 他人任せにしちゃうということですよね。自分の脳みそのエージェンシーを減らしていくこと、という言い方もできるかもしれない。

──そうだと思います。僕の友人に國分功一郎さんという哲学者がいて、彼が2017年に『中動態の世界』という本を出し、すごく話題になりました。僕も読んでいてすごく勉強になったのですが、その結論に、けっこうびっくりしたんですよね。
 彼の結論は、こうです。そもそも意志というのは近代のフィクションであると。それは経験的にもわかることです。完全に自分の意志で決めたことなんて、そもそも厳密には存在できないですから。日本に生まれたこととか、21世紀に40歳になっていることとか、僕たちは自分の意志では選べない。しかし、これらの選べないことも自分の決定に大きく影響している。じゃあ、人間にとって自由とはなにか? 「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為する」こと、要するに自分の能力が制限を受けずに解放されていることが重要だと、彼は結論している。
 これは、ほとんど批判を受けていない、かなり高い支持を受けた主張だと思うのですが、僕はけっこうびっくりしました。「ん? それって25年前にシリコンバレーの人たちが言っていたことじゃないの? その結果、いまこうしておかしくなっているんじゃないの?」と単純に疑問に思いました。言ってみれば四半世紀前の議論がまったく別の分野で蒸し返されている。実際に彼らが情報技術を応用してサービスをつくるとき、ユーザーを能動的な主体と受動的な主体に二分して考える、つまり映画の観客とテレビの視聴者のように二分して考えるのではなくて、能動的なユーザーと中動的なユーザー、つまりその能動性が常に変化する主体を想定しているはずです。

稲見 1989年の第一次VRブームのときの言説もほぼ同じですね。

──そして問題はなぜ、別のルートから考えても同じ結論に至ってしまうのかというところにあるはずです。それがなぜか、今日のお二人の話を聞いているうちに見えてきたところがあって、それは要するにこれらの議論がともに人間拡張にとどまっているということではないかと思いました。
 物理的身体にせよ、社会的身体にせよ、単に人間の身体を拡張して、能力が解放できる環境を整えるだけでは、やはり人は幸福にはならないし、社会もうまく回っていかない。むしろどこを自動化して「明け渡す」のか、そして「明け渡した」部分とどう向き合っていくのか、そこに技術をどう介入させるのかという部分を考えないといけない。それが稲見さんのおっしゃる「人間拡張から自在化へ」ということだと思います。

吉藤 まさにおっしゃる通りだと思います。あらゆるものを自分の意志で制御しようとすることと、あらゆるものを自動化しようとすることの間に、選択肢を作る。世の中、特に日本は、「こっちだ」と決めたら片方に寄り、それを窮屈に思ってきたら、今度は逆側に振り返してと、ゼロかイチかで決めたがる。そこに対して、「●●%」のような選択肢を作ることが、自在化への一つのアプローチになると私は思っています。
 たとえば、日本のファストフード店は、速く出てくることだけに価値を置くあまり、店員さんが機械みたいになっているじゃないですか。他方、美容院のように、「あの人のいるところで髪を切ってもらいたい」と関係性に価値を置いている店もある。でも、ファストフードで関係性の価値を享受できてもいいはずじゃないですか。
 そこで自分に合うものを選択できるようにするため、モスバーガーさんと一緒に「ゆっくりレジ」という実験をしています。重度障がいで外出困難な女の子が遠隔操作しているOriHimeに接客してもらうことで、速さではなく、関係性の価値をもたらそうとしているんです。実際、「また会いたいから来ました」と言ってくれるお客さんもいて、売り上げが伸びている。
 ご飯を食べる前は「お腹減ったー!」と思う自分がいるけれど、食べた後は「満腹だ、もう食えん!」と価値がガラッと変わっているわけですよね。幸福の定義はその時々によって変わるので、状況に応じて、より多くの選択肢がもたらされることを目指しているのです。

