コロナと自粛と消極性

──「遅いインターネット」では、コロナ禍を受けてのライフスタイル変化の問題をさまざまな切り口から考える記事を掲載してきましたが、このSTAY HOMEの時代に何が必要なのかを考えていたとき、ふと消極性研究会が立ち上がるべきなのではないかと思い至ったんですね。まさに世界中の人々が対面で積極的にコミュニケーションすることが憚られるようになった今こそ、消極的な人たちの行動支援を追求してきた「消極性デザイン(SHY HACK)」の出番では? というのが、本日お集まりいただいた主旨です。
 そこで、これまでにも消極性研究会の皆さんには、当サイトやPLANETSのメルマガでも連載していただいていますが、ちょうど栗原さん執筆の最新回では、まさにリモート環境に移行することで生じたコミュニケーションの質の変化やノウハウの試行錯誤など、これまで消極性という軸からコミュニケーションをハックしてきた栗原さんならではの考察を展開していただきました。まず、議論の皮切りとして、先の論考での栗原さんの問題意識をお話しいただけますか?

栗原 はい。私は大学教員として、今でもオンライン講義に四苦八苦していますが、この状況下でオンラインが前提になることによって、コミュニケーションの質が大きく変わってきたなという印象があります。
 端的に言えば、「とりあえず会って話そうぜ」と議論を引っ張っていた人が苦境に立たされています。なぜなら、前々から言われていたことですが、ビデオチャットは情動的なことが相手に伝わりにくく、対面コミュニケーションでの技が封印された感じになってしまうから。一方で、「話そうぜ!!」みたいな圧が苦手だったり、自分のペースでコミュニケーションを取りたい人にはわりとうれしい状態になったのかなと思います。オンラインになったことで、自分にとって適度な距離や頻度でコミュニケーションが取れるので。
 これまで私は、コミュニケーションが得意な人も苦手な人もいるという前提で、その人たちが同じ場で共存できるようにしよう、といった活動をしてきました。得意な人の圧から弱い人をどう守るかという視点に立つことが多かったのですが、自分の中でちょっと気持ちの変化が起こっています。
 オンラインのコミュニケーションの場では、簡単なスイッチのオン・オフで、ボタン1つで鉄壁の守りが得られるようになりました。それによって、必要な情報を取りにくくなっているという状況が起こっています。具体的に例を挙げれば、私がいる大学では、オンラインで授業を受講する学生に「カメラは絶対オンにしてね」とか「ミュートは解除してね」というのは言わない決まりになっています。それは弱者を守る意味ですばらしいことだと思います。しかし、おかげで誰が話を聞いているのか、まったくわからない。こういうふうに、必要な情報を取りにくくなってしまって、コミュニケーションがスムーズにいかない局面が多くなっています。コミュニケーションをもっと取りたいと思っているのに、ガチガチの守りが前提となっているため、自己開示のチキンレースになってしまっているんです。「弱い人を守ろうぜ」という立場だったのが、今は逆に、「このままでは誰ともコミュニケーションが取れないよ」、「スイッチ1つ、オンするだけで人とのコミュニケーションを豊かにする局面もあるかもしれないよ」と言ってあげるような、そういう行動にシフトしなければいけないのかなと思ったりしています。
 本心では周囲ともっとコミュニケーションが取りたいけど、強制されることにストレスを感じたり、苦手意識のある人にとって、スイッチ1つで自分にとって心地のよい距離を保つことができるようになったというのは、それ自体はうれしいことだと思います。でも、逆にそこから抜け出そうとするときの難易度が、だいぶ上がってしまったんです。積極的に人とつながっていこう、交流を深めていこうという活動をする場合に、自分の強大なバリケードが自分に対して足かせになって、外に出にくい状態を作っている。そういう状況に気づいていないのではないか。実は困った状態になってるかもしれないから気をつけていこうぜと、私自身がそういう人間だということを含めて、前回の原稿では書いたつもりです。

──つまり、これまで消極性研究会がターゲットにしてきたタイプの人たちにとっては、ある意味、居心地のよすぎる環境が成立してしまった。その点に栗原さんは、かえって難しさを感じているわけですね。他の皆さんは、この日常に何をどう感じて、どう過ごしていらっしゃるのかをお聞かせいただけますでしょうか?

西田 私の授業では匿名で発言したりコメントができるようにしているのですが、そうなると、活発に発言が行われている状態でも、同じ人がガンガン前に出ているのか、みんながワイワイやっているのかわからなくなります。誰が前に出ているのかわからなくなると、前に出たいから発言していた人は「私が前に出ているぞ」というアピールができないし、逆に発言したいことがいっぱいあったけど「前に出たがっている」と思われるのが嫌で出ていなかった人は、前に出てもバレないので気持ちよく前に出ているかもしれない。
 「消極性」という概念はなかなかに多面的で、「何かを言いにくい」とか「言う内容が思いつかない」とかだけではなく、目立ちたくないから発言していなかった人は、目立たずに言えるという、今まであまりなかったような出方とかも出てきていて、単純に理解するわけにはいかない複雑な状態が生まれているのではないか、という気がしています。
 あと、この状況がけっこう長引いてきているので、最初の頃と最近とではまた変わってきているところがあるのかなと思います。「誰かと会わないと死ぬ」みたいなタイプの人は、もう気にせず外に出て人と会っていると思いますが、そこまで積極的ではないけれど孤独が好きなわけではない人、たとえば授業などでも「当ててくれたから話せる」みたいなタイプの人は、相対的に「自粛をしなくちゃ」という意識が強くて、長期化に伴ってストレスを溜めているのではないかと思います。なので、いつも同じ人が自粛している、みたいになっていることに、私としては問題を感じます。
 トップダウンなやり方を嫌う人も多いですが、「今日はあなたが自粛してください」みたいなことを誰も決めない、社会レベルでコントロールする存在がないというのが、けっこう良くない状態なのかなと思ったりします。

簗瀨 私が最近、考えるようになったのは、いくつかの選択肢があってその中で消極的な選択をしている人と、そもそも積極的という選択肢がない人では、この状況下における心理的な状態は違うのではないか、ということですね。
 積極的になるという可能性を捨てて消極的という選択をしている人は「選択をした」という満足がある程度あるわけですが、積極的に何かするという選択肢自体がなくなると「消極的な選択をした」という満足が感じられなくなってしまいます。一方で、もともと積極的という選択肢がない人にとっては変わらない、むしろストレスが減る、みたいなことになってくる。もともと消極的で、今の世の中でも消極的に生きている人の中にも、その辺の差というのが出てきてるのかなと思います。

