1.「ゲーム」をめぐるいくつかの不連続な問

 第一部では「ゲームとは何か」という問いそのものは解き明かすことは主眼としない。
それ以前に、なぜゲームを論じることが多くの人にとって重要だったり、興味深い論点でありうるのか、が多くの読者にとっては共有されていないと思われるため、まず、その点を考えてもらうための論点を投げかけていくスタイルのエッセイを複数詰め込んでいる。

1.1判断をつくるもの:感覚を効率的に形成する装置としてのゲーム

 二〇一〇年四月五日、Wikileaksでひとつの動画が公開された[1]。
それは、二〇〇七年七月一二日にバグダッドで、米軍が民間人をヘリから銃撃しているという動画だった。

Wikileaksが公開した映像”Collateral Murder – Wikileaks – Iraq(1)
Collateral Murder – Wikileaks – Iraq(2)

 動画では、ロイターのカメラマンが手にした巨大なカメラを、ロケット弾と誤認した兵士が、カメラマンに向かって発砲。そのカメラマンだけでなく周囲の民間人もゲリラと判断され、同時にヘリからの攻撃対象になった。
公開された映像は「まるでコンピュータ・ゲームのように人を撃ち殺す、とても残酷な映像だ」「米軍の横暴が証明された!」という非難を受けた。戦地での映像に対して、こうした非難がなされることは、もちろん今回がはじめてではない。

 たとえば、二〇〇三年のイラク戦争開始四週間前のイラクの市井の人々を撮影したドキュメンタリー映画『イラク――ヤシの影で――』などはこれに類する批判を、丁寧に映像として見せたものだ。まず、イラクに暮らす穏やかな知識人たちの日常を追いかける。次に、何人もの子供を育てているスポーツ選手の男性の暮らしを追いかける。カメラは、イラクの人々の暮らしを淡々と撮り続ける。イラクの人々が、いかに尊敬すべき、愛すべき人々かを魅せつける映像が丁寧に集められている。

 そして、この映画の最初と最後には、機関銃の粗い照準映像によってだれともわからない中東の人物が銃撃される映像が挿入される。それぞれのゆたかな日常をもったイラクの人々の身体は、銃によってただ敵対する対象として捉えられ、銃撃される。

 映像はイラクの人々の静かな日常的リアリティと、人間を実に雑に扱ってしまう戦争のリアリティを対比的に並べて見せている。それを通じて、イラクで行われたことがいかに悲しいことであるかを真正面から提示しようとしてみせるドキュメンタリー映画だ。
アメリカ軍による誤射が、愛すべきイラクの人々の日常を壊す行為であることはこうしたドキュメンタリー映画にかぎらず、何度も根気強く、繰り返されてきた批判である。


 この批判が重要な批判であるのは間違いない。もはや、繰り返されすぎてきたと言ってもよいタイプの戦争批判のフォーマットであるが、こういったフォーマットが素朴ながら重要なものであることは筆者も強く共感する。

 しかし、本書で議論したいのは、同じ事件に対する別の反応だ。
二〇一〇年にWikileaksで映像が公開された時、「人を撃ち殺すコンピュータ・ゲーム」をやってきたプレイヤーたちからの反応は必ずしもアメリカ軍の兵士を一方的に非難するものではなかった。それは、たとえば次のような論争だった。

「あの状況で、RPG(Rocket-Propelled Grenade ロケット推進グレネード)らしきものを視認したのならば、自衛のために交戦するのは状況的に相手が敵か味方かを精査する猶予がないのではないか?兵士の責任は問えないのでは?」
「いや、攻撃ヘリの中にいればさすがに安全なのではないだろうか。それに、兵士たちの態度はひどいのではなかろうか。陸地の部隊は冷静だし、ヘリの兵士が興奮状態で判断をあやまったという感じがする」
「イラクの当時の状況下だと、おそらくRPGをゲリラが保有している状況はじゅうぶんに想定された状況だったはず。交戦許可はそこまでありえないものではないとも思う」
「積極的に悪意のある判断だとは思わないが、やっぱり興奮状態で判断を誤ってるだろ」

 中東の戦場へと何度も出向くようなゲームをやってきたゲームプレイヤーたちにとって、兵士が緊急時にどのような判断をするか、ということはゲームのなかで何度も見てきた風景だ。

 銃撃戦のゲーム[2]では、敵対する意思のある相手を視認したら、瞬時に、先手をとって攻撃をしかけられるかどうかが生死を分ける。その状況下では、相手の判別はしばしば困難になる。民間人を誤射してしまうことはゲームの中でも頻発するし、友軍を撃ってしまうことも頻発する。たとえば友軍の兵士が、向かい側から間違って発砲してきたら、敵に攻撃されたものと誤認して友軍を撃ち殺してしまうことがよく起こる。ゲーム内で、友軍を誤射してゲームオーバーになることは、銃撃戦のゲームをプレイした人であれば経験したことのある人も多いだろう[3] 。

