混迷する情報社会に求められる、新たな羅針盤

 VUCAの時代。人生100年時代。終身雇用の終焉。一寸先の潮目が読めない時代において、私たちは長い航海にどのように備えればよいのか。いま、新たな羅針盤が求められている。

 とりわけ「情報」との付き合い方は、私たち現代人の喫緊の課題だ。そもそも「情報」とは、基礎情報学では「生命体が生きるための意味をもたらすもの」とされている(※1)。目先の課題を解決してくれる実用的なノウハウ。複雑な世界の理解を助けてくれる学問知。生活と文化を支える娯楽的なコンテンツまで。私たちにとって「意味」となりうる情報は増え続ける一方で、これまでの認知的なキャパシティでは、処理しきれなくなってきた。

 書籍の出版点数こそ、ここ数年で減少傾向にあるが(※2)、それでも前世紀に比べれば遥かに多い刊行量を維持している。その上、国内のデータ流通量は年々増加し、5Gの普及によって更に加速されると見込まれる(※3)。SNSやYouTubeなどの台頭によって、コンテンツの発信が民主化され、無料でアクセス可能なコンテンツは爆発的に増加。これまで以上に玉石混交の状態だ。2020年の新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛の影響もあいまって、YouTubeの月間視聴者数は、これまでにないほど増加しているという(※4)。

 情報の量の増加に伴って、そのカテゴリ分けも複雑化する一方だ。私は「人と組織の創造性」をテーマに掲げる研究者であると同時に、株式会社MIMIGURIという人数規模50名ほどの会社組織を経営している。人と組織の問題は、悩みが尽きない。頭を抱えて書店に赴けば、昨今のビジネスに関する書物は、細かくラベリングされた書棚に綺麗に振り分けられている。しかし私がいま対峙しているのは経営戦略の問題なのか。採用の問題なのか。生産管理の問題なのか。はたまた人材育成の問題なのか。いまの私に最適な処方箋は、いったいどこにあるのか。途方に暮れてしまう。

 研究者らしく最新の学問知を頼ろうにも、経営学においても、領域の細分化が進み、各論的な発展が進んでいるようだ。人間や社会の成り立ちは、本来は全体論的であるはずなのに、まるで機械のパーツのように細かく分解され、知と知のあいだに血が通っていないようにも思える。この状況は、なんだか「腰が痛い」ときに、外科にいけばよいのか、内科がよいのか、神経科に行くべきなのか、悩ましい状況にもどこか似ている。専門知の細分化と分断。情報社会に共通した課題である。

 そんなふうに右往左往しているうちに、お気に入りのYouTuberたちが熱心に配信する「後で見る」コンテンツリストたちが、さらに積み重なっていく。Netflixにも新作がアップされたらしい。何かが自身の血肉となった手応えがないまま、情報を処理しきれないストレスのほうが上回り、ふと気を抜けば、溺れそうになる日々だ。

 そもそも私たちがやらなければならないタスクは、情報のインプットだけではない。情報を咀嚼して意味ある知識に変換し、新しい価値をアウトプットすることも、忘れてはならない。この情報が溢れる大海原では、とにかく膨大なタスク処理との戦いだ。荒波を乗りこなしながら、人生という長い航海を楽しむためには、どのような知的航海術が必要なのだろうか。

(※1) 西垣通(2004)『基礎情報学―生命から社会へ』NTT出版
(※2)日本統計年鑑(総務省統計局)
(※3)情報通信白書(総務省)
(※4)YOUTUBE JAPAN TRENDS 2020(YouTube Advertisers)

従来の航海術:目標に基づく「選択と集中」戦略

 このような問題意識は、今に始まったことではない。それこそ書店に行けば、「読書術」「情報収集術」「独学のコツ」など、いわゆる「勉強法」の書棚は活況だ。その隣には、英語やプログラミング、資格取得のガイドブックが並び、さらに転職やキャリアデザインのノウハウが地続きに並ぶ。長いキャリアの中で、どのように情報と向き合い、どのように学び、どのように自己を形成していくかということが、現代人の共通課題になっていることが窺える。

