スマートフォンとサイボーグ

 スマートフォンとは、2007年に発売されたアップル社のiPhoneによって爆発的に普及した、携帯型の情報端末である。スマートフォンという言葉そのものが発生した瞬間にはおそらくもっと多様な可能性が存在していたはずだが、実際の歴史においてスマートフォンとは、静電容量型のタッチパネルディスプレイによって入力と出力を一体化させることで高度に汎用化し、無線通信によって常時ネットワークに接続されている、板状の通信端末を意味している。スマートフォンを通して提供されるさまざまなアプリケーションやサービスは巨大な市場を形成し、ユーザーの可処分時間の苛烈な奪い合いが行われている――この連載に登場した玩具については、その一般的な知名度から厚い説明が必要だったが、スマートフォンについて2025年現在このような説明を改めてする必要はほとんどなく、こうした解説は20世紀人に対するSF的な文章にすら聞こえるだろう。

 スマートフォンというデバイスが社会にもたらした影響はあまりにも大きいが、ここではサイボーグ性と成熟のイメージという観点からその意味について考えたい。

 まず、スマートフォンは情報論的な意味で人間をサイボーグ化している。そのわかりやすい例は、Google Mapをはじめとした地図アプリケーションだろう。我々は現在こうした地図アプリケーションに接続されることでその能力を拡大しているが、こうした能力を支援していたのは20世紀においては地図というアナログデバイスであった。しかし人間が地図に接するとき、常に意思決定の主体は人間側にある。地図によって目的地と現在地を把握したとして、どのルートを選択すべきで、自分が現在どの地点にいるのかという認識は、人間側のオリエンテーション能力にかかっている。一方、地図アプリケーションによるナビゲーションは、こうしたプロセスを自動化している。我々が目的地を入力することで、自動的にルートは算出され、それに従うだけでゴールに辿り着くことができる。そこではナビゲーションが主体を一時的に肩代わりし、部分的に意思決定を行っている。

「乗る」ことの美学

 最終的な意思決定権や責任の問題をもって、その主体はあくまで人間にあると考えることもできるし、政治的に、あるいは法的にはそれは正しい。しかし文化的に見るならば、こうした関係性、主体のありようを肯定的に捉える見方は少ない。特にこれまで扱ってきたような、それ単独で完全な主体を理想とする20世紀的な男性性の美学においては、こうした支援をうまく肯定的に説明することができない。目的地に(単独で)たどり着けること、予定を(単独で)管理できることは、20世紀的な男性性の価値観においては自立と成熟の証であった。ゆえに情報技術はともすれば「軟弱」なものとして扱われがちである――もし主体が完全な精神を持つのであれば、こうした介入は不要であるからだ。「乗る」のではなく「乗られる」ことを許すことになる、と言い換えてもいい。確かにこうしたサービスによって道に迷わなくなったほうが社会生活の上では「成熟」しているといえるだろうし、その意味でこうした情報技術は「スマート」なものとして肯定されるだろう。だが本来それが自力でなされるべきものであるという文化が根強く残っていることは否定できない。たとえば本連載でも、かつて自動運転に対して共感が持てない車愛好家の意見を紹介したことがあり、それは「乗る」ことの美学にまつわる象徴的な意見だろう。

 その文化によっていまだ駆動されている20世紀的な男性的欲望は、21世紀の社会においてさまざまな摩擦を生み続けてもいる。こうした20世紀的―自動車的―男性的な理想の成熟のイメージにおける主体と社会の短絡への欲望は、これまでさまざまに批判されてきた男性文化の有害性と一致する。本連載で取り上げた事例でいうならば、それは『黄金勇者ゴルドラン』のトレジャー・ワルザックに象徴されることになるだろう。トレジャー・ワルザックは宇宙のすべてを手に入れ支配することそのものを目的として、実子であるワルターやシリアスに対する愛情をコントロールすることで、手駒として支配しようとする。そして彼らが反逆した際には、その生命すらも奪おうとする。トレジャーにとって、世界とはその精神が反映されるための肉体であり、実子すらもその文字通りの意味で「手先」にすぎない。ゆえに自らの肉体に別の主体が干渉したときには、それを排除しようとする。あるいはこう言い換えることもできるだろう。トレジャーにとって、ワルターやシリアスは「自動車」――「乗り物」にすぎなかったと。

