オリンピックとスポーツをゲームデザインから捉え直す

中川 2020年の東京オリンピックに対して、具体的にはどのようなオルタナティブが設計できるのか。そこにゲームデザイナーの視点を導入したときに、具体的にどんな競技ルールの創出や大会レギュレーションの提案ができるのかを、この座談会では議論していきたいと思います。
 特集全体の問題意識として、ありていに言えば「オリンピックって一部の選ばれたアスリートが国を背負って競い合ってるけど、よく考えてみればそれって俺たちと関係ない世界の出来事だし、どう面白がったらいいのかわかんないよね」という気分が通底しています。
 かつてであれば、国家というメンバーシップが強固だったので、競技そのものに興味がなくても、圧倒的に多くの人が勝負の帰趨に対して「自分事」のように熱狂することができた。もちろんその回路は今もそれなりには機能してはいますが、そこから外れる人々の割合が無視できない規模に大きくなってきている。
 そうなったときに、メディア技術やノウハウの工夫で国家というレガシーウェアとは別の回路でスポーツ競技やアスリートとのエンゲージメントを作り、参加意識を高めようという提案を、ここまでの誌面では行ってきました。
 それに対して、近代スポーツそれ自体に、もっと直接的にメスを入れて新しい競技を生み出したりしながら、スポーツ文化そのものを組み換え、拡張していくにはどうしたらいいか。そういう問題設定で話し合っていければと思います。

井上 これは、多様な身体の持ち主が一同に会しても公平に競える方法を提案した僕の「拡張パラリンピック計画」(5/5公開予定)とも通じる話なんですが、オリンピックで競われる近代スポーツのような「うまいやつだけ勝つゲーム」というのは、ゲームデザインの立場からすればクソゲーとは言わないまでも、なかなか商業的な成功が見込めないマニアックな作品だということになりますよね。もちろん、そういう究極を目指す大会はあっていいですが、それだけがスポーツというものを代表してしまっていいのか、ということだと思います。

犬飼 もちろん、いいわけがない。僕がとある3Dの格闘ゲームを作った時のことなんだけど、ゲームデザインを一生懸命やったわけです。で、僕は作ってる最中からプレイしているわけだから、当然、僕はうまくなるよね? それでリリースしたら、結果的に僕だけが、すげえうまいプレイヤーになっちゃって反省したよ(笑)。「みんなにはこの方がいいだろう」と思ってみんなのために作ってたつもりだったのに、いつの間にか僕に特化されたゲームになってたということを感じちゃった。そうならないようにするには、どうしたらいいかというのが、ビデオゲーム作りの場合は基本だから。

簗瀨 僕が開発した「誰でも神プレイできるシューティングゲーム」は、誰がやっても同じくらいの成功率になるように作ったんですよ。たとえばカウンター攻撃にしても、うまい人は受付時間を短くして最終的に1割失敗するようにするし、下手な人には受付時間を長くして成功率を上げると、大体みんな似たような気持ちよさになる。若干難しいのは、きつめの設定が好きな人と、逆の人もいるということ。
 チームスポーツのように複雑に動作が連なり合うものは、結果的に運の要素があるのと一緒です。野球も、同じところに正確に投げ続けることができないから成立する。サッカーもそうで、そうした意味ではチームスポーツとか、複雑な動作が連なり合うものというのは、運があることと一緒になりますよ。私は楽しめるゲームには「ランダム要素」が入っているというのがすごく重要だと思いますね。

中村 ランダムというと、「すごろく」というのはすごいゲームです。すごろくは昔、親戚が集まった時に行われていました。下は3歳から上は中学生ぐらいのお兄ちゃんまでの年齢の違う子供が集まって、なんと「全員」で遊べる。現代で言えば、たとえば『マリオパーティ』です。『マリオパーティ』は小さい子と大きい子が一緒に遊ぶためのすごろく代わりのゲームなので、結局さいころを振るんです。多少は自分の腕も影響するけれど、最終的には運というものの要素がかなり強くなることで、小さい子でも勝つチャンスがあるし、大きなお兄ちゃんもがんばらないと勝てない。だから全員が楽しめる。