 もちろん、ゲーム内での敵と味方の判別のしにくさが、実際の戦場とまるきり同じであるかどうかは議論のあるところだし、誤射行為自体が悲劇であることに変わりはない。

 これは誰も望まない悲劇だ。それは事実である。

 ここで確認しておきたいことは、同じ攻撃ヘリからの映像が、二つの異なる反応を産んだことである。それが残酷で杜撰な意思によって行われたものであるという批判と、戦場の感覚としてそこまでありえない判断ではないかもしれないという反応の二つだ。実際に、Wikileaksが公開したこの動画は大きな論争を呼んだ[4]。

 ある人にとっては、どうしようもなく残酷な映像であり、ある種のコンピュータ・ゲームのプレイヤーにとっては「最前線の兵士の感覚としては、仕方ないところがあるのではないか」と捉えられたわけだ。

 この文字列の示す「仕方ない」という言葉の内実。その感覚的な判断について、この四文字を通じて伝達させることはおそらく難しい。もちろん、長い映画や、小説において絶対に不可能とまでは言い切れないが、この「仕方ない」の内実を伝えることは、困難な仕事だ。おそらく、戦争映画を多数見ている人の理解と、戦争ゲームをたくさん遊んでいる人では、おそらく後者のほうが、この場合の「仕方ない」の内実に近寄りやすいのではないか[5]。

 文字列としてではなく、ゲームを通じて兵士の状況理解をしようとするのであれば、最新の銃撃戦のゲームを通じてそれは理解されることになる。

 この「仕方なさ」の中身についての肌感覚をインストールされる。『Call of Duty』でも『Counter Strike』でも、『Battle Field』でもいい。実際に、精緻に作り込まれた銃撃戦のゲームをプレイすれば、戦場のすべてではないが、その一部の感覚を体験することができる。
実際に、アメリカ軍では、新兵の訓練として、銃撃戦のゲームによる演習を行っている。射撃能力などはそれほど向上しないらしい。ただ、対人チーム戦のプレイを通じて、戦場での様々な状況下における判断能力が養うことができるという。

 プレイヤーが、積極的に判断し、行動することを繰り返していくコンピュータ・ゲームというメディアは、戦場におけるある種の感覚を養う。そのために極めて効率的な方法であるということをアメリカ軍自身が認めているものなのだ。[6]

 ここで論じたいことは、戦争において何が真に問われるべきか、ということではない。
着目すべきは、我々が言説を構成し、倫理的判断を議論するときのその感覚の基盤自体がここでは、変化しているということだ。

 アメリカ軍兵士が、残酷で人の命をなんとも思わない感覚をもった人々の集団でしかないと判断するのか。それとも、戦場独自の要請にしたがって瞬時の判断をしていかざるをえない状況に置かれた人々だと感じるのか。

 その感覚の成立には、小さくない差が生じている。

 いくつかのコンピュータ・ゲームは我々のなかに、あらたな感覚をごく効率的につくりあげることに装置として成功している[7]。
 初期のコンピュータ・ゲームである宇宙船を操る『Space War!』に熱中した一九六〇年代のゲームプレイヤーは、夜空を見上げた時に、思わず夜空を『Space War!』のゲーム画面だと錯覚して、コントローラーを握る感覚を覚えてしまったという[8]。『テトリス』に熱中したプレイヤーが、ある日、高層ビル街にでかけた時、それをテトリス棒の塊だと感じてしまったという話もある。

 もしも、ゲームを通じて形成された感覚が、日常的に、強く固着してしまい感覚の切り替えが全くできなくなってしまうならば、それは問題になりうるだろう。いわゆる「現実と仮想の見分けがつかない最近の若者(?)」的なものになってしまうかもしれない。しかし、コンピュータ・ゲームのプレイヤーのなかに形成される感覚は、ほとんどの場合では日常的な現実感との間での切り替えが可能である[9]。 すなわち「イラクの人々の生活を残酷に破壊してしまう戦争」のむごたらしさを把握しながら、一方で「前線の米軍兵士の判断」をも理解してしまう。

 イラクの人々の映像を見、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき、「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」ということのみに悲しみ共感することと、前線で戦う兵士の戦闘感へのすること共感は、どちらか一方だけが優位になるのではなく、その両者はパラレルに成立可能なものだ。

 残酷さと、戦場の肌感覚の、その両者の間に立つことを可能になる[10] 。「とんでもなくひどいこと」と「多くの人がやってしまいそうなこと」が同一のものでありうることを理解することになる。[11]インタラクティブな環境下で、繰り返し我々に状況判断をさせるようなコンピュータ・ゲームは、我々の感覚を高速に構成する。

