2024年の「地方創生」を考えるためのキーワード

たかまつ 今回の議論のテーマは「地方創生」です。2010年代以降「地方創生」が叫ばれてきましたが、都市部と地方との分断がますます進行しているいま、本当に必要な再建計画とはどのようなものなのか。さまざまな形で地方でのプロジェクトに取り組んできたプレイヤーたちをお招きし、2020年代の地方創生について語り合いたいと思います。まずはみなさん、それぞれ自己紹介をお願いします。

家入 CAMPFIREというクラウドファンディングのサービスを運営している家入一真です。よろしくお願いします。今は長野に住んでいて、今日も長野からやってまいりました。

占部 占部まりと申します。私の本業は医者ですが、宇沢弘文という経済学者の娘で、父が残した新しい資本主義を支える経済理論や「社会的共通資本」という考え方をより多くの人に知っていただきたいと思い活動しています。

牧野 牧野圭太です。僕はもともと広告業界におりまして、渋谷を拠点に、広告やデザインを手がけるDEという会社の代表を務めていました。そんな中、約1年前に南房企画という会社を作って、渋谷区が千葉県の南房総に持っている臨海学校の再生事業を始めたんです。4月から南房総市民になりまして、直近の都知事選にも投票できなくて少し残念だなと思っていましたが、今日はそうした立場から地方の話ができたらなと思っています。

宇野 僕はこのイベントの企画側の人間でもあるので、少し企画意図のようなことを話します。今回は地方創生がテーマなのですが、いわゆる「地方創生のプレイヤー」として認知されている人はあえて呼びませんでした。「震災から地方創生へ」というムーブメントをその一回り外側から眺めて、自分なりの方法で地方に関わっている人を集め、少し変わった視点から立体的に今の地方の問題を議論しようと考えてこの面子を集めました。ちなみに僕は青森県出身です。今日はよろしくお願いします。

たかまつ 早速ですが議論に入るにあたり、「2024年の地方創生を考えるうえでのキーワード」をみなさんに挙げていただきたいと思います。それぞれ書いたキーワードについてご説明をお願いできますか?

牧野 僕は最近感じている「健康で文化的な最低限度の生活」というキーワードを書きました。僕は大学生で上京して、2009年に博報堂に入り、典型的な東京のビジネスマンとして働きはじめました。そこで感じる楽しさももちろんあったのですが、生活的な充実感はまったくありませんでした。

 しかし最近は南房総での暮らしが増えて、生活していて「生きているな」と感じることが増えてきたんです。たとえば、ビワが国内で九州に次いで2番目ぐらいに獲れる地域があって、農家の方からたくさんお裾分けしてもらえたり、あるいは近くの漁師さんと仲良くなればワカメをもらって食べられたり。基本的に近くに住んでいる人たちはみんなずっと庭か畑をいじっていて、今でも物々交換をしているような暮らしをしています。人間らしい生活というのはこういうことなのではないか、と感じるようになったんです。だから地方創生とかそういった話のもっと手前に、「もっと人間的な生き方ができる可能性があるのではないか?」という点に目を向けるべきなのではないかなと思っています。

牧野さんがかかわる、千葉県岩井海岸にある渋谷区臨海学園を再生する「SHIP」プロジェクトで改装中の校舎

家入 僕は「第二の自治」としました。これは「​​Local Coop」に携わっている林篤志さんがよく使っている言葉で、従来の自治体が持続できなくなっているのであれば、自分たちで新しい自治をどう作っていくかを考えていこうという意味ですね。

参考:ポスト資本主義社会の基盤となる「Local Coop」構想について | 林篤志

 僕は福岡の田舎の出身なのですが、中学生のころいじめにあって、学校に行けなくなって引きこもってしまい、そのときにインターネットに出会いました。当時はまだ「パソコン通信」と言われていた時代ですが、インターネットで自分が描いた絵を見てもらったりして、僕のような人間の描く絵でもこうやって見てくれる人がいるのだと知って、希望が持てるようになったんです。そこからインターネットの可能性を自分なりに解釈したとき、誰しもが声をあげられるようになる点にインターネットの素晴らしさ、本質があるのではないかと思うようになりました。