簗瀨 麻雀が将棋よりも楽しみやすいのは、運の要素があるからですね。将棋は弱い人が偶然に勝つことはほぼないですから。

中村 一般的に、いわゆるプロの競技者が求める「公平性」は、ランダム要素の少ない方だと思うんですが、みんなが楽しめるのはランダム要素の多い方になるわけですよね? ここに矛盾があります。そして実際のスポーツ競技の発展の歴史では、アメフトのボールのように、わざわざ運の要素を持ち込むような予測不可能な形状を導入したりする。これに対してプレイヤー側の行動としては、極力ボールの挙動の運任せのランダム性を抑えて、コントロール下に置こうとする方向に、自分の身体とか戦術とかを習熟させていくわけですね。この葛藤の中にスポーツがスポーツである醍醐味が生まれる。

中川 ここで考えなければいけないのは、「運」と「ガチの実力争い」の間にあるものだと思います。やはりトライアスロンや十種競技では、それぞれのプレイヤーたちが何らかの習熟を目指すわけです。それらは見る側からすると運の要素ではありますが、プレイヤーにとってはチャレンジングの意識に他なりません。そうした部分を、「運」以外の言葉で説明できないものでしょうか。

簗瀨 それはルール設定によって言い換えられるかもしれません。たとえば「ロボコン」のルール設定のミソは「完全には確立されていない技術を使ってチャレンジさせる」ところにあるんですよ。というのも、基本的に対戦なので、誰でも考えつく技術を使った場合は簡単に防がれてしまうんです。なので、みんながそう簡単には想定できない状況をルール設定する。するとプレイヤーは今までになかったものを作るか、もしくはどんなものが来ても完全に対処できるように作るかということになる。

犬飼 2020年への提案としては、やはり電子コンピューター等の近代的な道具を使ったスポーツですよね。さっきランダム要素の話が出ましたが、そういった道具を使ったゲームをデザインしていくには、ランダム要素ではなく「確率」としてスポーツを捉えると作りやすいと僕は思ってる。「全てがランダム」というとどこまでもランダムになっちゃうから。たとえば今の数学や量子論は全て確率として捉えている。人間も環境も含めて世の中の全ては確率で存在しているという考え方をする。センサー等で人間の動きをとらえることともそうですが、環境もまたシステムの一部であるという捉え方をする。そのうえでゲームデザイナーは、プレイヤーがどんな事象を「遊ぶべき確率」と認識しているのかを分解していきカウントする。
 こうしたプロセスで、たとえばランダム要素の少ないスポーツを数学的に捉えてリデザインしていくと、ゲームデザインとして評価しやすくなるというか。さらに多くのプレイヤーや視聴者を巻き込んで「遊ぶべき確率」を導き出せるようなものができると、たぶん観客とプレイヤーがバランスを取りながら、みんながある程度、納得して遊べるものに近くなっていくと思います。
 とはいえ自然というか、すでにそこにあるコストの低いランダムネスをうまく取り込まないと、とんでもないコストのかかるゲームにはなっちゃうとは思いますが、こういう基礎的なことはとても重要だと思います。

簗瀨 つまるところ、最終結果がランダムでありさえすればいいと思うんですよ。というか人間がやる限りは絶対にどこかにランダムの要素が入るんだけど、特に集団競技ってそれが強いですよね。要は「全員が成功率99%でも、チームメンバー11人が行動した場合は?」という話になるわけですから。そうすると成功率は70%ぐらいに落ちますよね。

井上 ランダムかランダムじゃないかというよりは、観客側にとってみると、予測できるかどうか、ということですね。だから観客は最後まで見続けることができる。

簗瀨 そうですね。一定の予測範囲内かつ、一定の予測の範囲外に収まるということですよね。つまり起こると考えられる全ての事象の中にありながら、どこに着地するかは完全には分からないということ。

中川 裏を返せば、選手の個々人の身体というミクロなレベルでの主観的な決定論性と、そこに他の選手や競技器具やフィールドなどがもたらす一段マクロなレベルでの予測不可能性が一定のバランスで両立するような、「カオスの縁」みたいな系が作れれば、それはスポーツになりうるってことですよね。既存の競技は歴史的なセレクションでたまたまそういう状態を見つけてきたわけですが、その状態をより設計的に構築したり評価したりすることで、スポーツのあり方は拡張していける、と。

