日常の風景をミニチュアパーツで見立てることの刺激

──今日はレゴ認定プロビルダーの三井淳平さんと、ミニチュア写真家・見立て作家である田中達也さんをお呼びしました。日常の何気ない事物や現象を「見立て」の力によって作品にしているお二人に、コロナ禍以降自宅や近所での楽しみ方が問い直されているいまだからこそできる、「見立て」の力で生活を豊かにする方法をお伺いできればと思います。

 まずはこれまでのご活動をご紹介いただきつつ、実際にどういうふうに作品づくりを行っているのかと簡単にお話しいただければありがたいと思っております。では、三井さんからお願いできますか?

三井 はい。私はレゴ認定プロビルダーといって、レゴブロックを使った創作活動をしています。主に企業から依頼を受けて、その会社の商品や関連するものをレゴブロックで作ることが多いです。今年でプロになって10年目になりましたが、創作を始めたのは大学院生のころで、その後会社員を経て独立し、今は法人として活動しているというかたちです。

田中 10年目! 僕と一緒ですね。

三井 あ、そうなんですか!

田中 お互い節目のタイミングですね(笑)。

──記念すべき対談になりそうな感じですね(笑)。

田中 僕はミニチュア写真家・見立て作家として、見立てをテーマにした作品を毎日SNSで発表しています。今年で10年目になります。元々はデザイナーとして働いていて趣味で始めたこの活動ですが、継続するなかでいろいろなところから注目されはじめ、展覧会や企業の依頼を受ける機会が増えてきました。

──お二人はもともとご面識があったんですよね?

三井 はい。私も一人のファンでして、一度展覧会にお伺いしたことがあります。

田中 そうなんですよ。スタッフもみんなびっくりして、「えー!」「招待券送らなくてよかったのー?」なんて言っていました。次また東京で開催するときには招待券を送らせていただきますので。

三井 ありがとうございます。ぜひぜひ(笑)。

──三井さんから見た、田中さんの作品の魅力はどういうところにあるのでしょうか?

三井 細かい目のつけどころやアプローチはもちろんなんですけれど、それを継続して更新されているところです。もうネタ切れになるんじゃないかと心配してしまうようなペースで製作しているのに、それでも毎回その期待を裏切って、どんどんどんどん新しい発想が出てくるところだと思っています。

田中 ありがとうございます。こうやって皆さんに言っていただけるから続けられるところもあって。それと、創作を続けていると皆さん目が肥えてくるので、さらにその期待を超えられるレベルを出すということが楽しみにもなっています。

 もちろん自分でも新しい発想ができたと思えるときとそうでないときはあるんですが、逆に毎日継続してやっているからこそ変に気負わず実験的な制作を行える部分もあって、今は毎日やるということがいい方向に働いていると思っています。だからSNSのフォロワーさんたちを飽きさせないために毎日やるというよりは、どちらかといえば修行や筋トレに近い感じがしますね。

──「ネタ切れが心配になる」というのは見ている皆さんがけっこうそう思われることかなと思うんですが、田中さんのアイデアの源のようなものはどこから生まれるのでしょうか?

田中 日々思いついたことをメモするようにしています。メモといっても、スマホにただ一行「○○で××」というふうに書くだけですが。たとえば代表作のブロッコリーで見立てた木の作品の場合、「ブロッコリーで木」と書いただけです。「レゴブロックで作った世界遺産展」に出展したときも「このレゴのパーツで○○」とだけ書きました。そのワンモチーフ・ワンアイデアのメモから「明日はどれにしようかな?」とその日の気分で創作内容を決めています。だから作品を作るときにも、土壇場で考えるというよりはすでにある選択肢から選んでいる感覚のほうが近いです。

『MINIATURE LIFE』©Tatsuya Tanaka
実際の撮影の様子

 こういう仕事なので、何をしていても大体頭の片隅では「見立て」のことを考えていて、食事をしたり買い物をしたり、一人で何かを考えてられるときには特にアイデアが生まれやすいですね。もちろん遊びに夢中になっていたり誰かと会話をしたりするときはあまり発想が働かなかったりしますけど、三井さんはこの辺りはいかがでしょうか?

