デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『”kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回に引き続き、『黄金勇者ゴルドラン』について分析しています。成熟を拒否することで成熟する「逆説的な成長」とは?
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端的に言うとね。
ワルター・ワルザックと「大人」になること
ワルター・ワルザックは、第一話から本作のヴィランとしてとして物語に登場し、主人公たちとパワーストーンの争奪戦を繰り広げる。ワルターはワルザック共和帝国(という架空の国家)の王子として、父親であるトレジャー・ワルザック皇帝の命を受け、黄金郷レジェンドラに至ることを目的とする。キャラクターデザインは容姿端麗な貴族を意図してデザインされており、またカーネル・サングロスという老齢の執事を常に従えている。そしてその名前が戯画的に描き出すように、ワルターは典型的な「悪のプリンス」として置かれている。年齢は20歳と設定されており、12歳である主人公タクヤたちからすれば、十分に「大人」と言うことができる。
ゴルドランにおける「冒険」とは、子供たちの想像力による遊びそのものを示していると本稿では考えた。そしてタクヤたちが無邪気に「遊び」として冒険を追い求めていくのに対して、ワルターは父親から認められるために――「成熟すること」を動機としてタクヤたちと対立する。主人公たちのカウンターに置かれたワルターは、設定だけ見ると、イマジネーションによる遊びを妨害する「大人」を象徴するかのように見える。
ところが実際のワルターは、そのように振る舞わない。それどころかワルターの存在が、むしろ作品のリアリティラインを下げ、タクヤたちの冒険を「遊び」たらしめている。そしてワルター自身は、タクヤたちの影響を受けてむしろ成熟を拒否することで成熟していくという逆説的な成長を見せる。そしてこのふたつは、密接に絡み合っている。
どういうことか説明していこう。まず本作品のリアリティの操作は、ワルターという「敵」を通じて行われる。主人公たちの遊びの世界が本当に命にかかわる危険なものなのか、それともおふざけで済んでしまうようなものなのかを襲いかかる脅威であるところの敵のトーンで表現するのは、作劇として順当な手法であるだろう。物語当初におけるワルターは、タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ年上の存在でありながらも、むしろタクヤたちよりも情けない、ある意味で子供っぽいコミカルな悪役として描かれる。外見は二枚目だが、中身は三枚目というのがワルターのスタート位置だ。そしてワルターがこうした存在だからこそ、物語空間――ゴルドランにおいてあるべきおもちゃ遊びの空間は、リアリティを欠いた、いわゆる「ギャグ時空」として成立する。ワルターは敗北のたび「どっしぇ〜!」という台詞と共に退場していく。これまで基本的には真面目なトーンで進行してきた勇者シリーズの伝統からすると、こうしたヴィランの振る舞いはいささか例外的に映る。
宇宙に出ても人が死なない世界
しかしゴルドランが特徴的なのは、そのリアリティラインが作中でダイナミックに変動することだ。たとえば一行が宇宙に出た際、宇宙空間に生身で出てしまったらどうなるのかという問いに対して「血液が沸騰し圧力の関係から全身が粉々になって死ぬ」と説明がなされる(これが科学的に正しいかどうかはひとまず置いておく)。しかし同じエピソードの後半で、ワルターは見栄を切るためだけに、生身で宇宙空間に出てしまう。そして長々と向上を述べたあとで、他のキャラクターから「そこは空気がない」と指摘される。それに対するワルターの反応は、次のようなものだ。
「ぎぇ〜! はやくなんとかして〜!」
そして息ができずに苦しそうな素振りをしながらも、宇宙船(厳密には勇者ロボの内部)に戻った次のカットでは、なにごともなかったように活動している。
重要なのは、この流れが同一のエピソードの中で行われることだ。ここではふたつの異なるリアリティが、意図的に混在させられている。より具体的に言うならば、「宇宙空間に生身で出たら死ぬ」というリアリティをいったん定義しておきながら、それを「ギャグ時空」で上書きしているのだ。
そしてこれは、単に作劇上のご都合主義以上の意味を持つ。ワルターは当初、父親に認められることを通じて成熟を試みる。しかしタクヤたちに巻き込まれ、これは一向にうまくいかない。それでも執念深くタクヤたちを追いかけ、ついにはすべてのパワーストーンを一度手中に収めることに成功する。勇者たちは一度パワーストーンに戻って主君が変われば、それまでのことをすべて忘れてしまう。ワルターは勇者たちを一度は我が物にしようとするが、葛藤の末それをあきらめ、パワーストーンをタクヤたちに返還する。なぜか。これまで父親に認められる以外の目的を持たなかったワルターは、タクヤたちとの争奪戦という冒険そのものに価値があったことを悟ったのだ。
つまりこういうことだ。マイトガインは旋風寺舞人の圧倒的な万能感によって、そしてジェイデッカーは人間となったロボットとの絆から父性と母性をバランスすることによって成熟を目指した。しかしこうした種類の成熟を目指したワルターは徹底的に失敗する。「大人」になろうとするワルターの試みは、タクヤたちの「遊び」に巻き込まれ、「子供」に引きずり降ろされ続ける。真面目な殺し合いは、常におふざけへとラインを変更される。勇者シリーズが開拓してきた成熟のイメージは、ゴルドランに至って、タクヤたちのように子供の遊び=冒険を続けることこそが成熟である、という逆説的な価値観にたどり着いているのである。