 それで20歳ぐらいのときにpaperboy&co.という会社を作り、その後CAMPFIREやBASEを立ち上げました。どれも会社は別々なのですが、声をあげたくてもあげられない、あるいは最初の一歩を踏み出せないでいる人たちがインターネットを通じて最初の一歩を踏み出せるようなサービスを作ってきました。

 一方でこの5〜6年ぐらいは、クラウドファンディングの本質は、地方で声をあげたい人たちが小さくファンディングできる仕組みであることなのではないかと捉え直すようになりました。ですからこの数年は僕自身もいろいろな地域を回っていて、たとえば古民家で小さなカフェを立ち上げたとか、台風で壊れた神社を修復したとか、そういう困りごとのある個人の方が最初の一歩を踏み出すところをCAMPFIREでサポートしています。

 そうした活動の中で感じるのは、やはりどう考えても、地方におけるいわゆる持続可能性がどんどん乏しくなってきているということ。もはやかなりの自治体が消滅可能性自治体だと言われますが、自治体としては消滅したとしても、そこに生きる人たちの生活や文化は残っていく。ですから、その先の経済や自治をどう作っていくべきなのかというところが、これから考えるべきことかと思います。

「地方創生」や「関係人口」など、耳触りがいい言葉はたくさんあると思いますが、そういう便利な言葉に踊らされすぎてはならないなと感じます。人が減っていく中でお金も回らなくなっていって、それでもそこで生きる人たちがどう生きていくのかを、仕組みとして社会実装していかなければならない。そうした取組の一つとして林さんの「Local Coop」もありますし、僕もクラウドファンディングという形で関わっていけたらなと思っています。

占部 私は方向性がガラリと変わりますが、「オキシトシン」というホルモンをキーワードとして挙げさせていただきました。いわゆるハッピーホルモンとして知られていて、たとえばマッサージされてすごく気持ちがよくなっているときなどに分泌されます。ハグをしたりすると幸せになったりするのは、このオキシトシンが関係しているわけです。これだけ聞くとオキシトシンというのはすごくいいものだと思われるのですが、実は反作用もあります。オキシトシンがいちばん分泌されるのが子宮収縮時、つまり出産のときですが、母子は緊密な関係を作るのですが、それ以外の関係性に対してものすごく攻撃性が上がるという性質があるんです。だからみんなで心地よい関係を強固に作れば作るほど、それ以外の関係に対して攻撃性が上がってしまう。こうした点からもヒントを得て、これからの地方創生においては、何かやっていこうとするときに仲間を作らなければならない中で、それをどれだけゆるくやれるのかがキーワードになると思っています。

 精神科医の森川すいめいさんが国内の自殺希少地区をたずねたルポ『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(2016)という本があります。森川さんが訪れた地域ではすごくゆるいつながりがあって、でもお互いの信頼関係はあるので、外出時にも家に鍵はかけないという習慣があるそうです。とはいえ1週間留守にするとなったらさすがに鍵をかける。一般的に考えるとそれは防犯のためであるわけですが、そこで鍵をかけるのは、住民たちが家主がいるかどうかに関わらずおすそ分けを玄関先に置いていってしまうからなんですね。つまり1週間も家を空けると、たとえばおすそ分けの魚が家で腐ってしまっている可能性があるわけです。私の感覚だと1週間も留守にするときは、それぐらい親密にやりとりしている人には「しばらく留守にしますよ」と話をして、「帰りのお土産どうしようかな」なんてこと考えて頭を悩ませるわけですが、そういったことをまったく超えてしまうようなゆるい関係性があって、それが自殺に至るほど人を追い込んでしまうような状況を防いでいる。したがって、オキシトシンが生じるような深い関係性も大事ですが、その反作用も考えていくというのが、これからすごく重要なのではないかなと思っています。