 こう言い換えてもいい。20世紀的な男性文化において「乗る」というのは、対称の支配によってナルシシズムを記述するひとつの回路だった。たとえば女性に対して「モノにする」「乗る」というような暗喩が同時に使われることは象徴的な事柄のひとつだろう。それゆえに20世紀的な男性性は「乗られる」こと――その主体に介入を受けることを、屈辱的なものとして回避しようとしてきた。精神がダイレクトに拡張されていくことでその完全性が記述されるとするなら、主体に対する介入は精神の不完全さを指摘することに他ならないからだ。ゆえに20世紀的な男性性は頑迷なまでに「乗る」ことにこだわってきたのだ。

おもちゃと遊びを社会に再接続する

 『黄金勇者ゴルドラン』では、悪しき「父」トレジャーのカウンターパートにレディリカという善なる「母」を置いていたのだった。モチーフだけ見てしまうと有害な男性性に対するフェミニズム的批判のように受け取りそうになるが、レディリカの提案は「世界を意のままに創り直す」ことであり、これはトレジャーと同根であることがわかる。ゆえに主人公のタクヤたちは「父」と「母」の双方に背を向けて成熟を拒否し、永遠に「冒険」を続けること――「少年」であり続けることを選んだのだった。

 これは極めて優れた想像力で、本連載でもこの解決をベースとして支持したい。だが一方でこの提案は、未解決の問題を残してもいる。トレジャー/レディリカが目指したのが精神と社会の短絡だとしたら、タクヤたちが試みたのは、いわば精神と社会の切断だ。もしそれが成熟を単純に拒否したまま「少年」で居続けること意味するなら、理想の男性性のイメージとは、比喩的にいって玩具と一緒に子ども部屋に引きこもることになってしまう。こうした切断はしかし(たとえば村上春樹や庵野秀明といった作家たちの物語をみればわかるように)主に90年代という時代の大きな文学的トピックとして追求され、すでに挫折したものだ。「子供部屋おじさん」という言葉は物事を単純化しすぎた悪意ある揶揄であり、この連載ではそういった表現を支持することはしない。しかし切断ではなく再接続の方法を考えなくてはならないし、そのイメージを見つけることに失敗し続けてきた結果が現在の男性文化だと言っても過言ではないだろう。

 ここで思い出したいのは、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の美学である。先行していた『ダッシュ!四駆郎』が「親子」を軸にした垂直的な継承であったのに対し、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』ではこうした成熟のイメージを拒否し、「兄弟」を軸とした水平的な拡張を目指した。ここでミニ四駆がある意味での「自動運転」であることに着目して、もし情報技術による主体への介入が完全自動運転を実現するのなら、ハードボイルドに完結する美学の実装になるのではないか、と本連載では指摘した。しかし一方で、ミニ四駆の美学そのものは「スポーツ」であること――つまり公道を走らないことに徹底してとどまり、社会から切断されることで成立していた。すなわち、少年はミニ四駆で遊ぶことによる擬似的な成熟によって、自らを社会と切断する。これは本連載の立場からいえば、おおまかにゴルドランと同じアプローチだ。

 本連載でミニ四駆を論じた際、この問題を「自動運転」と組み合わせることで打破できないかと考えたのだった。自動運転を、その半自立性・主体介入性に着目してミニ四駆と重ね、「自動運転車両」を「公道を走るミニ四駆」として定義することで、ミニ四駆の美学を援用して20世紀的な自動車の美学を肯定的に書き換えることはできないだろうか、というのが本連載での提案だった。「公道」とはすなわち「社会」であり、「公道を走るミニ四駆」――「魂を持った乗り物」とはすなわち、サイボーグ化されることで社会へ再接続される主体を意味する。

