「庭プロジェクト」とは、これからのまちづくりについて、建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会です。
今回の研究会では、「庭プロジェクト」ボードメンバーの一人でもある哲学者・鞍田崇さんによるプレゼンテーションが行われました。テーマは「制作」における「傷」、そして「見守る」という営みの可能性です。
「庭プロジェクト」の連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
“木の声”と「民謡」
今回の研究会でプレゼンテーションを担当したのは、ボードメンバーの一人である哲学者・鞍田崇さん。鞍田さんは以前の研究会では、民藝の現代的射程、そして「モノ」との関わり方についての発表を行ってくれました(「民藝」の思想的意義──「インティマシー」から考える|鞍田崇)。今回はその時からの自身の思考の変化も踏まえた、二度目の発表です。
鞍田さんが今回のプレゼンテーションの取っ掛かりとしたのが、「庭プロジェクト」主宰の宇野常寛の近刊『庭の話』における「傷」をめぐる議論。同書ではプラットフォームでも、コモンズでもない「庭」というあらたな公共空間のモデルを構想する中で、その結論に近い部分で「制作」──人間が事物を作り出し、世界に恒久的な変化をもたらす活動──という回路から公共性に接続することの可能性が論じられています。
鞍田さんはその中でも、とりわけ「制作」の動機づけの条件として「傷」、そしてその結果としての「変身」という論点が提示されている点に着目しました。この「傷」という論点を鞍田さんなりに引き受けて深めていくにあたって、まず最初に想起したエピソードとして紹介してくれたのが、デンマークのコペンハーゲンにおける「森のようちえん」での出来事です。
「『森のようちえん』はデンマーク発祥と言われる幼児向けの情操教育で、既存の園舎や遊具で遊ぶのではなく、街の近隣にある森へ出かけ、子どもたちが自然の中で発見し、遊びを創造してもらうという取り組みです。僕の友人がワーキングホリデーでコペンハーゲンに滞在していた際にこの取り組みに関わっており、帰国後、写真を見せてもらいながら、彼女からお話しを聞く機会がありました。写真を見るだけでも、笑い声が聞こえてきそうなぐらい子どもたちの生き生きとした姿が伝わってくるのですが、そんな中に一枚だけ、トーンの違う写真がありました。すごく静まり返ったような感じで、巨木が林立し鬱蒼とした森の中に、ぽつんと一人だけ小さな子どもが立っている写真です。この『森のようちえん』に参加している最年少の女の子が、一人だけ仲間たちからはぐれて、森の奥深くにてけてけと歩いて行ってしまった際に写したものだといいます。

(鞍田さんの)友人は『迷子になったら危ない』と思って、駆け寄って連れ返そうとしたそうなのですが、そのときにガシっと肩をつかまれたとのこと。振り向くと、引率に来ていた別の先生が彼女の肩をつかんで、『行っちゃダメ』と。『彼女はいまあの木と対話しているから、邪魔しちゃダメ。ここから見守ってればいい』と言われたらしいのです。
最初にこのエピソードを聞いたときには、『デンマーク人って、なんておしゃれな返し方をするのだろう』ぐらいにしか思っていなかったのですが、後々になって考えると、子どもの心に寄り添うように考えての発言だったのだと気づきました。その子にとっては、『庭の話』で言うところの『事物とのコミュニケーション』の真っ最中であり、大人の判断で『危ない』や『怪我したらいけない』と言うのではなく、その時間を大事にしてあげなければならないのだと」(鞍田さん)
そして鞍田さんは、この「森のようちえん」のエピソードを、『庭の話』、そして自身がずっと向き合ってきた「民藝」に引きつけて捉え返します。
「既に子どもではない僕たちには、木の声はリアルには聞こえません。どうあがいても、聞こえないものは聞こえないという現実に、まず最初の『傷』がある。ただ、その現実を受け止めながらも、子どものような視点に寄り添うにはどうしたらいいのか。そこで問われているのが『変身』だと思ったんです。聞こえるようになるかはわからないけれど、『そんなわけないじゃん』『危ないから連れ戻そう』だけではない選択を取ることができるようになったとき、ささやかながらも『変身』が起こっているのではないかと。
