「80年代」のまちづくりに立ち返る

宇野 今日は僕が責任編集を務め、先日出版した『2020年代のまちづくり』刊行記念のトークセッションです。この本のサブタイトルは「震災復興から、地方創生、オリンピックから、アフターコロナ」となっています。要するに、これは東日本大震災からはじまり、パンデミックで終わる2010年代の都市開発や国土利用の問題を総括し、そしてこれから、つまり2020年代の新しい課題を模索する……といったテーマで編集した本です。今日はこの問題意識をベースに議論してみたいと思います。まずは登壇者のみなさん、簡単に自己紹介をお願いできますか?

石川 初めまして、石川由佳子と申します。「アーバニストのためのインターナショナルプラットフォーム」として、さまざまな国や地域を盛り上げる方々の活動を世界に発信するプラットフォームを運営する、一般社団法人for Citiesの共同代表を務めています。2023年の9月からは、有楽町で「アートアーバニズム」をテーマに活動している「YAU」さんと一緒に、「再野生化(re-wilding)」というテーマで半年間のプログラムにも取り組んでいます。

街がアートとともにイノベーティブな原動力を生み出す、実証パイロットプログラム、「YAU(ヤウ) 」

藤村 藤村龍至です。私は東京藝術大学で建築を教えながら建築設計事務所RFAを主宰しており、都市全体の戦略立案から合意形成、企画、建築設計、工事監理、竣工後の管理運営までトータルに手がけ、近年は台東区上野や埼玉県所沢市、神戸市などの都市再生プロジェクトに関わっています。今日はよろしくお願いします。

指出 「ソトコト」というメディアの編集長をしている指出一正です。ソトコトは「未来をつくるSDGsマガジン」というサブタイトルを掲げ、まちづくりや地域づくりなど、全国各地のモノやコトを取材しています。僕はふだん「関係人口」という言葉を提唱していて、都市に住んでいる人が“観光以上、移住未満”のような感覚で、自分のふるさとのように想いを寄せられる地域と出会い、関わることができるようなお手伝いがしたいと思っているんです。今日はそんな視点から、何かみなさんのお役に立てればと思っています。

井上 三菱地所の井上成と申します。私は2003年から大手町、有楽町、丸の内のまちづくりに携わっています。建物を建てるだけでなく、ソフトの面から街を魅力的にする取り組みを行っており、2007年に「環境共生型まちづくり」を推進するため、エコッツェリア協会という一般社団法人を立ち上げました。最近は人的資本経営がよく話題になりますが、街が人のケイパビリティを高めるためにどう役立つのか、ということを考えて、さまざまなプロジェクトに取り組んでいます。
 その一つが、宇野さんにもプロデューサーとして参画していただき近年取り組んでいた「Micro STARs Dev.(以下、MSD)」というプロジェクトです。「個」のもつ力を顕在化し、解放することを目指し立ち上げたもので、ここから発展してアーティストとのまちづくりである「アートアーバニズム」というコンセプトを掲げ、アーティストの活動が日常的にある空間や時間をつくっています。大手町、丸の内、有楽町のビジネスパーソンは、自分を殺しながら働いている人たちが多いように感じます。対して、アーティストは世情に敏感で、好むと好まざるとに関わらず、世の中に対してインパクトを与える人たち。そういうアーティストたちと一緒に、このエリアのビジネスパーソンを「再野生化」して、街を変えていきたいと考えているんです。

MSDを契機とした有楽町再構築プロジェクトの一環で、2022年6月にオープンした、有楽町「SLIT PARK」。新国際ビル・新日石ビル間の路地空間をリニューアルし、都市の隙間の公園機能として活用

宇野 ありがとうございます。今日は2020年代のまちづくりで何がポイントとなってくるのか、みなさんにキーワードを挙げていただいて、議論していく形式にしたいと思います。まずは藤村さんから、キーワードを教えていただけますか?