ウェアラブルデバイスとしての「ミクロマン」

 ミニ四駆は自動車の美学をアップデートしたが、そのモチーフは当然のことながら自動車に留まっていた。今度はこの構造を、ミクロマンを通じて、スマートフォンというデバイスの観点から捉え直してみよう。

 本連載では「サイボーグ化」という概念を、単に肉体そのものの拡張という意味にとどまらず、主体そのものを複数化して拡張するような想像力として定義してきたし、それを「魂を持った乗り物」という言葉で表現してきた。だとすればジミニー・クリケットがピノキオの肩に乗ることで移動するように、スマートフォンと人間の関係はむしろ「魂を持った乗り物」となるはずだ。そう、すなわち現在の立場からミクロマンを振り返るとき、そこにスマートフォン的な想像力を再発見することができる。工業技術と結びついた、自動車に象徴される20世紀的な男性性の美学に対して、もし情報技術を取り入れることでそれをスマートフォンに象徴される21世紀的な美学にアップデートできる想像力があるとしたら、そこにもっとも近づいていたのはミクロマンであるということができるだろう。

 そして社会への再接続への可能性は、ここに立ち現れてくる。ミニ四駆における「サーキット」あるいは自動車における「公道」は、「少年」がダイレクトにアクセスできる場所ではなく、ミニ四駆や自動車といった乗り物によってしかアクセスできない場所だった。ゆえに、ミニ四駆は「スポーツ」として自らを社会から切り離すことでその理想の成熟を描き出したのだった。一方で、ミクロマンの想像力において、戦いの場は常に「少年」が日常生活を送る場と一致している。ミクロマンというジミニー・クリケットの助言は「少年」をその日常生活の場において成熟させようとする。そしてこれはスマートフォンが「乗り物」ではないという事実と結びついている。「自動車」が「少年」が参加できない「大人」の世界にアクセスするデバイスとして20世紀的な成熟を仮構するのに対し、「スマートフォン」は現実世界に存在する「少年」が「大人」へと成熟するのを支援しようとする。

ミクロマンはLLMである

 ここで我々は、生成AI――そしてLLMと呼ばれる技術について思いを馳せるべきだろう。チューリングやウィーナー、マッカーシーといった科学者たちによって人工知能という概念が誕生したのは20世紀半ばのことであるが、これは2020年代に入って生成AIサービスというかたちで爆発的に発展し、すでに我々の生活に深く浸透しつつある。多種多様な人工知能の中で、生成AIとはなんらかのデータを生成することができるものの総称である。特に言語を扱うものはLLM(大規模言語モデル)と呼ばれ、2026年現在、OpenAI社のChatGPTやGoogle社のGeminiといったサービスが日常的に使われるようになっている。極めておおまかな説明ではあるが、仕組みとしては大量の学習データから、人間が投げかけたプロンプトに対して確率的に解答するということになるだろう。

 スマートフォンによるサイボーグ化の例として地図アプリケーションの例を出したが、LLMサービスが普及したことで、サイボーグ的に扱える問題の幅は大きく広がったといえる。我々はさまざまな問題――夕食の献立から人間関係の悩みまで――について、LLMと自然言語で対話することによってその支援を受けることができる。あくまで確率的な予測ベースの解答であるため、厳密な論理や事実には必ずしも即しておらず、ハルシネーションと呼ばれる一種の幻覚を返すことも知られているが、ありとあらゆる事象についてなにかしらの答えを返し、特殊な専門知見や複雑な文脈や徹底した厳密性を求めない限り、その能力はしばしば人間を凌駕する。そしてさまざまな批判をかわすため、こうしたサービスにはおおむね厳格な倫理的制限が加えられてもいる。LLMは、少なくとも一般的に普及したサービスにおいて、現実世界に作用するアクチュエータを持たず、人間を「魂を持った乗り物」として社会に接続する。そして人間はLLMとの対話によってその主体に介入を受ける。人類が「少年」だとするのなら、LLMとはその情報によって我々を支援し、社会に再接続させるジミニー・クリケットなのだ。