「住みたい」と思える地方をつくるために

宇野 僕がまず問題提起したいのは「本当に地方に住みたいのか?」ということです。この会場にも地方出身で東京在住の人はけっこういると思います。そしてその中で、正直、地方の暮らしが嫌で出てきた人も多いのではないでしょうか。僕ははっきり言って嫌でした。母親は青森の、父親は山形の山村出身、どちらもかなりの田舎ですが、いまだに旧態依然としていて「市民社会」という概念が2020年代の現代ですらロクに成立していない。選挙になると「いつもお世話になってる知り合いの誰か」に投票するのが「大人」の態度だと考えている人がマジョリティの世界です。相互監視のネットワークを前提としたコネ社会が現存しているし、男尊女卑的な価値観も根強い。産業も発展しておらず、なんとか口実を付けて、地元の共同体の中心にあるコネクションに税金を流し込むのが「政治」の役割になっている。そういった現実から目をそらして、過疎が問題とか言われますけど、まずは出ていきたくなくなるような地方にしないとはじまらないと思います。

たかまつ 地方から女性が出ていくのもそういうことが理由ですよね。「クローズアップ現代」などでも取り上げられていましたが、地方だと出生率が自治体のKPIになったりするので、出生率を上げるために婚活イベントが開かれたりして、若い女性が、いわゆる「子どもを生む機械」とまでは言いませんが、そういう目線で見られているように感じられてしまう。古い考え方がはびこっているから、若い女性としてはそれが窮屈に感じて都会に出ると。

 ただ一方で、いま「関係人口」などと言われるように、二拠点生活として都会の人も週末に少し帰省するなどして、都会の風が地方に入ってきてはいますよね。それによって地方の価値観が都会的なものにアップデートされてはいないのでしょうか?

宇野 僕はそうは思えません。まず「関係人口」というのは『ソトコト』編集長の指出一正さんが強く主張していることですが、彼が「関係人口」という言葉を使ったのは、もう移住中心の地域おこしは現実的ではないと思ったからだと僕は想像しています。閉鎖的な日本の農村コミュニティは外部の人間を受け入れないだろうし、実際に都会の人が移住するにしても、東京のクリエイティブクラスのお金に困っていない人か、完全にリモートワークができる人のスローフード趣味の域を出ないということが、おそらく指出さんには完全に見えている。だったら移住ではなくて、関係人口という形で盛り上げていくのが現実的だという非常にクレバーな戦略だと捉えています。

 ただ、そのことは今の地方自治体、地域社会が抱えている決定的な問題の解決にはならないと思います。では、どうすればいいのか。僕はまず「諦める」しかないと思います。地方に、田舎に人は少なくとも以前の規模では住めない。今まで通りいろいろな自治体にある程度の人口がいて、中心街はそれなりに賑わっていて、そこにずっと暮らし続ける世代が再生産されるというサイクルは絶対に戻らない。そのうえで、どう自然と文化を維持するかを考えることだけが課題だと考えています。

 そもそも僕は自治体なんて消滅したっていいとさえ思います。明治維新から150年くらいの歴史しかないんだから、なくなってもいいんです。本当に残さなきゃいけないのは、たとえば能登で言えば豊かな自然と、輪島塗のような地域特有の文化とそれを育む人々の暮らしであって、別に輪島市という自治体の枠組みじゃないはず。大事なのはあくまで能登の自然と文化です。そういう視点が抜け落ちて、とりあえず復興予算を組んで箱物施設をどんどん作って、時々東京から来た意識高いスローフード趣味の文化人が適当に講演してお茶を濁すといった、震災復興で繰り返されたソリューションには意味がないのではないでしょうか。たとえば地方の自治体はずっと、人口規模を残すためだけに土着文化とぜんぜん関係ない工場とかを無理やり誘致している。僕はああいうものは原理的には不要で、本当にその土地に残らないといけないのは、その土地の自然や文化を守る人と、どうしても事情があってそこから離れられない人の2パターンだけだと思っています。

 能登の地震で地方のインフラ維持が問題になりましたが、僕はそもそも人口は基本的に中核都市に集中すべきだと思っています。どうせできもしないのに、今の人口を維持することを前提として現状のインフラを維持することには僕は反対です。地方にはそこに暮らす理由のある人だけが残るべきで、彼らが倒れたときには1回100万円かかってでもドクターヘリを飛ばす。それは本当に残すべき自然と文化のメンテナンスと発展のためには安い出費のはずですし、今のレベルで隅々までインフラを残すよりはよほど安上がりのはずです。