いま必要なのは「植物系」のテクノロジーだ

稲見 コミュニケーションによって、食事を含めた前後の体験を豊かにしてくれる、ちょうどいい時間を提供できるのでしょうね。そのときに、もしかすると我にかえるかもしれない。お腹がめちゃくちゃ減り、居ても立っても居られない状況は、自分に対してエージェンシーが減ってしまっている、ロボット状態と捉えることもできます。そこを脱するために、適切な速度と期待値を取り戻すことが、ポイントだったのかなと。

 アンガーマネジメントではありませんが、人は時間幅によって、動物から人間になるという話がありますよね。以前、ドワンゴ創業者の川上量生さんと雑談したときに、ニコニコ動画に「おお!」のような情動的な感嘆詞が多いのは、コメントを出すまでの時間がめちゃくちゃ短いから、という話になりました。電車の中で足を踏まれたときなら、「イテッ、なんだこいつは」と感じても、「おばあちゃんが倒れそうだ、手差し伸べないと」と思ったり、「大丈夫ですか?」と声をかけたりといったプロセスを経る可能性があるじゃないですか。
 その「大丈夫ですか?」に至らない、「足イテー」くらいで反応しちゃうのが、Twitterかもしれなくて。たとえばブログを書いたり、論文を書いたりするときには、もう少しきちんと考えて、冷静になっている。そのときには、きちんと自分をコントロールできている感じがする。そういう意味では、実はOriHimeは身体を拡張するものではあるけれども、時間を適切にコントロールするものでもあるのではないかという気がしました。

──昔、三木成夫という解剖学者がいて、彼が面白いことを言っているんですよね。人間の身体は、動物系と植物系でできている。動物系はこの僕らがコントロールできる四肢の運動を司る神経系や呼吸器系で、対して植物系は消化器系です。要するに、根から水を吸い上げて葉から光合成を経て発散する過程を人間の消化器になぞらえているわけです。そして、人間の知性というのは、植物的な身体を動物的な身体が意識すること、捉えることによって自己を確認しているという議論を、彼はしています。
 僕はこの話は、今日の議論に通じていると思います。僕らはいままで、人間を自由にするためには、動物的な身体をどんどん拡張していけばそれでいいのだ、と考えていた。単純に自分でコントロールできる範囲を広げればいいのだと。ところがオリィさんの取り組みや稲見さんの研究は、やっぱりそれだけじゃダメなんだということを示している。植物系の、自分で制御できない部分にこそテクノロジーの介入して設定し直すべきだと。それも単に能力を拡張すればよいのではなく、植物系と動物系の関係を技術の介入でデザインしないといけない。それが、人間を本当に自由にする条件だということだと思うんですね。

稲見 いやまさに、実は最近、植物学者と「人間拡張植物学」という共同研究を始めたんですよ。私が研究している技術は人間、もしくは動物に適用するのが普通なのですが、「あえて全然違う植物に当てはめたら面白いのではないか」と直感的に思ったんです。
 動物である人と違うシステムで、なおかつここまで世の中で繁栄しているものがあるのは、ものすごい話で。「植物は面白いな」と思ってちょっと調べはじめたら、中央集権的じゃなかったり、一つの独立した身体ではなくて群として捉えられたり、いろいろと学ぶこと多いんですよね。植物間通信のような話もあったり、神経系ではないけれどゆっくりと拡散していくところもあったり、生きている時間のスケールが違いすぎて、我々は結果的に植物を「止まっているもの」と認識しているだけで、植物同士にとってはお互いやっぱりダイナミクスのある動物なのではないかと思ったり。人類社会と身体について考えるうえで、植物的なものにはヒントがあるのかもしれません。

吉藤 なるほど、植物性の属性を付与することによって、人間拡張や自在化につながるのではないか、という話ですね。動物であるということに寄せ過ぎた我々は、いったん地に足をつけてみようという方向に価値を感じていて、それも一つの自在性なのかもしれません。

稲見 温泉に入って癒されている状態は植物っぽいですよね。ゲームにせよ何にせよ、エンターテイメントは、もともと生存に必要なものがもとになっていることが多いじゃないですか。「なぜ我々は温泉が好きなのだろう?」と考えると、もしかしてあれは植物的身体が欲求しているのかもしれない、と思っています。