そしてこの『変身』を促すものが、僕がずっと考えてきた『民藝』という視点の中にも潜んでいるのではないかと思ったりもするわけです。(民藝運動の創始者である)柳宗悦は『いい民藝作品には子ども心のようなものがある』とも言っています。民藝というものには、事物そのものと向かい合うということの可能性を僕らに知らしめてくれる、いまのエピソードと呼応するような可能性が潜んでいるのではないかと考えています」(鞍田さん)

さらに関連するトピックとして、鞍田さんが提示したのが「民謡」です。事例として紹介してくれたのが、日本各地の民謡を収集・研究し、DJプレイやレコードの再発を行う2人組のDJユニット「俚謡山脈」が紹介していた「アイスクリン」です。明治時代の縁日でアイスクリームを売る物売りの声を、昭和時代に再現したもの。こういう声に民謡の原点を見出す俚謡山脈の視点から、鞍田さんは自身が「民藝」を通じて考えるべき問題について再確認させられたといいます。
「アイスクリン(試聴)」(「Mirror Record」ウェブサイトより)
「ほとんどラップの世界ですよね。民謡って、三味線でシャンシャンと歌っているようなイメージしかなかったのですが、すごくバイブレーションを感じる身体的なものなのだなと、目が覚まされました。TBSラジオの『アフター6ジャンクション2』で俚謡山脈がゲストとして話している回によると、彼らが注目してるのは『民謡=人間力』なのだといいます。僕らが忘れてしまった、話し声の延長のような、身体のなかから出てきた声が、かつてはすごく生き生きと奏でられていたのではないかと言っていました。
それを聞いたとき、思ったんです。あの子どもが大木に呆然と向かい合ってるときの感覚と、このアイスクリンのおじさんの身体の中から出てきている声は、どこか共鳴している世界なのではないかと。そして、そういう部分こそが、民藝を通して本当は確かめなければいけなかったことかもしれないと再確認させられました。
また『庭の話』でも取り上げられている高円寺の小杉湯さんのご近所、大和町八幡神社で毎年行われている「大盆踊り会」に昨年夏はじめて参加したんですが(ちなみに、俚謡山脈も常連的に出演されているイベントです)、その締めに流された水前寺清子の『祭りになればいい』という曲にも通じるものを見出しました。この曲の最後で、繰り返し『人間らしくなる』というフレーズが連呼されています。問われているのは、現代社会の中で見失われてしまった『人間らしさ』そのものの回復でもあったのではないか。そんなことを、素朴にもう一度原点を確認するように、気付かされたりもしました。
10年前に『民藝のインティマシー』という本を出したとき、『いまなぜ民藝か?』と自ら掲げた問いに対して、インティマシー=いとおしさ、そういう感覚をもう一回呼び覚ますことなのだと言いました。それはとりもなおさず『人間らしさ』ということの再確認でもあったのでしょうし、その地続きのところに、もはや子どもではないぼくたちが聞こえなくなった木の声を聞くような、変身を促すような何かが潜んでるのではないでしょうか」(鞍田さん)
岡本太郎と「傷」
こうして「美しさ」だけではない民藝の可能性に立ち返る中で、鞍田さんが紹介したのが、岡本太郎の議論です。
「『美しいものではあっても、美しいと言わない。そう表現してはならないところにこの文化の本質がある』──そう言っているのは、岡本太郎です。彼も実は『民藝的なもの』、あるいは『民謡的なもの』の世界に、時代の閉塞感を打ち破るような何かを探ろうとしていた人です。もともとパリのソルボンヌ大学で人類学を専攻していたこともあって、戦後、創作活動の再開と並行してフィールドワークを重ね、数々の著作も出しています。『沖縄文化論: 忘れられた日本』という沖縄を訪問したときのルポルタージュがありまして、その中に先ほどのフレーズが出てきて、『生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。そして美的価値だとか、凝視される実態になったとたん、その実体を喪失してしまうような、そこにわたしがつきとめたい生命の感動があるのだ』と続いていきます。
『美しさ』という、既に価値評価の軸が定まっているものは、それが仮に斬新なものであったとしても、対象化してしまって、こちら側自身の変身への可能性を奪い、そこへ一歩踏み出す機会を奪ってしまう。凝視する対象となっている時点で、傷つくことを避けて眺めている。岡本は『傷』という言葉を使ってはいませんが、『美しさ』を拒絶するなかで、実はそういうことを目指してもいると考えてもよいように思います」(鞍田さん)
