「五体満足信仰」解体のハードルは何か?

宇野 本誌のオルタナティブ・パラリンピックの主旨は、端的に言えば「五体満足な身体」という近代的な人間観を前提としてきたオリンピック、ひいては近代スポーツそのものの概念をテクノロジーの応用によって塗り替えようということに尽きます。人間の身体が眼鏡から義手、サプリメントの摂取に至るまで、どこまでが人間の身として捉えるかが曖昧になった現代社会において、どうすれば公平な競争は可能なのか。ここではいわば「サイボーグ・オリンピック」として従来のオリンピックやパラリンピックを融合し、同じ土俵で競えるようなルール設計や公平性の基準を示そうという試みです。この飛躍的に多様化する「人間」像に対応し、誰もが参加し得る競争を設計するという課題は、もちろんスポーツの問題にとどまらず、21世紀に人類が直面している社会設計の課題そのものです。
 そこで、この座談会では井上提案(5/5更新記事)を下敷きにして、新たな拡張パラリンピックの構想が、どのような人間観を切り拓いていけるかを議論していきたいと思います。

井上 はじめに、なぜ僕がお三方にご参加いただいたかを説明させてください。稲見昌彦先生は、別の記事でも触れているように、2020年に向けてテクノロジーを活用した拡張スポーツと「超人オリンピック」の実現に向けたプロジェクトをすでに始動されています。山中俊治先生は、実際にアスリート用の義足もデザインされ、障害者スポーツの現場に深くコミットされてきました。そして川越敏司先生は、ゲーム理論の専門家でありながら、障害者と社会の関わりについても深く研究されていらっしゃいます。まずはそれぞれのお立場から、僕の拙い提案についての率直なコメントをうかがえますでしょうか。

稲見 井上さんは「パラリンピックはオリンピックを超えはじめている」と書かれていますが、まったく同感です。実際、2014年7月にドイツの陸上選手権では、マークス・レームという義足の選手が走り幅跳びで1位になりました。もう世の中の方が先に進んでいるわけですね。現状の近代スポーツの形態は、プレイヤーのエコシステムや観客の存在も含め、いろいろな淘汰を経てできたものだと思いますが、その均衡点がゆらぎ始めていて、今やもう一度スポーツ自体を再発明する段階に差しかかっているのではないかと思います。
 そもそも、我々が小学生の頃は、スポーツやゲームはみんなが発明家だったはずなんですね。勝手にホームベースの位置を変えちゃったり、それぞれがローカルルールを考えていた。それがいつの間にか、中学校以降の「部活のスポーツ」になってから、決められたルールの中で、いかに高いパフォーマンスを出すかという話になってしまって、ルール自体を変えていこうという思考が及んでいない。テクノロジーと身体の結びつきを考えるのも大事な点ですが、もう一度「ルール」というもの自体を捉え直して、我々が新しいスポーツ自体を創造するということもチャレンジであり、面白いと思いますね。

山中 基本的な問題意識は、その通りだと思います。ただ、スポーツには競技者だけでなく鑑賞者の問題が存在します。つまり、観ている側の「自分も頑張ればできるんじゃないか」といった共感性が前提にあり、みんな同じ身体だからこそ成立すると思っている。障害者の存在を抜きにしても、スポーツは根本的に身体の均質性を前提としているから、男女別にしたり、体重別階級制にしたり、いろんなルールを設ける。しかし一方で、少なくとも「人種別にやろう」なんてことは誰も言わないわけですよね。そうやって「同じ人類」という良識の中で、なんとか収めようとしている。その認識の枠を広げようということ自体は大賛成なのですが、もし、観客にとって自分と異なる身体を持った、ピストリウス選手や先のマークス選手のような義足の選手の方が圧倒的に有利だという状況になると、それは共感の外になってしまうかも知れない……。つまり、障害者が参加するスポーツでは、我々が普段楽しんでいるスポーツとは違う見せ方、ストーリー化が必要になるかも知れないということです。それは従来のスポーツと大きく違わないかもしれないけど、より幅広くする意識改革は確実に必要でしょう、井上さんが提案の中心に取り上げられたクラス分け等の問題よりも、そちらが重要な気がします。