渡邊 僕自身はおそらく、もともと消極的だからこそ今を快適に感じているタイプだと思っています。リモートツールのようなガラスが1枚あるだけで、とても心地が良くて、「我々は何を今まで恐れてたんだろう? 何に不快を覚えてたんだろう?」というぐらい、楽な気持ちになるんですよね。
 コミュニケーションがオンラインになったことで感じたこととしては、2つあります。今年は学期のはじめから個別ゼミをやる予定だったんですが、コロナの影響でオンラインで実施しました。そうすると、新規で研究室に入ってきた学生の身なりとか風貌とか、そういう要素が全然わからない状態で話をすることになるわけです。それが、本当に研究の話だけを話すという感じになって、すごく良かったですね。見た目で判断してはいけないと言いつつも、この子はちょっと気難しそうだとか真面目そうだとか、勝手に思っていたところがあったのが、オンラインになることでそういった先入観や自分自身のテンション、相手の雰囲気を読む、といった調整が発生しない。それがすごく良かったなと思います。
 もう1つは、パソコンのパワーを全部味方につけられる。目の前にパソコンがあるので、「こんなのどう」とすぐに見せることができるし、わからなかったらすぐに調べられる。今の世代の人はそういう人が多いと思いますが、僕というのはパソコンとともにあっての「渡邊恵太」であって、それがface-to-faceでは丸腰になってしまうんですよね。オンラインで話している状況というのは、ARグラスが普及した未来の状態に近いのかなと思います。「これ知ってる?」とすぐに見せられたり、アレとかコレとか指示語的なコミュニケーションをしても具体的なURLの交換が瞬時にできる。face-to-faceでもスマホで見せられるかもしれませんが、ちょっとやりにくいですよね。「これ知ってる?」と言った瞬間に画面共有できるというのは、やはり強いなと思います。

濱崎 僕は遠隔会議が苦手で黙り込んでしまうことが多い感じなので、栗原さんの話に即して言うと、どちらかというと「フィジカルなほうが得意派」なのかなと改めて思いました。普段、研究所でグループメンバーとディスカッションするときは、基本ビデオはオフにするので、ビデオつきの会議はすごい久しぶりで、正直、慣れない感じですね。
 オンラインでのコミュニケーションが中心になったということで思うところは、コミュニケーションするときの情報共有のチャンネルが物理から情報空間に変わっているわけで、渡邊さんが言うように、変わったことによってすごく伝えられるようになったものがある。たとえばテキストチャットや画面共有しながら話ができるから、すぐに必要な情報が伝えられる。同時に、声が小さかったり、後ろに引き気味だった人でも伝えられる、というように拡張されるところもあれば、栗原さんが言ったように、近づく間合いで攻めるみたいな部分が伝わらなくなってしまう。
 たとえば、この座談会もZoomで収録しているわけですが、普段の対面では、相手の顔をこんなに大きくモニターで見ながら議論しないじゃないですか。表情とかを逐一見られている感はあまりないし、見せてる感もなかったのに、遠隔会議だとそれがすごくクローズアップされる。僕はそれにまだ慣れていないんですね。こうして画面に出ている時点で、「僕は飲み物をいったいいつ飲んだらいいんだろう?」みたいに悩んだりしてしまってる、今日この頃ですね。

コロナを境にずれた、コミュニケーション強者と弱者の線引き

──ありがとうございます。ここで思ったのですが、研究会の5名の皆さんがこのニューノーマルの生活の中で、消極性デザインで何をすべきかの立ち位置の違いをマッピングしてみるとよいかもと思いました。それを可視化するには、どういう軸を設定すると良さそうでしょうか?

栗原 冒頭で話した先の記事は、今までと戦うポイントがだいぶ消極的な方向にずれたという話なんですね。ずれたポイントのこちら側にいる人とあちら側にいる人というのが、やはりいると思います(図1)。そのラインより向こう側の人もいたりするし、消極的といっても層が厚いので、当然その人によって対応が変わるんだろうなと思います。この記事の中で私がフォーカスしたのは、今回のずれによって立場が「積極」側にシフトしてしまった私の立ち位置から、授業もしくは仕事のように上からコミュニケーションの圧がある場合に、それをどう対処するかみたいな部分で楽になった「消極」堅持の人たちへの問題提起です。

▲図1 COVID-19前後でずれた「積極」と「消極」の線引きポイント

 少なくとも、そこにいてもあまり体力を消耗せずにいれるようになった。音量も調整できるし、怖そうな人がグッと迫ってきてもピクセルが限られた映像がどアップになるだけだし。ただ、そうは言っても、生命維持的なコミュニケーションの意味で少し楽になったぐらいだと思います。やはり、自分から話しかけるとか、イニシアティブを持ってコミュニケーションをするといった部分では、コミュニケーションが得意な人同様、もしくはそれより大変になっているというところが観察できるのではないかと思います。

──なるほど、コロナの前後で「積極」と「消極」の線引きポイントがずれた。そうなると、皆さんが目指す消極性デザインが、「消極的な人のコミュニケーションを促進したい」方向なのか、それとも「コミュニケーションに消極的なままでいい」方向を目指すのか、という軸を設定すると良さそうな気がしますね。それに加えて、従来の消極性デザインがエンパワーメントしてきたような「Beforeコロナ的な対面コミュニケーション環境」を基準にした問題解決にコミットしたいのか、あるいは「With/Afterコロナの非対面コミュニケーション環境」に即した新たな問題設定やデザインに突き進むべきだと思うのか、この2軸でそれぞれの立ち位置をプロットしてみるとよいかと思ったのですが、いかがでしょうか?

栗原 そうすると、こんな感じの図になりますかね(図2)。私自身は「オンラインはいいところもあるけど、すごく困るなというところもある」みたいなところで迷っているという立ち位置です。私自身の問題意識から発しているので当然なんですが、両軸の真ん中あたりで、あまり極端な場所にはいないと思います。もちろんオンラインですごく良いこともたくさんありますが、自分が暗に使っていた対面でのコミュニケーションスキルがまったく通用しなくなると、それなりに業務上困るなというのを一人の大学教員としては感じているので。

▲図2 ニューノーマルのコミュニケーション立ち位置マップ

西田 私自身は客観的に見て、「With/Afterコロナ」な世界にそこそこ適応しているタイプだと思うんですが、入学後に一度も登校しないでオンライン環境になってしまった大学1年生が仲良くなることにコミットしたいという気持ちや、この状況を何とかしなければという問題意識を、すごく背負ってしまっています。大学の教員としての責任感が変に強くなっているのかもしれませんが、匿名の質問箱をやっているせいか、「友達ができなくて辛い」とか「ずっと一人暮らしでオンライン講義ばかりで辛い」とか、そういう心の声が届くので、辛さにシンクロしてしまうというか、いちいち真剣に考えてしまうわけです。
 そういう意味では、「Beforeコロナ」に回帰したいという人の気持ちも背負ってしまっている、両義的な立場なのかなと思います。

簗瀨 私自身の行動としてはコロナ前後でそんなに変わっていないし、そんなに今の状態をネガティブに感じていないという意味では、完全に「With/Afterコロナ」推進側の立場ですね。ただ、それで「Beforeコロナ」の問題設定が消えるわけではないし、そちらを指向する人のことを考えなくていい、ということにはならないのは明らかです。社会全体でのパワーバランスは、若干「消極」側に寄っていくかもしれませんが、あくまで「積極」側が多数派で、「Beforeコロナ」的な日常も徐々に回復していくことになるでしょう。
 そういう前提の上で、最初にも述べたように、積極から消極まで多様な行動の選択肢の幅がある上で、あまり人と交流しないとか、飲み会に行かないという選択をしたいと思っています。これはさしずめ、「消極性強者」の考え方なのかなと思います。つまり、以前であれ以後であれ積極指向の人が多数派を占める中で、以前は認知されづらかった「私は消極的な人間なので、消極的にいきますよ」と言える立場や選択肢を、この状況を機にもっと社会的に許容される状況を作っていきたい、という感じでしょうか。