──國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんが手がけている共同研究をまとめた『〈責任〉の生成──中動態と当事者研究』という本が、2020年に出ました。あの本の中に面白い議論があって。ある種の心を病を抱えている人に見られる症状として、こういうものがあるそうです。
 長い時間食事をしていなくて、身体も疲弊しているのだけれど、その身体の悲鳴が「お腹が空いている」という欲望にうまく統合されない。通常の人間は胃が空っぽになると信号が出てお腹が空いていると、感じる。このとき実は身体の各所からの異なる欲求が欲望として統合されている。汗をいっぱいかいたときにはしょっぱいものが食べたくなったり、喉が渇いたときには水をがぶ飲みしたくなったりする。しかし、ある疾患では、その統合が機能しない。その結果として、自分がお腹が空いていることをうまく認識できずに、食事をしたいと思えず、エネルギー切れで倒れてしまう。今日の話で言えば植物系と動物系のコミュニケーションがうまくいかなくて、欲望を形成することができないと。
 だから彼らはケアの現場では「欲望形成支援」が必要だと主張しています。これを今日の議論の言葉に言い換えると、自在化のためのテクノロジーとは、欲望形成を支援できるテクノロジーのことだと思うんです。

稲見 なるほど。そのプロセスを無意識のまま処理するのがいいのか、顕在化させるのがいいのかという議論も出てくるかもしれませんし、近い議論として、最近よく話題になっている脳腸相関も思い浮かびます。腸は脳と相互作用がある、すごく大切な器官で、さまざまなレイヤーで相互作用がある。昔から心に関する言葉というのは「あいつむかつく」といった内臓表現が多いですしね。そうした点も含めて自己だと考えるならば、そこの関係性にどう介入していくかは、すごく面白い視点だと思います。

「リレーションテック」が欲望の形成を支援する

──ここで、もうすこし社会的な関係性という次元で、身体と欲望形成の問題を考えてみたいと思います。たとえば四六時中SNSのタイムラインを見ていて、そこで発言することで承認欲求を満たしている人たちは、関係性にとらわれている。冒頭で稲見先生が挙げていた5つの区分、すなわち①感覚の強化(超感覚)②物理身体の強化(超身体)③心と身体を分離して設計(幽体離脱・変身)④分身⑤合体で言えば、身体から「幽体離脱」している状態です。
 そして、この「幽体離脱」している状態だと、他の人間との関係性が意思決定を支配してしまう。これは吉本隆明が言うところの「関係の絶対性」に支配されている状態です。だから他の4つの身体の自在化が、幽体離脱だけが突出している現代の人間拡張をどう相対化するかが鍵だと僕は思います。たとえばOriHimeはSNS的な幽体離脱の可能性をしっかりと手にしながらも、関係の絶対性にとらわれないためにために「分身」が機能しているようにも思えるわけです。

吉藤 おっしゃる通り、OriHimeを使って社会的な関係性のかたちを再考できないかと思っているんです。具体的には、まず承認を取り戻したうえで、その先のあるべき関係性を模索しています。
 おそらく人は、自信を取り戻すときにいろいろなプロセスを踏んでいく。私も引きこもりだった工業高校時代は、めちゃくちゃネガティブな人間でした。本当に人の役に立てないと思っていて、自己肯定感や自分への評価がとても低かった。それでも、他の人から褒めてもらい、それが嬉しくてさらに褒められることをやってと、少しずつ承認を取り戻していきました。すると、ある程度の自己肯定感が持てるようになり、先ほどの話にもあったように依存先も増えて、「こっちがあるから、ここのコミュニティで嫌われても大丈夫」と少しずつ自分を肯定できる材料を揃え、「よし、ちょっと挑戦してみよう」と思えるようになりました。
 ですから、私は承認を得るコミュニケーション自体は決して否定されるべきものではく、それはそれであって全然いいと思います。ただ、そのうえで、ではどこに行くことが自己承認のゴールなのか、という定義が必要で、現代はそれができていない時代だと思うんですよね。

