ダイアクロンはなにをリブートしたのか

 リブート版のダイアクロンは、最初から15歳以上向けの商品として誕生した。2016年において、高額なハイエンドトイというジャンル自体はすでに確立されたものであった。一方で、そのほとんどはすでにアニメーション作品として人気を確立したキャラクターの商品化であるという側面は否めなかった。ダイアクロンというIP自体は、トランスフォーマーの前身として知る人ぞ知る傑作シリーズではあったものの、すでに展開が終了して久しい「歴史」になってしまったシリーズであり、それそのもののファン層は必ずしも厚かったわけではない。そういったおもちゃメーカーの独自IPがハイエンドな高額おもちゃとして発売されることは例が少なく、当時としてはチャレンジングな試みであった。

 しかし発売以来リブートダイアクロンはじわじわとファンを獲得していき、10周年を迎えた2026年現在では商品点数がゆうに100を超えている。タカラトミーが大人向けホビーブランド「T-SPARK」を立ち上げたのは、ダイアクロンの成功を背景にしていると見てまず間違いないだろう。

 本連載としては、リブートダイアクロンが成功したとするならば、その要因はそこに描かれていた成熟のイメージが、魅力的なものとして広く受け入れられたからだと考える。

ここで注目したいポイントはふたつある。まずひとつは商品としての完成度だ。当然のことを言っているようであるが、ここでいう「完成度」がなにを意味しているのかから考える必要がある。

 たとえば先述のようなアニメーション作品の商品化がどういった価値をもっているのかというと、その多くは劇中の「再現」が可能であるということに集約されるだろう。たとえばこの連載でも扱ってきた勇者シリーズの玩具は、オリジナルにおいては子ども向けに設計されており、強度とギミックに主眼が置かれ、結果としてアニメーション作中における描写は大胆なディフォルメが行われることが通例となっていた。そのためこうした作品におけるおもちゃを大人向けにリメイクされる際は、強度を妥協してより多くのコストをかけ、さらに当時からの技術的向上を反映することによって、合体や変形などのメインギミックを保存したままアニメーション劇中の印象を「再現」するというのがベーシックな価値であった。トランスフォーマーにおいては若干様相が異なり、どちらかといえばオプティマス・プライムやメガトロンといった人物における変形やスタイルの再解釈とアップデートに価値が置かれてきたのだが、いずれにしてもキャラクターの商品化に軸があったということは間違いないだろう。ゆえに商品化も人気キャラクターに偏り「ガオガイガーばかり新作が出る」「オプティマスばかり増えていく」という嘆きはファンのあいだではクリシェとされている。

 ところがダイアクロンは、こうしたキャラクターの再現と所有という回路をコンセプトに持たない。まず依拠するアニメーション作品を持たないし、オリジナル版に存在していたダイアバトルスやビッグパワードといったアイコニックなデザインの再解釈という側面もないわけではないが、リブートオリジナルの機体も多数ラインナップされており、それは本質からやや遠いところに置かれている。リブートダイアクロンは公式のステートメントにおいて「大人の為の<イマジネーション型エンターテインメントTOY>」を標榜しているが、そこには「ロールプレイ=ごっこ遊び」という言葉が登場する。これは先述のようなキャラクターおもちゃとリブートダイアクロンを隔てる本質的な言葉だ。では、リブートダイアクロンはいかなる意味でロールプレイなのだろう? そしてそれは成熟のイメージとSNSにおいてどのような意味を持つのだろう?

ダイアクロン公式ウェブサイトに掲載されたステートメント。 https://www.takaratomy.co.jp/products/diaclone/world/

ダイアクロンとロールプレイ

 もともと「ロールプレイ」とは、演劇の要素を心理学・精神医療に導入することからはじまった概念だったが、ここで直接的に参照されているのは70年代以降のゲームの文脈だろう。もともとアメリカでは「ウォーゲーム」と呼ばれるミニチュアゲームが流行しており、これは指揮官の視点で巨大な軍隊を率いる遊びであった。これを発展させるかたちで、ひとりの人物にフォーカスを当て、戦士や魔法使いといった「役割」を「演技」する「ロールプレイングゲーム」が誕生する。「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を皮切りに主にアメリカで発達したこの概念が、ある人物に「なりきる」ことをメインコンセプトにしていることが、その経緯からわかるだろう。