渡邊 同じく僕も、自分としては完全に「With/Afterコロナ」肯定側ですね。正直、コロナ禍になって仕事が減りましたかと言うとそんなことはなくて、大学の業務はオンラインで維持してあるわけですよね。それ以外の個人的な依頼はむしろ増えている。オンラインになることで、むしろ「いいですよ、ドンドンやりましょう」と言えるようになりました。どこかに行って、慣れない感じで受付の人に話しかけたり、インターホンで呼び出したりとか、すごく嫌ですね。慣れない場所でずっと待って、会議室に通されたら、どこに座ればいいのか悩んで……。
 そういうのが全部なくて、オンラインでいきなりつながって、お互い社交辞令はよくわからず、「お疲れ様でした」とブチっと退席ボタンを押す、みたいな感じが、やはり疲れないんですよね。疲れないというか、ハイデガーの現象学的存在ならぬ「インターネット的存在」になれる気がする。コロナ禍になって良かったというわけでは断じてないんですが、これを機会に、こういうコミュニケーションスタイルを一般的なビジネスプロトコルにしていくのは、良いことなんじゃないかと思いますね。

濱崎 さっきも言ったように、このメンバーの中では僕は比較的「Beforeコロナ」のフィジカル対面派なのでしょうね。この状況が何かをもたらしたかという観点から言うと、今までなかなかできそうでできなかったオンラインへの移行が、ある意味、みんなに強制されることで一気に促進されたわけじゃないですか。ここにいるメンバーはみんな情報系の研究者で、コロナ前から打ち合わせには常にノートパソコンを持ってくるし、当然、画面共有しながらディスカッションするタイプでした。だから、「みんな、なぜそうしないの? やれば100倍便利になるのに」と思っていた人たちだと思うんです。せっかくのインフラがなかなか浸透しないのがもどかしかったけれど、そこにあっさり辿り着けてしまったというテクノロジー的な意味では、今回の変化は非常にポジティブな面があると思います。
 ただ、個人的な立ち位置としては飲み会とかはしたい派なので、そういう意味で寂しい思いをしています。僕はつくば市に住んでいるので、これまで東京で飲み会とかがあっても参加できないことが多くて、みんなが楽しそうに飲み会をしているのを遠くTwitterで眺める、みたいなことがなくなったという点では、後ろ向きな意味で幸せになっているかもしれないんですが(笑)。
 ですから、「With/Afterコロナ」的な選択肢が増えたことは肯定していますが、これが強制的にスタンダード化されていくのには躊躇する感じでしょうか。たぶん、単純に人間はコミュニケーション強者/弱者に二分されるわけではなくて、フィジカルのコミュニケーションには強い人がオンラインでは弱者になりうるし、その逆もある。あるいはどちらにも苦を感じない人もいれば、どちらも苦手な人もいるでしょう。簗瀨さんの言うように、対面/オンライン、積極促進/消極適応で幅広い選択肢があって、それぞれがフィットするスタイルを選択できるようになることが重要なのかなと思います。

オンラインに移った活動の場で

──なるほど、すごく乱暴に図式化すると、「対面×積極促進」側の濱崎さんと「リモート×消極適応」側の簗瀨さん・渡邊さんがいて、その中間のところで栗原さん・西田さんが揺れているという感じですね。
 立ち位置を確認したところで、皆さんがそれぞれの立ち位置でぶつかっている困難にどう立ち向かっているのか、使用されているツールや工夫している点など、具体的な話をお聞きできますでしょうか。

栗原 先ほどの西田さんの話を聞いて思ったんですが、自分個人としての場所と、いま自分がかかわっている人をどちらに持っていきたいのか、という方向があるのかなと思います。私も個人の立場で言うと、わりと楽になったと思います。ただ、学生のために何かしなければという感じで、「もうちょっと自己管理したほうがいいんじゃないの。そのためには教員としての私は少し悪者になってもいいよ」ぐらいな立場です。そこは西田さんと似たところもあるんですよね。

西田 私は、自分がハブになるというか、何と言えばいいのかわからないんですけど、学生たちは先生経由でしか仲良くなる方法がないのかなという気持ちがあって、TwitterやInstagramでライブ配信したり、最近はゲーム配信をしたりしています。例年、学生が懇親系のイベントを企画していろいろやるんですが、オンラインになった瞬間に全然動けていないみたいで、「私がやるしかないのか」と変な使命感を抱いてしまったんですね。
 ただ、こうした「大学1年生が仲良くなれない問題」についても、もともとの状態が仲良くなりやすかったかというと、大いに疑問があります。その意味では、対面では消極的なタイプの人が声を上げないことで見過ごされてきた不具合が露呈してきたということでもあると思うので、そのケアは再び立食パーティーができるようになる前に成し遂げなければならないことだと思っています。

栗原 もう、人づき合いの方法自体を革新すべきという感じなんですよね。

西田 そうですね。私は連載第1回でも書いたように、もともと今までの懇親イベントにすごく不満があったので、「もっと仲良くなりやすい懇親イベント」というのをずっと考えていたんですが、そのやり方は大抵オンラインでもできるんですよね。

簗瀨 私の立場としては、消極性デザインの知見を使って、「コミュニケーションをしている感じ」がするラインのギリギリを探っている感じです。私から見て、やはりそこで強みを発揮しているなと思ってるのが、ゲームなんですよね。最近のオンラインゲームの多くは、特にSNS以降、会話はしなくとも最低限、人とコミュニケーションをしたという気分が得られるようになっている。
 ただ、このことはコミュニケーションの問題を解決するためにゲームの知見を応用できるというより、どちらかというと、「あ、こんなことでいいんだ」という、人間のコミュニケーション欲求の下限に近いラインをみんなが知ることができるのがいいのかなという気がしています。

西田 「一人でずっとオンライン授業を受けているのは辛いです」みたいな人はゲームをしたらいいのかもしれないなと、けっこう納得しました。授業に出るのとまた違うし、多少インタラクションがありますよね。本当にコミュニケーションしたい人であればとっくに会ってるだろうし。そうでもないからこそきっちり自粛してしまって鬱々としているので。最低限オンラインゲームを一緒にやる、みたいなのは程良い気がするなと思いました。

栗原 手前味噌的な話をすると、消極性研究会全体としては以前からいろいろなコミュニケーションの強度とか頻度といった、コミュニケーションの設計にかかわるコミュニケーションパスやチャンネルをたくさん用意して、それらを使い分けたり共存させたりすることで、いろいろな人が参画できるような場づくりを提案してきました。
 これまでは対面で話すかチャットするか、くらいしかなかったのが、同時にできるコミュニケーションチャンネルが現れてきたし、ゲームもそこに入れてもいいかもしれないというような話かと思います。あとは、どうやって新しいチャンネルに触れる機会を増やしていくかという話になりますね。ただ強制になるので、強制する側がよく考えないといけないという問題かなと思います。