稲見 ちょうどよい承認のバランスが必要ですよね。承認が足りないときは、お腹が減っているときに必須の栄養素が必要なのと同じで、何を食べたっていいわけです。ただ、そこそこ満たされてくると、「今度はうなぎを食べてみよう」「ゆっくり親しい人と食べてみよう」と、まず承認の質というものが問題として浮上してくるはずです。
 また、承認はやっぱり暴走しますよね。私ちょっと最近、体重が増えちゃっているのですが、それもまさに暴走です。食欲という、生存に本来必要だったものが、本来の生体を維持するもの以上にまで暴走してしまうと、今度は自分の体が肥大してしまう。それに近いことが、ソーシャルメディア上の承認においても起こっているのではないかと思います。暴走しすぎないようにヘルシーにするにはどうすればいいのか、という点には介入する必要があるでしょう。

吉藤 ほどよい関係性によって欲望を形成することの大切さは、私も日頃から感じています。患者さんの家に行ったとき、車椅子が玄関先に埃をかぶった状態で置かれているのをよく見ます。つまり、車椅子があったら、人は「外に行けるじゃん、よかったね」と思いがちなのですが、まず「外に行きたい」という欲望がないとそのツールは成立しないし、車椅子を持っていても、なかったに等しくなってしまうわけですね。

 車椅子に乗って外に行くためには、家の中で化粧をしたり着替えたりすることに対して困った状態がない人にとっては想像し得ないくらい、いろんな壁を突破する必要がある。そうした壁を乗り越えて、外に行くだけのモチベーションを得るためのステップが存在しないんです。
 でも、たとえば「もう俺にはお墓参りは無理だよ」と諦めていたおじいちゃんが、OriHime越しに家族と話しながらお墓に連れて行ってもらうと、「リハビリを頑張って、次は実際に行ってみようかな」という気持ちになったことがある。このようにツールを使うことで満足するだけでなく、その先にバトンをパスしていく、努力する自由を与えていくことが、自在化においてはすごく大事だと思います。お墓に人がいて、OriHimeというツールを使った先にあるものとの関係性がそこが形成されてくるからこそ、自分の動機につながっていくのではないかと。

稲見 私は教育者としても、これからの時代で一番大切なキーワードは「好奇心」だと思っているんですよ。ソーシャルメディアで分断されてしまっている世界の外側に「ちょっと行ってみよう」と思うこと、もしくは自分が興味のないところにあえて興味を持ってみることは、好奇心でしか担保できないわけです。好奇心は先天的なものなのか、それともちゃんと育むことができるのかと悩んでいたのですが、もしかしたらOriHimeは好奇心の補助線のようなものなのかもしれませんね。OriHimeを依り代とすることによって、さらに外側までパーンと好奇心が伸びるのかなと。

吉藤 そうですね。私はイタリアには全然ご縁がなくて、特に行きたい気持ちもないのですが、エジプトにはちょっと行ってみたいんですよ。なぜなら、OriHimeを通して見たピラミッドやラクダを見てみたかったり、OriHime越しに家の中を案内してくれて、焼き鳥を焼いて「オリィ待ってるよ!」て言ってくれた兄ちゃんに会いたかったりするからです。つまり、友達や関係性によって、われわれは好奇心を取り戻すことができるかもしれない。
 だから私はよく、人との関係性のテクノロジーを指して「リレーションテック」と呼んでいて、うちの会社のテーマにもしています。自分で庭にゴミを捨てるために穴を掘らせると途中でやる気をなくす人でも、「あの超リアクションがおもしろいあいつを落とし穴にはめてみよう」と思ったら、1日中穴を掘れるかもしれないじゃないですか。うまくコントロールできない、馬車のようなこの身体をコントロールするためにぶら下げるにんじんの一つとして、関係性を作っていきたい。