 そのようにしてインストールされた感覚は、いかに論理的に優れた演説よりも、感情的な訴えよりも、我々に納得をうむことがある。イラクでの誤射事件をめぐって、ゲームプレイヤーたちが繰り広げた論争に水準は、明らかに「兵士」の判断感覚に準拠してなされたものだった。
我々の思索や、判断といったものは、純粋に論理的なものだけではなく、どうしても我々が理解しうる感覚の範疇によって立ち現れる。

 ゲームというものがこの、感覚の成立につよく関わるメディアであるのならば、このようなメディアは、いままで我々の歴史において小さくない役割を果たしてきたのだろう。そして、コンピュータ・ゲームのようなメディアがこれだけ隆盛した現在において、より大きな影響力をもっていくと考えても、それは決しておかしいことではない。

 たとえば、特定の職能をもった人が抱える状況をすばやく理解するためのツールとして、あるいは、やや複雑な事象を理解するためのツールとして、ゲームというメディアは極めて効果的な役割を果たす可能性がある[12]。

 多くの社会では、人々がものごとを考え、合意をしていくためのツールとして、言葉を用いた議論というものをとても重要なものとみなしてきた。言葉による議論はもちろん、とても有効なもので、この原稿もまさしく日本語という言葉によって記されている。

 しかし、その「議論」という行動をとるまえに、その議論をする前提を共有するために、ゲームというメディアも用いることで、感覚を共有することが議論を成立させるための土台を構築できるかもしれない[13]。

 それによってはじめて、アンビバレンツに見える状況を共有して、議論を行うことができるようになる未来に到達することができるかもしれない。おそらく、それほど遠い時代の話ではない。すでに我々はその一部を垣間見つつある。
 本書で考えようとしているのは、これほど強力な力をもったゲームとはいかなる現象なのであろうか、ということだ。

 ここまでで示してきたのは、人の信念や推論といった思考の基盤の形成に、ゲームが大きな影響を持ちうるだろうということだった。人の思考のあり方を問う哲学や、人の思考の形成プロセスを考える発達心理学にとってゲームの概念は、重要なものでありつづけてきた。多くの哲学者、心理学者、社会科学者の議論の中にゲームに関わる論点を見出すことは難しくない。

 正義、自由、平等、物語などの大きな概念に匹敵する重要さと底知れなさを、ゲームの概念はもっている。だが、正義や自由の概念と異なり、ゲームという概念が一般的に重要なものであるということは、多くの人にとって直感的に自明なことではないだろう。