濱崎 僕は組織のグループ長みたいな立場で、グループメンバーでのコミュニケーションをどうすればいいのか日々考えているわけですが、そういう意味でいうと、学生さんのコミュニケーションに気を使ってる西田さんとか、教員の皆さんと近いと思います。
 このグループメンバーもすごく攻めてくるタイプではなくて、グループ会議のときとか沈黙の中で僕だけが議事進行をやっているという感じです。先日、インターン生の送別会を流行りのオンライン飲み会的にやろうと思ったんですが、Zoomなど普通のビデオ会議ツールでは沈黙して会話にならないだろうと思って、栗原さんの論考でも取り上げられていた「SpatialChat」を使ってみました。SpatialChatは画面の中で距離の近い人とだけ音声通話ができる仕組みで、これを使ったらうちのグループのメンバーも非常に和気あいあいの雰囲気になりました。要するに、主役となる人に話したい場合はアイコンを近寄せてそこで音声通話する。そこで、場(コミュニティ)ができ上がっているから、その話題に入らない人はちょっと離れたところで集まって話しているみたいなことができるんです。情報共有のチャンネルが変わって、たとえば遠隔会議に絞って言えば「伝わるようになったもの」と「伝わらなくなったもの」、非常にざっくりとあるわけですけど、情報技術を使ってもっとデザインできるはずで、SpatialChatはうまく「距離」という要素を使ってデザインされたものだと思いますね。

▲「SpatialChat」利用イメージ(出典)

 他にも、情報技術の研究を振り返ればさまざまなことができると思うのですが、それがまだまだ投入されていないというところはありますよね。これを機に、テレワークがさらに普及していくと、テレプレゼンスとか遠隔会議用の技術とかまじめなものからおもしろ系まで、「いつかできるであろう」という感じで考えられていたさまざまな技術が投入されていくのかなと思いますし、自分でも投入したいなと思っています。

西田 私はいろいろ使っていますね。自分で作ったものも使っているし。SpatialChatは私も使っていましたけど、このタイミングであわてて作ったというわけでもなく、もともとやってきたことの延長なのが良いですね。あわてて準備している人たちがやっていることは、なんだか今までできていたことを取り戻したいっていう感じが強すぎて、ちょっとイマイチみたいなものが多いのかな。今ここでフィットしているものは、信念を持っていろいろ作ってきた、というのが多いのかなという気はしています。
 一方で、SpatialChatと似ているけど、使ってみると全然違うのが「Gather」というシステムでした。こちらはロールプレイングゲームみたいなキャラクターを二次元で動かして、距離の近いキャラクターと話せる。SpatialChatとけっこう近い感じがするインターフェイスになっているんですけど、使ってみると全然違う。まず、近づかないと何もわからないんですね。SpatialChatは連続的にだんだん聞こえてきたり、話している人のアイコンがピカピカしたりとか、近づかなくてもわかることが多い。画面共有とかも近づかなくても見えるので、「あそこはYouTubeのビデオを見ているんだな」とわかるんですが、Gatherは本当にテッテッテッテッってキャラを歩かせて近づかないと何にもわからない。普通の飲み会とか立食パーティとかでも、「どの輪に近づこうか」というのは難しいですよね。知り合いが全然いない立食パーティとなると超難しい。その知り合いがいない立食パーティをさらに難しくしたみたいな感じなんです。

▲「Gather」利用イメージ(出典

 SpatialChatはあまり知り合いがいなくても画面共有をすれば「あそこでアイドルの話をしているな」とかわかるので、近づいてもらいやすいとか工夫のしようがあるんですが、Gatherはそういう仕掛けが何にもできない。私も、立食パーティとかで必ずネタTシャツとか欅坂のTシャツを着て行って、何とか自分から近づかなくても近づいてもらえるように常に工夫しています。それが、Gatherは何もできないんですよ。SHY HACK封じの極みだなと思って(笑)。先ほど渡邊さんが「普段は丸腰で、オンラインだったらいろいろ使える」と言っていましたが、オンラインでも何もできない。SpatialChatと、技術的にも設計的にもかなり似ているのに、ここまで差が出るか、みたいな衝撃は受けましたね。

──逆にGatherにはどういう美点があるんですか?

西田 知ってる人同士で、バーチャルオフィス的な使い方ならわりと快適なのかなという気はします。行ってみたらそこに誰かがいる、みたいな。もう懇親は済んでいる人同士で使うならいいと思います。ただ、誰も知り合いではないメンバーに立食パーティみたいな感じで使ってみようと勘違いしてしまう見た目なんですよね。
 そもそも、最初の懇親会に立食パーティを持ってくるのは超ハードルが高いという考察を普段からしていないというのが問題だったんだと思います。ここにはやはり、消極性研究会ならではの考察が大事なのかなという気がしますね。使いどころが合っていれば本当にいいツールだと思います。立食パーティもみんな知り合いだったら、ワイワイ楽しいと思いますし。その辺はオンラインだからどうこうという話ではなく、常に会の仕掛けを考えているのが非常に大事なのかなという気がしましたね。

簗瀨 やはり我々の中だと「cluster」は非常に注目されています。みんながアバターを使って1つの配信を一斉に見るみたいなシステムですね。あれがいいのは、たぶん同時に同じように見ている人がいるというだけで、特に交流しなくても、なんとなくみんなの輪の中にいる感じになるというところだと思います。映画館に行って映画を見るのと同じで、実はclusterの中で映画を見るとおもしろいのではないかと思います。

▲「cluster」プロモーションムービー

 あとは、最近私の周りで、これまで全然バーチャルリアリティーに興味のなかった人たちが「VRChat」に流入していて、びっくりしています。1つあるのが、VR技術に興味がある人はみんなけっこうVRChatをやっていますが、その中でもやはり隔絶があって、いわゆるコミュニケーション強者で積極的にコミュニケーションしにVRChatに入る人と、一方で、VRChatの中には入るけどほかの人に話しかけられるのはすごく嫌だと言っている人がいるんです。VR空間の中でも、パーティで隅のほうにいる人に気を使って話しかけてくるような人はいるんだけど、作法的にそれを良しとするかどうかで派閥が分かれると(笑)。
 コロナ禍の状態が長く続くとあり得るかなと思うのは、現実空間のコミュニケーションが得意ではなく、VRChatに安らぎを見出していた人たちが、コミュニケーション強者の人たちがVRの世界にドンドン入っていくことによって排除される、居場所を奪われるという事態です。こうした危惧を抱いている人は、たぶんいますね。

▲「VRChat」プロモーションムービー

渡邊 コミュニケーションツールという意味では、みんな忘れているけど、Twitterが一番良いのではないかと思うんですけどね。Slackとか、Zoomとかいろいろ言うけれど。「Twitterってツールだったな」と忘れているくらい、何だかんだみんな当たり前のように使っていて。ただ、そのTwitterの使い方が、あまり「コロナだから」という使い方にならなかったので。だから、Twitterで「大学の講義ライブ配信します」とやっても良かったんですけどね。

西田 私は、Twitterでライブ配信しましたよ(笑)。

渡邊 やってましたね(笑)。西田さんみたいに、もっとTwitterをうまく使う。コロナだからTwitterをみんなで使っていこうよ、みたいなやり方もあったのではないかなと思いますね。

西田 InstagramとTwitterのパワーバランスみたいな話がありますが、特に大学生世代ではちょっとTwitterが盛り返しつつあるように感じます。ほぼInstagramが完全勝利を収めそうになっていたところに、コロナ禍でちょっと盛り返してるみたいな感じです。データがあるわけではないですが。

簗瀨 たぶん、どこか1つに大きく偏ってしまうこと自体がネガティブだと思うんですよね。何かが一強ということになると、そこが息苦しくなったりする人が必ず出てきて、やがて分散する。それが、それなりに健全なことなのではないかなと思います。

ニューノーマルの世界でコミュニケーションの問題は変わるのか?

