2013年のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』の放送から10年。東日本大震災後の岩手県久慈市を舞台に、宮藤官九郎のオリジナル脚本による物語で社会現象的なブームを巻き起こした本作は、現在の朝ドラ隆盛を築いた歴史的名作として、現在も多くのファンに愛されています。ちょうど今年4月から本放送当時と同じタイムラインでの再放送もされていたさなかの秋、ロケ地・久慈では、大友良英スペシャルビッグバンド with のんによるコンサートをはじめ、10周年を記念する数々のファンイベントが行われました。
コロナ禍を経て久々に全国の『あまちゃん』ファンたちが結集したこの機会に、かつて文藝春秋×PLANETSのコラボ出版『あまちゃんメモリーズ』の副編集長を務めた中川大地も参加。そこでの旅路から持ち帰った本作のファンムーブメントにまつわるある思いを、10年越しの編集後記として綴ります。
端的に言うとね。
10年目のあまちゃんオフ会、北へ
去る2023年9月22日から24日にかけて、当時NHK BSプレミアムで再放送されていた朝ドラ『あまちゃん』の最終週に差しかかる直前の週末、久方ぶりに同作のロケ地・岩手県久慈市を再訪してきました。
秋分の日をまたぐこの三連休は、久慈市文化会館アンバーホールで23日に行われた大友良英スペシャルビッグバンドによる「あまちゃん10周年スペシャルコンサート」に主演ののん(能年玲奈)さん、宮本信子さんが駆けつけるというビッグイベントを中核に、コンサート前後には、前夜祭として「盛岡で前夜祭!久慈あまちゃん10周年スペシャルコンサート楽しみの会」や、翌朝出発の三陸鉄道北リアス線(ドラマ劇中の「北鉄」)ツアー「祝!あまちゃん10周年 あまちゃんファン遠足9.23」、そして北三陸「あまちゃん」観光推進協議会主催の「あまちゃんサミット2023 あまちゃんファンのつどい」など、地元有志による手弁当の関連イベントが複数開催。全国から『あまちゃん』仲間たちが久々に“聖地”に集結するという、満を持しての機会になります。
おりしも、当時再放送していた『あまちゃん』第25週「おらたち、いつでも夢を」の展開はといえば、東日本大震災を経て地元に帰ったアキちゃんを追うようにして、東京編の登場人物たちが続々と北三陸に集まってきていたタイミング。古参ファンにとってはコロナ禍を経ての念願の再会、今回の再放送や配信などで最近ファンになったという新規さんにとってはドラマと現実が繋がるような2010年代を代表する伝説のコンテンツツーリズムの醍醐味をついにリアルに体感できるという、実に夢のような3日間だったわけです。
こうしたタイミングでのロケ地巡りは、僕にとってはまさに原点回帰。
10年前、2013年の『あまちゃん』本放送時、PLANETSが編纂したファンブック『あまちゃんメモリーズ』の副編集長として記事制作のため初めて久慈市を訪れたのが奇しくも本放送最終週目前の9月下旬で、このときも能年玲奈さんと宮本信子さんが久慈秋祭のゲストとして同地をサプライズ訪問し、街中が大騒ぎになっていたおりでした。
このときの訪問の舞台裏は当時のウェブ記事にも記しているのですが、いろいろな偶然が重なって、まさに「あまちゃんの神」に導かれたかのような取材になり、このときの出会いがのちに全国のあまちゃんオフ会のファンコミュニティが結び合わされていく起点になっていたりもします。
そんな原点を思い返しながら、ともに齢を重ねてきた『あまちゃん』ファン仲間たちとともに過ごしたイベントはどれも格別で、今だからこそ話せるようになったのだろう現地の関係者たちによる撮影当時のエピソードや、逆に10年前にはありえなかったシチュエーションとか見えなかった風景を共有できたのは、かけがえのない時間でした。
