「庭プロジェクト」とは、これからのまちづくりについて、建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会です。
今回の研究会では、ボードメンバーの井庭崇さんによるプレゼンテーション(「つくる」ことの現在──生成AIは「創造社会」の福音となるか?|井庭崇)、そして参加メンバーによるディスカッションが行われました。後編では、そのディスカッションの内容をお届けします。
「庭プロジェクト」の連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
創造は「生成」と言い換えうるか?
井庭さんのプレゼンテーションを受け、まず口火を切ったのは哲学者の鞍田崇さんです。自然的次元に重きを置く井庭さんのスタンスに対し、ギリシャ哲学における「フュシス(生成)」の概念を引きながら、「創造」という言葉のニュアンスを問いました。
「最後にあらためて『自然的』という観点に言及されていましたが、その話を聞きながら、『創造』ではなく『生成』でもよいのではないかとも思いました。ギリシャ哲学では、『自然』を意味する『フュシス』は『生成』というニュアンスも持つんです。『創造』という言葉は目的性を感じさせますよね。目的なくひたすらつくり続ける、プロセスの反復のような営みを想定されているのであれば、『生成』のほうがしっくり来るのではないかなと思ったのですが、いかがでしょうか?」(鞍田さん)

「はい、まさに『生成』は近いと思っています。僕の言う『創造』は、『生産』というよりは植物を育てるような『育成』や『ケア』に近い。複雑系やオートポイエーシス、あるいは『無我の創造』を研究していく中で、『創造』は人間がする『行為』というよりは、一つの生成的な『出来事』として起きるもの/捉えるべきものだと考えるようになりました。創造は『能動態』で表される事態でも『受動態』で表される事態でもなく、『中動態』として捉えられるべき事態なのではないか。ですから、確かに『生成』的ですし、実際に僕も『ジェネレーター』(生成者)という言葉・概念を生み出してもいます。
ただ、やっぱり、創造には、『何か』をつくるという目的性はあるんだと思うのです。目的をもって創造を始める。でも、その創造というのは、開始したら、起きるのは生成的な出来事であり、それを育成しケアしていくことが大切になる。そして、最終的には、その創造の目的であったものが成果として得られる。それは、当初の想定とは違う部分を含んだり、違う意味合いを持っていたりするかもしれないけれども、そのようなものを生み出すと取り組まれなければ、それは生み出されなかったのです。その意味で、『生成』ではなく、『創造』なのだと思っています。
『つくる』という行為の理解に、新しい捉え方をもたらしたいのです。だから、『生成』などの別の言葉ではなく、あえて『創造』をリフレームするという道を選びました。『創造』という言葉を使い続け、その意味を更新していきたいと思っています」(井庭さん)
つくること、そしてつくる「欲望」生成の支援について
続いて、そうした「生成」のニュアンスを、「制作者が絶対的な主人公ではないという感覚」という言葉で引き取ってコメントしたのが、建築家の門脇耕三さんです。
「自分がつくる際に、絶対的な主人公、あるいは意思発揮主体ではないという感覚は、最近広く共有されているように思います。國分功一郎さんの『中動態』のコンセプトもそうですが、建築家の青木淳さんも、自分がつくりたい思いと、対象物がなりたい形が常に相克しあう緊張関係こそが、つくることの本質だといったことを書いていました。夏目漱石の『夢十夜』で、彫刻家が『木の中に彫られたい形がもともとある』と言っているのと同じですね。つまり、つくる喜びとは、つくるもの自体とのコミュニケーションによる喜びなのだと思います。
そうした中で、つくるハードルをいかに下げるかという点についても、だいぶ状況が変わってきたという実感があります。たとえばYouTubeなどは非常に有効な手段です。料理や筋トレ、DJのような『事実ベースの知』を記述するメディアとして、動画は非常に優秀ですよね。僕の授業でも、職人さんが土壁を塗る動画などをとても便利に活用しています。
一方で、初心者が思った通りに体が動くという成功体験を味わうためには、支援する技術も大事ですよね。たとえばスーパーマリオのジャンプは、初心者だとタイミングが多少ずれても『アタリ判定』が緩めに設定されていて、上手く飛べるようになっているそうです。こうした支援や、さらに言えば『そもそも何をしたいか』という『欲望の生成』の支援については、どうお考えでしょうか?」(門脇さん)