井上 ご指摘ありがとうございます。観客の共感性、エンターテインメント性の点では、僕の原稿でも触れた障害者プロレスが良いモデルケースになると思います。あれは異なる身体同士の対戦という面でエンターテインメントとして非常に洗練されていて、まるで漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』や『バキ』のような独特の凄みがあります。「同じ人類」という感覚を入れていくためには、そこに障害者だけでなく、老人や子供が混ざるのは重要かと考えています。実際に障害者プロレスでは子供が参戦したりしていますね。

川越 私の専門は経済学ですが、ゲーム理論の考え方による社会のルール設計を専門にやっていて、とくに近年は「障害の社会モデル」というものを研究しています。通常、障害というと身体的、知的、あるいは精神的な機能の損失状態ということを念頭に置くわけですが、私が研究してきた障害学では、インペアメント(身体的・知的・精神的機能損失)とディスアビリティ(社会的障壁)という概念に分けて考えています。たとえば、耳が聞こえないということ自体はインペアメントですが、ろう者(耳が聞こえない人)が町中でコミュニケーションに不自由するのは、インペアメント自体が理由ではない場合があります。町中に手話通訳者がいたり筆談の用意があれば、コミュニケーションに不自由はしない。つまり、ろう者にとっては、自分たちが使う手話こそが自分たちの母語である。なので、それが言語であることを認めてくれない日本社会がディスアビリティの産みの親だという理解になる。このように、障害の社会モデルでは、身体的・知的・精神的な機能損失とは区別された社会的な問題について考えているわけです。
 そういう観点から見ると、オリンピックとパラリンピックを分けてしまうこと自体がすでに、ディスアビリティの壁を生みだしていると言えるんですね。そうした中、井上さんの提案は、まさにそのディスアビリティの壁を解体する試みと言えると思います。しかし、障害者と健常者の混成チームで勝利をめざす場合、障害が軽度の人を多く採っておいて、あとは人数合わせで障害が重度の人を入れるという構成が最適になってしまう危惧があります。つまり、捨て駒としてチームに入れられてしまったら、障害者自身にとって面白い競技になるのか? という点はどうでしょう。

井上 まず、車椅子バスケという実際に広がっている競技の中でこのルールが採用されているということは大きなことです。たとえば井上雄彦の漫画『リアル』などに描かれていますが、障害の程度が完全に問題ではなくなっていると言い切れるかどうかについては、議論はあるかもしれません。しかし原則的には、障害のレベルによってそれぞれに戦略的価値が生まれる設計にはなっています。少なくとも、単純な捨て駒という状態ではないように見えます。それでも難しければ、稲見先生が言われたように、本当にスポーツ自体をゼロから作り直す方法もあるでしょう。それはもう、今あるスポーツの延長線上で考えるというより、何かナゾの新しいスポーツを作ってしまって、そのスポーツに賛同する人が増えるかどうかという勝負をしていくしかないと思いますね。最近はレッドブルなどが支援している、モトクロスやウィンドサーフィンのような「エクストリームスポーツ」と呼ばれる競技が盛り上がっています。あれは怪我人も多いですが、身体能力的な技術も非常に高度なものが要求され、観客もすごく盛り上がってます。
 つまり、観客も納得するエンターテインメントとして成立すれば、新しいスポーツを作っても認められるわけです。実際、パラリンピックでは、目の見えない人が音の出るボールで競技するゴールボールとか、新しいユニークな競技が採用される率がオリンピックよりも圧倒的に多くて、そこがパラリンピックの面白さにもなってますね。

障害者参加でスポーツは面白くなるか?

宇野 先ほどの川越先生のご指摘では、現在は障害の重さがクラス分けに反映されるけれど、それが総得点方式ではプラスかマイナスかという点数に換算される、その「点数に換算される」ということが、スポーツへの主体的参加にともなう快楽を決定的に損なうのではないか? という点が重要だと思えますが、そこに関してはどうでしょうか。

井上 これは根本的な問題で、パラリンピックでどのように障害のクラス分けをするかということ自体が、基本的に一定の恣意性を持ち、政治的に決定されているという面があるわけです。そういった政治性は犠牲として受け入れなければいけないもので、結局は恣意的に決められた公平性を介してしか競えないんだということを露わにして、みんなで受け入れよう、という話なのかと思っています。