──すでにツールの話で出てきていますが、消極性という視点はニューノーマルの日常をデザインする、この状況に立ち向かう武器になると思うんですね。コロナ禍における人の行動様式の変容、その新たな課題を消極性デザインはどう解決し得るのか、といった議論に進められるといいなと思うんですが。

濱崎 さっきのマッピングの立ち位置では、僕は「Beforeコロナの対面型の旧人類」、皆さんは「With/Afterコロナの新人類」みたいな感じになっていますが(笑)、その立場から問題提起したいことがあります。新人類のみんなからすると今のこのオンラインコミュニケーションは非常にコントローラブルで快適で安全だという話だったけど、僕はまだこのビデオ会議が不慣れで。先ほども、顔がドアップで出るのとかどうも慣れないだとか、ターンテイキングがどうも場が読めなくて、なかなか言われるまで話せないみたいなことを言いましたけど、オフラインのコミュニケーションが苦手だった人たちは、オンラインで本当に快適にできているんでしょうか?
 われわれ消極性研究会が重ねてきた議論で、「情報技術によってできるようになったことは、本人が選択をしなければならない」という課題があります。これは選択できるということはハッピーではあるけれど、同時に選択しなければならないという辛さも背負ってしまうので、それはケアしなければいけないということです。
 つまり「コミュニケーションできるんだからしましょうよ」という自己責任プレッシャーが苦しみになることを、どうごまかすか。たとえば、連載第1回でも紹介されている西田さんの「夕食席決めシステム」のように、明示的に選んだことをどうぼやかすかといった観点が必要になる場合があります。そのために、確率的に選ばれる可能性をふんわりと増やす仕組みを取り入れる、とかの工夫ですね。

▲西田さんが泊まりがけの学会での夕食向けに設計した席決めシステム。自分で近くになりたい人の希望を入力可能なほか、第三者によるマッチング希望も受け付け可能なので、近くの席に決まった相手に対し「必ずしも自分が希望したとは限らない」という言い訳が立つ。

 その観点からすると、コロナ禍のオンライン環境は、対面ストレスからのディフェンスという観点ではコントローラブルになってハッピーになった部分はあるかもしれないけれども、むしろ環境がコントローラブルになったことで、その責任が負わされる辛さが増幅されている部分があるのではないかなと思います。オンラインのコミュニケーションを満喫できている学生さんや皆さんは、そうした選択負荷のような問題はどう考えられていますか?

栗原 私が所属している大学では、学生に付与されたデフォルトの設定が一番ガチガチの、何も情報を出さないセッティングなので、そういった意味では選択の負荷はないんですよね。全員がそれで均一化されてるので、そこからわざわざカメラをオンにして、その場で話すというのに対するハードルがますます上がっているとは思います。学生同士が授業以外でどういう設定でコミュニケーションしているかは私からは見えていないので、そこまではなんとも言えませんが。

濱崎 ある意味、会議のベースラインが再設計されて、みんなが消極的な前提で設計されているから比較的安心できている。特に大学は消極性ベースで設計しておかないと、本当に参加できない人が増えるので、結果的にそういうふうにされている、といった感じなんでしょうか?

簗瀨 我々がSHY HACKとしてやっているのは、もともとオフラインでやっていたことをオンラインに移行したものが多いんですが、今の大学1年生はオンラインでゼロから始まっていて、必要なことはオンラインでできるけど、今まで必要だったことに付随したいろいろなものが完全に消滅してしまっている状況なのではないかという気がしています。そもそも大学というものに友達は必要なかったという可能性もちょっとありますけど。

西田 そうですね……。学生主導の懇親的な行事も、今年はオンラインになったことで発想が貧困になってしまって。これまでも「こうしたら(1年生同士が)仲良くなる」作戦をいろいろ考えてきたわけですが、オンラインが前提になった瞬間に作戦が貧困になってしまう。今までと同じ方法ではうまくいかないとしても、根源的にはオンラインも対面も変わらないと思うんです。話しかけづらいのをどうしたら話しやすくなるか、仲良くなるためにはどうすればいいか、考えることは同じはずなんです。友達がいるべきかいないべきかを主張しようというよりは、友達がいたほうがいいと思っているのに、友達ができる方法を考えないという状況が不満なんですよ。そこにゲームがあるのに攻略法を考えないのが不満みたいな感覚に近いかもしれません。

──そもそも今の大学教育が前提としているような人間観自体をキャンセルしたほうがいいということが、最も本質的な問題としてある。とはいえ、目の前の環境に適応できなくて困っている人たちをどうにかするために、栗原さんや西田さんは消極性デザインのアイディアなり何なりを使って、いろいろ試していきたいということなんですね。
 ここで大学の話からはいったん離れて、もう少しコロナ禍における一般の社会に目を向けていきたいと思うんですが、企業で活動されている簗瀨さんの場合は、どう日常業務を再デザインされているんでしょうか?

簗瀨 私の周辺だと、うちの会社はかなり早くからオフィスが閉鎖されて、3月からもう全然会社に行っていないんですよね。その中でSlackがメインのコミュニケーションの場になっています。4000人が何百というチャットに分散してSlackを使っているんですが、雑談チャンネルが作りたい放題で、たまにあるのがすべての雑談チャンネルがコロナの話題で埋まってしまうんです。やはりエンジニアの人はそういう情報を集めるのが好きな人が多いので、とにかくあらゆるところに探してきた情報を書こうとしてしまう。それに対して、雑談チャンネルに癒されに来ているのに、そこでもまたコロナかみたいになってしまうことがけっこうありました。それを解消したいと思って「COVID-19アップデート」というチャンネルを作って、ここにコロナ情報を集約しましょうとしたら、みんなそこにしかコロナの話を書かなくなったので、これはすごくうまくデザインができたなと思っています。
 ネットのツールは、発信する人が強くて何もかも塗りつぶしてしまうという特徴があるんです。つまり、ネガティブな発言を大量にする人がいるとそのコミュニティ自体がネガティブになってしまう。それに対してどう対処していくのかというのが重要で、たとえばTwitterだとフォローする人を選ぶみたいになるわけです。Slackのように、固定のメンバーでコミュニケーションするツールの場合、そこをチャンネルとかでコントロールしていく必要があるということなのかなと思います。チャット管理者の立場で「お前のコロナ情報で迷惑してるんだよ」と言わないように、コロナの話題を集約する場所を作ってみんなで情報を共有しようと、そうすることで誰もネガティブな気持ちにならない。
 もう1つは、「褒めチャンネル」というものを作りました。これは、褒めてほしいところを必ず褒めてくれるというもの。普段のコミュニケーションが少ない、特に一人暮らしの人は褒めてもらうチャンスがないので、それに対し、今日こんなことしましたと言うと「朝起きたえらい」みたいなことを返してくれる。それをやったらそれなりに書いてくれる人がいますね。ある意味、下手すると地獄みたいなチャンネルになるんですが。逆に、人の褒めたいところをみんなで共有するという状況もけっこう発生するようになりましたね。

栗原 それは、人間に必要な最低限の感情的なやり取りを、知的生産そのものとは別のところで実現するために、テクノロジーのサポートを用いる工夫として位置づけられるのかなと思いました。
 私も以前、プレゼンテーションをトレーニングする研究をしたときに、トーンを一切排除して淡々と話すというように、声の調子をノイズとしてキャンセルするような処理をすることで、たとえば裁判の場で弁護士が何か語るときに、誤った誘導を防ぐことができるのではないかという議論をしたことがあります。これは、情動的なことで裁判の判断が揺るがないようにするべきだという価値観を前提にしたものですが、それだけ声の調子などの感情操作が従来の弁論術の中に組み込まれ、知的な営みの中に入り込んでいたというわけですね。

──オンラインツールは、見た目とか物理的な振る舞いによって生まれる先入観をキャンセルする上では、相対的には有効だということですよね。しかしその反面、特に知的生産を行っていく現場の場合だと、対面ベースのコミュニケーションで発生する雑談やアクシデントといったノイズこそが、偶然の出会いを生んでクリエイティビティの源泉になってきたことは間違いない。なので、リモート化によるコミュニケーションの最適化はアウトプットの効率を上げるかもしれないけれど、インプットに必要なノイズをキャンセルしすぎる問題があると思うのですが、そこはどうですか?