多様な欲望を実現する「豊かなリレーションテック」を

──リレーションテックとは、関係性をいかに多様で豊かなものにしていくか、という問題だと思うんですよ。僕が批判している「速いインターネット」的な貧しさは、ゼロかイチかの承認のゲームなんです。人間を関係の絶対性の檻に閉じ込めるうえに、その関係性はものすごく淡白になる。承認するかしないか、ゼロかイチか、所有するかしないか、イエスかノーか、西か東か。
 でも、OriHimeのような物理的なものがあると、それが否応なく多様になる。いいねを押すか押さないか、というゲームに回収されない。そこで起こるコミュニケーションも複雑になっていくし、単純に物理的な存在が移動することによって、いろんな偶然にさらされていく。僕はそこがけっこう大事だと思うんです。シリコンバレーのプラットフォーマーたちがずっとやっていたことは、貧しいリレーションテックだったんですよ。だから、「豊かなリレーションテックとは何か?」ということが、いま問われていて、その手段のひとつとして「自在化」というものがあるのだと思うんですよね。

稲見 おっしゃる通りだと思いますね。やはり一つの軸に並べると、貧しくなってしまう。成績評価であれ、大学ランキングであれ、もしかすると時価総額もそうかもしれませんが、一軸に並べた瞬間に、単なる狭いゲームの話になってしまうんです。それはすごくつまらないですし、全世界の中での順位を並べられると、自分がどれだけ小さいモノかを突きつけられチャレンジする気もなくなってしまう。

吉藤 要は、ゲームをセッティングするとわかりやすいんですよね。たとえば「いいね!」の数のようなカウントをたくさん集めることがゴールだと決めてもらえたほうが、人はラクなんです。テクノロジーを提供する側にとっても、利用する側にとっても。
 でも、そうではなくて自在化を目指す段階では、自分なりの幸福の軸を、それぞれが持つことがとても大事なのでしょう。ただ、「自分はこれはこれぐらいでよくて、自分が目指しているのはこういうもので」という欲望は、人から与えてもらいづらい部分だと思います。テクノロジーや身体的な自在性を使って、そこを会得していく回路をどのように開き、自分の中で選択肢化していくかが問われていく。

稲見 本当におっしゃる通りだと思っていて。お伺いしながら考えていたのですが、ソーシャルメディアにおける承認や楽しさを、一軸ではなくきちんと多様に表現する言葉がなかった、という問題でもあるのではないかなと。多様な状態が、解像度高く記述できるようになると、それは最終的には豊かな表現になるし、豊かな方向性になるのではないでしょうか。
 言葉ができるまではどうすればいいかというと、モノを代理する、「たとえば」という例示が大切だと思います。OriHime的な楽しさとか、僕が以前から取り組んでいる、最新のテクノロジーを使って能力を拡張した人間が競い合う「超人スポーツ」的な楽しさとか、もしくはVRアバター的な楽しさとか、そうした例がどんどん出てくると、まずは多様さのファーストステップになるのかなと。

▲「超人スポーツ」の一つである、株式会社meleap開発の「HADO」。プレイヤーは頭にヘッドマウントディスプレイ、腕にはアームセンサーを装着。体を動かしてスキルを発動させ、フィールドを自由に動き回り、味方と連携して3対3の熱いバトルを繰り広げる。

「変身」で複数の環世界で生きる身体を手に入れる

──実は稲見さんの『自在化身体論』を読んで、どうしても言っておきたいと思ったことがあるんです。稲見さんはテーマを①感覚の強化(超感覚)②物理身体の強化(超身体)③心と身体を分離して設計(幽体離脱・変身)④分身⑤合体の5つに区分していますよね。ただ、僕は「幽体離脱」と「変身」を分けたほうが良いと思うんです。
 ここで言う「変身」とは、要はサイボーグです。サイボーグは石ノ森章太郎が好んで用いたモチーフで、『サイボーグ009』を経由して仮面ライダーがひとつの終着点としてあった。このサイボーグは単なる人間拡張とは違って、バッタや蜘蛛などの動物や、そしてサボテンやキノコのような植物が人間の身体と合成されているわけです。つまり、人間と人間外の自然物が合成されて、人間の身体を持ちながら人間とは異なるような、つまりユクスキュルが語ったような環世界を生きる身体になっている。これは劇中では超感覚や超身体として描かれているけれど、本当の可能性はまったく別のところにある。彼らは通常の人間とはまったく違う欲求がその身体に発生し、それらが欲望に組み上げられる回路も異なるはずです。まったく別の世界の見え方、感じ方があり得る身体に、複数の環世界を生きる身体に技術の力で「変身」できること。これを第6の可能性として提示させていただきたいです。