稲見 逆に、私はスポーツにテクノロジーが導入される過程で、現在のように政治的な恣意性に縛られた健常者と障害者のクラス分けは、なくせる気がしますね。また、自分とは異なる身体に対して共感性がなくなってしまうという問題も、逆に自分がテクノロジーの支援でトッププレイヤーと同じ土俵で競技できるようになるかもしれないということが、かえって共感性を広げる可能性があると思います。

川越 とはいえ、平等な競争というのは、みんなが同じ努力をしたら同じ結果になるというものでなければなりません。ピストリウス選手の場合も、競技の範囲で彼が消費するエネルギーはほかの選手よりも少ないのではないか? という議論があったと思います。たとえば、将棋の「電王戦」で知的障害のある子供にスーパーコンピュータによるアシストをつけて、羽生善治名人と戦って引き分けた場合、その子供が充足感を得られるか? 観客も納得するか? と考えていくと、単純な勝ち負け以外の問題がありますよね。

稲見 それは、スポーツにおけるアファーマティブ・アクションと考えてはどうでしょうか? オンライン将棋では実際それに近い事態がありますが、むしろ逆に、素人がコンピュータの支援を受けて強い有段者に戦いを挑むことに楽しみを見出す場合もあります。つまり、能力差がありすぎて勝負を諦めてしまう人たちでも、テクノロジーによるアファーマティブ・アクションで、参加する楽しみを味わえる可能性もありえるわけです。

川越 すでに、インターネットなどを利用した通信チェスの世界的な競技会では「コンピュータのアシストを使用してはいけない」という規律が緩められていたりしますね。なので、相手がコンピュータを利用していることを前提にプレーすることになる。すると、今までとは違った動機でチェスをプレーすることになっていくと思うのです。発展している強いコンピュータに対して、自分がどれぐらい力を発揮できるのか試してみたい、という人もいるでしょう。さらには、人間の力では発見できないような新手とか定石の欠点を見つけるとか、従来とは異なった競技性が見出されていく面もあると思います。ですので、スポーツでも競技にエンハンスメントを取り入れるのであれば、同時に競技会の目的も変えていく必要があるのではないかと思います。

山中 それは理解できます。根本的にはゲームもそうですね。自分の身体を切り離して競争することができる場を作るという。それを技術が解決してくれる可能性はすごくあるんでしょう。ただ、そこで、僕は「観る側」を問題にしているんです。なぜスポーツの熱狂的なファンは、自分たちの代表選手が負けたらあんなに怒るのか? やっぱり、それは選手に自己同一性を投影しているんですよね。スポーツに観客はなぜ必要なのか? というラディカルな問いが必要でしょう。

宇野 それでは、従来の個人同士の身体で競う「近代スポーツ」というより、「ゲーム」としての新しい面白さによって観客の共感性を獲得すればよいのでしょうか。

井上 そういった非対称性の問題は基本的には「ハンデ」方式ベースの議論ではないでしょうか。総得点方式でチーム内にエンハンスメントのある人とない人を混在させて、どのチームも等しく同じレベルのエンハンスメントを与えられている形にすれば、非対称性はチーム内の問題になるため、チーム間の非対称性は解消されます。チーム内での非対称性の問題は、ハンデとしてではなく、戦略の問題として現れるようになれば、あくまでプレイの多様性をどう設計するかということが問題になるので、ハンデによる盛り下がりはなくなります。

宇野 少し突っ込んだことを話すと、今回はあえて我々のような文弱の人間がスポーツを考えるという企画で、そこではまさに山中先生が述べた「共感性」が課題なんです。
 漫画の『最強伝説 黒沢』の冒頭にこんな場面があります、みんながワールドカップを観て一生懸命に応援しているんだけど、主人公の黒沢がふと「これはオレの感動じゃない」と冷めてしまう。つまり、カール・ルイスやウサイン・ボルトのような選手の活躍を見ても「自分もできる」という共感で盛り上がれない。こういう人が先進国では消費社会の進行とともに、どんどん増えていってると思う。こうした中、国民的なあるいは世界的な興行としてスポーツは成立するのか? そこで今後、従来のスポーツと異なる見せ方のエンターテインメント性は何かを考えたいわけです。

山中 もう一つ違う角度から述べます。オリンピックは、鍛え上げられた身体や洗練された動き、躍動感、スピード感など、「すごく美しいものが観られる場所」なんだよね。僕は、パラリンピックもちゃんとその美的要素があると思っている。だから、その観点で(競技を)デザインし直せばオリンピックと融合できるんじゃないかと思うけれども、今の議論ではその観点が抜けたまま、「どうにでもデザインできる」という話にされちゃってる気がします。その点はどう思いますか?

