医療政策とデータサイエンスの連携から「市場外」の社会課題を考える

──これまで「遅いインターネット」ではこのコロナ禍に対して、パンデミックそのものよりもこの問題によって顕在化した都市やライフスタイルの問題について考えてきました。

 それらはどちらかというと、起こってしまったものに対してどうリアクションしていくかという立場での議論でしたが、今日はサイコロを振って出た目を見て考えるのではなく、これから大局的にどこに向けてこの社会を舵取りしていけばいいのかという「攻めの議論」ができたらいいなと思っています。そこで、今日は宮田さんに改めてお話を伺いたいと考えた次第です。

宮田 わかりました。まずわたしは医学部の教授ですが、医者ではありません。データやICTを駆使して、「科学的手法を使って社会をよりよくすることに貢献する」ことを目指して活動しています。
 もともと医学を選んだ理由としては、お金だけではないものによって社会を駆動することが、これからの社会で重要になってくるだろうという確信があったからです。そう考えたとき、多くの領域では課題が山積していましたが、医療はすでにお金ではなく、命やQOLといったものを軸としてサイクルが確立されていたんですね。これが医学を軸に活動を始めた理由でした。

 学生時代はとにかく自分自身が世の中をどう見るか、どう貢献するのかを考えながら、あらゆる分野の学問を学びました。哲学の井上達夫ゼミをとったり、憲法学の長谷部恭男ゼミに行ったり、あるいは情報学科の濱田純一先生のところに行ったり、社会心理学の池田謙一先生のところに行ったり、医学部の大脳生理学の宮下保司先生、あるいは情報理工学のほうも取っていたり……。それは今でも変わらなくて、あらゆる専門分野の方と対話しながら仕事しています。そういう意味では、現実をより良い方向に動かすために、さまざまな方々と共創するという感じですね。

 まず最初に関わったのは、外科医療の質を向上させるプロジェクトです。これは、そもそも何が患者にとって一番必要な情報なのか、現実をどう見るべきなのかをもう一度捉え直すものでした。そもそもいままでの病院では、データを取るときにはまず生きているのか死んでいるのか、という指標しかなかったんですが、それを、たとえば「今の外科医が努力をして、改善できる合併症って何だろう?」とまずは根本的な認知を変えることから始めて、実践サイクルを回していきました。最初は3、4施設でやっていましたが、これが100、200と増えて、いまは5000施設に増えました。結果、世界で一番大きな学会主導のデータベースになっています。

 一方で、実は企業とも、社会を良くするためにデータをどう使うかというプロジェクトをやってきました。たとえば厚労省とは3年半前から、個人データを軸に、オープンに共有して、共有財としてのデータを使って社会を変えていこうという提言を出しています。国内ベンダーさんの多くは「そんな荒唐無稽な夢物語……」って冷笑していたのですが、いくつかの企業は当初から「これが我々がやりたいことだ。ぜひ一緒にやりましょう」と、志をともにしてくれました。慶應の殿町キャンパスではソフトバンク、武田製薬(武田薬品)、グラクソ・スミスクライン(イギリスの製薬会社)といった数十社と個別のプロジェクトを作って、この社会そのものをよりよくしていくという共通の楔をいれて、プロジェクト全体を繋ぐということを行っています。
 あとは国や経団連とビジョンを作ったりもしています。最近だと世界経済フォーラムと一緒にデータガバナンスのあり方を提言し、そのビジョンを実現するためのプロジェクトを立ち上げています。そういったグローバルステークホルダーと対話しながら、どういうビジョンや実践が必要なのかを検討するプロジェクトもあります。

 まとめると、ビジョンの提示と実践を常にやりながら、社会変革に挑戦するのが私の研究コンセプトです。ビジョンが先に必要なこともあれば、実践によってまず楔を打つことが必要な局面もあります。局面によっては、そのバランスが変わります。大きな転換点にある現在では、楔とビジョンの両方をアップグレードしていく必要を感じています。

──元々の宮田さんの関心はデータサイエンスによる社会問題へのアプローチにあった。ところが、この分野は民間企業による市場を通したアプローチが主体で、宮田さんの考える市場外の問題へのアプローチを行うためには迂回路が必要だった。そこで出会ったのが医療という分野だった。命やQOLを基準に思考する医療という分野に足場を置いて活動しているからこそ、その実績とノウハウを応用してAmazonやLINEのような民間企業とも、彼ら単体では持ち得なかった視点を生かしてコラボレーションできる、ということですね。

宮田 おっしゃる通りです。わたしが学生だった20年前は、経済市場主義の先の社会デザインを考えるような空気はまったくありませんでした。経済資本主義が当たり前で、世の中のほとんどは「だったら金で見せてみろ」という風潮だった。やはりそうじゃない社会をつくるためには、ちゃんと証明できる領域で実践を回していこうと思ったのが大きいですね。そう考えると、医療が一番良いだろうと。

 当時から既に学問領域として医学部は絶大なパワーを持っていました。それは20年経っても変わらず、いまや研究費のほとんどが医学部に集まるという歪な状況なんです。それはなぜかというと、社会全体のイノベーションがそこに集まっているからですよね。あとは、少子高齢化、人口減少で、そこをなんとかしないと日本がどうにもならないということ。そして、お金を持っているシニアの人たちの関心がそこにあることなど、いろいろな要素が混ざり合って、今の学問構成になっています。
 今の日本のこの予算の集まりが良いか悪いかは別にして、新型コロナ危機が去ったとしても、少子高齢化、人口減少という行き詰った課題を考えたとき、医療は切っても切れない重要な学問です。社会そのものの再構成を考えたとき、少なくともキー分野になるのは間違いありません。

 もう一つは、ソーシャルグッドやSDGs、ESG投資といった、いわゆるお金ではない社会貢献の中で回していこう、と考えたときに、もちろん人権や自由は大事なんですが、万人にとってわかりやすいのはヘルス&ウェルビーイングですよね。たとえば、実際いまデータステークホルダーがどこに目を向けているかというと、Appleなんかは全力でヘルスに向かうと決めていますし、MicrosoftやAmazonの投資対象もそこに移りつつあります。ヘルスを絡めた社会変革は、ちょうど定番になりつつあるんですね。なので、そこを抑えた上で社会を見るのは、遠回りのようで実践を回すということを考えた場合には理に適っているというのが私自身の考えです。

