結論を先に言う。資本主義もマインドフルネスも、これまで共に「わたし」に閉じてしまっていたものが、相互にはたらき合いながら、両者は今、「わたしたち」の地平へと開けつつあるのではないか。それが私の見立てだ。

マインドフルネスとはなんだったか

 マインドフルネスの由来を尋ねれば、仏教の禅でいうところの身心脱落、つまり、自らを縛る自我(「わたし」)から解放された無我の体得に辿りつく。パーリ語の「気づき」を表す「サティ」の訳語としてのマインドフルネス、その源流ともいえるティク・ナット・ハン師は「人間存在(human-being)は、間的存在(inter-being)、つまり関係性から立ちあらわれてくる存在である」と説いた。大乗仏教において、私とは縁の上にはじめてあらわれるものであり、私そのものは「空」であると認識する。変化し続ける縁の上にある「わたし」とは「わたしたち」のうちにあり、あらゆる現象は「わたしたち」の地平に立ち現れてくる。

 高度経済成長を経て、心のどこかで資本主義の限界を感じながらも、更新され続ける未来の夢に急き立てられて、私たちは際限なく豊かさを求めて生きてきた。そのことに一部の人々が違和感を抱き始めた1990年代後半、企業や学校でのメンタルヘルスケアが社会的な課題になると、医学的、心理学的アプローチのみならず、社会の仕組みから一定の距離を置くことを望む人々が、ヨガや瞑想といった精神世界に少しずつ関心を寄せはじめた。2000年代には、ヨガやスピリチュアルはより親しみやすい形をもって広まり、一つのブームともなった。消費社会の疲弊を癒すものとして、哲学や精神性もまた消費対象となって大衆文化に浸透していった。

 時を同じくして、国内外では仏教や禅への関心が高まる一方で、1990年代にオウム真理教やその他のカルト的な新興宗教がもたらした「宗教」への不信感や嫌悪感は拭いきれず、他宗教を信仰する欧米の人々にとってみてもまた、「宗教」の枠組みは壁でもあった。まして、資本主義の最前線たるビジネスの世界では、かつて以上に科学的なエビデンスが重視されるようになっていたから、ヨガやスピリチュアルとの文化的な距離は大きかった。

 そんな中、マサチューセッツ大学医学大学院教授のジョン・カバット・ジン氏が仏教の禅の思想や修行から「宗教色」を取り除き、西洋科学と統合して提示したのが「マインドフルネス」という概念だ。こうしてスマートに翻訳、アレンジされた能力開発・メンタルケアツールとしての「マインドフルネス」は知識層を中心にビジネス世界へと一気に広まり、もともと坐禅など仏教の文化が根付いていたはずの日本にも、その流れが「逆輸入」されることとなった。

「わたし」の能力開発ツールとしてのマインドフルネス・ブームと、「わたし」の肥大化を求める資本主義の精神

 ここで導入されるマインドフルネスは、接し方、使い方によっては身心脱落とは逆のありように向かい兼ねないことを言及しておきたい。ビジネス世界には、個人の評価基準や競争原理が強くはたらいている。マインドフルネスが「個人の能力開発」の文脈で用いられる時、2,500年にわたって受け継がれてきたこの世界観が、「宗教色」と共に抜け落ちることがあっても、おかしくはないだろう。

 2007年には、Google社が社内の人材開発プログラムにマインドフルネスを導入したのが注目を集め、以降、GAFAやマッキンゼーといった欧米の大手企業は次々に社員のパフォーマンス向上を目的にマインドフルネスを採用した。今では、心身を整え高いパフォーマンスを発揮するための優れたツールとして、あらゆる分野に取り込まれている。

 これまでも、仏教やヨガなどの東洋哲学に関心のある人々は一定数いたとはいえ、先進国でこれほどまでも一斉にマインドフルネスが取り入れられた背景とは、いったい何なのか。

 資本主義のシステムにおいて、資本は時間と共に増殖し、価値は時間をテコにディスカウンティングすることが前提にある。人も「人材」として常に評価され消費されゆく世界において、個々人は生き抜くために自らの価値を高め続ける必要がある。そうして世界はそれぞれに競争を繰り広げながら、しかし一丸となって未来の見えない幸福を目指し続ける。自我の拡大こそが、資本主義を成り立たせているというカラクリの中に生きている。私たちは、「わたし」を肥大化させることに、絶えず急き立てられるシステムの内側にいる。