 そしてダイアクロンを「ロールプレイ」として機能させるもっとも重要なポイントが、オリジナル版とリブート版における「隊員」の扱いの違いである。ダイアクロンというおもちゃのもっとも大きな特徴が3cm程度の「ダイアクロン隊員」フィギュアにあることはすでに述べた。オリジナル版のダイアバトルスは、3機のビークルが合体して人型になる際、すべての隊員が降りなければならない仕様になっていた。しかしリブート版では構成が変更されており、隊員が乗ったまま変形合体することができるようになっている。

 これはマイナーな変更のようでいて、決定的な意味を持っている。ダイアクロン隊員のフィギュアは強化スーツを身にまとっており、男女の区別やいくつかのマイナーバリエーションはあるものの、基本的にはすべて同じ姿をしていて、キャラクターではない。一方でカラーバリエーションは豊富で、新商品には新色のダイアクロン隊員が付属することが通例である。これによって、遊び手はダイアクロン隊員という匿名的な、かつカラーという記号によって差別化されているフィギュアを通じて、自らを遊びの世界に代入していくことになる。

 そして遊び手が自らを代入したダイアクロン隊員は、想像の世界でマシンに搭乗して戦うことになる。このマシンがすべて大量生産の量産機として設定されていることも重要だ。それは「キャラクター」ではなく、あくまで「乗り物」であり、ゆえにダイアクロン隊員の拡張として機能する。

 このダイアクロンマシンの拡張の方向性にはふたつの要素が存在していて、それは「BIG-AI」という設定に象徴されている。これはダイアクロンマシンを制御するオペレーションシステムの名前で、やや入り組んだ設定を持っているのだが、順を追って説明したい。

 まず最初の要素は、このOSが「対話型人工知能」であると設定されていることである。これはおそらくダイアクロンマシンが「顔」を持ったデザインであることの説明として設定されていて、パイロットと対話できることになっている。それぞれが別個のパーソナリティを持っていてカスタマイズされていくことになっており、2016年時点では生成AIが2026年現在ほど普及していなかったことを考えると、結果的にかなり先駆的な想像力だったと見ていいだろう。ダイアクロンマシンは隊員だけでなく、自我(少なくともそう見えるインターフェース)があるマシンがサポートすることでその制御を行っている。つまりダイアクロンマシンは単純に隊員の精神を拡張する肉体ではなく、社会との接続において別の主体の介入を受ける「魂を持った乗り物」として隊員を拡張するのだ。

https://www.takaratomy.co.jp/products/diaclone/dia_battles_v2/diabattles_detail.html

 これはリブートダイアクロンの初期から存在している設定なのだが、後に別の側面から掘り下げられることになる。

 ダイアクロンはキャラクターではないため原則として外部IPとコラボレーションする戦略を採用していないのだが、その唯一の例外が「グリッドマン」とのクロスオーバー「ダイアクロンvsグリッドマン」である。非常に文脈が入り組んでいるため簡潔に説明したいのだが、まず『電光超人グリッドマン』(1993年)という円谷の特撮作品があって、そのおもちゃの企画・開発を担当していたのがリブートダイアクロンの担当者と同一人物であることから実現したコラボレーションとなっている。ちなみに『電光超人グリッドマン』は『SSSS.GRIDMAN』(2018年)というアニメーション作品が続編として作られていて、これは内容的にその双方を統合した「グリッドマン」というIP全体とのコラボレーションとなっている。

『電光超人グリッドマン』。ウルトラマンをサイバーな情報技術ガジェットで再解釈した作品。 https://m-78.jp/videoworks/gridman/
『SSSS.GRIDMAN』。メタフィクショナルな要素を含む青春群像劇として、元IPの知名度からすれば意外なほどの人気を博した。 https://gridman.net/
「ダイアクロンvsグリッドマン」。ダイアクロンとグリッドマンの想像力を下敷きに、過去のタカラ社玩具の幅広い引用が行われている。 https://www.takaratomy.co.jp/products/diaclone/battlesgridman/story/

 これは「BIG-AI」がどのようにして成立したのかを主題としている。短いながらもハイコンテクストで引用の多い内容を簡潔にまとめて結論だけを述べると、「BIG-AI」の成立には巨大ヒーローである「グリッドマン」がかかわっていて、「BIG-AI」が搭載されたマシンに乗り込むことは、乗り手が巨大ヒーローになったような感覚をもたらすことが示唆されている。そしてさらに、そう明記されてはいないのだが、明らかに「変身サイボーグ」との関連がほのめかされている。