宇野 つまり、「美しい走り」や「美しいシュート」をいかにデザインするかですね。「感動をありがとう」式のスポーツジャーナリズムの文脈に共感しない人間でも、「美しい走り」や「美しいジャンプ」そのものに感動することはありえるわけですから。

山中 そうです。僕は実際に義足をデザインしていますが、義足は身体性の高い人工物なので、見せ方やデザイン次第ではとても美しいものになります。車椅子もですね。ただ、美的な感覚というのはシンプルなもので、パラリンピックとオリンピックを融合させるように、(多様な人体と人工物などを)混在させるのは困難かもしれない。

宇野 マクロには多様な美的感覚を包摂できるゲーム設計を行って、その上で個々のプレーの美しさを引き出すミクロな創意が必要、ということでいいのではないかと。言い換えれば、近代スポーツが持っている機能美というのは(その競技に特化した肉体ひとつ、といった)すごくシンプルなもので、それに対してエンターテインメントは、多様であることや複雑であることが価値を生んでいるということです。僕は近代スポーツの全体主義な美的感覚をエンターテインメントの美的感覚で民主化したい。総選挙というマクロな異種格闘大会があった方が、「歌がうまい」「美人だ」というアイドル個々のミクロでシンプルな価値も輝きますしね。

山中 美意識というものが技術や社会的な体制、価値観によって変わるという意味では、いずれは自然にアップデートされていくでしょう。しかしそれにはものすごく時間がかかるわけで、その美の内実をもっと明晰に分析したり設計するための材料が、現状の議論ではまだ見つかっていないのではないかという印象です。

宇野 情報技術や義肢装具の発展によって、どこまでが人体で、どこまでが人工物かの境界線を引くことが難しくなっているという現実があるわけで、それは美意識の多様化も生んでいると考えられませんか? 現にエンターテインメントの世界では長く拡張身体の美意識は洗練されてきているわけですからね。

川越 スポーツで美意識というのは重要な要素だと思います。たとえばサッカーでは、オフサイドがない方がどんどんゴールできるのに、なぜそれを制限しているのか? 中村敏雄さんの『オフサイドはなぜ反則か』という本によると、サッカーの起源は町や村のお祭りで、簡単にゴールが決まっちゃうと、お祭りとして盛り上がらないのでオフサイドが導入されたそうです。その後も、たくさんゴールすることより、うまく相手のディフェンスをくぐり抜けてゴールするまでがゲームの醍醐味だという考えがオフサイドというルールを支えてきた。
 このように、スポーツでは、単に勝ち負けや世界的な記録の更新ばかりでなく、たとえば跳躍なら跳躍の美学を追求する面があります。だから、エンハンスメントを進めて、義足をはめて跳躍するという新しい跳び方を発明した場合、「そっちの方がきれいで格好いいんじゃないか」という論議が起こってくると思うんですね。

井上 そうですね。エクストリームスポーツなんかは、観客の反応も含めて、すでにそういう「新しい美しさ」を見出している面があると思います。

テクノロジー的解決と「どこまでが人間の身体か?」

川越 アメリカにケイシー・マーティンという脚に障害を持つプロゴルファーがいまして、試合でカートに乗って移動することを全米ゴルフ協会に訴えて、最終的に勝訴しました。この訴訟で議論になったのは、カートで楽々とコースを回るというエンハンスメントがゴルフというスポーツの競争の公平さを壊すのではないか? という点だったのですが、「自分の脚でコースを歩いてこそゴルフなんだ」という美意識も関係していたと思います。こうしてみると、スポーツの目的によって、エンハンスメントが認められる範囲も変わってくるような気がします。