家入さんの長野での暮らしのひとコマ

占部 インフラの話が出ましたが、能登ではすごく興味深い動きが出てきています。私は震災直後の3月に復興医療支援で現地を訪れましたが、その時点とある公立病院の看護師さんの4分の1が辞めると決めていて、今ではすでに金沢などに移ったそうです。実はその地域では市民病院などを維持するのにものすごくコストがかかっていて、ある程度複数の自治体の病院を統廃合したいけれども、どこの自治体も「おらがまちには病院が必要だ」と言って抵抗していたのが、今回の震災をきっかけにそれがまとまりそうになったそうなんです。ここには、せっぱつまったときに出てくる力で医療やインフラは変わっていくのかもしれないなという、ある種の希望があると思います。これから人口が少なくなっていく自治体で医療介護をどう守っていくか、という点のモデルケースが生まれるのではないかなと思って見ています。

たかまつ 能登は震災という明らかな変わらなければならないタイミングがあったわけですが、本当はそのタイミングが来ているにもかかわらず、踏み出せていない自治体もあると思います。それによって本当に消滅しそうなところがあるのか、どういう事例があるのかもお聞きしてみたいです。

家入 自治体と一言で言っても自治体の単位によりますよね。市なのか町なのか村なのか、いろいろな単位があると思いますが、合併して市に組み込まれてしまった町などを見ていると、もともと町単位では頑張っていたのだけれど、予算などが突然共通化されたために動けなくなってしまっているところもあるように思います。僕らもクラウドファンディングで自治体に対して地域の困りごとや若者のチャレンジを応援したりしますが、やはり単位が大きくなると、結局何も動かないという事態に陥りやすくなる。

「共同体」の功罪──「心温まるコミュニティ」が地方の良さか

牧野 僕はこの数カ月房総にいるようになってだいぶ認識が変わったのですが、一言でいうと悲観性がなくなってしまったんですよ。もちろん数字だけ見ればとても悲観的になってしまって、たとえば南房総は高齢化率が50%くらいになっていて、日本の3万人規模の市町村ではおそらくいちばん高齢化しているくらいです。それこそ平成の大合併で7個くらいの自治体がくっついてできたところなので、規模もとても大きくなっています。家入さんがおっしゃったような意味では柔軟に動けていないような気がするのですが、一方でいまそこにいる人は常に悲観的になっているわけでもなく、普通に生きているわけですよ。東京にいると地方創生だとか、地方が危機だとか言いますけど、みんな勝手に楽しく生きているなと感じます。別に地方だろうとAmazonの商品もほとんど届きますし、地域の暮らしに対して、そこまで悲観的にならなくてもいいのかなとも思います。

 もちろん宇野さんの言ったことには基本的に賛成していて、本当に地域に必要なのは自然と文化であるというのはその通りだと思います。逆に言ってしまうと、東京からはそれは失われつつあるのではないかなと思います。自然は明らかに失われていますし、実は文化的なものも失われているのではないでしょうか。ざっくりですがこれは資本主義に支配されているからであると思っていて、でも地方に行けば行くほど資本主義と関係が薄いその土地固有の場所がまだまだ残っていると思います。宇野さんの話を聞いていて思ったのは、やはり自然と文化の価値に気づく人が日本中でどれだけ増えるかが最終的に地方創生につながるのかなと。逆に言えばその自然と文化を求める人が単純に足りていないのかなと思いました。

牧野さんがかかわる、「SHIP」プロジェクトでのひとコマ

宇野 先程僕が言ったのは、僕は土地の自然と文化を守るために、今の人口数は維持しなくていいし、そもそもそこまで頭数はいらないということです。つまり一人でできる仕事量はいま飛躍的に増大しているし、そもそも日本人はつい500年前まで、1,500万人もいなかったはずです。それでもじゅうぶんに自然を守り、文化を育んできたのだから、頭数が足りないことはそれほど問題ではないのではないでしょうか。

 むしろ最大の問題は人間関係、あるいは閉鎖的なコミュニティです。これをどうにかするしかない。どうも、この種の話が好きな人は田舎には心温まるコミュニティがあるという話をしたがるけれど、「冗談じゃない」と思います。それはそういう人が東京や都会である程度成功して、生活の基盤があって、その地域コミュニティに経済的に依存しなくてもある程度生きていける強者だからです。弱者として、コミュニティの中心ではなく周辺として配置された人間がどれほどつらい思いをするか、少しは想像してほしい。