LINE調査から見えてきたもの

──宮田さんといえば、「LINEを活用した新型コロナ対策の全国調査を発案した人」という印象が強いと思うんですが、そもそもどのような経緯でこういった活動に関わることになったんでしょうか。

宮田 まず、LINEを活用した新型コロナ対策の全国調査に関わったきっかけですが、広義の政策という意味で感染症は私の専門分野ではあるものの、これまでの医学の中では、どちらかといえば非感染症を中心としたプロジェクトを行っていたので、当初は状況を見守っていました。ただ、ダイヤモンド・プリンセス号での日本の対応を見ていて、これは市中感染に入ったら打つ手がかなり限られるなと思いました。そうなってくると何らかの手を打たないと日本もまずいかもしれないということでLINEの皆さんと相談して、厚生労働省クラスター対策班の西浦博さんに話をして実施したという経緯です。

 そもそも官僚組織一般の課題として、既存の業務のオペレーションは得意なんですが、0から1をつくるというところにあまりリソースを持てないんです。だから今回のようなことが起こった場合、彼らは内部リソースのオペレーションの中で対応しなければならず、不測の状況ではオーバーフローが起こってしまう。昼夜問わず働く彼らをサポートするためにも、彼らの呼吸を見ながら足りないところを埋めるというアプローチでサポートしようと考えました。LINE調査はそのアプローチの1つです。
 ただ、国側に入ってしまうといろいろな制約があるので、立ち位置はあくまでもクラスター班の協力者ということで、厚生労働省ではありません。そこはインディペンデントを堅持したうえで、外側から貢献できるものを届けることが良いと考えています。

▲第4回 新型コロナウイルス対策のための全国調査(参考

──今回のLINE調査のプロジェクトは、日本ローカルで、超短期決戦だったと思います。さきほどおっしゃっていた殿町での企業との共同プロジェクトなどと比べると、同じような知見を用いたとしても規模や射程距離がまったく異なると思うのですが、その違いは感じられましたか?

宮田 ご指摘の通りです。今回の件はそもそも、日本がマイナンバーを軸にしたICT環境の整備を適切に進めていればLINEを使う必要はなかったんです。理想を言えば、1億2000万人全員に訴求するプラットフォームを作って、その人たちの状態をリアルタイムで把握できれば良かったんですが、1ヶ月以内に状況を把握しなければ詰んでしまう状態でした。その状況で最善策を考えると、LINEが最有力候補になりました。LINEは他のSNSと比較してカバーする年代が幅広く、ユーザーが多いプラットフォームです。他のSNSは若年層にかたよる、ユーザー数が少ないなど一長一短でした。
 
 LINE調査でこだわったのは、収集したデータをユーザーに対して価値があるものとしてフィードバックできるということです。「情報くれ。以上。」みたいなスタンスは中国だったらできるんですが、日本だとこれでは協力を仰げません。厚労省が軽症患者が注意すべき13項目の症状のガイドラインを出しましたが、普通の人はそんなの覚えられないですよね。感染状況は刻一刻と状況が変わっていますし、もっとスピーディーかつコンパクトにやらなければならない。でも、たとえばSNSを使えば、インタラクティブに必要な情報を提供することはできるんです。だからユーザーに対する価値をしっかり設計したうえで、信頼されるような繋がりの中でこのプラットフォームを使おうと。民主主義下でやるのであれば、人々の理解がなければ成功もしないだろうし、やる意味もないんです。これは、短い期間の中で、かなりこだわっていた部分ではあります。

──今回のコロナ禍では、「なぜ中国のような政府主導の押さえ込みができないのだ」という声がある一方で、たとえばハンガリーやイスラエルのきな臭い動きを横目で見ながら、「この世界的な強権発動と国民監視の流れは西側諸国の民主主義の危機だ」と批難する声がある。つまり、このコロナ禍は、日本を含む西側諸国にとって、民主主義の成熟度が問われる試金石だった。どれだけ人権を守りながら社会秩序を維持するかが問われたわけですからね。

宮田 そういうことです。そういう意味で、中国の真似をして劣化版中国アプリを作った日には、それで感染症は抑えられたとしても日本の未来にはポジティブにつながらないなと思ったんですよね。人々の信頼と理解、協力を得ながら、自発性に基づいて情報共有して課題解決をするという、民主主義の中での課題解決を示すことが重要だろうと。これから先もこの局面は続いていくと思うので、そこのコアな部分はすごく大事だなと思います。

コロナ禍が浮き彫りにしたテクノロジーと民主政治の問題

──日本は少なくとも現時点では世界的に見ると死者が少ないと言われている。このこと自体は、前提として評価されるべきだと僕は思っています。
 ただ、僕が「どうなんだろう?」と思うのは、今回のコロナ禍で日本は、場当たり的な特措法で緊急事態宣言をした以外、普遍的な危機管理の視点での法改正やCDC(疾病予防管理センター)のようなトップダウン式の体制の整備を、今のところ行おうとしていません。法的な強制力と政治の責任をともなうロックダウンのような措置を事実上とらずに状況を切り抜けようとしていて、それが半ば成功裏に進捗している。何が原因なのかはわからなくて、ただ運が良かっただけの可能性も高いのだけれど、少なくとも現状、欧米の一部メディアで報道されていたような、医療機関などに死体がゴロゴロ転がるといった最悪のシナリオは回避できている。
 つまり、政府はあくまで国民の「自粛」を促しただけで、あとは言ってみればまるで戦時中の隣組のようなボトムアップの相互監視とそれのもたらす同調圧力によって、ある程度の社会的混乱を押さえ込みながらウイルスを「やり過ごす」ことを選んで、それがある種の成功体験として記憶されてしまう可能性が高いわけです。結果オーライなのでそれでよい、と考えることは、もちろんできる。
 しかしこれはこれで、今の日本の抱えている病理が浮き彫りになったとも言えるんじゃないかと思うわけです。

