デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『”kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。「黄金勇者ゴルドラン」分析の最終編です。20世紀的な男性性の美学を鋭く批判する、「所有」や「支配」ではない「遊び」による成熟のイメージとは?

「遅いインターネット」はPLANETS CLUBの皆様のご支援によって、閲覧数を一切気にせず、いま本当に必要なこと、面白いと思えることを記事にすることができています。PLANETS CLUBでは、宇野常寛が直接指導する「宇野ゼミ」、月イチ開催の読書会など、たくさんの学びの場を用意しています。記事を読んでおもしろいと思ったらぜひ入会してみてください。(詳細はこちらのバナーをクリック↓)
端的に言うとね。
世界の王、リカちゃん人形
こうした道のりを経て、一行は最終的にレジェンドラへと達する。そしてレジェンドラ王の正体が明かされるわけだが、その名前はレディリカ・ド・レジェンドラであり、その外見は明確に「リカちゃん」として描かれる。
レジェンドラ王という存在については、次のように説明される。レジェンドラに至れば願いが叶うという伝説は、レジェンドラ王の後継者を選定し導くためのものであった。その冒険の過程で勇者たちと心を通わせた者だけがレジェンドラへ至り、次の王となる資格を得る。王に与えられる能力とは、今の宇宙を終わらせ、次の宇宙を思うままに創造する力である。レディリカもまたかつては人間であったのだが、レジェンドラを先代から引き継ぎ、現在の世界を創造した。
そして新たな世界を創造する能力が、タクヤたちに託される。タクヤたちはワルターやシリアスも交え、合議の上でどのような宇宙を創造するか結論を出す。それは「レジェンドラ王にはならず、今のまま冒険を続ける」というものだった。そしてこれまで奪い合ってきたパワーストーンを共有し、全員で口上を唱えて勇者たちを復活させる。そして彼らと共に、また新たな冒険へと旅立とうとするのである。
これはおもちゃを巡る想像力を問う極めて高度なメタフィクションだ。ここでレジェンドラ王が「リカちゃん」の姿を持つことは決定的な意味を持つ。「リカちゃん」は1967年から展開されている着せ替え人形のシリーズで、タカラ社を象徴する大ヒット商品である。すなわちレジェンドラ王とは、勇者シリーズを展開するタカラ社とその営みを象徴している。そして「現在の宇宙の終わり」とはアニメーションという物語の終わりと受け取ることができるだろう。宇宙を終わらせ次の宇宙をはじめるという営みは「高松勇者」自身が――いやそれ以前から連綿と行われてきた、物語による販促そのものとはいえないだろうか。

本連載では、タクヤたちが経験してきた、そしてワルターやシリアスを救済してきた冒険の旅路は、子供の遊びそのものであると考えてきた。ゴルドランはワルターやシリアスが「大人」を目指す試みを挫くことで、「子供」とおもちゃの関係に立ち返り、その想像力による遊びの体験=冒険の旅こそが本質であるという美学を語ってきた。ところが映像作品という物語はいつか必ず終わりを告げてしまい、次の物語がはじまる。そして次の物語はまた新しいおもちゃをもたらし、そのサイクルが連綿と繰り返されてきた。しかし、映像が終わってもおもちゃはそこにあり続ける。では、そのとき冒険は、遊びは、おもちゃと共に過ごした時間は、どこに行ってしまうのだろう? 新たな物語によって上書きされ、消滅してしまうのだろうか?
タクヤたちが出した答えは、この問いに答えるものであるように思われる。すなわち、アニメーションが終わっても、その体験とおもちゃは心のなかに残り続ける。そして子供とおもちゃの絆は続き、冒険の物語を無限に紡いでいくことができる。そしてその冒険の旅路という体験を通じてこそ、人は成熟することができる。それこそがおもちゃの役割である――と。ゴルドランが語るのは、まさに永久に輝き続ける「宝」としてのおもちゃなのだ。
所有すること、遊ぶこと
そしてこの美学は、最終的にワルターとシリアスの父、トレジャー・ワルザックにも波及する。シリアスがタクヤたちの側についたと知った皇帝トレジャー・ワルザックは、直々にレジェンドラを手に入れようと乗り込んでくる。本気で主人公たちを殺そうとするトレジャーだったが、タクヤたちはこれに対して立ち向かいつつも、最終的には「ふざける」ことで対抗する。彼らがレジェンドラを超える「スーパー・ウルトラ・デラックス・レジェンドラ」を目指すと嘘をつくと、それまで深刻な悪役の顔をしていたトレジャーの作画はカートゥーン的に崩れていき、最終的には「ギャグ時空」の住人になってしまう。タクヤたちはワルターやシリアスと殺し合うのではなく、遊びを通じて友達となることを選んだ。トレジャーともいつか友達になれる可能性を示唆して、物語は幕を閉じる。
これはある意味で、勇者シリーズそのものが自らに対して出した結論といえよう。振り返れば、『ゴルドラン』とは「所有」をめぐる物語であった。タクヤたちはパワーストーン=勇者ロボ=おもちゃを奪い合い、最終的には世界そのものを改変できる神の力を手に入れる機会を得る。しかし彼らは勇者ロボたちを仲間と認め、世界を所有することをよしとしなかった。そしてトレジャーが持つ「世界を所有したい」「思い通りに動かしたい」という欲望を、悪しきものとして描いてきた。