三井 そうですね。やはり外を歩いているときなどが、一番アイデアが出るかもしれないですね。たとえば建物や風景を見たときに「どういうレゴの組み方をしようか」というようなことを考えます。

田中 そのときにはなにか写真を撮ったりメモをしたりして記録に収めることはあるんですか?

三井 どちらかというと僕は頭の中にイメージを蓄積していくタイプなんです。たとえばビルにしても、有名なものであれば世の中に写真がたくさん出回っていると思うんですけれども、よく目にする典型的なビルこそジオラマで表現したくなってしまうので、そういう「ありきたりなビルってどんなものなんだろう」というような考えを普段から自分の中で蓄えていて。それらの共通項を抽出して「こういうものだとビルっぽく見えるんだ」とか「こうすれば当たり前の景色が作れるんだ」というようなところに意識が向くことが多いですね。逆に共通項が見えていれば、その共通項からのブレを探すという意味で特徴的なビル作るときにも参考になるんです。

──おもしろいですね。何か具体的なビルを真似するというよりは、いくつものビルを見てなんとなくある「ビル像」を形成していくということですよね。

田中 あー、僕もその考え方に近いですね。「これを見立てたい」と思ったときには、一度「みんながイラストを描くとしたらどういうふうに描くだろうか」ということを考えます。たとえばヨットを描くというと、三角形を描いてその下に半円を描く、といったイメージがあるじゃないですか。ならその形の組み合わせがあれば何でもヨットに見立てられるわけで、三角形のものと半円のものを探そう、という発想で簡単な形や色に落とし込みます。だからたとえばいまおっしゃったようなビルを表現したいときには、「長方形に穴が空いているもの」「何層かに分かれている物体」「その一番下がポカンと空いているもの」といった特徴を満たせばなんでもビルに見えるのかな、というようなことを考えます。

 これは自分の創作スタイルにもつながることなのですが、僕はなるべく手数を増やしたくなくて、「見立て」というのは手数が増えると逆に伝わらなくなってしまうんですよね。手数を増やして何かを忠実に再現するというよりは、ある対象をなるべく少ない数のものだけで見立てるのが最良のパターンだと思っています。だからレゴビルダーさんがしていることの逆を向いているところもある気がしていて、というのもレゴビルダーさんはものすごく大量のレゴで大きな作品を作りますよね。もちろんときには少ないパーツのものもありますが、僕の場合はその必要最小限のパーツで対象を表現することのほうに興味が向きます。自分がレゴで遊んでいても大量のパーツから建物を作り上げるということはできなくて、そこまでの構造を考えられない。逆にそういうものはどうやって作るのか気になっています。

三井 いまおっしゃったように「たくさんのブロックで大きいものを組むタイプ」と「小さくて少量のパーツで見立てをするタイプ」というのは実際にどちらもジャンルとして確立していて、ある意味派閥に分かれてるようなところがあったりします。

田中 あ、そうなんですか! 「俺はこっちが好きだぜ」というような言い争いが起きたりはしないのでしょうか。

三井 そうですね。若干対抗意識があるというか、「たくさんブロックがあったら当然作れるでしょ」といったことを言う人もいたり、逆に「少ないパーツだから、簡単にできるんじゃないの」というようなことを思う人もいたり、多少のライバル意識がある気がしています。私はどちらかというと大きさを求められる作品を依頼されることが多くて、個人的には小さいブロックを見立てることで作品を作るというのも好きなんですが、仕事としてなかなかやる機会がなくてあまり表に出せていないですね。

田中 なるほど。今まで見た中で一番印象に残っている作品はありますか?

三井 そうですね。かなりシンプルなところでは、一番スタンダードなタイプで2×4の長方形ブロックがありますよね。あれの白いブロックの上に赤いブロックを重ねて「お寿司」に見立てた作品があります。お寿司といえば「白いものの上に何か色のあるものが乗っている」という情報だけで、それだけで完全に記号として成り立っていますし、シンプルさと相まってけっこうインパクトのある作品です。

お寿司に見立てたレゴブロック

田中 なるほど。そういうタイプの作品がアートとして認められて展示されるようなことはないのでしょうか?