宮田 難しいですね。ご指摘のように、日本がこれだけ死亡者を少なく抑えられたことに関しては、その背景要因がまだ解明されていません。明らかに日本より優れた対応をした国も多かったと思いますし、コロナ対策の中で世界各国の取組みを見ていて、必ずしも日本が優れた対策を取っているとは思えない部分もあります。とはいえ明らかに死亡者が少ないことには、「ファクターX」などと呼ばれるように何かしらの要因があるのかもしれません。

 ただ、実際第二波の兆候のようなものも出てますし、ここから先の局面をどういう形で対応するかに関しては、まだ議論しなければいけない部分もあるんですよね。中国のようなデジタル・レーニン主義は取らなかったにしても、台湾はオープンにしながらGPSを使うという手法を取っています。しかし、日本はその議論すらしていない。あれだけ支持率が落ちてしまうと、実情的には強い選択肢を挙げることもできないということもありますが。とはいえ民主国家が取るべきテクノロジー管理の選択肢には、もっといろいろな多様性があるんです。
 ドイツは、AppleとGoogleがBluetoothの接触履歴で経路を追いかける、接触通知アプリを使用しています。データは中央で管理されず、各端末のみに保存される、プライバシーに強く配慮した方法です。しかし、イギリスはそれでは人々の命は守るには不十分だ、と却下して、独自のアプリを作ってしまいました。一方でフランスの場合だと、GAFAにはアプローチを委ねたくない、というスタンスで自分たちでアプリを作りました。しかしそれほど強く推奨していません。
 各国ともに民主主義の中で自分たちは何を大事にしているか、という議論をしているんですが、日本の民主主義はフランスのように自分たちで市民運動をやって勝ち取って作った社会契約ではありません。戦後統治にあたったGHQによる、いつの間にかできた社会契約に基づいたものです。それもあって自由やプライバシーのバランスなど、民主主義の根本を問い直すような議論は避けられてきたまま、今日に至っています。

▲6月19日から日本でも厚生労働省から接触確認アプリがリリースされた。(参考

 議論すべき点はまだまだたくさんあります。たとえば、今回はとりあえず国内で自粛しようというお願いに基づいて行動制限をして第一波を収めたんですが、ロックダウンしなかったのではなく、それしか選択肢がありませんでした。たとえば、海外から帰国した人がPCRで陽性になったとしても、その人に自己隔離をお願いすることしかできません。「わたしは実家に帰りたいんだから帰ります」という人を止める権限を、厚生労働省も国も持っていない。実際ある方が、自宅に帰ったら陽性だったという事例がありましたね。まだ数が少ないので大事には至っていないのですが、「実家の母が危篤だから帰ります」という陽性患者が1日10人入ってきたら、感染が大きく拡大する可能性があります。この状態で第二波とかを考えると本当に大丈夫か、ということです。フランスみたいに知ったうえでそういう手段を取らないというのであればいいのですが、日本は線引きをしていません。
 次の波に間に合うかどうかはわかりませんが、こういった日本的な自由とプライバシー、国家権力、あるいは感染症から命を守るというバランスをどう考えるかに関しては、対話を行い、日本の民主主義の輪郭を考えるべきだと思います。

──大事な話ですね。たとえばいま多くの知識人たちが、テクノロジーによる解決に対しても反発を持っています。つまり、テクノロジーによる解決自体がデジタル・レーニン主義的な監視社会への接近であると考える人も多い。
 ただ、この議論は意味がない。というか思考停止です。技術主義か、反技術主義かという議論には意味がなく、最初から批判的技術主義以外の選択肢はないことは明白というか、技術とは定義的にそういうものでしかない。つまりどのテクノロジーをどう用いるのが妥当なのかという議論以外は意味がなく、これは最初から完全に政治的な議論なんです。
 たとえば台湾があそこまでのことをできるのは、蔡英文政権だからじゃないですか。台湾の民主化の歴史があって、現政権のリベラルな態度に対しての信頼感があるから成り立っているということは自明です。
 つまりここで日台の差を生んでいるのは、民主主義の成熟度の問題でしかない。これは民主主義の歴史が浅い台湾に、この国の民主主義が追い越されてしまったことを意味していると僕は思います。

宮田 その通りですね。特に国境、検疫を超える問題に関しては、テクノロジーの問題ではなく、アナログに止める実行力をもつかどうかの話です。PCRで陽性となった方が入国した場合には「すみませんが感染拡大を防ぐため軟禁させていただきます」と言えるかどうか。感染症対策と人権のバランスをどうとるかという問題は、政治の話なんです。現時点ではそうした検討にも踏み込んでいません。こうした議論をせずに「経済を回させろ」と言うのはややズレた話で、もっと手前で選択しなければならない部分がたくさんあります。経済と命の議論をするのがいいのかなと思いますね。

 3月の段階では、有効な対策が同定されていないなか、感染拡大をいったん抑えるために、多くの国々がロックダウンや国全体での活動制限という対策を行いましたが、その後のさまざまなデータの積み重ねにより、マスク着用や社会的距離の確保の有効性が科学的にも確認されました。こうした対策を組み込んだリスク管理により、感染拡大を抑えている地域や事例は参考にすべきでしょう。ドイツにおいては5月13日、ドイツの経済研究所とヘルムホルツ感染研究センターが連携して、実効再生産数(Rt)と新型コロナによる経済損失の関係について分析を行いました。その結果、Rt=0.75になるように制限を緩和すれば、最も経済損失が少ないという見解を示しました。
 こうしたシミュレーションを背景とする対策により、ドイツは現時点まで小康状態を保っている地域です。ドイツの戦略は、検査や医療の体制が異なる日本がそのまま導入できるものではありませんが、ウイルス共存戦略という点では、参考にすべき部分があります。
 ノルウェーにおいてもロックダウン下において、社会実験が行われていました。日本でもクラスター感染が報告されているスポーツジムにおいて、適切な感染対策を行った上での利用であれば、感染が拡がらないことを示しました。