犬飼 とまあ、ゲームデザイナーってこういうことばっか議論しているわけですよ(笑)。いわゆるゲームデザインを一般的なスポーツに応用するような、僕たちみたいな職業の人もいるし、井上さんみたいな研究者もいる。そしてコンピューターやゲームに関する学校も充実してきているから、2020年ぐらいになったらゲームデザインの考え方をパラリンピックでもオリンピックでも使えるような人がもっと増えてるといいな、というのが提案として僕が根本的に思ってることかな。
 パラリンピックやオリンピックをゲームデザイン的な見方で見れると、競技や勝敗も、より科学的な文脈から見れたり語れたり、批評できたりするようになると思う。

「決着」をめぐる議論と「参加することの意義」への再考

中川 ガチの実力=決定論とランダム=単純確率論の中間状態のありようをもっと多様にしていくのがオルタナティブ・スポーツの方向性だとして、もうひとつの論点として出てくるのが、勝敗の決着をつけることと、それによるメダル争いとか世界ランキングみたいな序列化をどう捉え直すかですね。

中村 「本当に決着をつけなくちゃいけないんですか?」という話になると、僕が思い出すのは小学校の頃に先生に教わった、「オリンピックは参加することに意義がある」というクーベルタンの言葉ですね。でもそれって空虚な建前の代名詞になっていて、今のオリンピックで銀メダルを獲って悔しがっている選手を見るにつけ、参加の意義とは何だったんだろうということをよく感じます。

犬飼 当時は参加する国が少なかったんですよ。実はクーベルタンは自腹でいっぱい国を集めて大会をやろうとした。でも、あまり集まらなくて、「とにかく参加してください」と言いたかった。その時に苦肉の策で出たスローガンが「参加することに意義がある」だったんです。その言葉を聞いてるプレイヤー側としては、「それでもいいなら」「とりあえず行こうか」という気分で参加してたわけ。だから、元々からして勝ち負けにこだわらない崇高な理念なんかじゃなかった(笑)。

井上 そのあたりは、非常に様々な議論があったらしいです。20世紀中盤ぐらいまではオリンピック委員会(IOC)自体のアマチュアリズムがすごく強かったんですよ。「プロ選手は出るな」といった風潮でした。例えばプロ選手としてオリンピックで金メダルを獲った選手がCMでお金をちょっと受け取ったとなると「ありえない。メダル剥奪だ」と判断されていたほどなんですよね。だから、最初の頃は世界一を決めると言うよりは、アマチュアリズムの発露であるというイデオロギーが大きかった。つまりIOCはアマチュアリズムによる平和の祭典を実現するために存在していた。
 しかしそれが1980年ぐらいから商業主義と結びつかないと運営コストが払えなくなり、平和の祭典は変わらないけれど、アマチュアリズムは1970~1980年代ぐらいから限界を迎えて「最強を決める祭典」がモチベーションになってきているところがある。オリンピックはある意味で、現実に負けたところがあるんです。

犬飼 オリンピックは「誰が世界一か」「金メダルをどこの国が一番獲るか」といった大きいゲームとしてデザインされてきているというのが根本的にある。その一方でビデオゲームの世界を見てみると、僕らは明らかに商業の中でビデオゲームと向き合っている。そして最近のプロのゲームデザイナーたちが集まって議論していることは、繰り返しになりますが「誰かが一方的に勝つようなゲームデザインってどうなの?」ということなんです。

簗瀨 そうですよね。我々はなるべく裾野を広げたいので、いわゆるトッププレイヤーだけがおもしろいゲームは作りたくない。少なくともゲームの世界では、競技性が強いものと弱いものと、いずれも視野に入れなければダメなんですね。『HALO』のようなゲームはいわゆるトッププレイヤーがハイレベルな争いを繰り広げているという事実があるから対戦好きな人にはすごく受け入れられるし、逆に僕のように『HALO』が下手な人は対戦に全く入る気がしないということになる。「1人倒す間に50回死にます」ということになりますから。おそらくゲームデザイナーの我々としては、結局どうデザインしたかで誰が楽しめるか、誰が納得するかが変わるということが言える。

中村 「勝つことにこだわりがあるアスリートがいる」ということは全く否定しないんだけど、たとえば10人が参加した試合で10位だった人に参加した価値がなかったのかというと、それも違う気がします。その人たちにも何かしらの喜びが、それこそ参加したことに意義があったというか。

中川 その「参加する喜び」をいかに強めていくかが、再びこれからの課題になるのでしょうか?