 たとえば僕が自然豊かで地域文化も素晴らしい地方に移住したとしても、たぶん3日で帰ることになるでしょう。なぜなら、端的に言えば、ご近所に挨拶しろと言われるからです。僕は物々交換などは絶対に無理で、醤油がきれたら醤油を借りにいく社会は地獄だと思っています。それはつまりご近所との関係が良好でないと生活できないということを意味していて、共同体のボス的な立場にいる人物に気を遣わないといけないし、狭い人間関係のなかで浮かないようにしないといけない。だから僕はセブンイレブンに100円を持っていったら醤油が買える世界こそが正義だと思っているんです。人間関係を維持していないと醤油も買えないとしたら、地獄ですよね。

 憲法25条の話が出てきましたが、地方の多くにはむしろ14条の「法の下の平等」がない。

 そもそも多くの人が思っているほど「地域の共同体」というのはいいものなのでしょうか。僕は嫌なことのほうが多いと思っているし、多くの人もそう思っているからこそこれだけ都市に人口が集中しているのだと思います。ここにメスを入れない議論は本当に空しい。閉鎖的で不正義な共同体をいかに破壊するかという発想がない限り、絶対に地方に未来はないと思っています。

 僕が共同体を嫌うのは「中心と周辺」が不可避的に生まれるからです。たとえば物語の舞台で良い思いをするのは主役や重要な脇役、『桃太郎』で言ったら犬・サル・キジぐらいまでであって、村人のモブキャラAとか、下手したら殺されてしまう鬼にとっては最悪です。だから共同体が好きな人は、自分がマイノリティになることを一切考えていないと思います。『帰ってきたウルトラマン』第33話に「怪獣使いと少年」という有名なエピソードがあります。メイツ星人という宇宙人が地球にやってきて地球人に偽装しながら生活するのですが、閉鎖的な商店街のコミュニティから差別を受ける。それでも唯一寄り添ってくれた少年がメイツ星人になんとかごはんを食べさせようと、なけなしのお金を持って商店街のパン屋に行くのですが、パン屋のおかみは「めんどうは困るのよね」と言ってパンを売ってくれない。つまりここは人間関係が良好でないとパンが買えない世界なんです。そして落胆して帰る少年をパン屋の娘が追いかけていって、パンを売ろうとします。「同情ならやめてくれよ!」と少年は反発するのですが、娘は「いや、これは同情じゃない。うちはパン屋だからパンを売るだけだ」と言うんです。僕はこれこそが正義だと思います。現金を持っていったらメイツ星人だろうが身寄りのない少年だろうがいじめられっこだろうが、パンが買える。これが正しい社会の姿であって、共同体がないと生きていけない世界は地獄です。

家入 そこに属さないと生きていけないと地獄だというのはその通りなのかもしれないですが、一方で僕のイメージする共同体はどちらかというともう少しセーフティーネット寄りの話なんですね。僕は「リバ邸」というシェアハウスを運営していて、「現代の駆け込み寺」と銘打って10数年前から始めて、現在は100か所くらいに広がっています。当時僕の周囲にいた、心を病んで不登校になったり会社に行けなったりしてしまったような人たちが集まって寝泊まりしていました。とりあえず生活費がぐんと下がるから、それで生きていけるよねということで運営していました。そこから自立して起業する人も現れたりして、僕は当時若かったので、居場所を作ることによってあらゆる人を救えるのではないかという理想を抱いていたんです。

 ただ、誰でも受け入れていろいろな人たちが来てくれたのですが、ある日メンタルを重度に病んでいる若者がやってきて、そのときにすべてクラッシュしてしまいました。その子も傷つけたし、そのコミュニティも破壊されました。そこからまた建て直して今に至るのですが、すべての人を一つの居場所や共同体で拾い上げるのは無理なんだなと、そのとき気づきました。結果的に僕は自分がやるべきことは、リバ邸というものが抱えられる小さな範囲の中でできることに限られていて、たまたまその網に引っかかる人がいたらいい、逆にリバ邸がまったく合わない人もいるだろうし、その人には適切な場所を他に案内してあげられればそれはそれでいいかなと思うようになりました。けっきょく居場所というのはある種のレイヤーになっていて、そういったものがなければ崖から落ちて真っ逆さまに地面に激突してしまうわけだけれど、そういう網のようなものが複数張り巡らされた世界では、どこかに引っかかる人がいるかもしれず、その一つとして何かしらの共同体があればいいのではないでしょうか。