 このように働き方、過ごし方に応じてリスク管理を行う対策は、経済への犠牲を少なくできる一方で、単純な呼びかけだけで効果を上げることもまた困難です。実際に欧州でも多くの地域が苦戦しています。地域の感染拡大が制御困難と判断された場合にはロックダウンや一斉休業という措置も取られています。バルセロナでは、社会的距離に関係なく、屋内外の公共の場でマスク着用を義務化し、違反者に罰金を設定するような措置を定めるに至りました。こうした各国の取り組みを踏まえると、実行性の観点から改善すべき点が、日本にもあります。

「問題そのもの」と向かい合えない日本の社会土壌

宮田 宇野さんにおっしゃっていただいたように、デジタル・レーニン主義は手続きの一つでしかありません。そもそも国家として、人権やプライバシー、経済にどう向き合うのかという議論が適切に行われていないところは課題だと思いますね。

──これは今の日本の市民社会の成熟度だと、そもそも命のやり取りを含むような政治的な選択を議論する土壌がなかったんだと思うんですよね。そのために、メディア上の印象操作によって国民を怖がらせる以外に方法がなかったということだと思います。だから西浦(博)さんも、結果的に40万人という数字を出すというパフォーマンスを打って出ざるを得なくなったというのが実情だと思う。
 なぜそうなってしまうかと言うと、この国における言論空間が完全に閉じたネットワークの中での相互評価のゲーム、平たく言えば好感度獲得の大喜利ゲームに飲み込まれているからです。これは宮田さんと共演したWEEKLY OCHIAI(2020年5月27日放送。〝インターネットの息苦しさ〟を考える)でも批判したように、この国の言論空間は東日本大震災のときのTwitterの普及をきっかけに、インターネットが一つのムラのようになっていった。評価経済がこのムラの中の存在感を競うゲームとして定着したと言い換えることができるわけですが、その結果として誰もがタイムラインの潮目を読みながらこの流れに乗るか、逆張りするか「これを言うと仲間が集められる」「こう言うと票が集まる」という次元で考えるようになった。その結果、問題そのものに対してアプローチするのではなく、問題についてのコミュニケーションについてアプローチするほうが効率がよくなっている。
 つまり今回のコロナ禍で言えば、防疫そのものについての議論や、誰を見捨てるのがもっともフェアな決断か、見捨てた人をどうケアするのかという問題そのものよりも、「○○が不謹慎な言動を行った」とか「○○がこの問題で得をしている」とか「○○が活躍しているのは気に食わない」という言説のほうが前に出てしまい、最終的には政治的な決定にも影響を与えてしまっている。この規模の危機に瀕して、「問題そのもの」よりも「問題についてのコミュニケーション」のほうが議論され、影響力をもつ。これは恐ろしいことです。

 そうなると、やはり問題そのものにアプローチする人は、基本的にはメディアで本当のことを言わなくなってしまう。それ以外に方法がないからです。そこでとりあえず「40万人」という数字を戦略的に独り歩きさせて脅しておくのが最適解になってしまうんです。僕は、あれが研究者としてもちろん良い態度だとは思いませんが、事実上外部から切断された、相互評価のネットワークの中で効果的なパフォーマンスを行うとすると、その誘惑はやはり出てきてしまいます。

宮田 そうですね。一人の研究者としてみんなにガードを上げさせて行動変容を促すという義侠心でとったという意味においては、理解できる選択肢ではあります。一方で専門家会議と政治の役割とバランスについては議論の余地があるでしょう。

──それに限らず、今回のコロナ禍の深刻な問題は、将来を脅かす悪い例を作ってしまうことだと思っています。今回、この国はまさに法の支配ではなく人の支配、政治的な選択ではなくメディアの印象操作で問題に対応しようとした。そしてそこまで大惨事にはなっていないから「致命傷は負わなかったからいいじゃないか」と、消極的な成功体験だけが残っていく。

宮田 そうですね。まさに今、世界中でニューノーマルと言われていますが、いわゆる早い段階で小康状態に至ったことがその国の未来にとってポジティブであるかどうかは、必ずしも当てはまらないという議論が始まってます。宇野さんがおっしゃったように問題の本質について議論を行わずに、中途半端なままやりすごすことが、その国の将来に悪影響を及ぼす可能性があります。

──5月末のWEEKLY OCHIAIで、僕が宮田さんと議論したところで出ていましたよね。当日話題になった「テラスハウス」の問題に関して言えば、フジテレビの責任も大きいし、もちろん個別のユーザーの一人ひとりがいちばん悪い。TwitterやInstagramの仕様にも当然問題はある。でも、究極的には日本社会自体が、ああいった同調圧力による私刑で社会的制裁を行う文化を是認している問題です。つまり「この国では法の支配ではなく、人間の同調圧力による支配が優先される」と宣言しているのと同じなんですよね。ここで、コロナ禍とテラスハウス、ふたつの問題は重なり合うわけです。
 僕は、この5月に世間がコロナ禍のことばかり考えているときに、あえて与野党の政治家を交えて、憲法について考えるオンラインイベントを行いました。

 それは、僕はこの法の支配よりも人の支配を優先し、ワイドショーの空気とタイムラインの潮目が大きな決定力を持つというこの国の病理の根底には、憲法の問題があると考えたからです。
 たとえば、現行の憲法を象徴する9条は、与野党ともに建前だと割り切っている。与党の主張する改憲案は、形式的な改憲というか加憲で、あれは要するに「これまで通り解釈改憲で好き放題やります」という、「人の支配」宣言のようなものです。対して野党の護憲派たちは、本当はそんなものは通用しないとわかっているくせに、いまだに冷戦下おける一国平和主義が通用するかのような議論を展開する。これも明らかに憲法とは所詮建前で、有事の際は解釈改憲で乗り切ればよいという本音があるからこその議論で、「法の支配」ではなく「人の支配」でよい、という発想に基づいている。
 こうした「戦後的なもの」の成れの果てが、公文書も平気で書き換えられて、統計も操作されるこの国の統治機構の現状で、これは現政権だけの問題でもなんでもないわけです。