稲見 なるほど、それは「6分類」への改訂を検討しなければなりませんね(笑)。そうなると今後チャレンジしなければいけないのは、異なる情報環世界をつなげるということでしょうか。異なる環世界をつなげる方法を考えたとき、いままでは物理世界を環世界のメタな空間として中間言語のような形で活用する方法を考えてきた。ただ、情報世界の環世界、つまり情報環世界をつなげる仕組みはあまりないんですよね。『ポケモンGO』なんかは、物理レイヤーを使ってなんとかくっつけようとしている例だと思うのですが、まったく違う環世界に生きている人たちを、多様なメタ原理でつなげられる世界観を構築できないかな、ということを考えていて。
 一つ面白い例として、ドイツの研究者が開発した「Mutual Human Actuation」というVRシステムがあります。片方がずっと凧揚げゲームをやっていて、その紐が伸びていく。そして、その紐の反対側にいる人が、釣りゲームをやっているんです。ゲームのタイミングをうまくコントロールすると、片方は凧揚げがうまくいっている感じがするし、もう片方は良い感じに「あっ、釣れた!」という感覚になる。見えている環世界が違うけれど、一本の糸でつながっている。全然違うことをやっているように見えて、いつの間にか、共同で作業できていると。この研究を見て、社会における分業のようなものを、もう少し別のかたちで再構築できる可能性があるんじゃないかと思いました。

▲「Mutual Human Actuation」デモ動画

吉藤 いいですね。オリンピックとパラリンピック、さらにはeスポーツが別々に開催され、それぞれが別個に実力を発揮しているように見えて、実はタッグを組んで、チーム戦になっているようなイメージでしょうか。

 車椅子への憧れがあれば、多くの人は車椅子に乗るようになるはずですしね。我々は二足歩行に憧れているから、そこから離れられないのだと思います。もともと車椅子に乗っていた人が二足歩行になってしまう場合に、車椅子に戻りたいと思うだろうか、という議論も考えられるでしょう。翼を生やしている人間が空を飛びはじめると、そうでない人がそれに対して憧れを勝手に抱いて、劣等感を感じはじめると思うのですが、それと同じように従来はハンディキャップだと思われていた属性についての価値転倒を、どう設計していけるかが重要なんだと思います。

──あともう一つ、お話ししたかったことがあります。『遅いインターネット』では、吉本隆明の『ハイ・イメージ論』の冒頭の「映像の終りから」というエッセイを引用しています。あのエッセイは、幽体離脱というモチーフから始まります。幽体離脱は古今東西、みんな同じような体験をしていて、「死にかけている自分を天井から見下ろす」というビジョンは世界共通だという話が出てくる。そして吉本は、21世紀に訪れる情報社会は、誰もが世界をこのように見る社会だと述べている。つまり、自分の位置を、鳥瞰的に自分が常に把握している状態です。
 これはいま思えば直接的にはGoogle Mapのことだし、比喩的にはSNSのことだとも言えます。自分の社会的な位置を自分で俯瞰できるわけですからね。吉本は基本的にその未来社会を肯定的に描いているわけですが、僕はそれを批判的にとらえたわけです。