 これらの書籍を手に取ると、ある共通したパラダイムのもとで書かれているように思える。それは、達成すべき「目標」に対して、最適な「計画」を描き、限られた資源のなかで生産性と効率性を最大化させていく「合理主義的な価値観」である。いわゆる「選択と集中」に代表されるような、投資対効果を重視する考え方だ。

 「選択と集中」という言葉は、著名な経営学者であるピーター・ドラッカーが提唱した経営戦略に由来する(※5)。文字通り、経営目標に基づいて、中心とする事業を「選択」し、経営資源を「集中」的に投下することで、業績を向上させる戦略を指している。限られた経営資源で競争に勝つためには、てこの原理のように、小さな力を大きな力に変えていく必要がある。

 この考え方は、個人の学習法やキャリアデザインの指針としても、支持されてきた。教科教育段階での理系・文系の選択。大学進学時の学部の選択。就職活動における業種や職種の選択。基本的に、キャリアを前進させるためにはその時点の目標に基づいて選択肢を限定し、学習資源を集中させることで、専門性を築きあげていく。これが、キャリアデザインの定石だ。

 情報社会において、目の前の情報タスク(インプット・アウトプット含む)を処理する戦略として、「選択と集中」は極めて合理的だ。膨大なタスクに埋もれないように、目標をまず明確にする。その上で、目標達成に必要なタスクを洗い出す。それらを計画的に処理していくことを、航海の指針とする。これを「目標に基づく『選択と集中』戦略」と位置付けよう(図1)。

▲図1 「目標」に基づく「選択と集中」戦略

(※5)P.F.ドラッカー(著)上田惇生(翻訳)(2003)『経営の哲学』ダイヤモンド社など

合理主義とサクセス・トラップのジレンマ──「選択と集中」の問題点

 「選択と集中」戦略は、経営戦略としても、個人のキャリア戦略としても、見直すべき時期にきている。

 多くの事業を抱え込まずに、得意とする事業に資源を集中させる戦略は、比較的「安定した世界」においては、成果を出しやすい効果的な戦略だった。しかし外部環境が不確実で変化が激しい時代においては、それなりにリスクも大きい。2020年の新型コロナウイルスの脅威によって、足場としていた基盤事業が根本から揺るがされた企業も少なくないだろう。「選択と集中」は、ダイナミックな環境変化に弱いのだ。

 ウイルスの脅威がなかったとしても、ほとんどの企業は、既存事業がうまくいけばいくほど、その事業に資源を投下させ、成功の再現性を高めようとする。これを経営学では「サクセス・トラップ(成功の罠)」と言う。ボウリングでストライクが連続しているときに、あえて球の重量を変えたり、投げ方を変えたり、反対の手で投げたりする人はいないだろう。人も組織も、うまくいくほど得意技を磨き、逸脱した実験はしなくなる。そうしているうちに、まったく新しい価値基準を持った後発のベンチャー企業に、あっさりと追い抜かれてしまう。

▲図2 サクセス・トラップ(成功の罠)

 同時に、生涯学習やキャリアデザインの戦略としても、「選択と集中」はリスクを抱えている。人生100年時代が叫ばれ、定年は延長するも、終身雇用は揺らぎ、副業やフリーランスなど、働き方が多様化している。これまでよりも、先行きの見通しが悪い中で、働く期間が長くなっていくことから、一つの専門性に頼った働き方には根本的な限界が生じている。

 これに対して、ロンドン・ビジネス・スクールのリンダ・グラットン教授は、「連続スペシャリスト」という考え方を提唱した(※6)。これまでは専門性を極めるスペシャリストか、広く浅く汎用的な技能を備えるゼネラリストかの二者択一だったが、複数の専門性を連続的に獲得していくキャリア戦略を提案している。一つの専門性をとことん追及するよりも、そこそこの専門性をいくつか掛け算したほうが、オリジナリティは確かに出しやすい。