 つまりこの国の近代はずっと、法というものは建前で本音は人である、原理ではなく文脈である、それで結果的にオーライになっていればいいじゃないか、という考え方でやってきました。今回のコロナ禍も今までと同じように、基本的にはルール改正ではなく「柔軟な運用」でがんばろうとしてしまっている。今はうまくいっていても、遠からずこのツケを払うことになる。
 たとえばアメリカはいま歴史的に見ても最大級の分裂の危機に陥っている。一方で香港の民主主義の危機的な状況がある。コロナ禍による混乱は、アメリカの潜在的な分裂を加速し、それがさらに米中のあたらしい冷戦を加速するという負のスパイラルに陥っていて、日本は外交的にも地理的にも、非常にリスクの高い状況に置かれていく可能性が高い。
 この状況を前にしてもまだ、「日本は基本的におとなしい国民性を持っているので、法ではなくて人の支配でいきます、ルールを見直すのではなく、その都度運用でごまかしていきます、同調圧力で治安を維持していきます」と、政治的な選択をしないことでコストを下げていくやり方があまり通用するとは思えないんですよね。

宮田 そうですね。私も通用しないと思います。それはプライバシーの議論を扱わずに、運用でしのぐ、現状の感染症対策に通じる部分があります。そもそも今後第二波か三波が海外から入ってきたときに、このやり方で抑えきれる保障はありません。日本の検疫の方々はすごく優秀ですが、彼らが人を10倍に増やして頑張ったとしても、お願いベースで行うことには限界があります。
 先の番組での議論で言えば、日本はデータアクセス権や忘れられる権利といった、中国もアメリカも導入しているような法律を、いまだに導入できていない点が課題です。法律をつくるという部分は、さすがに運用ではカバーできませんね。根本的なところからてこ入れを行い、データガバナンス、インターネットという文化というものを考えなければならない局面に世界は立っています。

──やはり制度の改革と、啓蒙、この2つをセットで行うことが重要だと思います。憲法すらも運用レベルで骨抜きにされるこの国の政治は、Googleの検索アルゴリズムと広告業者のいたちごっこと非常によく似ています。アルゴリズムを変更するたびに、SEO対策が進化して検索結果が広告記事に汚染されていくのと同じです。この問題に対応するには、法やシステムからのアプローチ、つまり革袋からのアプローチと同時に市民やユーザーの啓蒙、つまり酒からのアプローチを同時に行う必要があります。

ニューノーマルのライフスタイルをどう構想するか

──宮田さんは、このwithコロナ時代、あるいはニューノーマルと言われている社会生活はどのようなかたちで日本に落ち着いていくと考えていますか。

宮田 そうですね……。民主主義の輪郭をちゃんと議論しようというビジョンの問題提起をするとともに、一プレイヤーとしてのわたし自身は、ささやかながら具体的なプロジェクトに打ち込むことで変えていきたいなと思っています。

 たとえばいま教育の分野では、多くの大学が遠隔授業を実施していますが、いままでの授業を遠隔授業に置き換えるとなると、不満が出るのは当たり前です。なぜなら、いままでのものを100として、そこと比較をしてしまうと、「どう劣化しないか」という議論にしか発展しないからです。しかし、これはそもそも問題の立て方が間違っています。リモートを導入してリアルな教育を置き換えられるかどうかか、という問題ではなく、リモートが入ることによって教育をどう変えられるのか、という問題であるはずです。
 これは大学教員や高校教員に対してさんざん言われてきたことですが、詰め込み型の勉強では、各学校に先生がいる必要はないんです。たとえば英語を教えるとか、統計を教える名人が全国レベルで5人から10人ぐらいが切磋琢磨しつつ、メディア経由などで共有したほうが絶対におもしろいし、学習効率はいいんですよ。では手が空いた教師はいらないのかというと、そういうことはありません。教育の本質というのは一人ひとりに向き合って、人生の可能性を引き上げるとか、その人にとって必要なスキルのコーチングをするみたいなところなので、そこに時間を使えばいいじゃないか、とか。

 あるいは人材論の観点からすると、いま企業で必要とされる人材は、与えられた問題を解く人ではなく、自分で問題を見つけてきていろいろな人と一緒に問いを立てて解く力なんですよね。それって従来の「詰め込み型」授業でできますか? と考えると、答えはNOです。むしろ地域の商店街に行って何か問題を見つけてきて、商店街のおじちゃんとかと一緒に課題を解決したり、売り上げを伸ばしたり、祭りを盛り上げるとか、そういう問いを立てて、たまに集まってそれを同期して共有するほうが、よっぽど政府の言う「ソサエティ5.0」的な人材育成につながると考えています。
 密集密閉して同じところで画一化された教育を受けるのは、長距離遠征をする軍隊を育成するにはよかったのかもしれませんが、いまは全員がそのように育成される必要はありませんよね。今は教育の本質とは何かを考え、遠隔学習が入ったことによって我々が拡張できる新しい体験をデザインするときなんじゃないか、と思っています。

 実は以前の宇野さんたちとの議論を経て、今 Googleと新しいプロジェクトを始めています。簡単に言うと、フェイクニュースなどにたどり着かないように、情報をキュレーションする機能を実装するプロジェクトです。たとえば今回のコロナに関しては、間違った情報に人びとがアクセスする弊害が多く起きています。それを専門医やアカデミアと一緒に正しい情報に対してキュレ—ションをする機能をつくりましょう、ということですね。
 これがうまくいけば、まさに宇野さんが言っていた誹謗中傷大喜利のような、アフィリエイト目的のアドサイトで瞬間的な快楽を煽るコンテンツを作って注目化されるという悪循環を断ち切ることにもつながります。いまはみんなを不安に陥れるような言説がワイドショーで量産されていますが、そうではなく、深く考えたり、あるいは正しい情報に人々が辿り着いてくれるといいですよね。それは奇をてらったり、わかりやすいものでははないかもしれませんが、深いインターネット体験みたいなものを、検索によって回せるようにしたいですね。

 このように、ささやかながら実践も打ち込みつつ、「遅いインターネット」に連なるようなプロジェクトを作れればいいなとは僕自身も感じています。もちろん、テックだけでキュレ—ションするのは無理なので、コンテンツをつくる人を応援したいとも考えています。
 このデジタル技術や働き方に選択肢が生まれてくる中で、いくつか成功例が出てくれば日本社会はもう少し前向きな方向に向かうのかな、とは思いますね。