 戦後の私たちの日常は、当たり前の消費、当たり前の比較、当たり前の競争に溢れ、優位性の選択と同時にそうではないものの不採用と廃棄を行ってきた。多くの人が、世界に対して意味や価値の有無を問いながら、自らの意味や価値の有無を問われる不安に晒されてきた。社会的な肩書きや経歴、任務、所得、税金、言動、振る舞い──私たちは、個人(又は家)に割り当てられたそれらを未来にわたるまで「わたし」が背負い続ける人生を生き、そこでは常に個人としての責任を問われ、常に、更なる向上を目指すことになっている。誰もが「わたし」の価値に不安を覚えながら、その意味と価値を拡充しようともがいてきたのだ。資本主義で敷き詰められた地面の下に湧く行き場のない「わたし」たちが、精神的な充足や存在の確かさを求めて彷徨うのは当然のことだろう。

 2021年現在、資本主義という均質化した世界観が、世界の国々の個々人の意識を覆っている。それを支えるのが、競争し合う個人であり、個人の存在価値を少しでも高めようとする「わたし」だ。戦後、平和で自由になったはずの世界にあって、多くの人がこうした社会の仕組みからこぼれ落ちてきた。社会のあり方を問い、自らの存在の不確かさを克服しようとした多くの若者たちが、かつてオウム真理教に答えを求め、自らの居場所を見出そうとした。その時社会は、彼らを、洗脳され狂気を帯びた個人の集団として片付け、一連の現象を直視してその背景を充分に問うことをしなかった。

「わたしたちの資本主義」がマインドフルネスにも影響を与える

 しかし今、そうした資本主義そのものが岐路に立っている。

 2020年4月、「米企業、株主第一主義が大幅に軌道修正」という一文が、Covid-19関連で埋め尽くされるニュースの見出しに混じっていた。株主である資本家への利益還元ではなく、そこで働く社員やその家族はもとより、事業に関わるすべての利害関係者を考慮して振舞う「ステークホルダー資本主義」へと世界の企業は舵を切りつつある。ビジネスを中心とする人間活動が地球環境に与える影響が肥大化した結果、ビジネスはビジネスだけを考えていればよい時代は終わった。国際金融の第一人者である識者によると、世界の金融界も脱炭素へと大きく舵を切っているという。無限に拡大可能という前提に立ったスクラップ&ビルドの経済が終わり、有限な資源を上手にメンテナンスしながら活用するサステナブルな経済、サーキュラーエコノミーへと社会は移行しつつある。その担い手として先頭を切るのは、グレタさんをはじめとする若い世代だ。

 現在、社会の変化を促す大きな要因がテクノロジーであることは間違いない。特にビッグデータを活用したAIロボットの発展は、私たちに「人間とは何か」「幸せとは何か」といった根源的な問いを突きつけている。WHOはその憲章前文において、「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉のwell-beingであり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と、ウェルビーイングという概念をもって健康を定義している。GDPという経済的指標だけでは、人々の健やかさや豊かさは測り得ないということが世界の共通認識となりつつある中、一人一人のあり方の質こそ問われるようになっている。ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が、2019年1月のダボス会議(世界経済フォーラム)にて「経済的な幸福だけではなく、社会的な幸福にも取り組む必要がある」と述べ、ウェルビーイング予算の計画を世界に打ち出したのは、記憶に新しい。

 そのようなサステナビリティやウェルビーイングへ向かう社会のシフトを、Covid-19は後退させるのだろうか。ダボス会議が提唱する「The Great Reset」をタイトルに冠する本の共著者ティエリ・マルレ氏は「Covid-19はきっかけに過ぎない。すでに存在するリスクを顕在化させ、加速しただけだ」と語る。環境研究専門の識者によれば、地球温暖化等の影響で未知のウィルスに遭遇する確率が高まる一方、都市生活の広がりによって人間の免疫が弱まっていることが重なり、たとえCovid-19が終息しても今後絶え間なく新たなウィルスの脅威に人類は晒され続けるという。私たちはウィルスを前にして、根絶を目指して闘い、勝利を収めにいくのではなく、世代を超えて付き合う覚悟を持たなければならない。地球の温暖化を抑え、人間の免疫力を高めるためにも、サステナビリティやウェルビーイングはますます重要になっていくだろう。自分のためにも、他者のためにも、人間が生き方を根本的に見直さなければならないところに来ている。