海を見に行く
こうして、岩手の地元の人々によるホスピタリティあふれるイベントの数々が行われた最終日にあたる24日の朝、市のオフィシャルな催事の締めくくりとして久慈市街から劇中の「袖ヶ浜」のロケ地である小袖海岸への道を走るファンラン「第8回久慈あまちゃんマラソン」が開催されるなか、たまたま街中で行き会った仲間たち(東京から岡野肇さんのマイカーで同乗してきたあま唄・あま音バンドメンバー)の自動車に便乗させてもらい、マラソンコースを迂回した陸中野田の山中を走るルートを選びながら、僕たちも北限の海女たちが素潜りの実演を行う海岸へとドライブしました。やはりこの海の景観に包まれることなしに、『あまちゃん』の旅を締めくくることはできません。
そして、北三陸観光大使で「可愛すぎない海女」こと藤織ジュンさん(彼女は『あまちゃん』終了よりだいぶ後の2015年に東京から久慈に移住したキーパーソンで、継続的な活動で現地の若い世代の観光海女たちの開拓役になったりもしているもよう)らによる迫力のウニ採りを見届けたり、ストーブさんがバイトしていたという設定の監視小屋まで山合の急斜面を上ったり、『あまちゃん』劇中の「海女カフェ」の顛末をなぞるようにドラマ放映後にリニューアルされた小袖海女センターの屋上で劇伴「海」や「灯台」を気持ちよく演奏したりして、この旅最後の昼下がりをしみじみと過ごします。
▲小袖海女センター屋上で、勝手あま音バンド一行がこの旅最後に演奏したサントラ曲「灯台」。ドラマを彩った堤防の先のあのシンボルを遠く眺めながら。
そんな一方、小袖海岸と久慈市街の中間地点くらいにある久慈港のあたりで開催されていた久慈あまちゃんマラソンの閉会式後、昨日のライブを大盛況のうちに終えた大友良英さんたちビッグバンドの面々が、地元高校の吹奏楽部やよさこいチームの演奏に混じりながらサプライズLIVEを行っていたという情報が、マラソン見届け組の仲間たちから入ったり。
「それならワンチャン、大友さんたちがこっち(小袖)に足を延ばす展開もあるんじゃないか」的な淡い期待も抱きながら、まったりだらだらと午後を過ごすなか、そろそろ帰路の刻限を意識しだした仲間たちが、翌日の仕事の都合や遠方から来ている順にその場を後にしていく時間帯に差しかかってきます。
まだ日が落ちていく気配もないのに、早めに帰り支度をしないと足がなくなってしまうのが久慈というロケーションのお土地柄。結局、大友ビッグバンドが小袖の海を訪れるようなこともなく、一人また一人と各種交通機関で市街に戻っていく面々を見届けながら、この10年で何度となく味わってきたマツリ終わりゆく『あまちゃん』オフ会終盤ならではの寂寥感が、だんだんと漂い始めてきていたのでした。
あの海の向かいに広がる、ドラマの外側の風景
ただ、離脱する仲間たちとの時を惜しみながらも、この旅のあいだにやっておきたかった自分なりの儀式についての思いが、しだいに頭をもたげてきます。
10年前、『あまちゃんメモリーズ』のロケ地取材のため初めてこの地を訪れ、最初に行った聖地巡礼行動として久慈市街から小袖への8km弱をあえてウォーキングしたときの行路の逆回転。海から街へと戻る道を、もういちどこの脚で体験し直してみたいなと。
このとき僕が、どうしても体験し直してみたかった景色とは何か。
朝、車で小袖海岸にやってくる際、陸中野田の迂回ルートの山道を走っていたとき、今回初めて久慈を訪れた同行者のうるめいわしさんが「流れている川が全部滝みたい」という感想を言っていたのだけれど、これが本当にそう。海岸沿いを歩いてると、山側の繁み越しの随所にも小さい滝がちょろちょろと流れ落ちているのが見えるのです。