鞍田さんは、岡本の中に「傷」へのまなざしを見出す根拠として、『沖縄文化論』の冒頭で引かれているという柳田国男の『山の人生』というエッセイにも言及します。
「明治時代に実際にあった裁判記録から柳田が少し脚色しながら書いてるもので、岐阜県の美濃地方で山暮らしをしている、炭焼き職人の話です。貧しさのあまり、子どもたちが親の窮状を察して、自分たちを殺してくれと言ってきたところ、錯乱して実際に斧で子どもたちを惨殺してしまったという、なかなか痛ましい話。岡本はそれを引いてきて、現代社会は、これを単に『不道徳だ』とか『残酷だ』とかで済ますけれども、そういうことを踏まえなければ見えない世界があると言っています。『傷』という言葉こそ出てこないのですが、『痛切』『痛み』といった言葉も出てきたりもするので、岡本の中にも『傷』的な要素に対するまなざしはあったのかなと思うのです。
ただ、こういう古いエピソードを引いてきたからといって、岡本は別にそういう過去の生きざまに返れと言っているわけではありません。当時既に高度経済成長へとひた走っている現状を認めつつ、こう述べています。『われわれが遠く忘れてしまったはずの本来の生活の肌理(きめ)が、意識下の奥底に生きている。一種のキヨラカな呪術のように、われわれを縛りつづけるのだ。そしてそれが何らかの機会、たとえば芸術の表現によってむき出しにされたとき、われわれは不意に、言いようのない親近感をおぼえる。それは生甲斐だからだ』。こう言い切ったところでこのエッセイは締めくくられ、同書の結論と言ってもよいのがいま引いた箇所です。『たとえば芸術の表現によってむき出しにされたとき』ということろに、『庭プロジェクト』あるいは『庭の話』で議論されている『人間以外の事物とのコミュニケーション』とほぼ等しいような経験を、岡本は見ているのではないかとも思うんですね。ここで言う芸術は、言うならば民藝的なものも含め本当に広いものとして考えていると思うのですが、そういうものに接したときの言いようのない親近感、ある種のインティマシーに言及していることも、『傷』との関わりのなかですごく親和性を感じたんです」(鞍田さん)
インティマシーと「傷」
そしてこの岡本の「美しさ」と「傷」に対する視点は、柳自身が本来持っていた視点とも重なってくるのではないかと鞍田さんは推察します。
「柳宗悦自身が『民藝』という言葉に至る直前に朝鮮の生活文化と接したとき、その美の本質を『親しさ=インティマシー』にあると述べていることが、この岡本の言説とも重なってくると思うんです。こうした視点は、後に『民藝』が初めて活字で表記された『日本民藝美術館設立趣意書』で『工藝の美は親しさの美であり潤いの美である』とされているところとか、本格的な最初の民藝論ともいうべき『工藝の美』という著作の中で『「親しさ」が工藝の美の本質である』という言い方をしているところにも反映されています。
また『傷』という側面についても、民藝の中にも見てとることができるのではないかと思います。以前、明治大学の講義にいらしてくださった際に、映像人類学者の分藤大翼さんが『インティマシーは我が事を失うことによって生じる感性なのではないか?』『失うとか引き離すとか、ある種「傷」的なものが、インティマシーというものにおいてはすごく大事なのではないか』という指摘をしてくれました。この指摘から、インティマシーと『傷』が深く結びついていることを再認識しました。柳は『朝鮮の美術』という文章の中で、『悲しき美が彼等〔朝鮮の人びと〕の親し気な友であった』という言い方で『悲しさ』というものに言及しています。『傷』という言葉こそ使ってはいないのですが、何かそういう側面をはらんだ経験や実感が、この親しさ、インティマシーということを醸成するにあたって、実は表裏一体になっているのを見通していたことはうがかがえると思うんです」(鞍田さん)
そして鞍田さんがここで「興味深いのは」と重ねるのが、柳がそれに先立って言っていた「悲みのみが悲みを慰めてくれる(原文ママ)」という視点です。
「柳は同じ箇所でこう言います。『悲みのみが悲みを慰めてくれる』。この『悲み』を『傷』と言い換えるなら、ここにはその『回復不可能性』が見てとられていると言ってよいのではないでしょうか。『慰めてくれる』という物言いだけを取り上げると、ある種の回復可能性みたいなものが探られているようにも読めます。しかし、ネガティブな情感である悲しみを、たとえば楽しさや喜びのようなポジティブなそれで誤魔化し、表面的な回復を図っているというわけではありません。むしろ、悲しみを悲しみのまま受け止める。それは傷の回復不可能性にも通じる視点です。