三井 少量のパーツをアート作品とみなすのは、レゴの世界ではけっこう少ないかなという気がします。それこそ田中さんのように、「コンスタントに10年続けています」というくらいのレベルになってきたらアイデンティティーとして認められる可能性はあるんですけれど、何個か作品を出したことがある程度だとアートとして認知されるにはなかなか至らないかもしれないですね。

田中 そういうのを集めてみる展示もおもしろいかなとたまに考えるんですけどね。

三井 あ、おもしろそうですね。私からいくつかの形のパーツをお送りして、いろいろと見立ててもらうなんてこともおもしろそうです。田中さんの目線で見ていただくと、新しい発想がどんどん出てくると思います。レゴのパーツは形だけでも数千種類ありますから。

田中 そうですよね。建物の作品などを見ていても「この装飾にこのパーツ使うか……!」ということが勉強にもなります。あのようなパーツの使い方は「誰々が最初に発見した使い方だ」というような歴史があるんですか?

三井 ありますあります。「何々式」というような手法がありますね。レゴの世界ではファンたちが組み方をネット上で共有して集合知を作っていくカルチャーがあるので、その手法を真似すること自体はぜんぜん悪いことではないとされています。

──いま「白と赤のブロックでお寿司」という話をされたときに「なんで今まで気づかなかったんだろう」と思ったんですよ(笑)。白と赤のレゴブロック自体はかなり多くの人が見たことあるはずなんですが、それがお寿司に見立てられるということに気づくにはどうしたらいいのでしょうか。

三井 小さい子どもほどそういう発想は出てくるので、遊び心がすごく大事かなと思います。

田中 うちの子どもは小学生なんですけれど、まさにその「白と赤でお寿司」というようなことは、もう制作のたびに毎回言われます。無理矢理なのものもありますけれど、やはり子どものほうがそういう発想はすごくうまいです。おままごとなんてまさにそうですもんね。

──おままごとは、大人が使っている道具を子どもでも使えるサイズに、まさにミニチュアとして見立てる行為ですよね。そうするとどうしても実物との間に齟齬が生まれるわけですが、作品をつくる際に実物のどの部分を残してどの部分を残さないかというような基準は持っているのでしょうか?

田中 実物とまったく同じだと全然おもしろくないと思うんですよね。実物とはかけ離れているんだけど、脳が補完するとなぜかそのものに見えてしまう、そのギリギリのラインがおもしろいと思うんですよ。たとえばさっき言われたのは白いブロックの上に赤のブロックがあれば「寿司」に見立てられるということですが、その隣に小さい人なんかを配置すれば実は「家」にも見えてくるかもしれない。そういうふうに脳の補完が誘発される瞬間が気持ちよくて、「これだけのパーツで、なんでそれに見えてしまうんだ!」というような驚きが頭の中で働くと、ドーパミンか何か、わからないですけど頭の中を駆け巡りますよね。そういう意味では、その脳の補完があればあるほどおもしろいと思うので、実物とはなるべく違うほうがおもしろいと思いますね。

三井 田中さんの作品の中で特に印象深いものの一つで、ホチキスの芯をビルに見立てている作品がすごく好きで。あれはまさに題材の大きさとしてもギャップがすごく大きいし、細かい線が横に入っているのもすごくビルっぽく見えて、写真をぱっと見たときは最初ホチキスの芯だと気づかなかったんですよ。でもよく見ると「あ! すごいな」という発見があって、いまおっしゃっていただいた脳が補完するときの快楽のようなものも発生しますし、すごく好きな作品です。

『芯シティ』 ©Tatsuya Tanaka

田中 ありがとうございます。そうですよね。その補完の瞬間が楽しいですよね。レゴの作品を作るうえで僕の作品を生かせそうな部分はあるんでしょうか。

三井 ありますよ。レゴの世界でもやはりパーツを見立てて落とし込んでいくような部分はあって、ただそれが作品のメインになるというよりは細部にそういう表現をさりげなく使うようなやり方なんですね。普段制作を続けていると、できるだけ使いやすいシンプルなパーツで構成して作品がワンパターンになりがちなので、田中さんの作品にみられるような発想を取り入れて、普段使わないパーツも使っていったほうがパンチの効いた作品を生み出せます。それこそ見た人が「こんなところにこのパーツ使うんだ……!」という刺激のある作品になるので、田中さんのような発想は意識的に取り入れたいなと思うときが多いです。