 あらゆるものが複雑にコネクトし合うグローバリゼーションによって、今や私たちは対岸の火事の存在しない世界を生きているということを、Covid-19は示した。フランスの思想家ジャック・アタリ氏が指摘するように、倫理的な責務としての利他主義から合理的利己主義としての利他主義へと人類が移行しつつある。しかし、そのような新常態を実現しなければ私たちに未来はないとわかっていても、変化には常に痛みが伴う。我慢したり苦しんでやるのではなく、楽しいからやる取り組みでありたいし、そうでなければ長続きしない。どこにも答えがないし、誰も正解がわからないのだから、失敗を恐れず、それすらも楽しみながらマルチステークホルダーでの対話を重ねたい。そうした対話そのものが私たちのウェルビーイングを高める処方箋となり、そこからサステナブルな地域社会は生まれていくだろう。

「わたしたちのマインドフルネス」として日本仏教を再発見する

 では、どうしたら人は利他へと向かっていくのだろうか?

 仏教的なアプローチで言えば、もちろんその中心は、自分自身のエゴを見つめ、乗り越え、一切の執着から離れる道だ。でも、その道は誰にでも歩ける道ではなく、難行とも言われる。だからこそ、誰でも歩ける仏道として発明されたのが、易行道、念仏の道だった。そこには一切衆生を無条件で救う阿弥陀仏の絶対他力に身を投げ出すかたちで、利他的な生き方を引き出す宗教構造がある。

 思えば、「私」という個人に閉じ込められた自己を時間的・空間的に拡張して捉える視座へと導くことで、放っておくと自己中心的に生きる人間を利他へと誘ってきたのが、古今東西の宗教の役割だったのではないか。宗教の描く壮大な物語が、利他を促す一つの装置だと仮定した時、自己中心性が蔓延する現代社会の病理は、宗教の衰退と呼応するものであるようにも思う。

 そうした自己中心性が支える資本主義社会が称賛してきた「成功者」とは、究極、寿命をも克服して永遠に生きていく、肥大化した「わたし」だ。増殖させた資本は、「わたし」と、「わたし」の延長線上にある血縁者が享受・相続してゆく、果てない私有財産の世界でもある。

 しかし、近代化のため「個人」の観念が導入された明治期以前、日本における「わたし」とは、自分の一生に閉じることも、血縁に閉じることもない、今よりもおおらかで広がりのある縁に依るものだったと思う。それは、限りなく「わたしたち」に近いものだったのではないだろうか。今、取り戻すべきは、そうしてこれまで追いやってきた縁を現代社会に再び取り込み、再構築していくことだろう。それは、祖先という過去と、これから生まれくる未来との縁、そして、隣人、他者、異なる生命や地球惑星との縁でもある。時空間のどこをどう切り取ってみても、「わたし」は、その一部に他ならないのだ。

 現代社会の中で閉じてしまった「わたし」を解き、個人を超えてゆく繋がりを感じ知るマインドフルネスが必要だ。「わたし」を時間的・空間的に拡張してきたのは、日本においては、もしかしたら阿弥陀仏よりも祖先や死者との関係性に託されてきたのかもしれない。そんなことを、先般『グッド・アンセスター』という本を翻訳した仕事を通じて、私は強く感じるようになった。

 身体に意識を向けた瞑想プラクティスを重視する欧米型のマインドフルネスと比べて、あえていえば、日本型マインドフルネスでは環境に意識を向けていく。私たちは本能的に、鈴を揺らす風や、肌がまとう湿度、水滴にひろがる波紋をみる。それは、我が身をつくる他の命であり、私たちを守り導く大地であり、大いなる何かであり、祖先──すなわち死者である。