栗原 はい、たしかにそうしたコミュニケーションにおける声の圧とか目力といったノンバーバルな情報が、これまでの世界では知的生産のベースになってきていた部分もあったと思うので、今の私はむしろこの状況だからこそ、現在のリモート環境が対面的な身体知の何を切り捨ててしまうのかを改めて再検証して、ツールや環境の改善に役立てるべきでは、という思いを感じています。

簗瀨 すると私の発想は、今の栗原さんの話とは真逆ですね。私自身は、感情のインプットとアウトプットはある程度必要とは思っていますが、実はそれは人間同士でやりとりする必要はないのではないかと考えています。感情が動くようなものを受け取って、何かアウトプットする機会にうまく発散すれば、あとは感情を排したやり取りができるのではないかなと思います。
 たとえば、コンテンツでいいわけですよね。コンテンツで十分感情が動かされれば、あとは、実はアウトプットするところが必要なだけ。アウトプットした人はアウトプットした気持ちになる、けれど、そのアウトプットによって誰も傷付かない場みたいなものがあれば。いわゆる「王様の耳はロバの耳」です。そういう場が、現状は足りていないのではないか。それが、今だとSNSになってしまう。感情を吐き出して反応があったという気持ちを味わいたいがために、情報のやりとりに感情が流入してしまうと。

栗原 そこはインターフェースの問題なのかなと思っています。つまり、話すほうはバリバリ感情を込めて話しているけど、マイクがそれを拾った後でコンバートして、感情の要素を排除した状態でみんなにブロードキャスティングするみたいな感じですかね。

簗瀨 それはいいですね。ときどき、Facebookとかで怒りにまかせて何かを書いてから、非公開で投稿して後で消すみたいなことをする人がいるじゃないですか。書いてしばらくした時点で、ある程度感情が発散したことに気がついて実際にアウトプットしないで済むということがある気がします。
 最近すごくいいなと思ったのが、『仮面ライダーゼロワン』に出てきた「アイちゃん」という、ただ話を聞いてくれるだけのGoogle HomeみたいなAIですね。『ゼロワン』は、すでに高度な人工知能搭載のアンドロイドが社会実装されている世界での人間とヒューマノイドの軋轢がテーマになっているんですが、むしろ人間っぽい対面圧を発しない身体のないAIのほうが、いろいろこじれてしまった主人公側の悩みの解消につながるという描写があるんですよ。そういう方向で、実質的な知的生産の場と、感情的なコミュニケーションの場を分けていくことが重要なのかなと思っています。

コロナ禍で加速したSNSインフォデミックにどう対処すべきか

──さらに話題を広げると、現在のSNS社会の問題も改めて考え直してみたいです。今回のコロナというパンデミックをインフォデミックが補完するという状態が生まれてしまったことが、この社会的混乱を加速させていることは間違いないと思います。たとえば先ほど渡邊さんが、コミュニケーションツールとしてのTwitterを見直すべきなんじゃないかとおっしゃっていましたが、それはどういう主旨でのことでしょうか?

渡邊 リモート環境において、生産性とかクリエイティビティにつながる偶発的な刺激を得るという意味で、Twitterに何かを書き込むという行為は、現状のツール環境では、一周回ってクリエイティブな部類なのかなと。クリエイティブだなと自覚があるわけではないけど、これがどう「いいね」されたり、あるいはリツイートされたりするかということを、ユーザーはそれなりに意識して書き込んでいる。他の人のリツイートとか、バズられているものを見て影響を受けたりするという意味では、Zoomとかでは難しい雑談的な要素としてのニュアンスもありますので。それを、誹謗中傷や炎上などのメディアとしての弊害のケアとどう折り合わせていくのかは難しい問題だと思いますが。

──確かにTwitterは、「その設計としては」現在普及しているSNSの中で一番メジャーで開放的なのは間違いないし、偶然いろいろなものが目に入りこんでくるSNSプラットフォームであることは間違いないと思います。ただ、今に始まったことではないですが、その反面、「実際に起きている現象」としてはユーザーが他のユーザーの顔色を観て投稿するせいで逆にその内容は画一的になって、1つの話題によってタイムラインが占拠されて同調圧力が生まれてくるわけですよね。それがネットリンチで評価経済の勝敗が決定する陰惨なコミュニケーションの常態化につながっているし、デマやフェイクニュースの温床にもなっている。はたして、こうしたTwitterの状況に象徴されるような人間の心理を、消極性デザイン的な知見を応用することで抑制することはできないのかな、と。

簗瀨 私もそこは非常に賛成で、先ほどの知的生産の場での切り分けと同様に、情報的な部分と感情的な部分の切り分け方がポイントだと思っています。どういうシステムを用いればそれが可能になるのかまではまだ考えつきませんが、感情的なものはコンテンツで充足して、情報は情報としてまったく別なものとして扱えるようになる方向に、すべての人類を進化させるのが正解だろうと、いちばん「ニュータイプ」側の立ち位置側としては思っています(笑)。
 Twitterにはゴミのような情報から貴重な知恵まで全部あって、そこから我々自身は情報を選別して得ていくということが一応できると思って使っているわけですけれど、そうではない場合はやはり安直な情報に飛び込みやすい。現実には弊害の大きいもののほうが速く書かれて、速く伝わってしまう。これはもうコミュニケーションのバグですよね。
 ただ、これをシステムでどうやって防いでいこうかと考えると、学会や査読つき論文誌とかのインパクトファクターでさえハックされてしまうわけで、なかなかにシステム的に抑制するのは難しい。アーキテクチャデザインの側で抑制するのと、リテラシーの側を支援するのと、両輪で考えていく必要があると思いますが。

渡邊 リテラシー面の問題に関して言うと、たとえばうちの妻が入っている犬のコミュニティのLINEグループがあるんですね。そこに誰かが「◯◯の友達がお医者さんなんだけど、来週東京でロックダウンがあるらしいよ」と流すと、そのコミュニティでは「そうなんだ、じゃあxxを買っておかないと」となって、うちの奥さんも信じてしまったりしていて。僕はそれ見た瞬間に、いや、これはいつもの「偉い人がそう言っている」論法のフェイクニュースでしょ、とすぐわかったんですが、フェイクニュースはLINEみたいなパーソナルなツールでは、もっと歯止めの利きにくいかたちで伝播していくんですよね。
 Twitterは、確かにフェイクニュースが止められなくなってしまう面はあるのかもしれないけれど、オープンで監視する目もある。あのリツイートという単純なボタンには「どういう気持ちでリツイートしたのか」という要素が入り込まないから、その伝染の速さと怖さ、大きさがマスになってしまう怖さはやはりあるけれど、カウンターによる抑制も効きやすい。そういった点でのスケールメリットは、活かす方向で考えていった方がいいと思います。