(前掲の)『朝鮮の美術』は柳が33歳のときの文章ですが、同じような視点は最晩年にもリフレインされるんです。66歳のときに書かれた『南無阿弥陀仏』という著作のなかで、『悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか』と、33歳の、『悲みのみが悲みを慰める』という文章とほぼ同じ内容を重ねつつ、さらにこう続けます。『悲しみは慈みであり、「愛(いとほ)しみ」である。古語では「愛(いとほ)し」を「かなし」と読み、さらに「美し」という文字さへ「かなし」と読んだ』と。徹底的に悲しさ、つまり傷に寄りそえばこそ、それが、楽しみや喜びとかで誤魔化せるものではなくて、そのままに、つまり悲しみを悲しみのままに受け止めことの大事さが見すえられくる。そこに、安易に回復を探るということではなく、回復不可能であることを引きうけ、何か傷のようなものを抱えながら次につながる可能性を探っているというところに、『庭の話』の議論に共鳴するところがあるのではないかなと思うんですね」(鞍田さん)
「インティマシー(いとおしさ)」が「傷」と関連するのではないかと指摘する根拠として、鞍田さんはその語源にも遡ります。
「 『いとほし』というのは、万葉集にも出てくる古語で、もともと『労し』と表記されていた言葉です。なぜそういう字があてられているかというと、実は現代の意味とは真逆で、もともとは『つらい』とか、『困る』とか、『嫌だ』とかいう、傷ついた感じ、あるいは、生きるってしんどいよね、みたいな感じのことを表した言葉だったからなんです。語源的には『うとわし』と同根の語彙が『いとほし』でした。同時に、それが自分自身の事柄だけでなく、そういう『つらい』状況にある他人に対する、ある種の同情、『かわいそうやな』というような思いを表すような意味合いも孕んでいて、それもあっての労働の『労』だったのでしょう。『労』という字は、訓読みすると『いたわる』となりますよね。それが言葉の原義としてあるのです。
つまり、いとおしい、インティマシーという概念には、『つらさ』や『しんどさ』といった傷的な経験が根っこにある。後には、そういう状況に陥りやすい弱小なものに対する、保護的な愛情を表すというところから、愛情の『愛』という字が当てられ、現代にいたっているわけですが、いまもなお、何か傷をはらんで生きざるを得ない、そういうことへの共感の側面が、言葉のニュアンスとしてはどこか遠く響いているのではないかと思うのです。
インティマシー(intimacy)という英語は、ニュートラルには『親密さ』、『親しさ』を意味する単語ですが、もともと由来するフランス語のアンティミテ(intimité)と同じく、日常的にはもう少しセクシャルなニュアンスというか、思わずハグしたりキスしたり、身体的な接触や関係で示される『親しさ』を表します。それくらい、つまり親しさの余り、身体的に思わず反応してしまうような『共感』を言わんとする言葉です。決して知的なものでもなければ、単なる精神論でもない。『傷』という言葉が持っている、ある種の強さは人間の身体性にダイレクトに共鳴する点にあると思うのですが、身体的、あるいは岡本風に言うと『生命的』ということが実は大事なのではないでしょうか。いま民藝に関心が高まっていることの背景にも、そうした情感が惹起せしめられることで、忘れてしまった、もしくは失われてしまったはずの身体的実感が呼び覚まされるようなところがあるからではないかと考えています」(鞍田さん)
「制作」から「見守る」へ
「木との対話」、民謡、岡本太郎、そしてインティマシー。ここまでの議論を振り返りつつ、今回のプレゼンテーションにおける提案として、鞍田さんが最後に示したのが「見守る」という視点です。
「既に子どもではない僕たちには木の声が聞こえない。それが一つの『傷』としてあって、でもそれを踏まえればこそ、それを痛切に感じるからこそ、僕らはもう一度木の声を聴けるような『変身』を求めもするだろうし、それを促すものとして民藝的なものがあるのではないか。民藝のなかに潜んでいるインティマシーというものにも、そういう『傷』的なものを孕んだ情感が念頭に置かれていて、この機会にもう一回見直してもいいのではないかということを確認してきました。