中村 僕はどこかでそれをデザインできないかなと思っていますね。たとえば、視覚障害者スポーツの「ゴールボール」という競技において、すごく下手なチームがあったとしても、ゲーム自体はそんなに腕の差が出る感じではないように見えます。しかし、ちょっと足りないなと思ったのは、「見ていて楽しい」という部分です。

簗瀨 得点が入るシーンが少ないですよね。逆に言うと「うまく投げたからうまく入りました」という感じがほぼないですよね。相手がミスするのをひたすら待つ感じがあります。もちろん、早く投げたほうがいいというのはありますけど。

中村 点の取り合いになった方が、見ている方は楽しいかなと思いますね。やってる方はそうじゃないかもしれないけど。まあ、やってみないとわからないけど。

犬飼 その回答が一番好き(笑)。

中村 やっぱりゲームってルールを考える方よりも、やってみなきゃわからないという側面があります。やってみると「この問題は解決したけど他の大きい問題が発生した」という状況がいっぱいある。

簗瀨 あと、もうひとつが、デザイナーよりもプレイヤーの数の方がずっと多いので、ルールの穴を衝かれる可能性が非常に高い。今存在しているスポーツというのはルールの穴を埋める作業を延々と繰り返してほぼ完成した状態になっているわけです。そう考えると野球という競技は例外処理が異常に多いことに気づかされます。サッカーはオフサイドぐらいしかないんですが。

井上 中村さんがおっしゃっていた「決着をつける話なのか、やってて楽しいのか」というのは非常に本質的だと思います。一つのスポーツなりガチな競技だとされているものの対決の仕方については、いまの簗瀨さんのご指摘のように、プレイヤー人数が多くてコミュニティが多様になることで、様々なルールへのハッキングが行われたり、ある程度の多様な雰囲気を許容している状況が生まれる。それが一つの解になるのかなと思うんですよ。

簗瀨 ただ、そういう持続的なプレイヤーコミュニティの形成自体も、かなりの程度、統一された意思体によるルールデザインに依って成立している部分が大きい。たとえば「ミニ四駆」のコミュニティは、ある程度の人口がずっと保たれ続けていて、4年に一度必ずブームになってきています。そしてミニ四駆はタミヤの一社独占であり、統一された意志を持っています。やっている方が楽しくなくちゃいけないし、大会を見てる方も面白くなくちゃいけない。一社独占だからその両方のバランスをきっちり取りながら新しい製品を発売したり、新しい部品を出したりできているんですよ。
 つまり、ある意味では、どこか儲かるところがきちんと儲かり続けるためにバランスを考えてやっている方が、下手に公平を求めるよりも全然良いという可能性がある。

井上 確かにタミヤの言うことは絶対ですからね(笑)。

簗瀨 そうそう。でも別に、タミヤに「これは公平じゃないですよ」とか「こういうのが有利です」という意見はほぼ見たことがない。要はみんな、与えられたルールの中でやるのが楽しいとわかっている。逆に言うと、あのレギュレーションがないと、膨大な時間と金をかけた方が勝つというのがわかりきっている。
 ちなみに、1台のミニ四駆にかけられるのって、せいぜい2~3万円だと思うんですよ。これだったら大体みんなかけられるわけです。子どもだってお小遣いを貯めればかけられる。僕も自分のミニ四駆って結局1万4000円ぐらいですけど、これ以上は改造しようがないなと思うんですよね。後は個人で時間をかけてがんばるしかない。

犬飼 そうだよね。つまり1万4000円という金額を生活費全体の中で測りながらコスト対効果を評価して導入していっているということじゃないですか。その先にあるのがF1等のモータースポーツでしょ? F1って、要するにフェラーリとか一部の会社の経済構造の中でできあがっていって、たどり着いたものだったりするじゃない。そういう一見、ゲーム外の経済的事情とかも込みにして、本質的なゲームデザインって行われているからね。

中川 ちょうどソーシャルゲームが、廃人や廃課金者が圧倒的に有利になる仕組みから、だんだん無課金や微課金でもそこそこ勝負できるようなデザインに向かっていったのにも通じるのかな。それって突き詰めていくと、アメリカとか中国みたいな大国がメダル量産する現行オリンピックのクソゲー性を回避して、小国であっても本当の意味で「参加することに意義がある」競技ルールなり大会レギュレーションなりの設計可能性があるということですね。