 本連載の議論と照らし合わせれば、これが重要な意味をもっていることは明白だ。リブートダイアクロンというおもちゃは、まず遊び手をダイアクロン隊員に代入させる。そしてダイアクロン隊員は、マシンに乗り込むことで「グリッドマン」のような巨大ヒーロー的想像力で精神・肉体を拡張させる。しかしこのマシンは「魂を持った乗り物」であるため、その主体に「変身サイボーグ」的にAIの介入を受ける。劇中世界においてこれは戦場における「ロールプレイ」に繋がっていくわけだが、現実世界においては、ダイアクロンによる遊びはSNSへと接続されていった。

マシンという身体、SNSという戦場

 リブートダイアクロンの商品は、当初からいくつかの共通規格のジョイントを軸とした組み換えによるカスタマイズを想定した仕様になっていた。ダイアクロンの遊び手はこうした仕様を活用しつつ、ときに商品外のさまざまなおもちゃやプラモデルと組み合わせながら、ダイアクロンマシンをカスタムしていく遊びを拡張していく。これに応えるようにして、商品の側も組み換えをより主眼に据えたものが増えていった。

 そしてこうしたカスタム遊びは、SNSを舞台にして精力的に発表されていくようになる。中にはカスタムだけでなく、あるダイアクロン隊員を主人公にした物語を書く遊び手も現れ、ダイアクロンを題材にした多彩な二次創作活動が盛り上がっていった。ダイアクロンは大人向けおもちゃとして比較的価格帯の高い商品であるのだが、こうした二次創作的な活動を拡張していくために、商品が買い求められていくようになっていくようになる。

 本連載の議論において、これは重要な現象だ。SNSの問題は、21世紀的な情報技術が、20世紀的な運用、すなわち自己の拡張によるナルシシズムの記述、理想の男性的成熟を錯覚しようとする欲望によって起こることを指摘した。言うなればインターネットを自動車のように使うことで、人間は理想の成熟に至れない不全感をごまかそうとして、あらゆる他者に交通事故を起こしていく。そしてリブートダイアクロンという「おもちゃ遊び」において起こっていることは、これを解毒できる可能性を持っているし、大人向けのホビーがなぜここまで求められているのかに対するひとつの解答を提示している。

 リブートダイアクロンは明確に身体の拡張であるところの「乗り物」としてデザインされている。それは「巨大ヒーロー」のような全能感を担保するために、人型を基調としている。しかしその一方で、それ自体が人間らしい顔を持ち、BIG-AIという対話型人工知能を搭載することで「魂を持った乗り物」として、主体に干渉し複数化する。このリブートダイアクロンという身体を、自らの成熟のイメージとして記述しようとするとき、遊び手はこの身体をさらに拡張するべく「着飾る」ことになる。遊び手=乗り手の精神を反映したひとつの作品として、量産された機械を唯一無二のものとするべくカスタムしていく。こうしてカスタムされた機体を通じて、遊び手同士はコミュニケーションを繰り広げていくことになる。

 これが「おもちゃ」という中間的な身体を挟むことで成立していることに注目したい。SNSが人間の精神をダイレクトに拡張することで相互に衝突させてしまっていることが不幸の原因なのであれば、そこに中間項を挟めばよい。遊び手は自らの身体を拡張することで理想の成熟を目指すのではなく、そこにロボットを挟み、そのフィクショナルな身体を拡張することで理想の成熟のイメージを表現し、ナルシシズムを記述していく。そしてその世界において、人間は互いの存在について語るのではなく、中間に置かれたロボットについて語ることで、間接的に互いに言及していくことになる。そこではロボット同士がロールプレイ的に戦うことはあっても、人間の精神と精神が衝突することはない。

 我々は、人間と現実社会について語ることをいったんやめてみるべきなのだ。代わりにフィクションを生み出し、そのフィクションがいかに語られたかということについてなら、いくらでも平和に議論することができる。人間はさまざまな動機で自己表現をするが、理想の成熟を目指そうとする欲望の割合は非常に大きい。そこで自分自身が理想の成熟を直接目指すのではなく、理想の成熟のイメージが自らの著したフィクションを通じてどのように表現されているかについてコミュニケートするほうがよい。ダイアクロン隊員が生身で戦うことができないように、我々は常にロボットに乗り込んで戦うべきなのである。しかもそれは、常に主体の判断に介入し続ける別個の存在――虚構においても現実においても――AI的な技術に接続された「魂を持った乗り物」なのだ。