 一日に数回、「いただきます」と手を合わせる風習がある。夏の夜には盆踊りを舞って死者と戯れ、秋には月を眺めながら季節の実りを供え、共に味わう。各地に残る古い街道を歩けば、無数の足跡を感じるし、都市にあっても、住宅地の狭間にかろうじて遺された名もなき地蔵には、ささやかな野花が添えられている。資本主義社会の中で、その多くは朽ちかけ、廃れかけているとはいえ、日本には今なお、時間と空間を超えた環境との繋がりがあり、そこかしこに先人たちの痕跡を見ることができる。無意識にも、「私の意識と身体」を超えて環境そのものを感じる感性が、日本の風土(すなわち私たちの身体)に宿っている。

 東京タワーの上から地上を眺めると、思いのほかたくさんの墓地を見ることができることに驚く。そして、私とは、そこにひろがる時空を超えた果てしない風景の一部であることに、気づかされる。私たちは、いつも死者と共にあり、私たちは、環境そのものなのだ。

 イギリスの作曲家ブライアン・イーノが提唱した音楽のジャンル、アンビエント・ミュージックが「周囲の環境に溶け込んだ音楽」であるとするならば、日本仏教は果てない死者と共にある「周囲の環境に溶け込んだ仏教」として、「アンビエント仏教」と称することができるのではないかと私は思っている。

さらに開かれる「わたしたち」

 近代の資本主義を駆動してきたのが、過剰な消費を前提とする消費社会だ。消費社会には、生産者と消費者の二者が存在することになっている。しかし、そうした生産活動と消費活動を行う前提となる環境要素がすっぽり抜け落ちていた従来の消費社会モデルは、もはやサステナブルではないことが明らかだ。現状維持に限界を感じる時、勇ましいスクラップ&ビルド(破壊と再生、つまり、消費と生産)に、私たちはある種の憧れや幻想を抱く。そこで見落としがちなのが、分解者の存在だ。藤原辰史氏は『分解の哲学:腐敗と発酵をめぐる思考』で次のように述べている。

「装置を打ち倒すために、あるいは粉砕するために装置の真似をして、結局飲み込まれる。歴史はその繰り返しだった。そうではなく、装置が扱いきれていない分解過程を加速させること。そうすれば、装置が量産する不正義もまた、『運命』や『宿命』の座を分解に譲ることになるだろう」

 システムや制度改革、慣習の撤廃など、結果が持ち込まれるだけでは、装いを変えた既往の現象に再び飲み込まれていくことになる。そこに起こる分解の作用こそ、次なる展開を示していく。

 私がこれまで提案してきた「掃除の習慣」は、一つの分解の営みとも言えるかもしれない。日々、新陳代謝の中で剥がれ落ちる自らの皮膚にはじまり、生活から生まれるゴミは、大地や大気に戻るものもあれば、分解されずに溜まっていくものもある。誕生は、解体と死のはじまりであり、ものごとは分解によってこの世を巡り、腐敗または発酵によって別の存在へと変容していく。

 デモの後に掃除をする存在がいる。戦後の荒地を掃除する存在がいる。硬直した大地を耕す存在がいる。「わたし」に閉じていると、分解者の存在を見失い、自ら分解者になる発想も失われていく。言い方を替えれば、分解者に身を置くことで、自ずと「わたし」は開かれていくものでもある。破壊でも創造でもなく、生産者でも消費者でもないところにこそ、意識を向けたい。世界が停止しないのはそうした分解者のお陰だが、大抵はヒロイズムとは無縁のところで機能している。

 誰もが生産者であり消費者であるように、誰もが破壊と再生を繰り返しているように、誰もが分解者になれる。こうしたプラクティスもまた、アンビエント仏教らしいマインドフルネスではないかと思う。

「わたしたちのマインドフルネス」と資本主義のフロンティアを開くmonk manager

 他者との関係性の中で「わたしたちのマインドフルネス」を開いていこうとする取り組みも、少しずつ始まっている。私自身、コロナ禍以降、企業を対象にした僧侶との対話「モンク・マネジャー」の提供を始めた。何をするかといえば、お坊さんと企業社員との一対一の純粋なおしゃべりだ。利害関係のない第三者だからこそ、会社への文句も遠慮なく言えるというもの。

 リモートワークの広がる企業組織で消えてしまった、何気ないおしゃべりの時間。しかし、それこそが実は社員のウェルビーイングと創造性を支えてきた大切な時間だったのではないか。ある会社では、希望のあった計四十名の社員と一人当たり一時間、リモートで対話を重ねた。ふだん会社の枠組みの中に収まっているときには出さない、出せない声を出してくれていることは、声を聞けばわかる。目的だらけのビジネス界に、他者と共有できる目的のない時間を持つことには、こういう時代だからこそ意味がある。