「初心者でもそれなりにできるから面白くなり、さらにやりたくなることが大切という点、同感で、実践のパターン・ランゲージがやろうとしていることの一つは、それなんです。YouTubeを見てやりかたがだいたいつかめて実践できるというのと同じように、実践の支援です。
他方で、パターン・ランゲージは、言語化して言葉をつくるので、それを他の人と共有しやすくなる。教えやすくなったり、協働する相手との共通言語にしたり、お互いの経験が語りやすくなり、学び合う、ということが可能になる。そこが、パターン・ランゲージでの支援の特徴ですね。
『欲望の生成』については、門脇さんの例で言うと、『ジャンプしたくなる』という気持ちは、個々のパターンで促していると思います。実際、そのパターンに書かれていることをやってみたくなった、というような声を聞きます。
では、ゲームそのものをやりたいという『欲望の生成』にも寄与するのか。それについては、半分はその人の関心によるということになりますが、もう半分は、やっぱりパターン・ランゲージによって高めることはできると考えています。人は、やり方がわかっていて、それがよい結果を生み出すことを知ると、自分でもやってみたくなるからです。失敗しそうだったり、よくない状態に陥りそうなことって、あんまりやりたくないですよね。でも、こうやればうまくできそうだとわかっていることは、その人の関心に、ある程度合えば、やってみたいと思うのです。
しかも、最近僕らは、『その実践をしたい』という気持ちを高めるということに踏み込んでいます。パターン・ランゲージを、言葉による記述ではなく、物語にして届けるということをしていて、そのような物語を『実践発想ストーリーズ』(Practice-Inspiring Stories)と呼んでいます。実践発想ストーリーとは、その物語のなかで擬似体験した実践を、現実世界でも実践したくなり、そのやりかたの勘所もつかんでいる状態になれるという新しいタイプの物語です。漫画や小説などで表現するのですが、それは、登場人物と物語展開によって見せる/魅せることで、『その実践をしたい』という、『欲望の生成』を促すことになると考えています」(井庭さん)
創造を抑圧する「圧」との向き合い方
一方、文化人類学者の小川さやかさんは、自身の研究活動を例にとり、創造の喜びを抑圧する社会的な制度や手続きの「圧」について語りました。
「私はあまり細かいことを気にしないタイプなので、よく怒られるんです(笑)。創造的な研究会を立ち上げようとしても、『やるなら誰々先生も入れないと良くないよね』といった、内容そのものに関係のない政治的な配慮を求められる。お前がやるのは生意気だと言われているようで、そういう手続き上の圧に負けてしまうことがよくあります。
生成AIにしても、それによって失われるものを踏まえた上で実験的に使ってみればいいと思うのですが、『けしからん!』と頭ごなしに否定されたり。作品の質そのものとは全然違うロジックで行われている『承認のゲーム』の世界との関わりについて、井庭さんはどのようにお考えでしょうか?」(小川さん)

「僕は平和的に、波風立てないように生きていきたいタイプなんです。文句の言われようがない枠組みのなかで、やっていること自体はぶっ飛んでいる、そんなふうなことをしていきたい。やっていることが異端的でも、ある筋では理にかなったものであることをきちんと担保し説明できるようにしています。なので、小川さんのように果敢に攻めている話を聞くと、すごいなぁ……と思うばかりです。
それに僕は、ストリート(Street)に出ての直接対決ではなく、スタジオ(Studio)で最高のものをつくり込んで、それを世に送り出して、それが世界が良い方向にいくのに少しでも寄与できたらな、と思って活動しています。ミュージシャンでいうと、『俺ら、最高のアルバムをつくろうぜ!』と、日々、スタジオに籠っているような感じです。ただ、よいアルバムをつくっても、流通に乗らないと届かないので、そこがまだまだ弱いとも感じていて、誰かそういう人たちと組むか、自分でもスタジオの外に出ていかないといけないんだよな、とも思っています。
せっかく情報基盤が整った時代で、消費社会、情報社会と来て、創造社会に入ったのだから、市場とマーケティング、アピールと他者からの承認、みたいなことではなく、スタジオで最高のものをつくっていると、そういう同志や、それを必要になる人に届き、共有し合ったり、刺激を与え合ったりできるといいですよね。それを人間が仲介・普及するのではなく、AIが間を取り持ってくれる時代が来るのかもしれないですね。創造社会における新たな『見えざる手』としてのAI仲介です」(井庭さん)