一方で、僕らは本当に変身して木の声が聞こえるようになるのかというと、それはなかなか難しい現実でもあるのかなと思うんです。『傷』はどこまでも『傷』であって、聞こえないものは聞こえない。しかし、『聞こえるかもしれない』という可能性を持ちながら『聞こえない』と受け止めるのと、端から『聞こえない』と諦めるのは違うと思っています。それが冒頭で紹介した、『行っちゃダメ。彼女はいまあの木と対話しているから、邪魔しちゃダメ。ここから見守ってればいい』という先生の言葉からも見てとれます。この先生は、もしかしたら聞こえないかもしれないけど、聞こえる可能性は許容している。つまり自分たちの『変身』の可能性を許容している。ただ一方で、聞こえないという現実も受け止めている。
だからこそ『見守る』という態度になり、ここにもインティマシーがあるのではないかと思ったんです。つまり、『制作』ではなく『見守る』へのステップとしてのインティマシーというものが、『傷』を媒介にすることで見えてくるのではないでしょうか」(鞍田さん)
この「傷」と「見守る」について深めていくうえで、鞍田さんが参照したのが、柳と同世代の哲学者であるマルティン・ハイデガーです。
「ハイデガーの著作に『芸術作品の根源』という著作があるのですが、これは『物と作品』『作品と真理』『真理と芸術』という三章から成っています。その最後の『真理と芸術』と題された第三章で、制作に通じるような『創作』の問題が議論されています。興味深いのは、ひとしきり創作とはどういうことか論じた後に、実は創作だけではダメなんだと言ってハイデガーが出してくるのが『見守る』という振る舞いなんです。『創作されることなしには作品は存在しえないが、作品はそれほど本質的に創作する者たちを必要としているのである。同様に、創作されるものそれ自体は、見守る者たちなしにはほとんど存在するものとなることはできない』。つまり創作と見守り、『制作』と『見守る』というのをセットで考えているんです。
ここで僕がハイデガーを持ち出しながらみなさんに、あるいは宇野さんに投げかけたかったのは、もしかしたら『庭』的なものの実現に必要なことは『制作』だけではないのかもしれない、ということです。『制作』に一歩踏みだすことは、なかなかハードルが高く、それをいかに低くするかが『庭の話』の後半の議論にもなっています。それはそれでとても大事な試みとして理解しているのですが、『制作』と同じく『人間外の事物とのコミュニケーション』を実現する場を叶えるステップとして、この『見守る』的なものもあるのではないか。『制作』へと進んでいくという方向性と、『傷』を抱えながら『見守る』という対応の意義を考えてみたいと思ったわけです」(鞍田さん)
「聞く」から「制作」に接続する
この「見守る」という視点に注目する理由として、最後に鞍田さんの個人的なエピソードを紹介し、プレゼンテーションを締めくくりました。その思考の直接的なきっかけは、『庭の話』第十一章における「戦争」についての議論だったといいます。
「宇野さんは『庭』の条件をすべて満たす、しかも大規模に行われているものとして『戦争』を引いていたのですが、僕はそれに匹敵するものとして『災害』があるのではないかと思いました。ふり返ると、直近の能登の震災をはじめ、この30年、僕たちは多くの自然災害に直面してきました。それらの経験から、何か『庭』的なものに通じるものを見出せもするのではないかと考えました。その発端ともいうべき阪神大震災での経験を少しお話させてもらって、僕の話を締めくくります。
これは、阪急三宮駅(旧神戸阪急ビル)が1936年に竣工したときの記念の絵ハガキです。この阪急三宮駅は、僕らが幼少期を過ごした頃にもそのままの形であった建物でした。アーチの奥にプラットフォームがあるのですが、このアーチの中から、独特のあずき色の阪急カラーの車両が出入りするのを眺めるのが僕は好きでした。ただ、これは阪神淡路大震災で崩れ落ちてしまうことになり、いまでは建て替えられています。
実はちょうど震災があった前日まで、僕は神戸にいたんです。30年前の1月16日、しかも最終電車でこの三宮駅を後にしました。数時間前にあった街、しかも幼い頃に慣れ親しんでいた街がなくなったということが、とてもショッキングなことでした。
これは当日の号外です。ここには震度6と表記されていますが、実際、最終的には日本で初めて震度7が発表されることになります。当初は7ということが発表できないぐらい、現場も報道も混乱していました。