井上 これはゴルフが個人対戦だから起きる問題という面もあるでしょう。仮にゴルフも総得点方式で3、4人ぐらいの団体競技にして、歩くのは何人までという規定を作れば、「そもそもゴルフとはそういうものだ」という感覚を作れるんじゃないかと思います。

山中 それはカートのデザインで解決可能な気もしますね。つまり、現状、カートで移動するのは無粋だからダメと言うのなら、みんなが「カートで移動するのは歩くよりも紳士的で優雅だね」って思えるような存在にすればよい。たとえば、馬で移動するのはダメなのか? などと考えると、ただ便利な道具にしない方向性も見えてくるじゃないですか。

宇野 でも、チームで「一人カートOK」というのは、野球でいうとDH制(指名打者)の変形みたいな感じでいける気がしますね。

井上 そこは、ルールで解決してもインターフェイスで解決してもいいと思います。

稲見 そうしてエンハンスメントを足していくと、どこまで拡張するかという問題になります。そこで、エンハンスメントではなくエンチャントメント、魔法のように見せるという方法論の方が、着地点がはっきりするかも知れません。たとえば、映画の『ハリー・ポッター』で「クィディッチ」という架空のスポーツが出てきますよね。あれは普通に観られて、応援もしたくなる、もし可能なら自分も参加してプレーしたら楽しそうですね。

山中 なるほど、洗練されたテクノロジーが魔法みたいに見えるから、逆に身体性を損なわないというわけだ。

井上 西暦2100年ぐらいを想定した長期的プランなら、その頃には多様な身体が競い合うのが自然に様式美となっている、という状況も普通にあり得ますよね。

稲見 今ある現実のスポーツは、物理現象が制約条件なわけですよね。でも、ゲームの世界では、物理現象とは独立したルールがある。それを物理的にスポーツの中に押し込むこともできるかも知れない。たとえば、今、空飛ぶロボットボールとかが開発されてますね。あるいは、前後が同時に見えるHMDを装着してプレーしたらどうなるか。実際に目の不自由な向けの障害者スポーツでは、音を出すボールを使う競技があります。その音の聞こえ方を人によって調節すること自体がまた新しいルールにもなり、ハンデのデザインにもなるでしょう。ちなみに、最近聞いた面白い話で、耳に電極を埋め込む人工内耳というものがありますね、ある電気工作好きの研究者がそれをハックして勝手に周波数帯を変えたら、超音波が聞こえるようになったそうです。

井上 そういうものを使えば、ゆくゆくは超音波や赤外線を関知したり、プレイヤーが現実とはまったく異なる世界を見ながら競技するような世界も可能ですね。

稲見 テクノロジーで新しい身体性を獲得する、トランスヒューマニズムという考え方があります。もしかしたら、スポーツの定義自体が身体の限界にチャレンジすることから、身体の限界を突破することになるかも知れません。

井上 すると今度は、テクノロジー次第ではいくらでも身体の限界を突破できてしまうので、そこで競技している身体とは何なのだ? となってしまいますね。

山中 F1などのモータースポーツも、今やマシンの進化で人が乗らなくても競争できちゃうんだけど、人が乗る前提でかろうじて身体性を保ってます。身体性と無関係にスポーツを成立させることは簡単にできてしまうので、一見ハンディキャップの問題は解決してしまうんだけど、それで解決したと言えるのかは疑問ですね。

井上 今、パラリンピックだと、義足で許されているのは、基本的にばね方式のものだけで、動力機構とかをつけ加えるのはだめです。その区切りをどこにするのか?

稲見 装着できる外骨格のスケルトニクスだったらスポーツでしょう。あれはアクチュエータが入ってませんけど、竹馬競争と考えればよい。

宇野 射撃やアーチェリーもツールの性能が影響しますね。身体への反動補正とか。稲見先生としては、「同じ身体で競技している」という点は、あくまで文化的な問題なので、いずれテクノロジーと社会の関係で自動解決されるという立場ですね。

稲見 はい、そこは楽観的に考えています。

川越 しかし、身体拡張テクノロジーを進めると、最終的には映画の『リアル・スティール』に出てくるロボットボクシングみたいに、「もう人間はいらないんじゃないか?」という話になってしまう気がします。どこまで人間の要素を残しておくべきかという問題が、競技者の自己達成感や、観客の共感性のような面に関連して起こってくるのではないでしょうか。