西田 私の場合は、みんながリツイートしているものはもうみんなが知っているだろうからリツイートしようとは思わないです。ですけど、世の中には逆の人が多いみたいで、とりあえずリツイートがたくさんされているからリツイートしておこうと、そんなふうに思っているようにしか見えない人が多い。
 たとえば、神戸大学の公式アカウントがツイートしてる内容を、フォロワー10人くらいの神戸大学の学生がリツイートしても何も起きないと思うんです。神戸大学の公式アカウントは1万人くらいがフォローしてるので君がリツイートしなくても大丈夫だよという気はするんですよね。そういう想像力がまったくないのか、と……。悪く言えば天邪鬼感、他の人がみんな言ってるから私はツイートしないでおこう、といった気持ちがある人は少数派なんだなと。ツイートをしないので目立たないだけかもしれないですけど。
 リツイートボタンを押したときに「あなたのフォロワーの97.8%がすでにそのツイートを見ています」とか表示するようにしたら少しは天邪鬼感を育てるかもしれないなとか、「あなたのフォロワーの98%がすでに同じような内容をツイートしています」とか、オリジナルツイートを褒め称えるような方向に持っていくような工夫も、もしかしたらできるのではないかなと思いますね。それが幾分か同調圧力の軽減になるかどうかは、試してみないとわからないと思いますが。

──デマやフェイクニュースの問題に加えて、クソリプとか村八分が発生しやすいネットリンチの問題に対しては、何かできることはないでしょうか?

西田 最近のTwitterの仕様変更で、このタイミングで指定した人しかリプライできない機能とかを増やしてきましたよね。

簗瀨 少なくとも、発言主を守るという意味では私はかなり必要な機能だなと思っています。

栗原 ちょっと前にAIの善人しかいないSNSが話題になりましたが、「マシュマロ」というTwitterで利用できるサービスがあります。リプライされたものをAIが判断してネガティブなものを見えないようにしてくれるサービスです。要するに、感情の部分だけにフォーカスして、Twitterを見たときに負の感情が自分に生まれないようにAIに肩代わりしてもらって身を守る手段になる。
 ただ、いわゆるフィルターバブル的な、自分のコミュニティの世界の中に耽溺していたいときと、そうは言っても多少は外界の情報も知りたいというときがあって、その両者のバランスをいつ、どう取るのか、ユーザー側に選択権を握らせるようなデザインになっているといいと思うんです。もちろん、こうした機能が欲しいとなれば、我々でもTwitterのクライアントをハックするかたちで作ることはできますが、結局、どういうアルゴリズムで私たちにおすすめ情報を与えるのかとか、ある段階から上はTwitterのエンジニアにしかできないレベルになる。受け手側がどうフィルターするかという方向なら、得意だったりするんですが。

簗瀨 自動的にフィルタリングするというのは、Twitter側の責任が大きいのでけっこうやりにくいと思いますが、対話型のインターフェースを挟むことでツイートやリツイートを思いとどまらせるということはできますよね。
 たとえば、書き込むときに何回かに1回でいいんですが、「あなたの発言は人を傷つけていませんか? それは事実ですか?」とダイアログで表示して、「はい」を押させる。このダイアログを短い時間にたくさん発言する人ほど出すようにすると、そこそこの抑止効果はあるという気がしますね。現在の技術でもできるし、実装する人の責任があまりない。ネガティブなワードの頻度やリツイートの割合とかも基準にできると思います。

西田 私はそういう機能というのは、運営側の信念ときちんと結びついていなければいけないのではないかと思います。たとえば、「あなたのリツイートはすでにあなたのフォロワーのほとんどが見ています」という表示は事実の提示だし、それはクリエイティビティとかオリジナリティを重視しているという信念を提示することになるという意味で良いのかなと。一方で、いちいち「あなたの発言は人を傷つけていませんか?」と聞いてくるのは、ちゃんとやっている人まで流れ弾を食らうので、あまり気持ちよくはないなという気はしますが。
 いずれにしても、Twitterをちゃんと使おうとしている人は立ててあげるというか、「私はデマをリツイートしたりしないし、誹謗中傷にも加担しない」みたいな気持ちをモチベートするようなメッセージを、自由な発信の監視にならない仕様を通じていかに発していけるか。そこにTwitterの最後の希望があるような気がします。

監視技術 vs 消極性デザイン

──今回のパンデミックをめぐっては、情報技術による人々の監視をどこまで是とするか、という問題がクローズアップされたと思うんですね。中国やシンガポールのような強い情報統制を認めるのか、あるいはアメリカやスウェーデンのように感染リスクを踏まえながらもプライバシーの権利や自由を貫くのか。人の命より重いものはないという立場に立つと、一定の監視技術は肯定するしかない。たとえば台湾の成功例が注目されたのですが、それはここ数十年大きく成熟した台湾の民主政治の成熟と、蔡英文政権への信頼によってはじめて成り立っている。つまり、これは各国の市民社会や民主主義の成熟度に応じて、どれだけの線引きで許容するかという法整備の議論に落とし込んでいくのが、正統的な議論だと思うんですよね。そういうデータガバナンス的な論点での議論は、以前にLINE調査を手がけた宮田裕章さんへのインタビューで記事化しています。

 ただ、ここで皆さんにお伺いしたいのは、こうした正統派の議論を攪乱するようなアプローチの可能性です。つまり「監視技術 vs 消極性デザイン」というか、消極性デザインの知見や発想によって、たとえば強力な監視技術そのものが相対的に必要なくなるようなアイディアとか、もっとユニークな搦め手でハックできないかということなんですが、いかがでしょうか?

濱崎 たとえば、厚労省の接触確認アプリみたいなものをどう考えるかということですよね。あれは監視技術とプライバシーのバランスを取るという意味で、どんな情報を集めて、何を見ないようにするかの境界線がうまく設計されているなと感じています。技術的な背景を正確には把握していませんが、暗号化技術だとか、IDを自動的に消去するとか、ある種の情報技術がうまく間に入ることで、最低限必要なものは取って、見るべきでないものは見ないという仕掛けを実装しているわけです。ああいうのが正統的なアプローチだと思うんですが、もっと違う方向性があるのかどうか。

簗瀨 私の立場からすると、完全にビッグブラザー側というか、もっと強く監視技術を容認した上で考えていますね。ただ、ギリギリ体制側ではないほうに立っている。これはまさにエンターテインメント研究の課題でもあって、人間がギリギリ監視されていないと感じるところを探るという方向です。もしくは単純に、監視を拒否することはできるけど、監視されると便利で楽しいよと。たとえば、この建物を入るときに認証をしなくても済むとか、ポイントも貯まるし友達もできるみたいなかたちで、受け止め側の意識を変えていく。
 真面目な話、監視されていないと感じる技術とか、けっこうありますし。たとえば、トイレの中にセンサーを入れようというとき、トイレの中にカメラを入れるのは、たとえ匿名化されていたとしても、みんな嫌がるわけです。じゃあどうするかというと、トイレットペーパーのロールの中にセンサーを入れて「トイレットペーパーを何センチ使ったか」を測定して個人の特定に用いる、みたいなことをまじめに研究してる人はいます。あるいは冷蔵庫のドアの閉め方で個人を特定するとか、この手の話は我々の分野の中ではかなりあります。