──僕はこの問題については5月の初旬に見解をまとめたのですが、当時からあまり意見は変わっていません。

 この論考では、先程話題に出た「監視社会か犠牲を受けいれるか、技術主義か反技術主義か」という問題は疑似問題であり、最初から批判的技術主義に基づいた抑制された監視を、どう政治的に実現するかという問題でしかない、という議論も展開しています。そしてその上で、僕はこの不毛な対立がそのまま「あたらしい生活様式」をめぐる議論にも当てはまることを指摘しています。
 つまり、一方ではこのパンデミックを好機到来とばかりに、この国の情報技術的な近代化を推し進めようとしている人たちがいる。もちろん、この人たちの認識は正しい。しかし驚くほどにこの人たちの中で、僕や宮田さんがこれまで話してきたような、そしていま世界中で問題化しているソフトなデジタル・レーニン主義への接近を議論の俎上に載せる人は少ない。
 対してもう一方では、パンデミック化での強権発動と、災害ユートピア的な空気が、戦中のような下からの全体主義を呼ぶリスクを警戒する声が、ジャーナリストや人文社会科学系の研究者からは多い。もちろん、この問題を最重要視する点では、僕と宮田さんは一致していると思うのだけれど、この種の人たちの中には「あたらしい生活様式」「withコロナ」「ニューノーマル」といった、グローバル化以降の感染症リスクを踏まえたライフスタイルの更新そのものを、是々非々ではなく根底から否定する人が少なくない。
 たとえば、フードデリバリーサービスはこの手の人たちの中では感染リスクを低所得者に押し付ける悪しき産業とされ、中食の再評価自体が否定されることが多い。しかし、これは明らかに擬似問題で、では彼らが叫ぶ「取り戻すべき日常」の中で飲食店の配膳係や、劇場のもぎりたちもやはり経済的には搾取され、より多くのリスクに晒されていたわけです。

 あるいは教育現場では、「自宅にWi-Fiが飛んでいない家庭や、パソコンを持っていない家庭があるので、リモート授業は教育格差を再生産する」という意見がある程度力を持ってしまう。そうすると、リモート授業の導入そのものに大きなブレーキがかかる。その結果として、「じゃあ学校の先生が一人ひとりの家にプリント配って歩きましょう」という話になって、どうすれば情報環境の整っていない子どもたちをケアするかという発想に進んでいかない。
 これと同じようなことがあらゆる分野で起こっていて、要するに意識高い系は目先の新しさに踊らされて問題の本質をとらえられずに空回りし、既得権益側は自分たちが改革の主役になれない嫉妬からますます保守的になる。その結果として、結局、満員電車も判子も成果じゃなくてメンバーシップに対して給料が払われる日本的雇用も、陰湿な半強制飲み会の欠席裁判文化も生き続ける。

宮田 一番可能性が高いのはそのシナリオですよね。かつその変化に抵抗してたアンチ・ニュノーマルのシニアたちが勝ち誇って、「どうだ日本は変わらないだろう」っていうことを言っている画まで目に浮かぶんですけども(笑)。

 ただ、私自身としては一人のプレイヤーとして、全体がいきなり劇的に変わるという可能性はなかったとしても、その次につながるような波紋を作っていくことができるかが一つの勝負だと思っています。
 たとえば先ほど話した遠隔教育の話も、今回日本全国から1800万人、2500万人とか1億人レベルで調査してわかったことですが、テレワークは地方都市ではまったく広がっていないんですよね。地方では変革が困難である一方で、激変する可能性は都心部にありました。たった5日刻みの10日間の中で、東京のテレワーク実施率は30%から40%になって50%に増加しました。普通は2年か3年ほどで徐々に変化するようなことですが、それが5日のうちで変化した。
 このように、社会全体が一気呵成に変わらなかったとしても、そこに次のスタンダードをつくるような芽がどれくらい生まれるか、ということも重要かなと思っています。
 これは昔から言われていることですが、ロジャースの普及曲線にもあるように、物事が大きく変わるときは、イノベーターやアーリーアダプターから変わっていきます。つまり、いきなり全部変わるというより、1%から3%に訴求して、それが15%くらいになって、40%にいったところから一気に流れが生まれてくる、というモデルですね。この変化の兆候を掴んだ3%から10%くらいの人たちが生まれるだけでも、一石を投じることにつながると思うんです。それがたとえ小さな波紋だとしても新しい波を作ってインターネットそのものの評価軸や、作り手たちの意識を変えるのであれば、それが社会変革にもつながるかもしれない。そこから流れを作っていけるといいですよね。

▲エヴェリット・ロジャースの普及曲線(参考

──はい。だからおっしゃる通り「たとえ一石だとしても新しい波を作ってインターネットそのものの評価軸や、作り手たちの意識を変える」しかないと思っています。なので、僕も「遅いインターネット」のような運動を始めたわけです。

宮田 インターネットのこれまでの課題の一つに、フレーミングや分断がありますよね。自分たちの「いいね!」がいわゆる承認欲求を満たすことができ、同調ができる一定の集団に固執していくことによって、それ以外の集団に対する想像力がまったく醸成できなくなってしまっている。それはまさに「速いインターネット」の弱点です。
 あるいは、意識高い集団の中でぐるぐる回していって、結局は社会全体の課題に到達しないというのが、いま宇野さんがおっしゃっていた批判だと思います。ここには一つの典型的な原因でもある「イノベーション信仰」があると思うんです。「みんながゴキゲンになる新しいことをやりましょう!」と言いつつ、その集団がご機嫌でさえいればいいというように、手段と目的がいつの間にか入れ替わってしまっている。しかし、ここから先の社会は、目の前にある貧困からも目を背けずに、そこともつながっていることを理解した上で社会に対してコミットをしなければなりません。
 つながる世界は不可避です。何を食べて、何を着て、どう遊んで、どう学ぶかは、すべてつながっています。その中で自分は何に貢献できていて、そして何に貢献できていないのかということも含めて理解をしながら、社会活動をしていかなければならない。
 そういう意味では、ニューノーマルという言葉は、一人ひとりの「ノーマル」が違うということを意味しつつ、選ばれた一部の人々ではなく、みんなのノーマルが変わっていくということも含めて新しい日常を考えなければならない、ということを表しています。