稲見 いえ、100年後のスポーツでも「人間はいらない」とはならない気がしますね。ロボット対戦競技会の「ロボコン」も、自動操縦部門より、相撲ロボットとか人が操縦する部門の方がはるかに人気なんですよね。やはり、メカではなく人を応援するというか、どこかに人が絡んでいる要素がないと盛り上がらないようです。もうひとつ、未来のことを考えると「身体そのもの」よりも「身体性」の方が大切かも知れません。競うものを「人間」というよりは「人型」とするとか、自分が没入しやすいものにする……これはデザインの問題かも知れないですが。

宇野 「身体」は現実だけど「身体感」は文化の問題でも当然あるので、それは僕たちのような仕事をしている人間が構築していかないといけないですね。

稲見 『リアル・スティール』でも、お父さんが元プロボクサーという点がキーですね。あの映画は現在考えられているほぼすべての、五感に直結したNUI(ナチュラルインターフェイス)が出てくるんですが、最終的に、人間の腕の動作と直結したダイレクトマニピュレーションがいちばん強いという描き方ですよね。そういう意味で、機械の肉体になったとしても、競技者や観客が没入できる可能性は十分にあり得ると思います。

山中 人の美的感覚や身体感覚を大きく変えていくには100年かかると思いますよ。ただ、見せ方、演出の仕方、周囲の観客との関わり方をエンターテインメントとして変化させることは案外短期的に可能です。だから、「拡張オリンピック」を成功させるためのデザインで重要なのは、実は身体拡張の方法そのものではなく観る側の問題、メディア戦略じゃないのかな。

ショーとしてのスポーツの価値

井上 クーベルタン男爵が言った言葉として広まっている「参加することに意義がある」という言葉がありますね。その字面をそのままとれば、それは、単純に「世界一」とかじゃなくて、いろんな人が参加できる方がいいじゃないか、という話になりますよね。つまり、AKBのように未熟なプレイヤーの成長をリアリティショーとして見せていく方が、本来のオリンピック憲章の本来の理念に近かったんじゃないか? という気もするんです。

山中 でも、その考え方をラディカルに進めると「べつに鍛えてがんばった人が優勝でなくてもいいじゃない」となっちゃう。つまり、ランダムに選ばれた素人が、その人の身体能力に応じてハンデを与えて競えばいい、という話になってしまわないかな。

宇野 それは車の両輪で、一方で「世界一決定戦」という目標を掲げるからこそ、それに向かってがんばっているさまざまなプレイヤーそれぞれに背負った物語への感情移入が生まれているんですよ。だから、観客の「世界一のプレーを見る/プレイヤーを決める」と「プレイヤーに感情移入して応援する」というふたつの快楽を分けるなら、後者の快楽を担保するため前者の快楽が使われているわけですよ。

稲見 もう少し進んで、その「大会」の運営を、AKB的なエンターテインメントコンテンツ化できませんか。

宇野 現にプロスポーツというのは半ばそうなっていますね。アマチュアスポーツであるオリンピックが、特殊な世界になっているけど、プロスポーツのディープなファンの大半は、リーグの自分のひいきの選手のリアリティショーに感情移入して観てるんですよね。
 だから、今回の井上さんのプランは、プロスポーツのエンターテインメント要素を部分導入することによって、オリンピックのような国民的アマチュアスポーツの概念を拡張するという提案にも見えるんですよね。

川越 確かに、今のオリンピックは勝利至上主義みたいな面がありますね。井上さんの総得点方式がそれに対するカウンターになるためには、むしろ、もっと細かくクラス分けして、そのクラスの中では平等に競争できるようにして、1位を取りやすくした方がよいのではないか? という気もしますが、どうでしょうか。

井上 おっしゃる通りなのですが、まさに今、パラリンピックではクラス分けを真摯に細かくやるとメダルの価値が下がってしまうという皮肉な状況が起きてます。そこで、今のオリンピックのように単純に世界一を決めるという方針と、参加者はそこまですごい競技者ではないけれど、本当に多様な身体が参加できて、それを観ることが面白いという方針がある。その中間のレイヤーというか折衷案として、総得点方式みたいな競技会もあるというのが、ひとつのモデル像になると思います。