犬飼 そうした評価を、みんながゲームデザイナー的にできるようになってるといいんだよ。

新たな競技をいかに創出していくか

中川 ゲームメカニクス的なプリンシプルに即して、既存競技のデザインを改めて評価したり、新たなルールを生み出していけるようなスキームの提案として行われたのが、犬飼さんが主導した「ニコニコ学会β運動会部 未来の普通の運動会」のハッカソンでしたよね。その中で、みんなが開発者兼プレイヤーであるという「ディベロップレイ」という言葉を提案されていたのは重要だと思いました。

犬飼 そう。一方でいま言いたいのは、オリンピックって種目がどうやって決まっているのかというのがすごくわかりづらいということ。そこにIOCという大きな権力があって、誘致関連も決めていくという、プロセスの上ですごく大きなゲームとして存在している。よくできている仕組みではあるけれど、もうちょっとオープンになるといいなというのが……このヒッピー崩れの僕がよく思っていることでして(笑)。

簗瀨 基本は、すごく素朴なことですよね。鬼ごっこの新しいルールを作って遊んだり、「UNO」のローカルルール作って遊んだ原体験って、みんな持ってるじゃないですか。もともと僕は中学高校の頃からTRPGとかやってましたが、合唱部の合宿に行っても、合唱部ローカルの「UNO」ができるみたいな状態でした。そういうノリで、たとえば小学校の体育で「新しいドッジボールのルールを考えよう」といったカリキュラムを導入したりすると、スポーツに向かう姿勢が随分変わるんじゃないかと思う。

中村 「新しいドッジボールのルールを考えよう」というのはすごいいいと思うんですよね。運動会ハッカソンやった時にも「これって小学校の授業でも全然いいですよね」という話をしていて。まあ、犬飼さんは実は小学校レベルだと思ってやっているという話を聞いて、そうかと思ったんですけど(笑)。

中川 確かに、学校教育や部活動の枠組みの中で、与えられた競技に習熟することだけがスポーツだと見なされてきたことが、「体育会系」にまつわるいろいろな不幸を生んでいたと思います。この考え方が、デジタルゲームを通過して「新しくて面白い競技のルールとは自分たちで作ることができるものなのだ」と切り替わることで、大きく変わっていくということですね。

簗瀨 そう。スポーツにデジタルを導入することの意義は、パラメーターをいじるだけで新しいゲームルールができるという点。ドッジボールの話でいえば、僕は電気通信大学の野嶋琢也先生と組んでドッジボールにデジタルパラメーターを採り入れた「Hikari Dodge」のゲームデザインを一緒に考えているんですよ。今のドッジボールって、要は一番でかくて投げるのがうまいやつをみんなが取り囲んで守ってるんですよね。でも、それってうまくない子からすると「自分は盾か!」みたいになっちゃうわけですよ。でも、それをヒットポイント制にして当てれば当てるほど攻撃力が下がっていくとなると、そのやり方は通用しなくなるじゃないですか。そういうことを気軽に実験したいです。もちろん、それをやった結果、面白くなくなったということもありうるわけだし。

中村 それって、先程から話してきていた、決着をつけないといけないガチ感のあるゲームと誰でも楽しめるゲームの中間というか、両方の要素のバランス調整の結果出てきたゲームデザインなわけですね。ここで重要なのは、それがゲーム上の勝ち負けとは別のレベルでの面白さの追求から生まれたということじゃないかと。

簗瀨 そう。見てる方はうまいやつがすごいボールを投げるところを見たいじゃないですか? だから「当てれば当てるほど攻撃力は下がっていくんだけど、別な方法でそれを復活させられる」みたいにデザインしないとちゃんと両立しない。

中川 いまの中村さんのご指摘は、「新競技を創出したり、できた種目を大会等に採用していくスキーム自体をどうやって作るのか」という部分についても、デジタルゲームの開発と評価が培ってきた、エンターテインメントとしての評価の枠組みが適用できるということなのではないかと思います。

井上 すごく面白いですね。猪谷千春さんの『IOC:オリンピックを動かす巨大組織』という本では、IOCで決められた競技が世界的に競う価値があるという感覚を、各種メディアがいかに支えているかが書かれています。そこをどうやって崩そうかという話ですね。50~100年スパンでなら、「ゲームデザインに理解がある」とか「ゲームそのものが多様である」ということについての意識のある人間がたくさん増えてくればできるだろう……という犬飼さん的な希望はありつつも、一方でテレビ放映などマスメディアが保証する現在のスポーツの枠組みは容易に崩せないだろうとも思います。