藤村 私は「80’s」がキーワードになってくると考えています。『2020年代のまちづくり』内のインタビュー(【インタビュー】藤村龍至|都市と国土はいかにして開発されてきたか?ニューヨークとイタリア、そして80年代から考える、2010年代以降の都市開発)でもお話ししましたが、いま1980年代の読み直しが面白いと思っているんです。たとえば、私は今神戸市のポートアイランドという人工島の再生プロジェクトに取り組んでいますが、ここは1981年に「ポートピア’81」という博覧会を開催した場所で、企業誘致をして博覧会でまちづくりをする、という型を初めてつくり、大成功を収めました。1970年に開催された大阪万博では開催後に建物を壊してしまっていたのに対して、神戸の博覧会はUCCやアシックス、ワールド、大月真珠といった食品やファッション産業の企業を集め、海の上に人工的な都市をつくるというコンセプトでした。日本で初めての無人の新交通システムが通るなど、当時小学生だった私にとって、まさに未来都市のイメージそのものでしたね。
 その未来都市がいまや勢いを失って、企業も離れていこうとしています。「この現状をなんとかしたい」と神戸市さんが考えているところにお声がけいただいたのがきっかけで、ポートアイランドの再生プロジェクトに関わることになったのですが、基本設計当時の議論を調べてみると、この人工島で神戸の産業構造をどう変えていくか、あるいは神戸を中心にして軸線を引いて関西の中心とアジアやロシアをつなぐ計画など、とにかく大きな構想のコンセプトがいくつもあったことがわかったんです。ポートアイランドは阪神・淡路大震災以降の2000年代に拡張され、医療関係の研究所や理科学研究所などが集まった医療産業都市として整備された経緯もあります。今でも350社以上の企業が拠点にしており、日本で一番の医療産業クラスタがあります。また、高齢化した団地が敷地内にあるので、超高齢化社会における課題解決の最先端の実験場でもある。つまり、この島の未来を具体的に考えることは、かつて「未来都市」と言われた場所がどう未来を描き直すかという実験でもあると思うんです。
 神戸市に限らず、80年代の日本では、世界中の先進事例に学んでまちづくりにお金をかけた結果、全国各地で面白いことが起きていました。国策では池田勇人の頃に4大都市に集中していた工業を太平洋ベルトに、田中角栄の頃にそれを工場再配置促進法(1972)で地方に分散させ、ある程度成功したら、今度は都市に集まった頭脳を分散するために、テクノポリス法(1983)や頭脳立地法(1988)などであちこちにサイエンスパークをつくる計画を立てていました。この計画は一般には失敗したと言われていますが、その構想が元となってできたはこだて未来大学はいま、複雑系科学の人たちの集積地になってます。そうして見ていくと、80年代には行政も企業も面白いことを考えていたのに、95年から後はリアリズムの世界になってしまった、という見方もできるでしょう。まちづくりも開発も、コンセプトを立てて分析したり、新しい町のあり方を考えたりする過程が、95年以降は失われてしまった。昨今はファッションでも80年代のリバイバルの流れがきていますが、都市やまちづくりにおいても、80年代の再評価が必要とされているのではないかと考えています。

ポートアイランドの遠景(出典

指出 僕は90年代にアウトドア雑誌の編集者をしていたのですが、その感覚はとてもよくわかります。80年代に注目されていた、スペインやフランス、スウェーデンなどのクリエイティビティ溢れたアウトドアや釣りの遊び道具が下火になっていったのが1995年頃でした。外で使う道具なのに、汎用性、清潔さ、合理性を求めたスタイリッシュな道具ばかりになって、コストカットのせいか部品に美しいギアとパーツを使わなくなったのを見たとき、遊びがふくよかではなくなったな、と思ったことを覚えています。

藤村 もちろん、80年代を呼び起こせば全てうまくいく、という話ではありません。人口流出や売り上げ減少といった90年代的なリアリズムだけで街を測るのをやめてみませんか、という提案なんです。近年の流れを自己批判するためにも「80年代ってそもそも何を考えてたんだっけ」に立ち返るべきではないでしょうか。特に東京都は1996年の博覧会誘致に際して、東京をどういう都市にすべきか、丹下健三がグランドデザインを描き、臨海副都心を国際金融都市にするというマスタープランを考えていました。ところがバブルが崩壊し、当時頻発したゼネコン汚職事件の影響で世論の反対の声が大きくなったこともあり、博覧会は中止となりました。当時は仕方がないことだったとは思いますが、その後、東京都はグランドデザインもマスタープランもなく、規制緩和だけやっているのが現状のように思えます。