 ただ、今日お二人と話してみて、少し考え方が変わっています。あのとき吉本は、もっと直接的に視覚の拡張の問題を語っていたのではないかと思うわけです。この先、映像技術というものがコンピューターの力でどんどん進化していったら、人間はまったく別の目を持つだろうと。これはおそらく、人間は別の環世界を持ち得るんだという話をしていたのだと思うんですよ。
 僕があの本で批判したSNSの普及によって「関係の絶対性」に閉じ込められた社会とは、要するに人間が人間の環世界のまま、人間同士の関係性に思考が支配されてしまう社会のことです。ところが吉本が想定していたのは、もっと大きい話だったのではないかと。つまり、人の用いるテクノロジーはいま、人間の持ちうる環世界そのものに介入することができはじめている。それは動物系の意志ではなく、植物系の欲求への介入であると。そうすることによって、まったく別の議論が立てられるのではないかというのが、いまの僕の考えなんです。

稲見 私も『遅いインターネット』の吉本論のところを読んだとき、これは身体論で語れるのではないかなという感じがしたんですよね。胎児体験と臨死体験という、二つの幽体離脱の話がありましたが、それぞれ身体に魂が入る前と、身体から魂が抜けるときの話ですよね。昔は生身の肉体を通して、生まれたときと亡くなったときにしかできなかった体験が、テクノロジーの発展によって、日常的にできるようになってきた。そうして生や死のような人生の一大事が日常化したときに、自己をどんな風に捉えればいいか、生をどう捉えればいいか、という話に、もう一度還元できるのではないかなと思いました。

吉藤 そうですね。自己の捉え方と生きることの幸せの問題を考えたとき、人間は自分が思っているほど「自分らしく」なんてことを意識して生きていないし、「自分らしく」もコロコロ変わると思うんですよね。宇野さんのおっしゃる動物系の意志と植物系の欲求ということを、私なりに受け止めるならば。
 だから「自分らしいことが幸せである」と言葉では言うけれど、じゃあ具体的にどういうことかと言えば、未来や過去というよりは、いま自分がしたいことがまずあって、それに対して取りうる選択肢が存在している状態が「自分らしい」ことなのではないかと、私は定義していて。だとすると、まずは自分がそこに対して「何かしたい」という欲望が存在しなければいけなくて、ものごとや環境への好奇心というものが必要になってくる。
 その好奇心を拡張していく方法を考えたときに、単純に他者の意志や欲望に感化されていくのではない、人との多様で思いもかけないつながり方のデザインみたいなものが、改めてキーワードになるかもしれませんね。

稲見 おっしゃる通りだと思います。僕はよく「身体のDX」という言い方をするのですが、それは取りも直さず、環世界というもの自体の再設計でもあるわけなんですよね。さらに能力が関係性でもあり、その部分も相互にデザインしうるとなったときに、じゃあ今度それをどのように選択していくのか。どういった道筋があると、自分にとって幸せな環世界を作れるのかというところは、まだ私も考えていないんですよね。
 たとえばオリィさんがおっしゃるような、一軸で判断される世界を脱するための関係性をつくるための一つの方法としては、一人が一個ずつVR世界を持って、それ以外は全部botという世界を作ってもいいわけですよね。まあ、それがめちゃくちゃ承認欲求を満たしてくれるbotのSNSタイムラインのようなイメージで、アニメなどで描かれている「俺つえー」といった感じの状態を世界の人の数だけ作っていくようなところに収斂すると、それはユートピアなのか、ディストピアなのかはわかりませんが。
 ただ、先ほども申し上げたように、異なる環世界同士をつなぐためには、一段階メタなシステムが必要だと思っています。自動生成されたシステムでもいいのですが、ちゃんと環世界同士の互恵関係があるような状態をうまくマッチングできるなら、それはまた新しい社会関係を、しかも本人の意思としては速いインターネットに巻き込まれない状態で築くための基盤になる。そうなれば、分断されているように見えながらみんながうまく生きている、少なくとも現在の貧しいリレーションテックよりは幸せな状態が作れるのではないかでしょうか。

[了]

この記事は、2021年4月6日に開催されたPLANETSのイベント『遅いインターネット会議』のトーク内容を再構成したものです。宇野常寛が司会、小池真幸が構成をつとめ、2021年5月13日に公開しました。
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