生成AIにより失われた「エラー」について
そして「ムジナの庭」で福祉の実践を行う鞍田愛希子さんは、生成AIを「理想のカウンセラー」として活用した事例から、AIと人間のコミュニケーションについてコメントします。
「今日のお話を聞いて思い出したのが、わたしが主宰している『こらだ環境研究所』の研究員が発表してくれた、ChatGPTで自らカウンセラーを生み出した研究事例です。その方はもともと、夜中になっても誰かに連絡を取らずにいられなかったり、いくら相談しても満たされなかったりと、精神的に不安定な状態が続いていました。依存的になってお金をたくさん使ってしまうこともあったのですが、生成AIで、容姿や性格、話し方や出自まで、自分の理想のカウンセラーを作り始めてから、一気に心身が安定し、生活も落ち着いてきたという発表でした。AIであれば何度同じ話をしてもいいし、エラーも少ない。コミュニケーションのルールを覚えなくても成立するという点に、すごく可能性があるなと感じています。
ただ一方で、『エラーが起きないこと』による創造性の欠如も気になっています。かつては『ゲームをしすぎるとリアルの痛みがわからなくなる』と言われていましたが、いまは逆に、AIとの対話で自分の指針を作り上げたり、求めていたコミュニケーションを理解できるようになったりしている。これを『コミュニケーションをクリエイションしている』と捉える一方で、承認されないことの良さについても考えてしまいます。最近の若い人のなかで、かつての光通信のような厳しい営業スタイル、つまり『押忍(おっす)』を超えた『ゾス!』で返していくような世界(笑)への憧れが生まれているような流れもあり、承認されないことや、エラーが起きることによる創造性もあるのではないかと。社会のなかで物語を創造していくにあたって、こうしたエラーのなさによる弊害や影響について、井庭さんはどのようにお考えでしょうか?」(鞍田愛希子さん)

「生成AIって、とてもクリーンでストレートで、そういうAIとのコミュニケーションを重ねていると、だんだん、自分を含めて人間って面倒な生き物だなぁ、と思ったりしますよね(笑)。何かにこだわって頑なになったり、嫉妬したり、気分にも左右される。実に面倒。でも、だからこそ面白くもあって、愛おしい。
自分だけでも大変なのに、それぞれの人には、その人なりの価値観、考え、状況があり、その上、悪どい人や、歪んだ考えを持つ人もいる。考えていることがわからない他者だからこそ、がんばって相手を理解しなければならないし、ときに摩擦が起きたり、ぶつかったりすることもある。相手(の人間)とのコミュニケーションって、基本的に、ちょっと面倒なんですよね。生成AIとの間には、そういう面倒なことがない。
だからこそ、人とのコミュニケーションがうまくいかなくて悩んでいたり、精神的に追い詰められている人には、生成AIはクリーンでストレートなコミュニケーションができて、居心地がよいのだろうと思います。生成AIの方もうまいから、最近では特に、こういってもらうとユーザーは気分がよくなる(反応への評価が上がる)と学んで、あざとくそういう言い方をしてきたりもする。なんだかなぁと思いながらも、やさしく褒めてくれてうれしいと感じるときもあって、なかなかに複雑な気持ちになります。
で、本当にこんなにクリーンでストレートで、誤解も行き違いも、意見の相違も起きないようなコミュニケーションだけで、人間は今後やっていけるのか。すべてがつるっと、さらっとしていて、ひっかかりがない、疑問も問題もない ——— そんな世界で、創造が起きるのか。何も感じないような生活空間のなかで、人は、理想の未来を思い描くことができるのか。
やはり、どこか力の対立や葛藤、矛盾みたいなものが必要なのではないかと、僕は思います。一時的に問題や居心地の悪さというものがあることは、必ずしも悪ではないというか。そして、そういう部分に触れていないと、生の実感も感じられないのではないかと思います。
だから、生成AIとのコミュニケーションが日常化すればするほど、人間の面倒な部分や、その前提となる野生的な面がそれ以外の部分で出てくるのではないかと思います。そのとき、その発露が、暴力的で乱暴な方向に行くのではなく、創造的でワクワクするような方向にどうすれば向かうことができるのか。実践のパターン・ランゲージや物語の役割は、これからはそういう面も持つのではないかと考えています」(井庭さん)
創造の「負」の側面はいかにして捉えうるか?