1月17日は京都に帰っていたのですが、そういう状況の中でじっとしていられなくなって、翌々日ぐらいに阪急電車が大阪から西宮まで部分的に復旧したので、とりあえず神戸に戻りました。西宮駅北口駅で降りて、そこからは他の人たちと同じように線路伝いに神戸の街を目指して歩いて行った。西宮も大変だったのですが、芦屋、東灘、灘、とずっと進んでいく中で、目を疑うような光景が延々と広がっていました。『庭の話』の戦争のところで情景化されている状況が、本当にそのままあるような状況だったわけです。たどりついた阪急三宮駅も全壊しているような状況でした。
それはまさに『傷』つく経験でもありました。それまであると思っていたものが失われるというのは圧倒的な『傷』。実際崩壊しているので文字通り回復しようのない『傷』でもあったわけです。この経験は、宇野さんが今回『庭の話』で『傷』ということを通して語ったこと、最後に戦争ということで話を進めていったことから、僕の中で自然と思い出されたエピソードだったんです」(鞍田さん)
この自ら「傷」を負った経験の中で、鞍田さんがたどりついたのが「見守る」という態度でした。
「その後神戸に戻り、避難所のお手伝いをすることになりました。日本で本格的に初めて、いわゆる傾聴ボランティアを手がけていたグループに、たまたま接点ができて携わることになったんですね。そのボランティアの仕事は何かというと、『聞くこと』なんです。これほどの災害があったときは数万単位でPTSDを患う人が出てくるから、専門家だけでは対応できない、ボランティアが必要だ、ということで組織されていたんです。そしてPTSDの対応として、とりあえず語ってもらうことが大事であると。涙もろくなったり、フラッシュバックしてつらくなったりしている人たちは、語らなければいけない。そのためにはモノローグではだめで、聞く人がいなければいけない。
いま思い返すと、語るというのは『制作』的なもので、『聞く』という振る舞いは『見守る』的なものだったのではないでしょうか。ただ、この『聞く』という仕事って、けっこうしんどくてですね。何がしんどかったかというと、まず聞かされる内容がきつい。本当に回復不可能な傷みたいな話ばかりなのできつかったというのがまず一点あります。
そしてもう一つは、『聞く』ことにとどまってることのしんどさというのがありました。僕自身も震災直前までいた街でもあり、幼いころから慣れ親しんでる街でもあり、なかば被災者の気分があって、何だったら僕も語りたい気分だったのですが、それを抑制して聞き続けなければならない。なぜかというと、僕は震災があったそのときにはその場にはいなくて、街を前日の終電で後にしている。1995年1月17日午前5時46分にその場にいた人たちは語り手になり得る、つまり圧倒的な回復不可能な『傷』を負った人たちとして、語る側の人間としている。しかし、その場にいなかった僕は、逆に『聞く』側だった。語る側と聞く側との間に深い断絶や溝やへだたりを感じ、なかば故郷のような街が遠い存在になってしまったという圧倒的な喪失感がありました。つまり、二重に傷ついていた。語ることを抑制して、制作的なものを抑制して聞くこと、見守るということに徹したことに伴う別の『傷』を負うという、しんどい経験でした。
ただ、この『聞く』という振る舞いそのものが、ただしんどいことでしかなかったかというと、決してそういうわけではない。数年後に少し心が落ち着くとそう思うようになってきたんです。そのときに圧倒的に語るべき人が他にいるという現実があって、僕は『聞く』側にいた。『聞く』側がいるからこそ、『制作』的な側面を持ち合わせている語りというものが、実際の治癒力をもって機能している。そう考えたときに、『聞く』ということの力をもう一回再認識しなければいけないなということを思ったんです。
そう考えると、『聞く』ことそのものもクリエイティブというか、『制作』的なものだなと思えてきたんですね。語るべき人が語るべきときに語るべき場そのものを『見守る』こととしての『聞くこと』というのは、実はそういう広い意味での『つくる』に通底していくのかなと思えてきたんです。だから僕自身は、語るべき人が語るべきときに語るべき場を、『見守る』ようにつくる。そういう言葉を考えていかなければいけないなと、あらためて考えるようになりました。
僕からの話は以上です。このたびの『庭の話』はほんとうに多くの気づきを与えてくれました。今日の話はすべてその賜物です。宇野さんにあらためて御礼を言いたいです。ほんとうにありがとうございました」(鞍田さん)
[了]
この記事は石堂実花・小池真幸が構成・編集をつとめ、2025年2月27日に公開しました。Photos by 蜷川新。