 このイメージは一見近似の領域でも代替できるように思われるが、実はおもちゃでしか成立していないと本連載では考えている。たとえばコミュニケーションでいえば、VRにおける3Dアバターは一見中間的な身体を多様に実現するように見える(し、そういった側面も事実あるだろう)が、どちらかといえばあくまで現実の身体性がキャンセルされているのであって、むしろ人間と人間の精神的関係性は強調される(たとえば「お砂糖」)。実空間プロダクトでいえば模型(プラモデル)などは明確に近似の領域だが、模型はおもちゃと異なり、初期段階では未完成である。ゆえにそれは制作する人間の手の技術が——あるいはその精神が直接的に投影された一種の工芸品として発展してきた。さらにいえば「模型」は常に現実を写し取った「リアルな」ものを目指してきたゆえに、現実そのものを頂点としたヒエラルキーを形成しやすい。たとえばガンダムという架空のキャラクターがプラモデル化されブームを巻き起こしたときには、飛行機や戦車といった模型ファンからは「あんなものはおもちゃ」と揶揄する空気があったといわれている。そこには、現実にモチーフを取らない架空の存在は、現実に近づこうとする意志を持たないゆえに模型たりえず、さらにいえば決して成熟することがない子供のもの、というイメージも含意しているだろう。

 そう、我々は男性的な成熟を、少なくとも20世紀的な意味でのそれを、断念しなくてはならない。〝kakkoii〟は、情報技術と結びついたあたらしい男性的成熟のイメージだ。そしてそれはおもちゃという、自らを投影したフィクショナルな身体を通じて自己を表現することによって、20世紀的な工業技術の美学を、21世紀的な情報技術の生活から分離することができる。そうすることではじめて、我々は20世紀の重力から解き放たれ、正しく現代的な男性性の文化を再生することができるのだ。

キダルトというライフスタイル

 本連載は、20世紀末――80年代から90年代にかけて発展してきたおもちゃの群像について考えることで、新しい男性性へのヒントを得ることを目的としていた。そのためもともと過去に発生していた、しかし見落とされていた可能性を拾い集めるような手順で議論を展開してきた。一方、本連載がスタートしたのは2017年で、それからおよそ10年近い月日が経過してしまっている。当然のこと、そのあいだにも世界は動き続けており、もっとも大きな出来事は、おもちゃ市場の大きく伸長を背景にした「キダルト」というマーケティング用語の創設だろう。

 おもちゃの市場は大きく伸長しており、読売新聞オンラインによれば、2024年時点での玩具市場は2005年以来最高の1兆992億円を叩いている。誰もが知るように、日本は急激な少子化によって、本来のおもちゃの遊び手である子どもは明らかに減少している。にもかかわらずここまで大きく成長しているということは、おもちゃはすでに子供のものではなくなっているのである。この状況、そしてその市場を名指すために作られた言葉が「キダルト」で、これは子どもを意味する「キッズ」と大人を意味する「アダルト」の合成語だ。

 なお、これはトレーディングカードゲームを含む数字であり、カードゲームやそれに類する構造を持つバトルホビー(たとえばベイブレード)などは、本連載で扱ってきたフィギュアよりもむしろスポーツに近い構造を持つため、別個の議論が必要ではあるだろう。また本連載では完成品としてのおもちゃを扱ってきたため、ガンダムや美少女などのプラモデルについては、フィギュアでありながら触れてこなかったし、この数字にも入っていない。しかしともかくおおまかな議論として、「キダルト」というマーケティング用語が創設される程度には、日本社会におけるおもちゃのプレゼンスは高まっていると言って差し支えはないだろう。

 すなわち本連載が〝kakkoii〟という概念を誕生させる過程で、すでに大人がおもちゃを欲望していることは社会に可視化されている。〝kakkoii〟とは、おもちゃを通じてあらわれてくるひとつの思想であり、ライフスタイルということになるだろう。たとえば自動車や、あるいは煩雑なメンテナンスを要求することでその精神の完全性を表現するスーツといった装身具にリソースを注ぐことは、20世紀にはひとつのライフスタイルと結びついた美学であった。仕事に邁進することでステータスを上げたり、肉体そのものを強靭に鍛え上げたりするライトサイドがあった一方で、それは他人を見下したり、あるいは攻撃して支配下に置こうとするダークサイドとも不可分に結びついていた。そういったかたちで男性的なナルシシズムを記述することを、我々はすでにまっすぐに信じるわけにはいかなくなっている。