 しかし個人のキャリア形成においても、企業と同様に「サクセス・トラップ」の問題は免れない。「選択と集中」によって獲得しつつある専門技能は、明日の生活を支えてくれるそう簡単には捨てられない武器だ。長期的にはキャリア・ピボットが必要だとわかりながらも、短期的には目の前の仕事や一つの専門性にしがみついてしまう。合理主義的なアプローチは、この悪循環に陥ることが、大きな課題になる。

(※6)リンダ・グラットン(著)池村千秋(翻訳)(2012)『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』プレジデント社

目標設定の脆弱性:モチベーションと目標陳腐化のジレンマ

 もちろん長い人生において「選択と集中」を頻繁に繰り返し、短期目標を頻繁に再設定すればよい、という考え方もある。そのやり方がうまくいけば、確かに資源を過度に集中しすぎるリスクは回避できるし、希望が持てる。

 けれども不確実な時代においては、そもそも「目標を設定する」という考え方自体が、脆弱性を抱えていると、私は考えている。価値基準が揺らぎ続ける世界において、未来の到達点を、現在の自分が定めようとしている点に、自己を形成する方法論としての本質的な矛盾があるからだ。自分が何者になりうるのかは、知識や経験が不足し、ものの見方が研がれていない過去の自分には、想像不可能であるはずなのだ。

 もちろん「将来に何者になる」といった夢やビジョンを否定しているわけではない。明確かつ壮大なゴール設定が、自己成長の原動力になるケースももちろんある。実際にイチローや本田圭佑など、誰もが知る世界で活躍した一流スポーツ選手たちは、小学生時代に掲げた「将来の夢」を実現している。しかしそれはこの数十年の間、活躍の場としてのプロスポーツ環境が、比較的安定していたからだ、とも言える。

 外部環境が目まぐるしく変化するなかでの「深いレベルの自己成長」とは、多くの場合、自分自身の価値基準そのものの変容を伴うはずだ。成人教育学の偉人ジャック・メジローは、成人にとって最も重要な学習は、現実に対する認識の仕方が変化することであり、そのプロセスを「変容的学習」と呼んだ(※7)。変容的学習は、知識が増えた、技術が上達したというレベルではなく、そうしたさまざまな経験を経て、現実を捉えるパラダイムそのものが問い直され、変化する学習だ。自分自身が気がつかぬまま体重を預けていた「足場」自体が揺らぐような学習で、一度それを経験すると「あのときなぜ自分は、あんなことを考えていたのだろう」「なぜこんなことに気付かなかったのだろう」といったように、自分にとっての「真・善・美」の判定基準が変わるため、すでに保有していた選択肢の解釈そのものが修正される。新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界中が「変容的学習」を経験したはずだ。

 したがって、目標を定めて、特定のタスクを目掛けて資源を集中させるという戦略は、穿った見方をすれば、現在の想像力の範囲内に、自分自身の可能性を閉じ込めていく「視野狭窄的なアプローチ」とも言える。メジローに言わせれば、成人にとっての意味ある学習とは、想定外の「変容」を繰り返し、現在の自分では想像不可能な自分へと、偶発的かつダイナミックに拡張していくことなのだ。

 変容前に設定した目標は、未来の自分にとって、必ず「陳腐化」する運命にある。他方で、仮置きの未来の目標が、現在の自分を鼓舞する「モチベーションの起爆剤」になる側面は、たしかに存在する。どうせ陳腐化していくとわかりながら、“いまここ”の自分を動機付けるためには、私たちは目標を立て続けるしかないのだろうか。

 次項からは、いよいよ合理主義なアプローチを乗り越える、新たな情報航海術を検討していく。

(※7)Mezirow, J.(1978)Education for Perspective Transformation:Women’s Re-entry Program in Community Colleges. Teachers College Columbia University, NewYork

合理主義的アプローチを乗り越える「修繕」とは何か?