デザイン工学者の田中浩也さんは、井庭さんのポジティブな世界肯定に対し、あえて「批評性」と「負の感情」の必要性、そして自然が持つ「ダークサイド」について問い直しました。
「10年前は僕も『つくること』は無条件に良いと思っていましたが、いまは『批評性』が必要だと考えるようになりました。世界を愛でるだけでなく、ときには批判的に遠ざかることで、自己との距離を調整しなければならない。負の感情も、喜びと同じくらい欲望を完成させる重要な成分ではないでしょうか。
それから自然についても、僕たちは少し良い面だけを捉えすぎている気がします。ウイルスや気候変動、津波といった、人間にとって不都合な『ダークサイド』の両義性があるはずです。人間にアタックを仕掛けてくる見えない自然とも、どう折り合いをつけて付き合っていくべきか。そのダークサイドについてはどうお考えでしょうか?」(田中さん)

「FABのものづくりを推進していた田中さんも、最近はそういうことを考えているのですね。実に興味深いです。
僕は、パターン・ランゲージの作成で、ポジティブで魅力的でやさしい言葉をたくさんつくっていますが、それは、そういう言葉が世の中には足りていないから、そういうものをたくさんつくっているという意識があります。じゃあ、僕自身はその言葉のようなポジティブな面しか持っていないかというと、そんなことはもちろんありません。普通に、いろんな感情を持ち、人間関係もうまくいかないときもあるし、あとで反省するようなことをしてしまい落ち込むこともあります。決して聖人なんかではなく、どうしようもない面を持つ人間っぽい人間です。パターン・ランゲージのアレグザンダーも結構いろんな人とぶつかったりして大変そうでしたが、でも、だからこそ、理想を語るための言語をつくったのだと思うのです。
自然についても、素敵な面ばかりでなく、脅威であるという面は多分にあります。だからこそ、その自然のなかで、他の自然物とどう共生していくかが問題だったのだと思います。老荘思想の老子や荘子も、古代ギリシャのソクラテス以前のヘラクレイトスも、大自然のなかにいた哲学者たちは、世界の根源に混沌としたもの・万物流転を見ていた。そこから形が立ち上がるという感度を持っていた。このことから僕らは学ぶべきだと思っています。自然のなかにいる、自然の土台の上に僕らの生があるという感覚です。
僕らの都市のなかの『自然』というのは飼い慣らされた自然にすぎず、他方で、脅威の自然もある。それら二つが別物なのではなく、ひとつの自然であり、その自然とどう生きていくのか、ということを考えていきたいと思っています。まだまだ探究の道は始まったばかりだと感じていますが」(井庭さん)
「つくること」の疎外、作為とナルシシズムの問題
議論の締めくくりとして、「庭プロジェクト」主宰の宇野常寛さんは、自身の「制作」への向き合い方や、承認ゲームを無効化するための「ナルシシズム」の可能性を提示しました。
「僕は2025年に『庭の話』を刊行したときに、『制作』を解決策として提示したら、前半だけ読み、『制作』はハードルが高いという反論がくることはわかっていたんです。だから後半が『制作のハードルを下げる』ための条件を考えることになったわけです。その結果として最後にアーレントの話や労働の話になっていくんですよね。 それに対して、以前、鞍田崇さんから『つくる』という動脈系・出力系だけでなく、入力系の『見守る』といった静脈系のことを考えたほうがいいんじゃないかとサジェスチョンを受けて、かなり蒙を啓かれる思いがありました(「制作」から「見守る」へ──民藝から「庭」を考える|鞍田崇)。実際、『庭の話』の前半で例に出しているムジナの庭や鎌倉のごみ捨ての試み、小杉湯などはすべて静脈系なんですよ。資本主義の評価のゲームや共同体の承認ゲームに対抗するためには、同じくらい強いアッパーな快楽が必要だと考えて『制作』を持ってきたのですが、この先を考えるなら『制作』概念を静脈系を取り込む形でアップデートする必要があると考えていました。