止揚する二項対立、完成された三位一体
これはワルターを軸にして、周囲のキャラクターたちを見ていくことでより明確になる。言い換えれば、ゴルドランという物語に込められた想像力は、ワルターをヴィランではなく主人公として見ることで浮かび上がってくる。
まずは(本来)主人公である(はずの)タクヤたちだ。興味深いことに、彼らは物語を通じて基本的に成長「しない」。
これはゴルドランのグレート合体に象徴される。今まで勇者シリーズにおけるグレート合体とは、対立する要素を止揚するゆえに最強たりうる象徴性を手に入れてきたのであった。ところがゴルドランのグレート合体は、こうした対立をほとんど持たない。そもそもゴルドランのグレート合体は、これまでの二体合体ではなく三体合体の形式である。そしてそのモチーフも、剣士(侍)・忍者・将軍であり、対比構造を持たされていない。
確かに、主人公であるタクヤたちがドランたちとの絆を確認することでグレートゴルドランへと合体するというエピソードは敷かれているし、タクヤ・カズキ・ダイという三人の心がひとつになることが、ゴルドラン・空影・レオンカイザーという三体のロボットが合体することに重ね合わされてもいる。全編を通じて見ていけば、多少の対立もないわけではない(登場当初の空影など)。しかし勇太とレジーナが激しい象徴的な対立から和解することでグレート合体を成立させたような力学は、彼らの間には存在しない。タクヤたちが最初から持っている絆をそのまま確認するだけで、グレートゴルドランは成立してしまうのである。
これは勇者シリーズとしては例外的に見えるが、ここまでの議論を踏まえるとむしろ自然な成り行きである。ワルターはタクヤたちとのパワーストーン争奪戦=冒険を通じて、遊びの中に成熟を見出したのだった。物語を通じて成長していく主人公がワルターであると考えるなら、この物語におけるタクヤたちはむしろ最初から完成されたロールモデルなのである。グレートゴルドランが象徴するのは二項対立の止揚ではなく、最初から完成された三位一体の美学――まさに変化することのない貴金属、黄金なのだ。
物語が「シリアス」になるとき
そしてワルターにとってもっとも重要なキャラクターが、弟であるシリアス・ワルザックである。ワルターはコミカルな三枚目としての側面が強く描かれており、パワーストーンの獲得に失敗し続けることはすでに述べた。そのため父親であるトレジャー・ワルザック皇帝はワルターを見限り、その弟であるシリアスをパワーストーン争奪戦に派遣する。兄であるワルターとは対称的に、シリアスは目的のためには手段を選ばない冷酷な人物として描かれる。シリアスは兄であるワルターさえも亡き者にしようとする。ワルターはシリアスが自分を殺そうとしたことを通じて父親に見限られたことを知り、傷心のまま姿を消す。
ヴィランの役割がワルターからシリアスへと移ったことで、物語のトーンはまさに「シリアス」なものへとシフトする。シリアスは兄を殺そうとしたのと同様、タクヤたちに命の危機をもたらす深刻な脅威となる。物語が進むにつれて、シリアスは深い孤独を抱えており、本心では愛を求めていることが明らかになる。
ひとりでは癒せぬ心の傷を抱えるゆえに悪事へと走る弟を打倒して救済すべく、姿を消したワルターは「宇宙海賊イーター・イーザック」を名乗り、物語へと復帰することになる。ワルターはタクヤたちというロールモデルに接することで父に従うことを脱し、冒険=遊びを続ける逆説的な成熟へと至ったことで事実上改心したのであった。「ワルター」という「悪」から「イーター」という「善」へと名前を変えることで、ヴィランではなくヒーローとして、自らが救われた経路を弟になぞらせようとするのである。実際、物語的にもイーターとなってからの活躍は目覚ましく、ピンチに陥る主人公たちを救う姿はヒーローそのものである。
シリアスに議論を戻そう。彼が辿る道程もまた、名前通り「シリアス」なものだ。失敗が続いたシリアスは父親に助けを求めるが、ワルター同様父親に拒否され、事実上死を宣告されてしまう。そして物語の途中で、シリアスには母親が不在であることが示唆される。母親を喪失し、父親の求める任務を遂行しようとすることで、シリアスは成熟することを強いられている。そんなシリアスが心から求めているものは、ワルターと同じく「子供であること」だ。その深刻さの度合いゆえにシリアスの救済は難航するものの、最終的にはイーターとタクヤたちの働きかけによって、シリアスは改心し、素直な子供としての気持ちを取り戻していく。ゴルドランの想像力において「シリアス」であることは、成熟を目指すことと結びついている。そしてそれは、常に子供らしく遊ぶこと=コミカルであることによって上書きされていくのだ。
(続く)
この記事は2024年11月6日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2024年12月5日に公開しました。(バナー画像出典:勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p43
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