 これまで、従来の情報航海術「目標に基づく『選択と集中』戦略」が、情報処理術として、無視できないリスクと脆弱性を抱えていることを指摘してきた。この合理主義的なアプローチから脱却するための、新たな情報航海術の切り口は「修繕」というキーワードにあるのではないかと考えている。

 「修繕」という言葉は、フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースが著書『野生の思考』において提案した「ブリコラージュ」という考え方を説明する際に使われた言葉である(※8)。

 レヴィ=ストロースは、近代の合理主義的な思考法を批判的に問い直し、そのオルタナティブを、それまで未熟で野蛮とされてきた「未開民族」たちに見出した。たとえば、アマゾン川流域の先住民族たちは、前述したような「選択と集中」のような合理的な手段は採用しない。

 目標に基づいて計画を立てたところで、目標達成のために特別に考案された道具を、調達できるわけがない。現実的には、たまたま手元にあった道具を用いて「使えるかどうか」を試すほかないだろう。その道具がそこにあった理由は、いつか役に立つかもしれないという直観に基づいて、コレクションしておいたなど、その程度の理由かもしれない。だから道具が役に立たなければ、別の道具を試してみるし、どの道具もうまく使えなければ、手持ちの道具を使って作れるものを、作るべきものだったことにして、ありあわせで、間に合わせていく。

 私たちの日常に喩えるならば、冷蔵庫の残り物と、たまたま近所のスーパーで割引かれていた食材を使って、それがまるで「今晩食べたかったメニュー」かのように、夕食の品を完成させていく工程に似ている。手元にある資源を柔軟に組み合わせながら、眼前の目的を達成してしまう、あるいは、目的そのものを創発させてしまうやり方である。

 レヴィ=ストロースは、この資源を寄せ集めながらものを「修繕」していく未開人のプロセスを「ブリコラージュ」と呼び、これこそが人類にとって創造的かつ普遍的な思考法であると確信し、「野生の思考」として復権を試みた。

 同時にレヴィ=ストロースは、目標に基づいて計画を定める近代合理的なものづくりの方法を「エンジニアリング」として対置させ、むしろ「エンジニアリング」のほうが、人類にとって不自然な、特殊なやり方であると強調した。

 「エンジニアリング」は、いわば「夕食にビーフカレーを作る」という目標を立てたら、それを固定し、牛肉を目掛けてスーパーに出かけるやり方だ。もし牛肉が売り切れていたならば、固定された目標を達成するためには、別のスーパーに出かけるほかないだろう。途中でパーツが足りなかったからといって、設計図を引いた自動車を作ることを辞めるわけにはいかない。これがブリコラージュに対比されるエンジニアリングの考え方だ。実は複雑な現実世界において、創造的な力強さを持っているのは、ブリコラージュのほうだというのが、レヴィ=ストロースの中心的な主張であり、創造的活動における「修繕」という言葉の本質である。

(※8)クロード・レヴィ=ストロース(著)大橋保夫(翻訳)(1976)『野生の思考』みすず書房

「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」の提案

 本稿では、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」に着想を得て、また私が専門とする「問いのデザイン」の考え方を組み合わせた「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」を、新たな情報航海術のモデルとして提案する。

 その性質を一言でいえば、達成したい目標ではなく「明らかにしたい問い」を起点としながら、関連する複数のタスクに資源を「分散」投資し、問いに答えを出すための手がかりを集めていくアプローチだ。そして手がかりから得られた洞察に基づいて、「明らかにしたい問い」そのものを「修繕」していくことによって、自身のキャリアの方向性や、アイデンティティを柔軟に変化させていく戦略である。

▲図3 問いを起点とした「分散と修繕」戦略

 前述した「目標に基づく『選択と集中』戦略」が、達成型の情報航海術とするならば、「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」は、探究型の情報航海術と言えるだろう。

▲表1 「選択と集中」と「分散と修繕」の比較

 「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」は、以下の特徴的な3つの工程の繰り返しによって推進される。