分断を緩和する新たな公共圏をどう再設計するか

──たとえば僕は家も職場も高田馬場にあるのですが、高田馬場のマンションはある程度規模が大きければ、地理的に住民の中には一世帯や二世帯は歌舞伎町の水商売の人がいるんです。歌舞伎町は今や日本で一番危険な場所の一つというイメージになっているので、もしかしたらいま報道されているような「ショッピングモールの駐車場に停まっている県外ナンバーの自動車に嫌がらせをするようなメンタリティの人」には耐えられない環境かもしれないですね。もちろん、僕は単に面倒なのでまったく気にしていない。というか、このレベルのことを「気にする」ことを正当化したら社会は成り立たないわけです。僕はみんなで手をつないでジョン・レノンを歌えば人類みんな友達だ、みたいなお花畑的な発想は単にバカだと思うけれど、だからこそ「そんなこと言い出したらキリがないだろ」とか「自分だって運が悪けりゃどうなるかわからないんだからさ」という「諦め」は重要だと思うんです。
 しかし、いま真面目でリベラルな人ほどこの「ポジティブな諦め」ではなくて、砂糖でコーティングしたような甘くて意識の高い理想を植え付けることが啓蒙だと思っているところがある。僕はむしろ「気にしない」「諦め」のようなもののほうが、具体的に共生の動機づけになると考えているわけです。
 僕の知人に渋谷のタワーマンションの一室で、クリエイター同士が擬似家族を作って支え合う、という社会実験をやっている人たちがいて、この人たちの中には大分の農村にも拠点を設けて農家のおばあちゃんとかと交流してほっこりしていたりする。そして「多様性が大事だ」とか言うわけだけれど、そのタワーマンションの目の前の宮下公園からホームレスが追い出されることには無関心だったわけです。僕が感染症を通じて考えなきゃいけない問題が、ここに集約されていたと思う。この時代に近所のおじちゃんやおばさんよりも、外国の気の合う同業者と日常的に連絡をして、何かあれば心配するのは当たり前のことです。しかし、やれ震災だ、感染症だとなれば隣近所や地域の人たちと協力するしかないし、そこでたまたま自分が水商売や医療従事者だったからといって出ていけと言われたらたまったもんじゃないわけです。
 分断を放置しておくわけにもいかない。ムラ社会的な隣近所のつながりは差別の温床にしかならない。情報ネットワークの意識高いつながりは地理的なものと相性が悪い。ではどうするか、という問題が9年前の震災でも、そしていまも突きつけられている。

宮田 アメリカはまさにそれを見ないようにして富裕層と貧困を分けてきて、いわゆる格差というものを是認してきましたが、今回はそこが感染源になったわけです。そして、恨みを拡張したと。日本もそのとおりで、歌舞伎町というものを見ないようにしてきたんですが、逆にそこに対して何も積極的にアプローチをしていないという現状があります。日本はアメリカほどではないにせよ、そこが今第2波の温床になっているわけですよね。
 感染症対策においては、否が応でもそういったところとつながることから目をそむけることはできないですよね。そこも含めて、僕らが「次のノーマル」をどう考えるかという視点が重要です。たとえば地方都市に行けば行くほど実際の感染被害はマイルドなはずなのに、逆に実態のない恐怖心が膨らんでいるという側面も聞こえてきます。

──つまり、東京のクリエイティブクラスは目の前の公園のホームレスや歌舞伎町の水商売の人たちのことを自分たちとは関係ない人間だと思いながら、価値観の通ずる一部の地方の農家の人たちとつながってソーシャルグッドな実践をしている。そして地方では県外ナンバーの車を攻撃したり、移住者に目くじらを立てたりしている人がいるわけでしょう。要するに、自分たちのソーシャルなネットワークからはみ出ている人たちとは共生していかなくていい、と思っているわけです。この前提を崩すものが必要なのだと思います。
 東日本大震災のあとに「絆」が流行語になって、猫も杓子もご近所コミュニティの復活が重要だと町おこしに走ったけれど、僕はあれがまずかったと思う。交流があって、共感があるからこそ相互扶助するという発想だと、結局「共感」できる仲間しか助けずに、宮下公園のホームレスと県外ナンバーの移住者を排除する社会しか生まれない。
 そうじゃなくて、「単に隣りにいるだけで、まったく交流もないし、共感もしないけれど、とりあえず何も考えず協力するのだ」じゃないと感染症対策なんてできるわけがない。

宮田 まさにそうですね。震災のときも調和と言いつつ、自分が是とする目に見える範囲とか巻き込みたい範囲の人の中だけで調和を図る、というのが日本の和でした。それが今回、まさにそうじゃないものも含めて、日本全国見たくないものも含めてつながらざるを得ない状況に陥ってしまった。そう考えると、日本型の和がいま、試練を受けている状況だと思うんです。要するに、今後海外流入が始まるなかで、グローバルに対してどう和を持つのか、という課題です。見たい範囲の中での調和が許されるフェーズがもう終わりつつあるということですね。
 これまで感染症対策というのは医学の中でもそれほど大きくない一派でした。しかし今後は少なくとも感染対策というのも含めたまちづくり、コミュニティづくりが必須になっていきます。感染症対策からコミュニティを考えた場合には、低所得者層を必ずしも切り離すことができません。経済合理性だけで棲み分けて、コミュニティをつくる時代が変わり始めています。

それでも未来を「選択」可能なものにするために

宮田 たとえばアメリカはまさに今、一番厳しい局面に入っていますよね。中国は分断を今のところ、力で抑え込んでいる。ここから経済が沈下していった場合にそれが抑え込めきれるかどうか、岐路に立たされているとは思います。
 韓国の場合は、強烈な社会的制裁で対応しています。ナイトクラブでクラスター感染が起きたじゃないですか。これが中国だったら当局が情報を感知して、ある日突然当局が来て隔離されるんですが、韓国の場合は民主主義下なので、この塾の講師がナイトクラブに出入りしてたという情報を公開して叩くんです。そういった恐怖の中で感染症を抑えるという、日本よりもはるかに強い同調圧力の中で対応している。
 一方で台湾は、蔡英文政権が「透明性」を売りにしながらプライバシーにかなり踏み込んだアプローチをしている。