で、その滝のそばには彼岸と此岸の境目を祀るようにして、小さな神社や祠があったりする。このあたりは人類学者の中沢新一が『アースダイバー』などで喝破していたように、神社のある場所は大抵ミサキやミギワの縁であり、陸と海、生と死といった境界性をめぐる、縄文海進期あたりから形成されてきたと思しき原日本人的なメンタリティの痕跡が見受けられるような気もします。
それらの山と海の端境神社のハイライトとなるスポットとして、久慈港から長内町の市街のほうに向かう山側の久慈港を望む高台に、義経伝説の残る創建300年くらいの諏訪神社がある。
かなり立派なご神木たちの立ちならぶ、久慈市指定文化財にもなってるだいぶスピリチュアル味のあるパワースポットな感じです。
その向かい側の海岸にはすわ緑地という海辺の小公園があり、久慈湾開発起源の碑が立てられているんですが、さらに3.11後は津波襲来の碑や“ケルン・鎮魂の鐘と光”なるモニュメントが築かれており、海がもたらした直近の慰霊イベントにひもづけられたロケーションになっている。
こうした『あまちゃん』の映像に抽出された軽妙な世界観からはこぼれ出る現実感のバックグラウンドを体感できたことが、僕の10年前の『あまちゃんメモリーズ』編纂過程での何よりの衝撃でした。言うなれば、夏ばっぱが体現する海側の世界と、勉さんが体現する山側の悠久の歴史を重ねた世界とが、1984年から始まる人里の北三陸鉄道をめぐるドラマの中で邂逅するという重層的な世界観の神がかった的確さに、改めて打ちのめされてしまったわけです。
この10年の流れとカタクンのこと
そして、今回の旅のどこかで、この小袖~久慈の行路を、改めて自分の足で再び歩いてみたかった理由が僕にはありました。それは、去る2022年12月20日、かねてからの心臓の持病であまりにも早く天に召されてしまった、あまちゃんオフ会の常連メンバーで同年代の友人・カタクンこと片山崇之さんへの、個人的な追悼の儀。オフ会への参加やのんさんの推し活を通じて、常に健康リスクを意識せざるをえなかった天国の彼に明け渡すつもりで、10年前のストレンジウォークで気づかされた『あまちゃん』を育んだ土地の体感を、もういちど自らの身体でトレースしてみせること。それが、たまさか天の恵みでそこそこ頑健なフィジカルとメンタルを与えられていただいた自分にできる、何よりの手向けではないかと考えたからなのでした。
僕がカタクンと最初に同じ空間を共にしたのは、2013年9月28日、漫画家のなかはら・ももたさんが主催した、新宿パセラでの『あまちゃん』最終回前夜からの見届けオフ会でのこと。
当時はまだTwitter(現:X)の空気が今ほどには荒んでおらず、朝ドラへネガティブ評価で「反省会」タグが噴き上がるようなこともなく、ごく純粋に好きなものを通じてファン同士が繋がり、同じ場を共有することへのハードルが低かった牧歌的な時代で、この席には『あまちゃんメモリーズ』への寄稿依頼をしていた片渕須直監督の姿もありました。
実はここでの縁が、3年後に「のん」として独立する能年玲奈さんが映画『この世界の片隅に』の主演声優として抜擢されるという、のちの経緯に繋がっていたりもします。
そして最終回放映後のあまロス冷めやらない機運のもと、同年11月16日に関西あまちゃんオフ会を主催したホリーニョの活動を契機に、SNSでの呼びかけを通じて全国でのあまちゃんオフ会が盛り上がっていくなか、常に優しい人柄で仲間たちを和ませてくれていたのがカタクンでした。
多くのファンコミュニティでありがちなこととして、人やコンテンツへの推し方やスタンスの異なる他者の発信やふるまいを許容できず、ファン同士が反目しあったり党派的な分断が起こったりという事象は付き物になっていますが、彼はそうした不毛さからは最も縁遠いところにいました。
