ゲーム研究者の井上明人さんによる連載「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「ゲームや遊びとは何か?」。この問いに答えるべく、ゲームや遊びに関わる多様な現象——ルール、コミュニケーション、非日常など——が興味深いかたちで相互に関係しあっている、その複雑さを論じます。
今回は、「ゲームとは何か」という問いをどのように考えるべきか検討してきた第二部を総括します。

「中心をもたない、現象としてのゲームについて」のこれまでの連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
2.4 方法論的立ち位置のまとめ
2.4.1 どうすればゲームという現象の全体性をうまく捉えているとみなしうるのか?:問を整理する
ここまでの議論で、方法論的に重要な前提を確認できたと言っていいだろう。 改めて整理すれば、まず本書の前提となる大きな問いは遊びの概念を含む「ゲーム」とは何か、という問いである。これは、人文学、社会科学、自然科学を貫く、学際的に重要な大問題である。我々は古来から遊んできたし、動物も遊ぶし、現代においては我々の日々の生活のなかどのようにして、ゲームを遊ぶようにして生きるかということを真剣に考え始めている。様々な点において重要な問いである。
しかし、この問いはいくつかのややこしい性質をもっている。遊びは曖昧な日常言語であり、多層的な日常行為である。ゲームはある程度まで概念の問題であり、同時に、人間とそれを取り巻く環境の中でたびたび安定的に再現される性質である。何らかのシンプルな観点からゲームという現象の全体を描写できるものでない。ゲームという概念・現象は、複合的に構成されている。
この問題をどうにか解くために、過去に論じられてきた「ゲームとは何か」という議論の論点としてどのようなものが提出されてきたかということを利用する。「ゲームとはこのようなものだ」という主張同士がどう関係し、ネットワークを構成しているのかを、思弁的に探索していく。言い換えれば、全体についてシンプルなパラフレーズは行わないが、より細かな部分ごとの構造がどのように絡み合っているのかという説明を積み重ねる。それによって、全体像を描き出そうとするものである。そして、「どの説が相対的に強い説明力を保持しているか」をいくつかの評価基準を通して明らかにしていく。
これらを通して、本書は、ゲームという現象の複雑さの中身を、具体的に提示するとともに、複雑にいろいろなものを単に寄せ集めただけでは成立しないような特性(これを創発的特性と呼ぶ)がある、ということを前提に据える。そして、この特性が成立するメカニズム全体を明らかにしないまでも、その重要な一部を明らかにしようとするものだ。もっと直感的に述べるならば、それは多次元の対象から任意の一断面だけを取り出すものではない。さまざまなタイミング、さまざまな角度から断面図をつくりその全体像を想像するというようなプロセスに近いかもしれない。
これらの仮説は可能な限り第三者に検討可能な仕方(可能な範囲で科学的研究にも接続可能なもの)であることを目指す。
2.4.2 説明の良さを検討するための基準
以上を踏まえ、次章からは「ゲームとは○○だ」といった各種の説について、その相対的な妥当性を検討していくことになる。そのためには、その妥当性を検討する論点を示す必要がある。ここまで長々と議論をしてきたのは、何をもって妥当性の高い説明といいうるのかどうか、という方針を理解してもらうためでもある。
遊び/ゲームの概念を取り扱う上で、どういった基本的な特質をうまく前提としたうえで、「妥当な説明をしている」とみなす具体的な基準は何か。ここまでの議論をまとめ、指針を具体化したリストを示そう。
(1)概念の典型性ではなく、関係性の変化への説明力
何がもっとも「ゲームらしい」かということを中心的な問題としない。ゲームらしいものとして思い浮かべられうるものが多様であるという前提に立った上で、状況や段階に応じて変化していく現象をどう扱うことができるかを考える。
(1-a)簡潔さよりも、明晰さ
こういった関係性の変化に対しての説明を目指すことは、しばしば良い説明の要件とされる「簡潔な説明」とは、真逆のことになりうる。ただし、簡潔ではなくとも、明晰であることは可能である。ゲームという現象が、なぜ簡潔な説明が難しくなっているのかを、明晰に示すことを目指す。
(1-b)境界例ではなく、観察の複数性
また、こうした立場は、パズル、くじ、三目並べなどのゲーム概念の境界例に対する説明力を主眼とするものではない。ここで問題にするのは、「ゲームと言いうる」「ゲームとは言えない」「ゲームでありうる」といった観察のうちの二つ以上が同時に成立するような事態である。なぜ矛盾しうるような説明が、同時に説得的な説明として成立しうるのか。そのメタ的な説明を構築することを目指す。