──最近のレゴの製品で言うと、2030年までにブロックを100%持続可能な素材に置き換えるという環境目標の一環で「フラワーブーケ」を再現するというシリーズがありますよね。あれは生花や造花のように贈答したり部屋に飾ったり、実際の花の用途として使えるものを、あえてレゴブロックで置き換えることにチャレンジしているという、いわば大人版のおままごとのようなものじゃないですか。ああいった作品をユーザー側の見立てによる制作に先んじて、公式が商品として売り出していくことに対しては、どうお考えですか?

三井 レゴを買う方の層はすごくレンジが広いので、ああいう遊び心の要素があると、初めて手に取った方がよりおもしろいなと感じて入り込むきっかけになると思います。いろいろな人のフックになる要素が最近のセットには増えてきたのは、レゴの会社の将来としてはすごくいいことだなと思っています。

田中 ここ10何年かで、僕が子どものときに知っていたようなレゴと比べると、製品自体もものすごくパワーアップしてきていますよね。そうしたツール側の発展にも触発されるかたちで僕も創作を続けていくなかで、もし20年後、30年後にかけてみなさんの「見立て」の目が肥えていったときに、どれほどのレベルの作品が出てくることになるのかと、僕も創作を続けていくなかで期待しているところがあります。たとえば、壁にめりこませてレゴを作るアーティストがいるじゃないですか。あれも「うまいことやったな!」と思いますよね。

三井 まだまだネタの余地はありますよね。

躍動感や物語を作品に落とし込むことで見えてくるもの

──今までお話しいただいたものは建物などの静物でしたが、生き物を作るときは少し違うところがあるのではないでしょうか。たとえば素人考えですが、生き物の場合は躍動感のようなものが加わってくるのではないかという気がするのですが、そういったものを制作するときはどんなことを考えますか?

田中 動きを感じさせるときにも、最終的には一つの形に落とし込みます。だから動きを見せるにしても「それを一枚のイラストに表すとどうなるか」を考えるのが大切なのは固形物を表現するときと変わりません。たとえば「波」をすごく簡単にイラストにすると、単純なギザギザが連続する形になるじゃないですか。だから段ボールを一枚はがしたときに見えるギザギザを使ってもいいし、窓のブラインドもギザギザしているから青いものだったら波になるだろうなとかいうふうに考えます。

三井 躍動感を出すためには、たとえば動物であれば身体のカーブが大事だと思っていて、そのカーブをレゴブロックでどう表現するのかというのがポイントになります。サイズの大きい作品であればブロックの段差をどれぐらいのペースで変えればいいかという発想でカーブを作っていけるんですが、小さい作品だとそう単純にはいきません。レゴブロックは曲線型のパーツの種類が限られているので、どのパーツを当て込むとそのカーブを一番うまく表現できるかということを、「見立て」の発想を絡めながらうまくパーツを選んで作品を作っていくかたちになります。

 個人的には動物が「動く直前の様子」が好きで、たとえばトラだったら忍び寄って今にもとびかかりそうな瞬間ですね。作品を見た人がその次のシーンを想像するのが楽しいかなと思ってそういう題材を選んでいます。

『ホワイトタイガー』

田中 続きを想像するというのはいいですよね。たまたま今日アップしたボルダリングの作品があるんですが、これも構図としてはあえて少し下に人形を置いて「ここから上に登っていくんだな」という雰囲気を感じられるようにしています。一番上まで登ってしまっていたらそれより先はないわけですし。写真で言うところの余白の使い方が大切で、ある方向に飛んでいこうとしているものがあったら、その方向に余白を作る。屏風の日本画などでよく使われますが、鳥がいて、その向こう側に木の枝が一本あると、その鳥が枝の方に飛んでいくように見えるんですよね。

『ドットの壁はどっと疲れる』©Tatsuya Tanaka

三井 個人的に田中さんの作品は、写真の余白の使い方がすごく印象的だなと思っていつも拝見しています。上に広がりがあるときは上の空間が広めに取られていたり、動きの向かう先にしっかりスペースが空いていて躍動感が生まれています。それはパッと見たときには不思議でもあるけど、理詰めで考えていくと「なるほどこんなふうに考えてらっしゃったのかな」と想像できて楽しいです。

田中 もう一つ僕が制作中によく意識することは、たとえば家族やカップルが登場した際には「この人たちは前後にどんな状態だったんだろう?」というようなことです。人間が登場するとそのあたりは想像しやすくなりますけど、ミニフィグでもこういうことは考えますか?