 代わりに我々は、おもちゃを求めるようになった。棚を作り、そこにおもちゃを飾る。理想の身体を追求するゆえに、すでに人体からは遠い地平に離れたその姿は、そのエクストリームな理想の表現ゆえに、我々自身の精神や肉体の脆弱さをまざまざと自覚させる。そしてその代わりに、おもちゃは我々を「少年」にする。そこでは我々は、永久に理想のかたちでは「大人」になれないことに直面していくだろう。そしてそれを克服するべく、自分という主体をサイボーグ化していく。ときに生成AIのレコメンデーションを、ときに同じように未成熟な他者の意見に耳を傾けながら、あらゆるテクノロジーを駆使して「成長」への道のりを歩んでいく。一方で、その欲望はおもちゃというフィクションのなかで叶えられていく。それはフィクションであるがゆえに、人間にはおよそ到達できない圧倒的な美を描いている。そのほうがよほど「大人になりたい」という人間の欲望を強力に叶えるだろう。そこではもう、他人を支配したり所有することによって、自らが成熟したと錯覚する必要はない。なぜならこの世界に存在するすべての人間、すべての主体が同じ「少年」であり、ともに歩むおもちゃをすでに手にしているからだ。

 〝kakkoii〟の美学は、生活すべてに浸透していく。我々は自らのステータスを高め、強い大人であると錯覚するために仕事をすることをやめるだろう。代わりにミニ四駆を走らせるように、社会から切断された一種のゲームとしてそれを本気で楽しむようになるだろう。家庭においては、家父長制的な「父」であろうとするためにパートナーや子供を「手先」にすることをやめるだろう。そこでは家庭の構成員すべてが不完全な「少年」として、相補的に主体に干渉し合いながら助け合うだろう。あらゆる活動を完全な状態に近づけるため、各種アプリケーションや生成AIといった情報技術サービス――「魂を持った乗り物」に自らを積極的に接続し、我々はサイボーグとなるだろう。身体を健康の要請以上に鍛えて見せたり、自動車や服や時計や鞄で自らの肉体を飾ることをやめるだろう。精神と肉体の不完全さと脆弱さを認め、日傘によって電磁波を防御したりハイテクスニーカーによって足にクッション性を持たせるように、身体機能の限界をさまざまなプロダクトによって補助することを選ぶだろう。そしてなにより、フィクショナルな世界の理想を求めておもちゃを買い、そして遊ぶだろう。棚に飾り、ときに持ち歩き、あらゆる景色を「少年」の遊びの視点で見つめ直すだろう。

 これは願望でもなく、遠い未来の可能性でもなく、「キダルト」という市場の発展と共に、今まさに起こっている変化なのだ。

 こうした文化――いま誕生した〝kakkoii〟という概念と、それに基づくおもちゃ遊びが世界に広がっていくことは、マクロに見てもより多様で創造的な世界を実現していく。おもちゃは生まれついた身体をキャンセルし、それを想像力のなかで自由に操作することを可能にする。おもちゃ遊びが現実で、あるいはSNSで共有される文化空間は、成人男性を社会の支配者としてきた家父長制を文化的に解体する。あらゆる性別、あらゆる人種の人間が、生まれ持った身体から自由な独自の身体でコミュニケートしていくことで、歪んだアイデンティティ・ポリティクスやポリティカル・コレクトネスを離れた本来のリベラリズムが回復される。

 人類は、その快楽に気づきつつある。それはこの日本という東洋の文化的特異点からはじまり、アメリカという西洋を経由して増幅され、すでに世界を飲み込もうとしているのだ。

 おもちゃは子供のために作られた、理想のイメージを託した彫刻である。ゆえにおもちゃを手にした者は、永遠に届かない理想をあきらめるのでもなく、たどり着いたと自分を騙すのでもなく、精神と肉体の不完全さと脆弱さをサイボーグ化で補いながら、自己を更新し続けることになる。それが棚に、机に、手にある限り、自らが「少年」でしかありえないこと、そしてその理想のイメージ――永遠にたどり着くことができない圧倒的な美しさに漸近するために成長していくことを、我々が忘れることはないだろう。

 世界のために、人類はおもちゃで遊ぶべきである。なぜならあそびは文化であり――人間には美しさに祈りを捧げる時間が必要なのだから。

(kakkoiiの誕生 完)

この記事は2026年7月24日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2026年8月13日に公開しました。
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