これは20世紀的な男性性の美学を鋭く批判している。たとえば高級なスーツや自動車、腕時計といった、20世紀的な男性性を象徴してきたアイテムについて思い返してみよう。この連載では、男性的な理想の成熟のイメージは、自己の精神を、肉体という物理存在を経由して世界に拡張していく感覚に基礎を持つと考えた。服も自動車も時計も、精神を現実へと拡張していくデバイスである。現実が自らの精神を反映し思い通りになることを求めることは、まさに「所有」であり、自己の拡張への欲望だ。
一方、我々はおもちゃを買って所有するだけでは、成熟のイメージを手にすることはできない。ロボットを通じて広がり続ける想像力の世界こそが、成熟のイメージを担保する。そしてそのためには、所有や支配にこだわってはならない。自分自身と切り離されたロボットたちとの絆、遊びの体験こそが、現実のリアリティを上書きしていくと『ゴルドラン』は指摘する。
さらにこう考えよう。勇者シリーズの原点にあったトランスフォーマーたちは、エネルゴンというエネルギー資源を奪い合うゆえに、永遠の争いを続けていたのだった。そして勇者シリーズは、こうした奪い合いに対抗するために、少年とロボットの絆を導入してきた。ゴルドランは、シリアスであることを遊びによって上書きし挫き続けるし、最終的には世界そのものを所有し自由に操作することを拒否しさえする。そしてそれは、自らと異なる主体を持ったロボットたちとの冒険の旅――遊びという体験によってこそ達成されるのだ。
キャプテンと船長、二重化する主体
このことを象徴するのが、キャプテンシャークというロボットである。ワルターがイーター・イーザックへと扮するタイミングで出会う勇者ロボがキャプテンシャークだ。キャプテンシャークは他の勇者たちがすべて悪の手に落ちた場合の対抗手段として用意されていた「もうひとりの勇者」であり、それゆえに強大な戦闘能力を持っていると設定されている。
キャプテンシャークには、ふたつの興味深い特徴がある。ひとつは「海賊」をモチーフとしていること、もうひとつは搭乗型ロボットであることだ。
ゴルドランをはじめとした勇者たちが「仕える者」をモチーフにしていることはすでに述べた。「海賊」というモチーフは自由と独立を象徴し、これに正面から反発する。これは直接的には、先述したような安全装置としての位置づけを意識したものだろう。しかしゴルドランが永遠に想像力の中で輝き続ける「宝物」の象徴であるとするなら、ワルター=イーターと共にシリアスを救済するキャプテンシャークは、自由な想像力によって既存の秩序を破壊しつつ、「宝」を追い求めるプロセス――「遊び」を象徴していると考えることができる。
そしてタクヤたちが直接戦闘に参加せずゴルドランたちと「谷田部勇者」的な関係性を維持するのに対して、イーター・イーザックはキャプテンシャークに乗り込んで戦う。類似の関係性は、『マイトガイン』における旋風寺舞人とガインの関係や、『ジェイデッカー』最終話において勇太が搭乗したデッカードなど、「高松勇者」に部分的に登場してきた。ある意味では「高松勇者」を特徴づけるギミックといっていいだろう。このとき、キャプテンシャークはイーターのことを「船長」と呼び、イーターはキャプテンシャークのことを「キャプテン」と呼ぶ。これは同じポジションを日本語と英語にわけただけで、どちらが上なのかわからない――というジョークを含んでいるように思われるが、これまでの議論を考えれば、それだけで流してしまうわけにはいかないだろう。
この連載では「魂を持った乗り物」という概念を通じて、玩具と遊びについて考えてきた。そしてその本質は、主体の複数化にあると定義してきた。「谷田部勇者」は「命じる者」と「従う者」として遊びにおける少年とロボットの関係を正確に記述してきた。そして「高松勇者」は『マイトガイン』において完璧な主人公と搭乗型ロボットによる男性的なナルシシズムを、『ジェイデッカー』において独立したロボットが引き起こす争いを父性と母性をバランスさせることで解決しようとした。イーターとキャプテンシャークの関係性は、この点について『ゴルドラン』が出した結論を象徴しているように思われる。「船長」である少年と「キャプテン」である乗り物は等価な存在であり、主体が入れ替わりながら戦い=社会に相補的に参加していく。それは一般的な搭乗型ロボットとは異なり、単純に乗り手の精神を現実に拡張していくためのデバイスではない。キャプテンシャークは、さまざまな紆余曲折の果てに「魂を持った乗り物」にもっとも回帰した想像力なのだ。
しかしそれは単なる後退ではありえない。「谷田部勇者」を拡張的に引き継ぐ過程で「高松勇者」が行ってきた実験の数々は、「魂を持った乗り物」の想像力の限界を確認することで、その境界を明確にしてきた。「大人」になることを目指すのではなく、「子供」のまま冒険を続けること。支配や所有によってアイデンティティを記述しようとせず、遊びの中に価値を見出すこと。獲得したものではなく、そのプロセスが生成した関係性にこそ意味を与えること。この連載が「魂を持った乗り物」という概念で名指そうとした美学は、『ゴルドラン』において一度完成したと言えるだろう。
しかし、我々は勇者シリーズがまだ2作品を残していることを忘れるわけにはいかない。『ゴルドラン』が一度ひとつの結論を出してしまったあとで、「末期勇者」は勇者シリーズにどのような提案をしたのだろうか。
(続く)
この記事は2025年1月7日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2025年1月23日に公開しました。(バナー画像出典:勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p39
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。