 それゆえ、本題を論じる前に、「ゲーム」を論じるということがそもそもにおいて、どういう重要性を持つのかという話に、お付き合いいただきたい。

[1]Wikileaksによる編集版 https://www.youtube.com/watch?v=5rXPrfnU3G0<二〇一七年五月一七日閲覧>なお、Wikileaksによる編集版でないバージョンのビデオもアップロードされている。http://www.youtube.com/watch?v=is9sxRfU-ik
[2]こうした銃撃戦のゲームは主にFPS(First Person Shooter)と呼ばれる。『Call of Duty』『Battle Field』シリーズなど、数多くのヒット作品を生み出した。世界的には多くの人にプレイされているが、2010年代までは日本国内ではポピュラーなジャンルとは言いづらかったが、2010年代には日本国内でも幅広いプレイヤーを獲得した。欧米各国や日本ではもちろん、サウジアラビアなどの中東地域でもこれらの銃撃戦のゲームのプレイヤーがいる。銃撃戦のゲームのなかには、素朴なアメリカのナショナリズム昂揚をさせるような設定のものもないわけではない。
[3]筆者自身も、『Battle Field 3』で市街地での夜間戦闘では、しばしば友軍を誤射してしまった。特に複数の方向から敵軍の攻撃を受けていると、服の見分けにくさも手伝って、かなり誤射しやすいものだった。
[4]このビデオのなかの兵士の行動が違法ではないのではないか、という主張はたとえば下記のURLを参照されたい。<http://markhumphrys.com/2007.airstrike.html 二〇一七年五月一七日閲覧>。また、ペンタゴンは当日の戦闘全体の文脈のなかでは一定の妥当性がある行動であったと弁護しているが、現場の兵士のあいだでも「威嚇射撃でよかったのではないか」という見解もある
[5]これは、映画や小説が劣ったメディアであるということを言っているわけではない。たとえば、複数の視点から、語りを交換し、多様な当事者の物語を統合的に理解するようなタイプの複雑な状況理解では、映画や小説は優れた事例を多数残してきた。(もちろん、『街』(SS)や『THE LAB』などのビデオゲーム作品でもそういった例はあるにはあるが本原稿執筆時点では、複合的な視点の導入はゲーム以外のメディアのほうが多いだろう)
[6]ゲームや遊びを通じて戦争に貢献する身体が構築される自体は、何も現代にはじまったわけではない。
二千年以上前にプラトンの主張まで遡ることはできる(プラトン、森進一ほか訳、1993『法律 下巻』岩波文庫, pp.57-8、八〇三E)。現代において「スポーツ」とされる活動の歴史は、軍事教練のプロセスと何度も接近を繰り返してきた。
[7]もちろん映画や小説といった他のメディアのほうが媒介しやすい感覚も存在するだろう。より、控えめな主張をするのであれば、ここで挙げたようなきわめて(1)インタラクティブで(2)多様な状況展開がある状況下における意識下の判断能力醸成を効率的にするためには、ゲームメディアは優れた訓練ツールである、ということだ。こうした意識下のメディア戦略について扱ったものとしては、高木徹の『ドキュメント 戦争広告代理店』(2005、講談社)や、二〇一二年のチリ映画『NO!』などを参照。また、意識下の感覚形成について、James M.Vicaryによって一九五七年に行われたという「サブリミナル実験」は追試されていない実験として科学に関する有名な「デマ」として知られている。ただし、繰り返しの映像接触などが意識下の判断に与える効果などについては、すでに多数の実証研究が存在しており、J.Vicaryの「サブリミナル効果」概念がデマであるということと、意識下への影響力を与えるものとしてメディアが機能するということは分けて論じておきたい。
[8]「ローウェルに帰省したある夜、自分がこのゲームに熱中しすぎていたことを悟った。電車から降りるとき、彼はさわやかに晴れた夜空を見上げた。すると、頭上を流れ星が飛んだ。「宇宙船はどこだ?」とサムソンは、たちまち振り返って、あるはずのないコントロール・ボックスの代わりに空をつかみながら、考えてしまったのだった」(スティーブン・レヴィ 松田信子,古橋芳恵 訳 1984=1987『ハッカーズ』工学者,p67)
[9]この論点については、詳しくは三部で述べる。遊びのような二次的現実と接するためには、そもそもそれが二次的現実であるということを識別、認識するための能力が必要とされる。そのため、何かを「遊ぶ」ということは、それを一次的な現実とは区分けしたうえで、その状況にコミットをするということと基本的には同義である。それゆえ、フィクションと戯れる人々であればあるほどに、フィクションと現実の区分けがついている人が多い、という立論はしばしばなされてきたし、それは多くの場合、実態に近いものだろう。しかし、一方で依存的状況に陥り、感覚の切り替えが相対的に難しくなってくるゲームプレイヤーがごく少数ながら存在することは必ずしも否定できない。特にオンラインゲームのような二次的現実空間が長期にわたって持続し、その内部での人間関係や仮想の財の蓄積が記録されるようなケースではこれは問題になる。二次的現実と一次的現実の強弱関係の逆転が起こりやすいと想定される。実際に「病的依存」とされる問題の発生率もMMORPGなどは高くなっている。ただし、これは映画や小説など他のメディアとくらべて有意に問題のある状況に陥りやすいということは、いまだに論争的な状況の範囲内だろう。
[10]こうした戦場における両義性を巧妙に描きだしたゲームとしては、たとえば『エースコンバット04 シャッタードスカイ』(2001,NAMCO,PS2)などが挙げられる。
[11]こうした感覚の分裂に直面し、それをまさに自らの行為として認識するとき、人はやはり強い精神的ストレスにさらされるようだ。アフガニスタンへの無人機攻撃を地球の裏側のペンタゴンから行っている操縦者は、日々の戦闘が終わると家族のもとへとその日のうちに帰ることができる。そして、そうした操縦者たちの多くが、抑うつに悩まされているという。
[12]こうした論点についてはゲーム研究の文脈であれば、Ian Bogost. (2010). Persuasive games: The expressive power of videogames. MIT Press.が重要な文献である。Bogostは、コンピュータ・ゲームというメディアを手続き的レトリック(procedural rhetoric)を可能にするメディアとして論じ、シリアスゲームなどの可能性をこうした文脈で擁護している。やや近い議論をしている、日本語訳があるものとしては、スティーンブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』(2006、翔泳社/乙部一郎監修、山形浩生訳)なども、エンターテイメント・メディアの有効性について論じている。
[13]繰り返すが、ここではゲームの感覚だけが重要だと述べているわけではない。この状況の両義性が重要である、と述べていることを改めて強調したい。2019年に「ニュージーランドの銃乱射の動画見たけどさぁリロードの最中に逃げろよ、と思うのは俺がFPSに慣れてるからか?」という発言が大きく炎上したことがあるが、こうした発言はゲームの感覚のみを無前提に強調しすぎた結果だろう。

この記事は、2025年2月6日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲームに関わる多様なトピックを扱っていきます。概念間の関係性についての詳細な議論はぜひ書籍刊行をご期待ください!
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