三井 考えますね。私がミニフィグを並べるときに一番意識しているのは、「一人ひとりのミニフィグの目線の先に何があるのか」ということです。ストーリーを生むためにも、そういったことを細かく設定するのは大事ですよね。ある人が駅に向かって歩いているのかとか、それとも駅から出てきてこれから観光地に向かうところなのかとか、そういった見ている方向やほかの人物との関係などが設定されると、ただのモブキャラではなくて一人ひとりに主人公感が出てきます。ミニチュアの場合、目線が描かれていないフィギュアが多いと思うんですけど、そういうときはどうやってイメージされるんですか?

田中 首の向きやポーズが特徴的なものがあれば、それを使ったりしています。あるいは男女のフィギュアがあったらやたらとそれをくっつけることで、引きの視点でもカップルに見えるだろうし、男三人を輪になって立たせたら飲み会帰りの騒いでるように見えたりもします。だから実際の街を遠目で見て、「この人たち何やってるんだろうな」と俯瞰するのは勉強になりますね。たとえば路上でバンドマンが演奏していて、その周りに人がたくさん集まる場合とそれを完全に無視して通っていく場合とでは微妙な動きの違いがあるわけじゃないですか。そういう細かい機微を反映させるようにしています。

 あるいはたくさんの人間を置くときにはそれらを均等に配置せず、あえて一か所に集まる部分をつくったりしています。たとえばここは信号待ちの人のグループで、ここは横断歩道を渡っている人だ、というふうに。基本的に現実の人間がある空間の中できれいに均等に並んでいることはないですよね。必ずどこかに固まってたりするので、そういったことを意識しながら街並みを作ることも多いです。

三井 すごくよくわかります。私もミニフィグの配置をスタッフにお願いすることもけっこうあるんですけど、そこが気になってしまって。適度に人口密度の差があったほうがリアリティが増しますよね。それこそ駅の改札だったらその付近は混雑しているけど、その手前には少し開けた空間があるとか、そういったことはまさに意識しているところです。

──ありがとうございます。動きや躍動感を感じさせる手法が、結果的に街や人の動きにリアリティやそこに潜む物語をも生むこともあるということですね。では、逆に苦手とするような題材やモチーフはありますか?

田中 やっぱりありますよ。まず先ほどお伝えしたようにサイズの大きいものや、大量のパーツで忠実な再現度を目指すようなものは苦手というか、「見立て」の作風と合わない。それから「見立て」が前提なので、みんなが知らないものは作れないんですよね。よくあるお問い合わせで「新しい商品のパッケージを見立ててほしい」というのがあるんですが、みんなが知らないパッケージを見立てたところで、「あのパッケージがこんな形になったのね」という発見がないからおもしろくないわけですよ。だからある程度世の中に浸透している題材でないと難しかったりはしますね。

三井 私の場合、たとえば水や炎など、具体的な形が定まっていない有機的なものは難しいです。抽象的で幾何学的な形などはレゴは得意なんですが、そこからずれてカオスが入ると一気に難しくなります。

田中 以前モザイクの絵画のようなものを作っていましたよね。あれはレゴの域を超えていてものすごく大変な気がするんですが……、クライアントがレゴでないといけないと思ったんでしょうか。

三井 あの場合は引きで見たときと寄りで見たときのギャップや驚きがあって、遠くから見るとただの絵なんですが、近づいて見るとレゴでできているという気づきがおもしろいところです。それはそれでひとつのコンテンツとしてありなのかなと思います。

『風神雷神図屏風』

見立て作家の世界を見る視点

──「見立て」という言葉は一般的に日本文化の特徴のように使われることが多いと思います。お二人は海外でもご活躍されていますが、特に国内と国外で反応の違いなどはありますか?