 さらにモンク・マネジャーの面白いところは、社員個人への働きかけにとどまらないところだ。全社員のおよそ一割と一通りそんな対話を重ねれば、その組織の全体像がおのずと浮かび上がってくる。会社について、最もよく知っているのは社員だ。一人一人の社員こそ、外部のコンサルタント以上に最もよく問題の所在を知っているし、本当は答えも知っている。ただ、それを声にすることができないだけだ。だから、ひとりひとりの社員が、本当の声を出せるようになれば、組織は自然と改善するはずだ。

 最近、医療や健康の捉え方を見直す動きの中で、「予防医学」が注目されている。同じように、企業でも課題解決型のコンサルティングに代わって、組織の問題が大きくなる前に兆候をキャッチして事前に調整を行う仕組みがもっと充実していい。モンク・マネジャーは、企業組織が自ら持ち合わせた自浄作用や自己治癒力を高めることを促す。組織の声を聞き、必要があれば全体的な声の印象を組織のリーダーにも共有し、より良い声が響き合う組織にするための知恵を出す。コンサルティングが西洋医学なら、モンク・マネジャーは東洋医学的アプローチと重ねることもできそうだ。

ひらかれた仲間と、共に育てる。

 仏道の基本は「戒定慧」の三学にある。「戒」とは良き習慣を身につける戒律のこと。「定」は、心の平静を保つことを表し、マインドフルネスとも言える。そして「慧」は覚りを開き、自己と世界を正しく見る智慧をさす。戒をもって根を張り、定をもって幹を育て、慧をもって実らせる。それが、仏道における基本となる。

 マインドフルネスばかりに意識が向いても、根っこが揺らぐものならば、軸は定まらず、実りも貧弱なものになりかねない。釈迦牟尼ブッダは、根を張るために仲間と戒(習慣)の実践を共にしていくことを薦めている。本来であれば、家庭や地域、村といったなんらかの共同体の中に組み込まれていた習慣が、個人をおもんばかってきた現代社会では、個人の世界に籠りやすい。「密」を避け、人との距離を保つことを求められる昨今の状況にあってこそ、「誰と何をどのように共有できるか」という、私的領域とパブリックとの関係性の捉え直しを行う時期が来ている。それは、これからのコモンズ(共同体)を捉える視点とも言える。この過程において、「わたし」のマインドフルネスは、「わたしたち」のマインドフルネスになっていくだろう。

 ここで、共同体といったとき、帰属意識の負担感やしがらみをめぐる捉え方は様々で、あり方は個々に委ねられていい。遊牧の民のように移動しながら、テクノロジーの上に「わたしたち」を共有する人もいれば、土地に根付く人もいるだろう。大事なのは、誰かから与えられる一つの枠組みに収まるのではなく、それぞれの価値観や思想、身体性をもってして、それぞれにとってのほどよい繋がりを創造していくということだ。

 生きるということは、そうした創造の連続であり、自らの計らいを越えたところに縁は展開していくということ、そして、すべては破壊と再生とその間、別れと出会いとその間、生と死とその間を辿り巡っているということ。2020年、私たちは混沌の中に放り込まれ、これまで慣れ親しんできた世界の根本を問い直しながら、身をもって2,500年前から説かれてきたその言葉が表すところを体験しているのではないだろうか。

 わたしは常に、他者とつながり、過去とも未来とも共にある。同時に、「独生独死独去独来」の存在として深遠な孤独を生きている。共同体の一人でありながら、どこまでも孤独な存在であるという、互いを侵さないこの世の矛盾を、多層的に受けとめてきたのが日本という土地である。

 そうした多層的な “わたし” と時間軸を日常に取り戻していくことが、変容を果たしていくということだろう。そこに立ち合い、循環の作用を促すことが、宗教以前の宗教者の役割として果たして継いでゆくべきことかもしれない。

(了)

この記事はPLANETSのメールマガジンで2021年10月13日に公開した記事をリニューアルしたものです。あらためて、2021年12月2日に公開しました。
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