誰に対しても分け隔てなく接することができ、ほとんど誰からも嫌われることがなかったであろうカタクンの存在感は、SNSの荒み具合とともに暗黒面が顕著になっていった推し活カルチャーの劣化に対する、何よりの抗いであったようにも思えてなりません。
のんさんが旧所属事務所とのトラブルで表舞台に出られず、大手芸能事務所への忖度メディアによるネガティブキャンペーンとそれに対抗するカウンターナラティブが飛び交っていた喧しい時期にも、彼はぶれたり煽られたりすることなく、自分にできる応援だけを粛々と続けていました。『この世界の片隅に』主演抜擢の逆転劇や、自らレーベルを立ち上げてミュージシャンとしてのデビュー後のライブ、台風被害で久慈が再び被災したときの慰問、それに主演映画での銀幕への復帰など、この10年を通じて彼女に転機が訪れるたび変わることのない情熱で体力の許すかぎり現場に足を運び、陰ながら旧習を打ち破るその選択を支え続けてきたのです。
あるいはプロの漫画家やイラストレーターたちが美麗な「あま絵」をSNSに次々とアップしていくさまに素直に憧れ、やがて自分でも初めてファンアートに挑戦。素朴ながらもこつこつと描き続けることで徐々に自分の持ち味を確立して、のんさんをはじめとする『あまちゃん』ゆかりの演者たちへの応援メッセージにも積極的に添えられるようになった彼の個性が滲み出たイラストは、久慈駅で見た「三陸元気!GoGo号」の車体にも残されています。
言うなれば、2013年的な推し活の善性そのもののようだったカタクン。彼との早すぎる別れを悼む気持ちは、この旅に参加した近しい仲間たちの多くにも共有されていて、今回のツアーのコンセプトの1/3くらいは、この世界のフィジカルでは一緒に過ごせなくなってしまった彼との旅をこれからどう続けていこうかという思いが少なからずあったと思っています。向き合い方は、それぞれながら。
僕についてはそれが『あまちゃんメモリーズ』掲載のロケ記事「北三陸ストレンジウォーク」の準備取材行路の逆回転だったわけですが、思えば10年前に初めてこのルートを歩いたとき、海を望むこの景色から思いを馳せさせられたのは、名も知らぬ3.11の犠牲者たちのことでした。
しかし今ではそれが、カタクンのみならず先に旅立っていった人たちの具体的な名前に否応なく置き換えられてしまっている。このことに気づかされたのが、今回の旅の何よりの収穫だったようにも思います。
だからこそ、改めて目にする海と山の風景たちへの気付き直しと愛おしみが段違いで、この旅の最後の日没を見届けながら、久慈を発つことができたのは本当によかったな、と。
旅のおわりと続いていく物語に寄せて
旅を終えて帰京してから約2ヶ月後、『あまちゃんメモリーズ』執筆陣の一人であり、作家・コラムニストでアイドル評論家の中森明夫さんが、自身のアイドル人生の一つの集大成となる新著『推す力 人生をかけたアイドル論』を上梓しました。
中森さんといえば、僕らPLANETSにとってはインディーズマガジンとしての創刊当初から目をかけていただいた業界の大先輩で、『あまちゃん』放映当時にもその魅力をSNSでひろく伝えるインフルエンサー的な役割を果たしていた一人。ホリーニョが最初の関西あまちゃんオフ会を主催した際、僕と一緒にトークイベントに登壇し、以後10年続いていく『あまちゃん』ファンコミュニティとも気さくに縁を結んでいただいて、ともにのんさんの応援を続けてきた盟友でもあります。
2023年に入ってからの中森さんは、旧ジャニーズ事務所の性加害問題を受けての日本のアイドル文化のあり方への批判を引き受けながら、その悪弊の解体と是正を呼びかける発言を続けていて、『推す力』はそんな文脈もふまえて出された本でもあるようです。