田中 ないですね。それがいいことだと思うんですよ。たとえば昔はマスクを作品にしても、マスクを着ける習慣がない国の人はあまりピンときていませんでした。しかし今はマスクを作品に使うとほぼすべての人が理解してくれるように、国境を越えてどんな人ともわかりあえるものはあるんだと感じられます。

三井 レゴの場合、作風には国の違いが出ることはあって、たとえば日本とアメリカでは住宅事情が違い、アメリカのほうが広いスペースを取りやすいのでサイズの大きな作品にチャレンジする人が多いというような傾向は当然あります。あるいは日本ではロボット作品を作る人が多いなど、作品の題材選びに国民性が現れることはあると思います。ただ、鑑賞する側としては田中さんのおっしゃるようにどの国でもその楽しみ方や感性のようなものに差はないのではないかと思いますね。

田中 「どの国の人が見ても伝わるように」ということは作品をつくるときにも意識します。またそれ以上に強く意識しているのは、子どもが見ているということです。展覧会にはたくさんの親子連れの方が来られますし。

──見立てそのものは文化に規定されない、人間がもつ普遍的な作用だということですよね。では、その視点を使って日常的にどんなおもしろいことができるのか、あるいは日常的にどんなことをしていれば「見立て力」のようなものが身につくのかをお聞きできればと思うのですが。

田中 そうですね。たとえば空を眺めながら散歩しているときに、雲が怪獣に見えたりするときがあるじゃないですか。子どもと散歩したり、犬と散歩したり、そういった心に余裕があるときにアイデアは思いつきやすいです。仕事に追われて残業をしているようなときには、そんなことを考える必要はないわけだから、見立ての視点や遊び心のような部分を育てるのであれば、もっと余裕を持って余計なことをしたほうがいいのではないかという気がしています。「必要なこと」や「他人の情報」などに追われているかぎりは、自分の中の遊び心のような部分にはたどり着けないのではないでしょうか。三井さんはどうですか?

三井 私は途中でお話ししたように、ものの共通項を見つけていく作業をするといいかなと思います。世の中で良いとされているものにはいろいろ理由がありますが、おそらくその中には本質的な良い要素というものがちりばめられているはずです。それを抽出するためには、たとえば「ビルの特徴的な部分は何だろう」とか「こういう要素が入っていたらビルらしく見える」というようなことを常に意識しているといいと思います。自分の中での答え合わせではないですが、長年「なんとなくいいな」と思っていたものについて「なんで良いのか」と理由が言えるようになって、それをまたさらに表現につなげていけるというのが楽しいところかなと思います。

田中 共通項を見つけられると気持ちいいですよね。トイレなんかもそうで、どの国に行ってもトイレはあの形じゃないですか。それはやはりどんな人間でもああやって座ってするほうが用を足しやすいのかなんてことを考えます(笑)。

三井 それは私も思ったことがあります。たまに特徴的な構造をしているものもあって、「なんでこんな形にしたんだろう?」と考えこんでしまうことも(笑)。

田中 この話で思い出しましたが、外国では大小の流すボタンの大きいほうは、そのサイズもでかいんですよね。小さいほうが小さくなっていて、何の文字も書かれていないんですがわかりやすいなと思って。日本だと文字で判断するしかないからわかりにくいと思うんですよ。……少し話が脱線しているかもしれませんが(笑)。

三井 (笑)。

田中 でも、こういう直感的にわかる部分はすごくヒントにならないですか?