 そしてスマートフォンというポータブルデバイスによって常に人工知能と対話可能な状態という、人類が歴史上経験したことのないはずの状況を、その想像力で描き出してしまった玩具があることは、すでに明らかだろう。ミクロマンとミクロマンによる遊びは、作り手によってそう意図されていなくとも結果として、21世紀の状況――我々自身が「魂を持った乗り物」として、その主体を複数化させる理想の成熟のイメージとして描いていたのだ。

「乗る」美学から「乗られる」美学へ

 では、ミクロマンの想像力において、理想の成熟のイメージはどのように描かれるだろう? 20世紀的な男性性は、その精神の完全性によってナルシシズムを記述するために、精神と社会を短絡させようとしてきた。そしてそれは負の側面として、トレジャー的な支配や暴力と結びついてきた。それを象徴してきたのが、精神を拡張する「乗り物」であった。20世紀の男性は、こうした乗り物によってその社会的身体を「少年」から「大人」へとジャンプさせようとしてきたといえるだろう。一方、本連載で定義した21世紀的な想像力においては、こうした「少年」から「大人」へのジャンプは(20世紀的男性性への反省から)常に断念させられる。代わりにミニ四駆の想像力がそうであるように、社会との短絡を良しとせず、社会と断絶することで「遊び」の世界で安全にナルシシズムを追及する美学が発展した。そしてミクロマンの想像力に至っては「子供」は自らが「乗り物」として、今この世界で生きていくことを余儀なくされている。この想像力において、主体が社会に接続されようとするとき、それは常にミクロマン=ジミニー・クリケット=LLMをはじめとした情報技術によって干渉を受ける。同時にその干渉は、自らの精神が完璧でないこと――「少年」が決して「大人」になれないことを突きつけ続ける。逆に言えば21世紀の「少年」は、永遠に到達しない成熟のイメージであるところの「大人」を情報技術の支援によって目指し、漸近していかざるを得ない。その運動を、ミクロマンは「宇宙からやってきた超越存在と共に生きる少年」というかたちで、肯定的に描き出したのだ。

 20世紀的な男性性の美学が工業技術と結びついた自動車というデバイスに象徴されるとするならば、21世紀における男性性の美学は、情報技術と結びついたスマートフォンと人工知能に象徴される。「少年」であり続けること。社会と接続すること。到達できない「大人」を目指し続けること。なにかに「乗る」ことで支配するのではなく、自らが「乗られる」という主体の複数化と介入を受け入れること――本連載では、20世紀末の玩具文化を「魂を持った乗り物」という切り口から分析していくことで、こうした価値観が密かに理想の成熟のイメージとして描かれてきたことを見つけ出してきた。

この理想の成熟へのイメージを、日本文化から出発する新しい男性文化という願いを込めて〝kakkoii〟と呼ぶことにしよう。

 とはいえ、ミクロマンという想像力を軸にスマートフォンと人工知能を結びつけただけでは〝kakkoii〟をめぐる議論は完成しない。これまで分析してきた玩具にまつわる物語がそうであったように、ある美学には必ずダークサイドが潜んでいる。そして我々は、そのダークサイドに心当たりがある。スマートフォンは確かに主体のサイボーグ化を成し遂げたものの、一方で20世紀的な主体を社会に短絡させる支配と暴力とも、我々をより強く結びつけた側面があることを知っているからだ。それは具体的には、SNSというサービスの存在――というより、その使われ方として現れてくる。そしてSNSを捉え直す契機もまた、おもちゃの中に眠っている。それはミクロマンの直接の後継作――ダイアクロンである。

(続く)

この記事は2026年1月30日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2026年2月17日に公開しました。
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