簗瀨 テレビメディアとの親和性でいえば、「バブルサッカー」みたいに「一瞬でわかる」というのは重要ですよね。これは激しくぶつかり合っても怪我をしない「BUMPER」という風船ダルマのようなバブル状の緩衝材を着てフットサルをするという、ノルウェーで2009年に始まったバラエティ番組の企画から生まれたゲームなんですが、これが新スポーツとして瞬く間に普及しました。2016年にはワールドカップが行われるのだそうです。

犬飼 でも、そもそも「わかる」ってなんだろうね?「わかる」って非常に難しい問題でプライベートな問題でしょ? それを共有していると“個人的に”思ってるわけだ。その感覚ももう少し謎を解いていきたいところだよね。

簗瀨 「映像が、自分でプレイした時の感覚に変換されている」と見た人が思うことですよね。やってみないと本当はわからないんだけど、少なくとも「わかった」と思わないとプレイに参加してもらえないという点は理解しておくべきですね。

中村 その点、テレビ番組の企画だったというのは大きいですよね。視聴者が一瞬で映像からゲームを理解できて、カメラの画角に納まるようなサイズで競技が設計されている。5対5で、フットサルコートでプレイするという仕様は、テレビ映えするという要請から生まれたのでしょうね。

中川 2014年8月の「未来の普通の運動会」第1回ハッカソンでは、そのBUMPERを使って別の競技を生み出そうという試みも行われていましたが、オリジナルのバブルサッカーに匹敵する面白い競技は生まれてきたのでしょうか?

中村 最初はあのポヨポヨした風船ダルマを着てディベロップレイヤーの皆さんに自由に戯れてもらうところから始めたんですが、転がりっこ競争とかリレーみたいな子供っぽい遊びを経ながらリアルタイムに検討評価を加えて競技性を高めていって、最終的には紅白のチームでキャップを取り合う騎馬戦みたいな競技になりましたね。

犬飼 そう。あそこでできた種目を、もう1回遊んだりした。ただ、バブルサッカーより面白くなったかというと、まだまだ奥深さが足りなくて見ていて飽きるので、さらにゲームデザインを重ねる必要があると思うけど。

中川 あれってカイヨワ的に言えば、いわば「遊戯」から「競技」が生成されていく歴史過程を、ゲームデザイン的な評価システムによって半日に圧縮する試みでしたね。単純にBUMPERを着て子供たちがじゃれあう〈眩暈(イリンクス)〉優勢の状態から、ルールの取り決めを加えて〈競争(アゴン)〉の奥深さのある状態へと遷移させていく。

中村 競技の奥深さを何で評価するかですね。「よりコストを少なく、より狭い場所で」とか、「より少人数で」とか、「より多くの人が」とか、「よりシンプルにわかりやすくして、より多様な人が」とか、いろんな観点がありうる。そこでオリジナルのバブルサッカーが強かったのは、その評価を視聴者からの反響というテレビエンターテインメントとしての要請が、絶対的な評価基準として機能したことでした。日本では、TBSの「SASUKE」なんかがそれにあたると思いますが。

簗瀨 「SASUKE」が優れていたのは、開催頻度を絞りつつ、競技の中身をほとんど変えずに継続したこと。テレビ的には、いろいろ見てくれを変えたくなると思うんですが、それをしないで継続したことで、ちゃんと競技っぽさが生まれていた。しかも、トップアスリート級なら何とかクリアできないこともない、というレベルデザインも絶妙でしたね。どういうテストプレイの果てにあれができたのか、非常に気になります。

中川 まさに「SASUKE」は、デジタルゲームにおける『スーパーマリオブラザーズ』的な横スクロールアクションの画面構成への視聴者のリテラシーを前提に成立した競技でしたね。バレーボールにおけるラリーポイント制など、往々にしてテレビ中継の都合が競技ルールへの淘汰圧として働いたわけですが、そのテレビへのハッキングに他ならなかったデジタルゲームが新たなテレビショーとしての新競技を生んだという履歴が持つ意味は大きいと思う。この映像メディアを介した競技のセレクション機能に期待するなら、例えばニコニコ動画などの動画サイトを活用して、アリな競技とナシな競技をふるいにかけていく方法なんかは、ひとつのスキームとして考えられるんじゃないでしょうか。