三井 そうですよね。いろいろな人たちが考えてそれを良いとした、というところがあるわけで、その過程では絶対に何か要素を抽出する作業があったはずですし、それを想像したり答え合わせをしたりするのも楽しいです。

──たとえばレゴは『マインクラフト』や三井さんも巨大パックマンをタイアップ制作された映画『ピクセル』などのように、デジタルのドット絵表現と近しいものがあると思います。しかしあえてデジタルの表現ではなく、物理的な事物を物理的なもので置き換える見立ての力を育んでいくことで、世界の見え方がどんなふうに変わるのかといったことについても、さらにお伺いできればと思うのですが、いかがでしょうか。

三井 レゴに関して言うと、たしかにデジタルとは非常に相性が良くて、特にサイズの大きい作品を作るときにはよりその傾向が強くなります。なぜなら小さければ小さいほど人間の見立て能力に依存するようなところがあるからで、大きい作品はブロックの数と精密さがある程度比例関係にあるので、ある意味数の暴力のようなところで補える部分があります。膨大な数のブロック配置を設計するうえで、大きい作品はコンピューターと相性がいいというわけです。

 私以外のプロビルダーの中には、大きい工房を持っていて、それこそ立体ドット絵のような作品をたくさん作っている方もいます。パソコンで設計をし、その設計図通りになるように組み立て作業は別の人に任せるというようなやり方をしている場合もあるんです。そのように効率化を図れば会社の規模も大きくしていけるというメリットはあるんですけど、そうすると作品としてのオリジナリティが出しにくくもなってしまいます。

 だから私は立体物に関してはパソコンを使わずに作って、見立ての要素も必ず作品に入れるようにしているんです。たとえば今はAIがよく話題になりますが、サイズが大きめのジャンルに関しては、将来的に設計をAIに任せてしまったほうがいいのでは、というようなことも言われます。だから自分としては、そうではないところをしっかり残しつつ活動していくことがレゴビルダーとしての生存戦略かなと思ったりします。

田中 いま三井さんがおっしゃったように、設計や形の部分ではAIをはじめとするデジタルな部分に任せたほうが絶対良いと思うんですよ。似ている形を演算的に見つけるのはAIを使ったほうが簡単なわけですよね。

 ただ、そこに物語や意味が入ってこないかぎりはあまりおもしろくならないんですよね。たとえば僕の作品には、餃子を切り開いて手術している場面を表現した作品があります。あの餃子自体は、実際の手術を受ける患者とまったく似ていないですよね。ただそこには、餃子の皮で肉を包むという行為と、手術で肉体を切り開くという行為とを見ている人が、両者をなんとなくリンクさせてしまうという想像力があるからこそおもしろいわけじゃないですか。その作品はけっこうバズったんですが、これをAIに考えさせようとするのは100%無理だと思います。仮に考えられるようになったらそれはもう人間ですよね。そういった感覚的に「人間がこれはおもしろいと思うだろうな」というように想像力で補う部分を考えるのはデジタルにはできないと思いますし、むしろその部分を表現していくのが楽しみでもあるんですよね。

『餃子の整形手術』©Tatsuya Tanaka

──なるほど、ありがとうございます。いまお話を聞いていて思ったのが、ちょうど『PLANETS Vol.9』の表紙が三井さんに制作していただいたザハ・ハディド案の東京オリンピック会場なんですが、あれが今となってはもう三井さんの作品にしかない、この世に唯一かもしれない「実在」のザハ競技場になっているわけです。ザハという人はもともとコンピューターシミュレーションによる構造設計を武器としていたわけですが、いまお二人がおっしゃったように形を設計する分にはコンピューターが担当したほうがいいんだけれど、最後には人間の目で見て作ることによって「見立て」の力が作用する。そのことを、まさにザハのアイデアから実践してもらったのはきわめて批評的な意義があったんだなということを、しみじみ感じます。そこでは田中さんがおっしゃるように、単に形が似ていることを発見するだけではなく、それが持っている文脈や物語のようなものを見出す想像力が乗ることにこそ見立てのおもしろさの本質があるのだということに、改めて気づかされました。

 これを機に、今後なにかお二人のコラボレーションのような機会につながればいいなと、一ファンとして期待しています。

田中 そうですね。次は実際に、レゴの「寿司」を作りながら(笑)。

三井 そのときはパーツを用意していきますよ(笑)。

田中 うちの家族で、三つのパーツだけで何かを見立てて作りそれが何かを当てるというゲームをやっているのですが、それもやりましょう。全員参加で(笑)。

(了)

この記事は、山口未来彦、中川大地が聞き手を、徳田要太が構成を務め、PLANETSのメルマガで2021年9月29日に配信した同名記事をリニューアルしたものです。あらためて、2021年11月11日に公開しました。
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