渡邊 この感染状況を現状の技術だけで解決しようとすると監視しかなくなってしまうと思うんですが、言うのは簡単でも、それをみんなが受け入れるかというと、なかなかうまくはいかないと思います。いまのお題は「監視技術 vs 消極性デザイン」ということですが、これは本質的にはもっとシンプルに「技術 vs デザイン」という問題だと思うんですよ。つまり、西田さんがよく挙げるように、努力・根性/教育・司法/デザイン/技術という4つの問題解決手段があるということを、もっと社会に根付かせることが重要だと思います。たとえば、ワクチン[技術]ができていないから、どうしても感染予防対策[教育]でカバーしなければいけないよね、ということを理解する必要がある。問題解決として我々人類がどういうレパートリーを持っているのかを、なるべくみんなが俯瞰できるようになることが理想です。
 その上で、特に日本の現状は「三密回避みたいな努力・根性で一人ひとりが頑張るしかないの?」ということが、みんなの不満なんじゃないでしょうか。では、デザインの側で何ができるかというと、たとえば僕が提言するとすれば、すべての公共施設でトイレの入り口のドアを外しましょう、といったことです。さすがに個室は別として、入り口にドアがなければ、手を洗ったあとドアの開閉で接触しなくていいわけですよね。その代わりに、たとえば監視カメラを設置してセキュリティ面を補うとか、そういうデザイン可能な領域を探る工夫として、消極性デザインの発想も位置づけられるのかなと思います。

簗瀨 技術で足りないものを補っていくのがデザインの役割ですよね。そうなると、足りていないものを可視化していくことが重要かもしれません。問題解決のために理想的な技術のレベルに対して、予算や時間がどれだけ足りていない、みたいなことを常に可視化して意識化することで、デザインによる解決を促進していくことが有効なのかなと。

──つまり、監視技術と市民社会の折り合いをどうルールメイキングしていくかといった議論があったとき、現状では技術の濫用に対して教育や司法といった政治的なアプローチで歯止めをかけるという解決しか出口がないと思われている。しかし、そこで発想を変えて技術的なアプローチに足りない部分をデザイン的なアプローチで解決することが、この状況のしんどさの緩和につながるのかもしれないということですね。

渡邊 ちなみに、問題解決として飲食店などで行われている飛沫避けのビニールシートを垂らすというような方法が、技術なのかデザインなのかと言えば、たぶんデザインなんですよね。シート作りの技術は普遍化してるので。だから、実際の社会活動の中では、デザインで解決している部分が相当大きいはずなんです。

簗瀨 情報系から見て思うのが、今の状態は明らかに技術的貧困なんですよ。単純に、いま売られているシステムには、人間の感情とか、不確定な要素が入れられないんです。本当にちゃんと作ろうと思ったら、人間自体がシステムの中に組み込まれている状態で、トータルで考えるべきなんです。不確定な人間というものを許容できないから、単に「便利」とか「ビジネスになる」という基準で売りモノになるシステムを作らざるを得ない。本当に技術が豊かになると、人間の感情と情報は分離するべきとか、そういう話まで考慮したものになると思うんですよね。
 ただ、「人間を考慮する」と言うと、人間性を尊重するシステムのような優しいものとして受け取られがちですが、行き着くところは結局、コンピュータが管理する究極の監視社会と同義のことになってしまう可能性は常にあります。そのため、おそらく人間の感覚が許容する範囲内でしか推移しないだろうなとは思います。だからこそ、デザインは重要で、監視ストレスをする方向で思いつくのは、たとえば「こんな奴が監視しています」という主体をキャラ付けして表象してしまうとかですね。これが首相のゆるキャラみたいなやつだとむかつくけど、申し訳なさそうにおどおどしてるキャラだと、理解や協力が得られやすくなるのかもしれない。
 そもそも、テクノロジーによって実現されうることは、注意喚起していくべきだと私は思うんですね。なので、冗談めかして「こうやると楽しく監視されることができる」みたいなことは積極的に言うようにしています。

西田 デザインによる解決は、技術だけでなく教育・司法の領域にもクロスオーバーしていきますよね。私が大学の授業とか懇親会の場をコントロールしようとするときの仕組みのデザインの延長線上で考えていくと、やはり自粛する/しないを個々人のパーソナリティに委ねてしまっている状態が良くないと思っています。
 たとえば東日本大震災の時には輪番停電がありましたが、マイナンバーの下一桁が◯番の人は外出を奨励するみたいに、緊急事態宣言下では輪番外出制を導入する、みたいな発想とかはありえるでしょう。特に日本の場合は、社会全体が空気の読み合いになって自粛警察みたいな現象につながりやすいわけですが、そういう部分をどう公正化していくかという部分でも、デザインが有効だと思うんです。
 おそらく監視されているような窮屈さを感じている人は、昔から日常的に感じていたと思うんですよね。たとえば、夜間や週末に主に働いている人が平日の日中にお出かけしていると「あの人は働いていないのか、何をしている人なんだ」などとご近所さんに思われていないかと気にしてしまうとか。消極的な人ならではの考えすぎなのですが。そういうのも「あの人はバーを経営している」などとわかると納得してもらえます。
 同じように、現在のような状況でも「あの人はこの1ヶ月間、最寄りのスーパーへの買い出ししか外出していない」とわかると、それなら今日1日くらいは好きなようにお出かけしてきたらいいよねと納得してもらえるようなことはあると思います。適切に自分の情報を開示できると思うと、少し前向きに自粛できるという工夫ができそうです。

栗原 監視を相対化するデザインアイディアとして、楽しく「自粛」できるデザインというものがありうると思いました。最初のほうで西田さんが言及していますが、「私はちゃんと自粛しているのに、あいつはなんでウェーイと外で遊びまくってるんだ!」という怨嗟は、「良くない人の一部しか取り締まれない」という、監視のもつ本質的限界をとらえていて、そこからくる「だったら自粛警察しなきゃ」という歪んだモチベーションを生んでいるように思います。
 実はスウェーデンでは、運転速度超過を罰するのではなく、運転速度遵守者にランダムな確率で褒賞を与える、というしくみが実践されて効果を上げています。コロナ対策も、従来の監視コストと同じだけのリソースを使って、遵守する人を褒賞する仕組みにするだけで、人々の自粛感情と社会貢献意識をポジティブに変容できるでしょう。人を外に連れ出す『ポケモンGO』が自宅に「いても」遊べるゲームデザインの変更を行えたのですから、もう一歩踏み込んで、むしろ自宅に「いると」良いことがおこる、というゲーミフィケーションも可能なはずです。
 とにかく私の場合は、変なモノづくりが好きだし、そこから生まれる物語に興味があるので、個人レベルでは「技術というのは皆さんが考えているよりもいろいろな使い方があるんですよ」と、技術の使い方のおもしろさを広く伝えるような活動を、消極性デザインを通じてしているつもりです。メイカー文化とかハッカソンというのは、それを少しだけ社会的に広げた営みで、たとえば市民レベルで、自分の身の回りの問題に技術は使えるんだという可能性を若干のプレゼンとともに世の中で共有する。こういう方向が、健全な営みだと思っています。

[了]

この記事は、宇野常寛が司会を、大内孝子と中川大地が構成を担当し、2020年9月17日に公開しました。
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