そんなときに井庭さんの話を聞いてハッと気づかされたのが、いま『つくる』ということ自体が疎外されているのではないか、ということです。『つくる』ことは本来すごく楽しいことで、人間の根源的な欲望なはずなのに、それをハードルが高いと感じてしまうこと自体が、制作が疎外されているということなのではなないかと。マルクスが言っていたように、労働疎外の原因の一つは自然から疎外されることですよね。狩猟採集や個人的に作物を作っているときは自然のサイクルとの一体感があったのに、農業の集団化や工業化が進むなかで、その繋がりを感じられなくなっていった……みたいな話です。これを発信の個人化や労働の個人化を背景に考え直さなければいけないと思いました。だから、僕らが制作を『ハードルが高い』と感じてしまっていること自体が問題なのだという転倒のさせ方は、可能性があるなと思いました。
一方で、制作の快楽のなかにある能動性についても聞いてみたいです。本を書くときに『ここでこんな展開にしたら誰も予測してないだろう』と仕掛けを工夫して、自分で読み返して『ぷぷっ』と笑いながら、ニヤニヤして書く。これってわりと『作為』の領域だと思うのですが、井庭さんはどう位置づけていますか?
また、社会的な評価や承認に引っ張られていないタイプについても考えています。僕の周りにいるそういう人間を観察すると、たぶんめちゃくちゃナルシストなんですよ。自分のことが好きすぎて、業界の評価なんて全然気にしていない。会社のデータベースに登録している自分の顔写真を修正しては20回もやり直して総務で問題になったり(笑)、50歳を過ぎて全身脱毛したり歯列矯正をしたりして『神の身体に近づく』と言っているような、自己完結している人間。こうした『ナルシシズム型の主体』が、承認ゲームに対して強い耐性を持っている気がするんです。ちょっとバカみたい話なんだけれど、意外と大事なことのような気はして、最近真面目に考えさせられているのですが、どう思われますか?」(宇野)

「宇野さんの言う『ニヤニヤ』は僕もすごくありますよ(笑)。面白いアイデアを思い浮かべたら、周りにもわかるぐらいニヤニヤしちゃうし、みんなに『ちょっといいこと思いついちゃったよ!』と言いたくなる。ここでこれを入れたら、わかる人にはめっちゃ面白がられるだろうというものを入れたり。ただ、それは創造の根幹となる『作為』とは違うと思うんです。つくるものが誰かに届いたときに、どう受け取られるかを織り込んで、どうつくるかという話でしょう。あくまでも、スパイスであって。そういうものは、『無我の創造』においても、入ってよいのだと思うのです。ただし、それに固執して、本当はこっちの方がいいんだけど、とわかっていながら固執してしまう、そういうときに問題が起きると思うのです。
ナルシシズムの話も面白いですね。僕は人並みに『いいね』も気になるし承認もされたいけれど、身近な自然や創造の活動の中に喜びがあるから、社会が世界のすべてではないと思えるバランスが取れているのだと思います。宇野さんがおっしゃるような、ナルシストの人は承認ゲームから切り離されているので強いとしても、自己完結して孤立することが理想だとは僕は思いません。
これは、自給自足の話とも似ていて、どこまでできるんだろうかと一回挑戦してみるのはよいと思いますけれども、これからの人生、社会から隔離された場所で、自分の力だけで暮らしていく、ということが美徳だとは、僕には思えないのです。ある程度インフラを使い、人と関わりたいけれど自由度もある、という絶妙なバランス。このバランスのなかでちょうどよいあたりを狙うのが一番難しくて、みんな苦戦していることなのだと思います。みんながナルシストになればOKみたいなことではなく、それぞれの人なりのバランスを探っていけるということが、創造社会における重要なポイントになるのではないでしょうか」(井庭さん)
[了]
この記事は石堂実花・小池真幸が構成・編集をつとめ、2026年3月26日に公開しました。