 中盤でもお話したように、日本がどう分断に向き合うかということは、まさに国家や社会システムそのもののあり方の根本的な軸を考えることなしに避けては通れません。今まではそれこそ「国家なんて関係ない、むしろ邪魔しないくらいだ、イノベーション万歳!」という感覚が、特に意識高い層にあったわけですよね。一方、左の層はもう「やっぱり市場万能主義が格差を生むんだ!」みたいなことを繰り返すばかりになって。どちらもそれなりに正しいんですが、今回のように市場が機能不全に陥ったとき、社会契約や国家の主権の所在といった、民主主義の社会システムのあり方が、改めて問われている。
 つまり、今回のパンデミックが浮き彫りにしたのは、感染症対策における人権とプライバシーのバランスといった危機管理的な議論に留まらず、日本が社会としてどのレベルの格差を許容するのか、自由な市場に何を委ねるのかという、もっと基本的な枠組みで「自分たちがどうなりたいのか」を意識的に選び取っていくべき機会のはずなんです。
 とりわけ教育をどう提供していくのかという、国家の役割そのものの議論をやっぱり避けては通れないし、その本質とどこまで向き合いながら、何を選び、何を捨てながら、日本が自分たちのあり方を選択できる国になれるのかどうかの分水嶺に差し掛かっている。

 これは本来、宇野さんが『遅いインターネット』にも書かれていたように、昭和が終わって平成の政治改革のムーブメントが始まったときに、日本人がやろうとしていたはずの選択でした。
 それが9.11後の対テロ戦争への対応とか、ポピュリスティックな小泉旋風や民主党政権への政権交代への幻滅を経て、東日本大震災というショックで、今度こそ「日本は変わる」と思ったはずだったのに、みんな喉元過ぎて忘れて元に戻ってしまった。
 今回の新型コロナウイルス危機は、それに続く「今度こそ」の転換期であることは間違いないと思うんです。たとえば今の状況で騙し騙しやり過ごして、ワクチン接種までねばるというシナリオももちろんあります。もちろん我々もそのシナリオを探ってはいるんですが、その対応でなんとなく死亡者も少なく抑えられて良かったね、となって日常に戻ったときに、日本社会を待っている危機の本丸は少子高齢化です。この日本社会の「真のラスボス」に対して、今のままの社会構造では太刀打ちできないのは明白です。

 今、各国は退路のない中で、国そのものの岐路に立っています。生まれ変わらざるを得ない状況の中で隣人たちが変わっていく姿を見ながら、それでも自分たちはここに留まるんだということも、それはそれで選択の一つではあります。ただ、それが選択なのだということを、日本の人々は自覚すべきだと思います。
 そういった転換点の中で一プレイヤーとしての私は、目先の課題であるコロナに対応するとともに、そうした危機対応を通した社会システムの変化にも楔を打ち込んでいきたいと考えています。日本の未来に対する選択を、より良いものにするために、今は少しでも足掻きたいと思っています。

──この四半世紀くらい、僕らは情報技術を用いて、いろいろなものを市場化することで解決してきた。いわゆるカリフォルニアン・イデオロギーを信じている人たちは、この方法が近代の国民国家をゆるやかに解体し、あらゆる分断を乗り越えられると思っていたはずです。
 もちろん、この四半世紀で手に入れた武器を否定する必要はなく、どんどん活用していくべきです。しかし、この武器を分断を乗り越えるために活用するためには、やはりベタに政治的なアプローチを経由するのがもっとも有効です。今回のコロナ禍が最初から情報技術をどう政治化するかという問題だったことは象徴的で、要するに今は逆に、これまで政治化されてこなかった領域をどう政治化していくかという闘争が、すでに始まっているのだと思います。
 つまり、これまでむしろ脱政治的であることによってアドバンテージを発揮していた人たちは、どう再政治化することによって社会にコミットしていくのかが重要になっていく。そのことに自覚的なプレイヤーとそうではないプレイヤーの差を、僕は今回すごく感じたわけです。

宮田 まさに『遅いインターネット』でも宇野さんは「民主主義を半分諦めることで、守る」と書かれていましたが、私も既存の民主主義プロセスの中で選ばれる政治家とその過程を経た立法という、政治の仕組みだけに期待するということには、限界があると思っています。民主主義というものは、政治改革で課題を解決できるほど万能ではありません。既存の政治をより良くするという選択肢もあるんですが、いわゆる投票行動だけがもはや政治ではない。一人ひとりがどう生きて、何を食べて、どう学んで、どの企業の製品を使うかも、もう社会にインパクトを与える一つのプロセスなわけです。

 いまは膨大なデータに基づいてAIが自分の好みや心情に照らし合わせて、どういう行動を取ると社会に影響が波及していくのかを可視化できるようになってきました。つまり、生きるということそのものがもはや政治であり、クリエイション行為であるということです。我々はお互い影響を及ぼしあうということを前提に社会変革そのものをデザインしていかなくてはいけないフェーズに入っています。
 このような状況で、単なる瞬間的な快楽とレピュテーションに頼ると、この分断がただ進んでいくだけになってしまいます。これから必要とされるのは、物事をより深く考えさせる契機や、人生を変えるような感動を可視化していくテクノロジーや制度設計、あるいは規範確立だと考えています。お金を稼ぐことだけで自己実現するのではなく、自分の好きなコミュニティに貢献するという実感の中で、生きるという選択肢をつくることも、次の社会をデザインしていくうえで大事なことになるでしょう。
 このように一人ひとりの「生きる」を響き合わせて多様な社会をつくることは、ずっと失敗し続けてきた日本の政治選択に対するオルタナティブになりうると思います。あるいは民主主義や市場経済が失敗した場合でも、社会の中で人々が幸福になる途が絶たれないようにするための防波堤という点からも重要になるでしょう。

[了]

この記事は、宇野常寛が聞き手を、石堂実花と中川大地が構成をつとめ、2020年7月16日に公開しました。