そして『あまちゃん』というドラマもまた、あくまでフィクショナルなコミカルさでコーティングされてはいるものの、若者の夢を食い潰すアイドル文化や芸能界の負の側面を諷刺した物語でした。そこには10年後の状況を先取りするかのような予見性が見出せるのは当然として、天野アキという虚構のパーソナリティを脱ぎ捨ててからの能年玲奈=のんの軌跡が周囲のプレイヤーを巻き込みつつ、まるで『あまちゃん』の物語の先の展開を具現化するかのように、日本の閉鎖的な芸能事務所システムの問題にメスを入れるためのロールモデルになっていった点にこそ、にわかには信じがたいほどの現実批判力があるのではないかと思います。
すなわち、旧来の所属マネジメント型一辺倒のスタイルから脱却すべく、独立後ののんがスピーディ社と交わしていたエージェント契約型の導入が旧ジャニーズ解体再出発にあたってのキーイシューとして取り沙汰され、彼女の再出発に一役買った福田淳氏という直接的なキーパーソンの抜擢をともないながら、現在進行形で日本芸能界の中核部が変えられようとしている。
それは前向きな変革と捉えるには、あまりにも契機となった犠牲の規模が甚大で悪質すぎたし、かつこの国のエンタメ産業が立ち直るための一歩の踏み出しとしては、どうにも遅きに失しすぎているのかもしれません。
ただ、それでも『あまちゃん』で好きな何かを推すために別の誰かとつながり、その舞台となった土地を実際に訪れることでドラマの虚構を現実の自分事に変えていくことの愉しさを教えてもらった一人一人であれば、眼前で繰り広げられている現実が、どうやらまだ終わっていないらしい「あの話の続き」なのだと捉え直すこともできるのではないか。そんな見立て方は、僕たちの世界が生きるに値するものだと信じ直すうえで、存外力になるのではないかと思うのです。
『推す力』刊行に際してのインタビューで、中森さんはアイドルを推すことの本質について、こんなふうに総括しています。
最後に「アイドルを推すことは未来を信じることだ」と書いた。僕自身は結婚しないし、子どももいないんですけど、普通だったら老人は自分の孫はかわいいって言うじゃないですか。自分は死ぬけど、自分の遺伝子が残るから愛が強い。
僕は孫はいないけど、自分の推しているものの未来がどうなるんだろうかということで希望が持てる。「推す」ということは血のつながりのない誰かに、希望を託すことなんですね。
今は独身男性が増えている。都内だと4人に1人の男性が生涯独身で終えるともいう。でもアイドルでなくても自分が好きなものがあれば、自分の住んでる街や場所、時代とか仕事を託せる。「推す」という言葉にはそういう意味合いもあります。
(出典:「アイドルを推すことは未来を信じることだ」ジャニーズ、宝塚といった伝統の崩壊…中森明夫がそれでもアイドル文化はなくならないという理由[集英社オンライン 2023年11月29日])
それはまさに僕たちが接してきたかぎりのカタクンの生きざまが、何よりも雄弁に示していたこと。さまざまな暴走や頽廃の弊害リスクを孕んでいながらも、なお「推し」という文化が尊さを失わずに済むために、立ち返るべき原点となる感性に他なりません。
時代の趨勢や外圧に後押しされてのやっとの微動ではあったのは間違いないにしても、その向かい先の轍をうがった『あまちゃん』とのんさんの逆転劇に端を発する国産エンタメのぎりぎりの自浄作用の背後には、人生の残り時間をかけて未来への希望を託したカタクンのようなひそやかな推し活者たちの思いも、確かに乗っていたはずなのです。
だからそう、いずれ順不同に向こう側に旅立っていくことになるだろう僕たちが、先に待つ彼らにそれぞれの土産話を持ち還れるようにするためにも、しかと見届けていこうじゃないですか。この現実という、あの話の続きを。
(了)
この記事は、2023年12月20日に公開しました。