山中 僕はロンドン五輪でパラリンピックを観に行きましたけど、8万人のスタジアムが満員でウェーブも起こってみんな本気で楽しんでいる。僕の実感では、それをクラス分けが疎外しているという印象はまったくありませんでした。逆に、クラス分けが非常に丁寧に演出されていて、選手紹介するアナウンサーも「みんな、今日はピストリウスが目当てで来てるよね? でも、本当はもっと速い人がいるんだよ」みたいな言い方をして(笑)、「こんなふうにクラス分けされている、それぞれの中に凄い人がいる」といったことを非常に丁寧に面白く説明する。そうして、勝ち負けをどんどんシンプルにしていってるんですよ。そのストーリーは、あの場ではとてもうまく機能しているように見えました。
 つまり、いろんな競技者を混ぜて、全体で得点を競わせるようなシステムを作るよりも、徹底的に分解してしまった方がちゃんと機能してるようだった。そこは、まさに世界一を目指すというストーリーをかぶせた方が観客への訴求力があるという話と直結してる。この点が井上さんの総得点方式で選手を混在させることの問題点でしょうか。だから、オリンピックとパラリンピックを融合するなら、むしろ単純に、ストーリーを立ててものすごくきめの細かい競技をオリンピックの中に丁寧に入れてしまえば成立するような気もします。

宇野 とはいえ、近代スポーツに刻み込まれた「五体満足な身体」という前提は根強いので、それをしっかり相対化するメッセージ性を持ったモデル像が必要ではないですか。

井上 究極的には、従来のオリンピックに対して新しいモデルのほうに「こちらこそが正統なものである」という感覚を作れるかという、競技会同士の戦いをやるしかないわけですね。

不均質性をベースにしたルール作りの環境をいかに実現するか

宇野 あと、井上案は団体スポーツが前提ですね。近代オリンピックは「理想の身体」を追求してきましたが、チームスポーツでは、そこから離れた総合力が問われます。そこで、陸上競技、格闘技、器械体操などの個人スポーツはどうするのでしょうか。

川越 柔道や囲碁の団体戦は、チーム5人で先鋒、次鋒、中堅、副将、大将、という編成ですね、そういう形で個人競技をチーム形式にすることも可能でしょう。

稲見 そもそもチームスポーツだけでなく個人競技でも団体戦があるのはなぜなのでしょうか? つまり、どこに面白さがあるのか。それを生かせれば、健常者と障害者の混在チームがうまく機能すると思うんです。

井上 観客への訴求力という点では団体競技は有利ですね。たとえば1チームに10人いれば、その中に1人は自分と同じ県出身の選手もいたり、自分の好みの選手が見つかったり、応援するフックが作りやすくて盛り上がるという面があると思います。

宇野 簡単に決着がつく1対1の対戦より予測不可能性も高まりますね。

稲見 確かにゲーム性という意味ではそうですね。

川越 あと、柔道でも何でもそうですが、団体戦では、チーム内で弱い人は周囲からは「負けて当然」と思われているけれど、やはりチームの優勝がかかっているので、本来の実力以上の力を発揮しようというモチベーションがその人には生まれますよね。

稲見 となると、パラリンピックがすごく細分化されている話と、団体戦が存在する意義は両立するような気もします。

川越 また、プロのチームスポーツでは、巨人と阪神で監督の方針がどう違うかとか、そういう楽しみ方もありますね。一概にどういうチームを作れば絶対勝てるというセオリーはなく、じゃんけんと同じで「このタイプのチームにはこのタイプのチームが勝つ」というような組み合わせの相性もあるし、チームを運営する監督の采配が試されてビギナー選手が変わる可能性もある。だから、井上さんの総得点方式では、障害の程度が低い人を多く入れた方がチームを有利にする可能性はありますが、一方でそういうチームばかり集まってくると、平均的な障害を持った人ばかりのチームの方が強くなる可能性もありますよね。

井上 まさに、そういったことが可能になるようにすべきだと思っていて、5人チームの団体戦の場合、4人は健常者で1人が障害者にするのが必勝法になっちゃったら非常につまらないわけで、そうしないためのレギュレーションをどうつけていくかですね。あと、戦略性を入れた采配が苦手なチームや国はなかなか勝てないということになると、競技の作法も変わってくるでしょう。一方で、陸上競技のように「こざかしい戦略がないのがいい」という議論も出るでしょう。そこは、スポーツのあり方自体のレイヤーを複層化していくという話だと思います。