(1)目標ではなく、明らかにしたい「問い」を立てる
(2)設定した「問い」に関わるタスクに「分散」投資する
(3)得られた洞察を手がかりにして、問いを「修繕」する

基本的特徴(1):目標ではなく、明らかにしたい「問い」を立てる

 「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」では、自身のキャリアの到達点としての目標を定義するのではなく、“いまここ”にある、自分が抱える「わからなさ」を起点に、自分の可能性を探索していく考え方である。具体的に言えば、自分自身がいま現在、仕事や生活を通して解き明かしたい「問い」を、情報航海の指針とするのだ。

 崇高な人生の目標やビジョンを掲げるには、ある程度の勇気と覚悟が必要だ。しかし小学生の頃に、勇気がなくて「自由研究」ができなかったというケースは、あまり聞いたことがない。関心に基づいて、自分がいま「わからない」「知りたい」と思っていることを「問い」に変換することならば、いますぐ、誰にでもできる。未熟なうちに、未来の到達点を規定することはリスキーかもしれないが、“いまここ”にある好奇心を起点にすることは、日々の学習の力強い基盤になる。

 たとえば「2年以内に、フリーランスのWebデザイナーとして独立する」と目標を立てるのではなく、現在の自身の関心に耳を澄ませて「無関心なユーザーが、思わず足を止めてしまうWebデザインとは?」といったような自分の実践を研ぐような「問い」を立て、それに答えを出すことを、当面の目的に設定するのである。

 設定する「問い」は、小さな疑問や不満でもよいが、ある程度じっくり時間をかけて探究したいテーマが望ましい。時間と情熱を捧げて探究したいと思えるテーマには、自然と自分のアイデンティティが反映される。キャリアデザインとはアイデンティティを探る旅でもある。長いキャリアを通して、育てていきたい「問い」を、仮置きしておくとよい。

 また、初めから「インターネットは人類を進化させるのか?」といった壮大な問いを掲げてしまうと、具体的なタスクに落とし込めないこともあるだろう。数ヶ月から、長くて1年ほどの時間をかければ解決できそうな、けれども明日や明後日には答えが出せないような、「適度なサイズ」の問いの設定が肝要だ(良い「問い」を立てるための具体的な技術については、続編記事で詳述する)。

基本的特徴(2):設定した「問い」に関わるタスクに「分散」投資する

 明らかにしたい「問い」を立てたら、問いに答えを出すためのタスクに「分散」投資をする。「選択と集中」戦略のように、目標に基づいて、自分が取り組むべきことを限定しすぎる必要はない。適度な「問い」が立っていれば、それに関連するタスクは、必要な情報のインプットから、仮説や実践のアウトプットまで、多様に存在するはずだ。

 これからの情報航海術の基本は「マルチタスク」である。探究において「問い」を前進させるコツは、手がかりを立体化させていくことだ。学術論文だけを読みあさっていても、力強い洞察は生まれにくい。かといって、現場で実践を繰り返しているだけでも、「問い」は育たない。インプットとアウトプットを多角的に繰り返すなかで、「問い」は修繕されていく。したがって、探究の手がかりが得られそうな複数のタスクに、同時に資源を分散投資する必要がある。

 分散投資は、株式投資においても基本的な戦略だ。先行きが見えない世の中において、一つの会社に全財産を集中させる投資家はいない。一部の資源が無駄になるかもしれないリスクを認識しながらも、投資先を分散させ、バランスの良いポートフォリオを組むことが重要だ。

 「分散と修繕」戦略においても、限られた可処分時間で、いかに効果的なポートフォリオを組むかが、重要になってくる。マルチタスクが苦手だという人ほど、ここは意識する必要がある。正確に言えば、これもある種の「選択」ではある。「ゆるやかな選択による、分散投資」と解釈しても良いだろう(これに関しても、具体的な技術については、続編記事で詳述する)。