宇野 家入さんの言うような、複数の網が張り巡らされていて、ある共同体がダメでも別の可能性があるような場所のことを、要するに「都市」と呼ぶのだと思います。都市にはやはり共同体が大量にあって、まったく文脈を共有していない共同体がたくさん渦巻いていて、生まれては消え生まれては消えを繰り返しているところなんです。僕は共同体が嫌いだけど、共同体というのは自然発生してしまうものだと思います。だからその存在を否定しても仕方がない。 ただ、どこか特定の共同体に所属していないと生きられないというのは、市民社会の基本を否定しているような気がするんです。その土地の支配的な共同体に所属していないと生きていけないというのは、僕は単純にシステムとして脆弱なのだと思います。だから生活保護とセブンイレブンこそが究極のセーフティーネットだと思っています。都市には無数に共同体があって、その間を移動しやすく工夫することは、自治体もできるし、家入さんがそうしていたように民間団体もできる。それは都市では機能するのだけれど、地方社会では流動性も低いし、やはりなかなか共同体が複数存在できないわけですよ。だから僕は地方こそ共同体ではなくて「社会」というものがしっかり機能していないといけないと思う。

地方創生で見るべき「KPI」とは?数値化できない豊かさとのあいだで

たかまつ 少し興味本位でお伺いしてみたいことがあるのですが、地方創生を考えるときの、KPI的なものについてみなさんはどう考えていらっしゃるのでしょうか。たとえばよく言われるのは出生率や移住者の数、高齢化率などですが、みなさんはどういう指標で見ていくとより的確だと考えているのか、何かお考えがある方はいますか? 

家入 自分の視点でしかないですが、たとえば古田秘馬さんが盛り上げている香川の三豊というエリアがあります。そこでは若い人たちが次々に新しいカフェなどを立ち上げたりしているわけですが、それがなぜ実現可能かというと、とにかく物価が安いんですよね。さらに空き家が20万円とかで買えたりして、それを改装してカフェを立ち上げたりしています。そこまで大きな売り上げがあるわけではないと思いますが、結果的に安いコストで生きることができていて、秘馬さんはそれを「ベーシックインフラ」という言い方をしています。ある程度安いコストで生きていくことができれば、それはベーシックインカムならぬベーシックインフラになり得るのではないかと。いろいろな地域を回ると、そういう人たちは一定数いると感じるんですよ。

 僕はいま軽井沢に住んでいて、隣に御代田町という地域があります。ここはもともとは何もなくて特に観光産業が盛り上がっていたりするわけではないのですが、コロナ禍以降、移住者がどんどん増えています。ただ人が増えるにつれて地価も物価もどんどん上がっていて、単身の若者は住みにくい街になっているんですね。そう考えると、人が増えたらそれでいいのかといと、そうとも限らないと思います。その地域として何をもって「創生」とするのかというところで言うと、やはり人口増は必ずしも指標にはならなくて、縮小傾向というかローコストで生きていけるような地域が一つのモデルになっていくのかなと思います。

宇野 僕は安宅和人さんたちとよく地方視察に行く機会があるのですが、彼は送電線が大嫌いなんですね。山の美しい景色を電線と電柱が台無しにしているというんです。僕もその気持ちはわかりますし、むしろ人間の作ったものだけが醜いと思います。だから大事なことはやはり自然なんですよ。もちろんそれはしょせん「人間にとって」美しい自然に過ぎない。砂漠だって氷河だって自然なんだから、あくまで人間中心のものの見方でしかないわけですが、でもそこの限界はわかったうえで、人が見て美しいと直感的に思えるような豊かな自然というのは現に存在する。あるいは本当にバナキュラーな、そこにしか成立しない文化。大切なのはこの2点だと思うし、この二つはKPIでは測れないと思います。もっと言うと人口数というKPIは悪だと思っているし、それを基準にしている限り、土着文化に関係ない小中工場を誘致するといった話から脱しないと思います。重要なのはむしろ、人口や出生率といったKPIをいかに忘れるかではないでしょうか。人口数と文化の豊かさは別に比例するわけではないはずです。