拡張スポーツが提示するオルタナティブ大会のかたち

簗瀨 そうやってゲームデザイン的にスポーツを拡張していく方向性は、3つくらい考えられますね。1つは、「Cybathron」とか稲見昌彦先生の「超人スポーツ」で中心的に考えられているように、本当に身体能力を伸ばすという方向性。バブルサッカーは、身体の自由度を制限しつつ体感を拡張しているわけですね。
 2つ目は、「Hikari Dodge」のようにルールをデジタルサポートするという方向性。
 3つ目は、身体運動や競技の見立てや演出を変えていく方向。これは僕が開発した、Oculus Riftを使う「日吉ジャンプ」「成層圏ジャンプ」なんかが該当します。本人は10㎝ぐらいしか跳んでないのに、感覚的には120mとか地上20㎞くらい飛んでるように視覚的に演出するVRコンテンツなんですが、これで現実とは異なる落下感が味わえる。いわゆるデジタルゲームで競う「eスポーツ」は、VR空間内での競技という意味ではこの方向性です。

中川 ただ、日本でいわゆるプロゲーマーが生じるかたちでのeスポーツが普及しなかった事情がありますよね。その反面、若い人たちの間でもゲーム実況が現在はやたらと動画サイトなどでの人気コンテンツとして理解不能なくらいの普及をしている。つまり、勝ち負けを競ったり応援したりすることよりも、コミュニケーションのネタとして消費したいという欲望の方が現在の日本の情報環境では優勢で、その流れの中で拡張スポーツに何がなしうるのか、という、また別の課題がありそうな気がします。

犬飼 でも、世界中でもプロゲーマーのある状態ってそんなに多くないですからね。よくeスポーツって「世界中で定着している」ような言い方がされるんだけど、多分あんまり日本と変わらないですよ。スウェーデンでもアメリカでも、「なんとなく聞いたことあるね」というぐらい。

簗瀨 大体そうですよね。「海外でも人気」って、10万人ぐらいファンがいるとすごい人気みたいに言われるけど、ゲームの世界で10万人って大したことないですからね。本格的にテレビ番組をやるくらい普及しているのは韓国くらいでしょうか。

犬飼 その韓国からして、あれだけ人気があってプロゲーマーもいるのに、まだeスポーツを社会的に評価しきれていない。
 例えばソウルオリンピックをもう1回やったとして、そこに韓国の文化としてeスポーツを取り入れたらすごいと思うけど、まだそういうコンセンサスはない。だから、その前段階として、僕たちには高橋名人などを通じて夢見たファミコン大会以来の経験が存在するわけだから、それこそ韓国に先んじて世界に提案ができる機会として東京オリンピックを使えないかと思うんですよ。

井上 つまり、現在のスポーツをめぐる欲望は、『グラップラー刃牙』の「範馬勇次郎vs範馬刃牙の地上最強の戦いみたいな人類最強決定戦を見たいぜ」というプロゲーマー志向の快楽と、誰もがゆるい参加意識を持てて体験共有できるゲーム実況的な快楽に二極化されているという話ですよね。前者は現在のオリンピックとメディア中継の制度が担保していて、後者はデジタルゲームとかバラエティ番組によって培われてきた。しかし、その間を繋ぐ手立ては今まで誰も考えてこなかったので、その溝を埋めていくオルタナティブな理念と方法論をもった競技大会を立ち上げていこうというのが、拡張スポーツの役割なのではないかと。

犬飼 そうした試みとしては、eスポーツの方面ではサムスンの「World Cyber Games」や「CPL」があったんだけど、やっぱ相当大変なんだよね。可能性があるのはわかる。だけど、すごく大きな資本が必要なので、サムスン1社では「World Cyber Games」を支えきれずにやめてしまった。やはりどこかでオープンにしていかなくちゃいけないと思うんですよね。
 ある意味でこれをやっているのが、レッドブルですよ。レッドブルはスポーツから音楽、ビデオゲームまで、いろんな文化を応援してるんです。オリンピックに対しても応援するという立場を取りつつ、実際にはひょっとしたら「新しいオリンピックを作ってやるんだ」という夢を心の中に抱いているかもしれない。