基本的特徴(3):得られた洞察を手がかりにして、問いを「修繕」する

 分散投資によってマルチタスクを進めていると、ふとしたときに「なるほど、そういうことか」「あの話とこの話は、実はつながっているな」「これがポイントかもしれない」といったような「気づき」が生まれる。このような、立てた「問い」の探究を前進させてくれるような発見を「洞察」と呼ぶ。

 洞察は、これまで結びついていなかったAとBが結びつき、新たな知のつながりが生まれることで起こる。すでに持っていた知識と、新たに得た知識が結びついたとき。本で読んだ知識と、現場での実践感覚が結びついたとき。一見すると関連していなかった過去の経験と、いまの現場経験が結びついたとき。これを「新結合」と呼び、経営学ではイノベーションや組織変革の源泉だとされる。

 新結合による洞察を積み重ねていくと、最初に設定した「問い」に対して、「もしかしたら、これが答えかもしれない」「こうすると、うまくいくかもしれない」「この問いの本当の意味は、こういうことだったのかもしれない」と、「仮説的な推論」のようなものが立ち現れてくるだろう。このあとの立ち振る舞いが、実は、探究の質を左右する。

 現代の情報の荒海において、日々の探究の「手応え」や「成果」は、とても測りにくいものだ。探究の手応えとは、読んだ本の数だろうか? 記憶している理論やフレームワークの数だろうか? あるいは究極の真理の発見だろうか? このような議論は、実は「哲学」の領域でもなされている。哲学者たちも、探究の起点として、哲学的な「問い」を立てる。たとえば「人はなぜいずれ死ぬことがわかりながら、生きる努力をするのか?」といった具合に。このような「問い」に対して探究を進めていくと、ああでもない、こうでもないと、さまざまな推論が飛び交い、「問い」そのものも二転三転するだろう。ところが、何年もかけてこの問いを考え続けた結果、気づけば、最初とまったく「同じ問い」に立ち戻り、それが結局のところ「わからない」といった結論にも、なりえる。果たしてこれは、哲学の失敗”なのだろうか? という議論だ。

 この疑問に対して、哲学者のクリントン・ゴールディングは、探究の「哲学的前進(philosophical progress)」という考え方を提案している(※9)。哲学者は、最終的に明快な答えにたどり着くことを求めているわけではない。本質を照らそうとした結果、かえってわからなくなった影が生まれることも含めて、哲学の「前進」だと考えたのである。したがって、探究の結果、「答え」が導けないことや、元の「問い」に戻ることは、それ自体は大きな問題ではない。その過程で、「問い」そのものが問い直され、別の「問い」に発展したり、「問い」の前提の解像度が高まったりすることが、探究が「前進している」ことの指標となるのである。

 したがって、「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」においては、「仮説的な推論」が生まれつつあるときに、明確な「答え」を出しきることに固執する必要はない。もちろんあなたが研究者で、いったんの結論を出さなければ、目の前の論文執筆に区切りがつけられないということであれば、整理された解を導いておくことも必要だろう。けれども「分散と修繕」の主眼は「どこかに到達すること」ではなく、あくまで「自己の変容」であり、自分自身のアイデンティティを探究していくことだ。したがって、ある程度の洞察が得られたら、「答え」を出すよりも、いま自分が明らかにしたいと思っている「問い」そのものを「修繕」していくことに、意識を向ける。それが、「分散と修繕」戦略の基本的なサイクルだ。

 「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」を成功させる鍵は、起点とする「問い」の立て方と、その後の「分散投資」の技術にある。

 本稿では、情報の海に溺れないための航海術の「理論編」として、これまで支持されてきた「目標に基づく『選択と集中』戦略」に代わる「問いを起点とした『分散と修繕』戦略」を提案した。続編記事となる「実践編」では、「良い問いを立てる技術」と「効果的な分散投資の技術」について具体的に解説する。

(※9) Golding, C.(2009)“That’s a better idea!”Philosophical progress and Philosophy for Children. Childhood and Philosophy, vol. 5, no. 10, pp. 223-269

[続く]

この記事は2021年6月10日に公開しました。 これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。