山中 それはいいことだと思いますが、根本の問題に戻ると、スポーツの成立概念を変えないまま、単に団体競技にして一定数の障害者を入れるだけでは、企業に一定数の障害者雇用を義務づけるみたいな、やむをえないルールにしか見えないんですね。果たしてそれでディスアビリティの解消になるのか。また、テクノロジーを取り入れた障害者参加で、均質な五体満足の人間だけのスポーツよりも本当に競技のエンターテインメント性は増すと言えるでしょうか?

宇野 それは多様な身体が集まることの面白さで突破可能だと思います。野球でも、キャッチャーに適した人、ピッチャーに適した人などフィジカルな条件は違います。とくにアメリカンフットボールは、パワーのある選手、スピードの速い選手、持久力の高い選手など、選手層のバラエティが富んでいることがいいチームの条件ですから。逆に言えば、たとえばRPGで全員「戦士」だけのパーティで面白いですか? という話ですね。

井上 実際、もし障害者が健常者を負かしたり、逆にエンハンスメントされた選手に100%生身の選手が勝ってみせたら、間違いなく観客は盛り上がるでしょう。少なくとも、そういうタイプの不均質なエンタメ性を持った競技大会を、均質性をベースにしたレガシーなオリンピックやパラリンピックと並置して実施することには、大きな意義があると思います。たとえば目の見えない人が行っているゴールボールに、総得点方式で健常者も参加させることもできるでしょう。その場合は、むしろ全盲の人をいちばん障害が軽いという扱いにして、本来見えている人は試合のときだけアイマスクでブラインドして重度の障害者としてみなすといった逆転をさせてもいい。

川越 ひょっとしたら、たとえば片脚の人の方が両脚のある人よりも身体能力が発揮しやすい競技があるかも知れませんね。ただ、そのようなルール設計に、障害者自身が主体性を持って参加できなければ、冒頭から述べているようなディスアビリティは解消されません。そこで、スポーツのルールや制度の設計に障害者自身がどうやって参画できるのか、その方策も別の問題として考える必要があるでしょう。

山中 従来、新しい競技を作るにはすごく時間がかかってきました。たとえばサーフィンでも、サーフボードという器具を作ったり、波乗りのための身体の鍛錬、安全対策など、膨大な過程があります。まずはそういう試行錯誤を短縮できる環境を整備することが、今日、問題提起させていただいた美意識のデザインや観る側へのストーリーテリングのためにも必要なのだと思います。

稲見 つまり、新しいスポーツのアイディアのラピッドプロトタイピングを行なう、いわば3Dプリンター的なプラットフォームですね。それは、テクノロジーではなくて、純粋に仕組みの問題かもしれません。犬飼博士さんがやっている「未来の普通の運動会」がいい例でしょう。ITの発展によって「テクノロジーの民主化」が現在進行中ですが、それと同様にスポーツにおける「ルール設計の民主化」が必要なのだと思います。現在は、そうなっていく途上の時代なのでしょう。

[了]

この記事は、2015年に刊行された『PLANETS vol.9』の記事を再掲したものです。宇野常寛が聞き手を、佐藤賢二が構成をつとめ、あらためて2020年5月6日に公開しました。Banner Portrait by Naomi Circus(山中俊治)。


『PLANETS vol.9』には、今回の特別企画で紹介する「Aパート(Alternatives編):オルタナティブ・オリンピック/パラリンピック・プロジェクト」以外にも、都市開発というアプローチから東京の解体・再編を試みる試案「Bパート(Blueprint編):東京ブループリント」や、文化系でもカルチャーで勝手に盛り上がる「Cパート(Cultural Festival編):裏五輪=サブカル文化祭」、そしてテロリズム側の視点から改めて国家プロジェクトの危機管理を再考するセキュリティ・シミュレーション「Dパート(Destruction編):オリンピック破壊計画」など、様々な角度から2020年の東京オリンピックのオルタナティブを試みたビッグプロジェクトが記されています。気になった方はぜひ読んでみてください。