簗瀨 レッドブルは、ヌルいものは応援しないのがすごい。みんなで楽しく、とかじゃないんですよね。誰でも応援するんじゃなくて、本当にレッドブルが応援する価値があるのかどうかを議論しているという、強いポリシーがあるんですよ。成層圏からのダイブとか、飛行機のアクロバットのレースとかの映像が有名ですが。

犬飼 それなりの資本を持っていればイベントを作っていくことは可能なので、それを小さくやっていこうというのが僕にとっては「未来の普通の運動会」だったりする。誰もがみんな自分が持っている資本の中で動けるものをやっていけばいいかなと。企業単位でも個人単位でも。

井上 そうですね。もっと多くの企業に共有されて、出資してみようと思う企業、レッドブルみたいな企業がもっと広がってくれば、中規模・大規模なイベントが模索できるのではないかと。現在のオリンピック自体も、すでに他にもオリンピックと呼ばれていた競技大会があった中で、クーベルタンが私財を投げ打ってがんばって続けて定着したという感じですからね。

犬飼 だから、僕らは僕らでやれることをやる一方で、2020年の東京オリンピックにも提案があるとしたら、やはり開会式にはリアル空間上にスーパーマリオを出すべきだよねってこと。あれこそが、国家としての歴史的な物語にも成り代わる、ここ30年くらいの日本人がバーチャル空間上で共有してきた、最も代表的な体験的記憶じゃないですか。日本だけじゃない、世界中の人々が、ですよね。だから、「みんなの総意の身体拡張としてスーパーマリオが登場して、それを自分の身体のように感じつつオーディエンスとして応援もできるようなスポーツ」というものがあるといいな、と思う。開会式のパフォーマンスとしてでも、実際にエキシビジョンとしてプレイするのでもいいんだけど。

簗瀨 そうか。犬飼さんには過去の自分や友達、あるいは動物が走った3Dデータを等身大投影して競争できる「スポーツタイムマシン」という作品があるんだけど、その仕組みでオリンピック選手とマリオを一緒に走らせればいい。

中村 Bダッシュがいかに速いかを、オリンピック選手を軸に実感できる。コーナーではキキーッと折り返したり、ジャンプ中になぜか方向転換できる超物理的な挙動とかもね。まあ、オリンピック選手をギリギリのところで勝たせなきゃいけないだろうけど(笑)。

中川 面白いですね。でも、エキシビションでのレガシーオリンピックへの接待段階が済んだら、その「スポーツタイムマシン」的な仕組みで大勢の参加希望者の身体運動データを事前登録制とかにして集積しつつ、何らかのアルゴリズムで合成して、本当に各国別の集合身体としてのスーパーマリオ同士を競わせるなんてレースもできそうじゃないですか。それって、人間と社会とか国家とか大きな単位の系との接続方法を塗り替える、僕の言葉で言えば〈拡張近代〉の世界像のモデルそのものじゃないかって思いました。

犬飼 そうなんですよ。世界に対して、日本がデジタルゲームを消化した新しいスポーツなりコスモロジーなりを生み出すというメッセージが、これ以上明確に伝わる身体拡張法って、他にないと思うんだよね。「最強」を争う競技の舞台でありながら、「みんな」が本当に直接的に参加できるスポーツを具現化するという、二律背反の克服のビジョンにもなるし。まあ、まだまだゲームおっさんの見果てぬ夢なのかもしれないけどさ。

[了]

この記事は、2015年に刊行された『PLANETSvol.9』の記事を再掲したものです。中川大地と井上明人が聞き手を、森旭彦が構成をつとめ、あらためて2020年5月3日に公開しました。


『PLANETS vol.9』には、今回の特別企画で紹介する「Aパート(Alternatives編):オルタナティブ・オリンピック/パラリンピック・プロジェクト」以外にも、都市開発というアプローチから東京の解体・再編を試みる試案「Bパート(Blueprint編):東京ブループリント」や、文化系でもカルチャーで勝手に盛り上がる「Cパート(Cultural Festival編):裏五輪=サブカル文化祭」、そしてテロリズム側の視点から改めて国家プロジェクトの危機管理を再考するセキュリティ・シミュレーション「Dパート(Destruction編):オリンピック破壊計画」など、様々な角度から2020年の東京オリンピックのオルタナティブを試みたビッグプロジェクトが記されています。気になった方はぜひ読んでみてください。