(2)語の意味範囲ではなく、モデルへの説明力
日常概念とは何か、という議論のなかで述べてきたとおり単に語の意味範囲をめぐる論争ではなく、現象の機序や構造についての説明が展開されるようなものであることが望ましい。現象の機序や構造についての議論を経ないままに、語の意味範囲だけを問うようなものであっては、現象についての理解をそれほど深めるものにはなりづらい。語の意味範囲を積極的に問うための議論は、説明力が極めて限定的である。
(3)現象間の多様な関係性のネットワークを検討することを通して、ゲームに関する一見相容れない複数の説明に対して、整合的な説明ができているか
「ゲームとは何か」ということを説明する説が、多数あることをあらかじめ前提として受け入れ、なぜ「ゲーム」という概念は複数の捉え方が可能になるのか、についての一定の説明を示したい。ある観点からの丁寧な機序の説明を行うことで、別の説明の観点がなぜ生じるかを整合的に説明可能かどうか、ということだ。たとえば、ゲームをコミュニケーションの一種とみる観点からは、ゲームを非日常だとみなす説明について整合的な説明をあたえることができる。一方で、ゲームを快楽とみなす説は、「これは楽しくないから、ゲームとは言えない」といったトートロジカルな説明を導くことが多い。こうしたトートロジカルな説明ではない形で、他説を包含していくことの可能な説が、「より説明力のある説」だということになるだろう。
また、上記とは別に、次のうちのいずれかを確認するという条件は下記の点となる。
(4)層をまたぐ説明を試みる
ほとんどの日常行為について言えることとして、ゲームという現象は、人間個人の認知の水準、複数人の間での相互行為の水準など複雑性の水準が大きく異なる層のものを横断して起こっているものである。この複雑性の水準をまたいだときに、新たな相互作用によって発現した側面を考慮し、可能な限りでその説明を試みる。
(5)層をまたぐブラックボックスを確認する
前項と逆向きの側面への配慮である。複雑性の水準が大きく異なるケースでは、創発現象によるブラックボックスが数多く存在しているという前提を踏まえておく必要がある。この創発現象について説明可能と思われるものについては説明を試みてよいが、一方で何がブラックボックスであるということなのかを確認することすらできていない点は多い。こうした点については、まずそこにブラックボックスがあるということを確認する。
以上が、それぞれの説を検討していくためのアプローチである。
繰り返し述べてきたとおり、「ゲームとは何か」という問いは、そもそもにおいて複数の学問分野をまたぐことを要請するような問いである。哲学、心理学、動物行動学、社会学……様々な分野を横断しながら問われつづけてきた問いである。学際的な対象を研究するプロセスでは、誰かが定期的に、ある種、野蛮とも言える気概でもって、複数の研究をつなぎ合わせて、大きな見取り図を立ち上げるということを引き受ける必要がある。本書の意義はそこにある。
そして、「野蛮」と書いた通り、これらの方法は機械的に適用可能な使い勝手のよいアプローチだというわけではない。様々な限界がある。
第一に、それぞれの問題がどの程度明らかになっているかは、当然、現代の認知科学や社会科学の水準の限界に依存する。検討対象となる仮説の妥当性は、その仮説の根拠となっている各分野での研究動向に左右される。これは仕方のないことである。
第二に、一人の著者が多くの専門領域にまたがる問題を網羅的に検討することにそもそも限界がある。努力をするにしても、各分野の研究者から見れば、物足りないところは沢山あるだろう。
それでも、学際的な対象を研究するということは、対象とこのような向き合いかたをすることから逃れられない。限界を承知の上で全体の接続を試みることと、限界を理由に接続を放棄することは、その帰結がまったく異なる。本書は前者の立場をとろうとするものだ。
このような方法論をとることを通じて、適応的でありつつも、逸脱的でもあるものとして。中心がありつつも、中心を持たないものとして。構造でありつつも、現象であるものとしてのゲームのあり方を示したい。
以上で、方法論についての議論をいったん終えよう。
(続く)
この記事は、2026年3月19日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲ
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