たかまつ 最近Z世代の子が消滅可能性都市についてどう思うかについて議論した鼎談記事を読んだのですが、そこではそもそも女性がどのぐらい子どもを産むのかとかいうことを数値化していること自体に抵抗感があるといった議論をしていました。人口が減る社会をいかに受け入れるかを議論していくべきなのに、そうはなっていないと。その気持ちはわかる一方で、私は出生率や少子化対策をどうしていくかということとか、GDPを数字で見ていくのも同時にものすごく大事だと思っているんです。どの地域のどの病院、どのようなインフラを諦めるかという議論は今の日本社会でコンセンサスが取れない気がしています。先ほど占部さんがおっしゃっていたように、コロナ禍以前は病院の統廃合もできなかったと。数値化に抵抗を示しながら、じゃあどこかを諦めましょうという議論になった途端、そこにはアグリーできない。だから少子化もできる限り改善したり、移民を受け入れたりして、GDPもできる限り下げないような形にしないと、日本の国際的な地位を発揮していくことができなくなるのではないでしょうか。 

宇野 僕もGDPは重要だと思いますが、それは地方の人口を無理やり維持することとは直接は関係がないのではないでしょうか? むしろネオリベ系の人は、国力に関しては東京一極集中をどんどん進めたほうが良いという議論をしているように思います。

占部 京都大学の日立京大ラボで、2050年の持続可能な日本とはどんなものだろうかと、2万通りのシミュレーションをしたそうです。その結果見ると、インフラや病院・学校などの公共施設も東京に一局集中したほうが経済的には一番負担が少ない。。でもそうすると人々の満足度や少子化率が急速に悪化するので、現実的にはある程度都市機能を分散させる多極集中型が良く、その際、行政はある程度のインフラコストを覚悟すべきだというシミュレーション結果が出たそうです。そう考えると、やはり金銭的なものと人々の幸福感のバランスというのがなかなか難しい。父の宇沢弘文は、人々の豊かさというのはお金では計れないけれども、経済が社会を支えているのだから、どういった形で経済が社会を支えていくべきかを考えるべきだと言っていましたが、そうした見方があらためて重要になってきているように感じます。

占部さんがかかわるベネッセアートサイト直島に展示されている、屋外彫刻「無限門」

たかまつ 都市部をいくつか作ってある程度分散をするけれども、縮小していくところは縮小していく、というお話なのかなと受け止めました。そのためのコンセンサスはどうやって取っていくべきだと思いますか?

占部 たぶんそれはコンセンサスを取るということではなくて、どの様な流れを作っていくかということなのだと思うんですよね。

宇野 地方は中核都市に勝手に集中していくと思います。たとえば佐賀は実質福岡の属国になっていますよね。また僕の父親の実家は山形ですが、そこに暮らす親戚はみんな仙台のテレビを見ている。こういった現実を否定しても仕方がなくて、どこからどこまでがその土地に暮らす人にとって「地元」と思えるかという想像力が、テクノロジーや経済構造の変化に伴って変わってきている。この変化を前提にどう残さなければいけないものを残すかということを考えるべきだと思います。ちなみに『帰ってきたウルトラマン』第33話の結末で、メイツ星人は地域住民に虐殺されます。そしてあなたもいつ、メイツ星人の立場になるか分からない。それを忘れないでください。

占部 消えゆく地方都市を無理やり残そうとすると、弊害が出てきてしまうように感じます。そこを見捨てるわけではなく見守りつつ、さまざまな流れの中で残ってきたところをどうしていくかを考える時代に来ているのかなと思いました。「場所」の吸引力というのがあって、やはり何か特別な風景とかひょんなことで人は惹かれていくことがあるので、宇野さんが言っていたようにそういったところは確実に残っていく。だから残ろうとしているところを、温かく見守っていくことが必要なのかなと思いました。

(了)

この記事は徳田要太が構成をつとめ、2024年10月17日に公開しました。