いま必要な、現場とマスタープランの行き来

井上 私は「境界を溶かす」というキーワードを挙げました。私の活動の前提には、この有楽町エリアに決定的に足りないのは多様性だ、という考えがあります。多様性がなぜ必要かというと、同じ思考の人ばかりが集まると、現状維持バイアスがかかってくるからです。まちづくりには、いいものは残しつつ、時代に即応して変えていくというバランスが重要です。多様性がなければ、可変していくことに対してブレーキがかかると思っています。これは人だけではなく、街の機能についても同じです。ここはビジネス、ここは住宅、という画一的なゾーニングは、機能性の面での管理のしやすさから戦後の高度成長の時代に成立した方法ですが、それが昨今のニュータウンなどが抱えている問題などにもつながっている気がするんです。
 マスタープランの話にも関係することですが、先が見通せない中、50年後のグランドデザインを事細かに決めることにあまり意味はありません。たとえば「ウェルビーング」という一つのテーマに、それぞれ自分たちがこうしたいという要素を乗せて、街の機能をつくっていく。その時代に起きる事象をアジャイルにうまく盛り込みながら、グランドデザインに寄せていくことを通して、新陳代謝のある、可変的なまちづくりをしたいと考えています。

石川 まちづくりに多様性が足りないということは、for Cities設立時の課題意識でもありました。たとえば、まちづくりの現場には建築家だけでなく、パン屋や編集者、アーティストがいてもいいかもしれない。どうすればそういった多様性を担保できるのかを考えることが、この活動を始めたきっかけでした。私たちが立ち上げた「for Cities」というプラットフォームは、グランドデザインのような大きな物語に対して、どう拠り所を見出せばいいのかという問題意識のもと、「アーバンリポジトリ」をテーマにつくったものです。「リポジトリ」はデジタル用語で、貯蔵庫という意味です。世界中の都市で同時多発的に生産され続ける現象を記録し、シェアできるような構造になっています。こうした個人レベルのナレッジが集合知としてまとまることで、都市の向かうべき方向性を指し示すヒントとなれば良いな、と思っています。

藤村 お二人の多様性に対するご意見に関して異論はありませんが、ゼロ年代以降ずっとなされてきた、「多様性とは何か」という議論を忘れてはならないでしょう。表層的には多様性が演出されているけれど、その背後にデータベースの層があって、一元的に管理されている。ポストモダンはそうした前提のもと考えられてきました。そうこうしているうちに、ヨーロッパではCO2など、環境に対する規制がかなり厳しくなっています。こうした新たなポリティクスが台頭している今、表層的な多様性の演出とはまた別の層で、マスタープランやグランドデザインを考え直す必要があるのではないでしょうか。
 井上さんがおっしゃるように、事細かにプランを規定してもその通りにはいきません。これは1970年代から「まちづくりは運動論的であるべきだ」と言われてきたのと同じことで、1980年の都市計画法改正以降、ひらがなの「まちづくり」という言葉が生まれたのも、そうした議論が背景にありました。しかし、今のまちづくりは人口減少によって都市間、エリア間競争で少ないパイを取り合うだけの不毛な戦いになってしまっている側面もある。このままでは持続可能な社会をつくっているつもりが、逆にCO2原理主義に画一化されてしまう。上から襲ってくる新たなリアリズムに画一化されないために、もう一度グランドデザインを描き直すことで対抗しなければならないのではないかと思い始めているんです。

井上 私はビジョンと現場のキャッチボールがいいものをつくると思っているので、マスタープランをどこまで柔軟にするかが大事だと思っています。現場を知らずにグランドデザインを描いていると、現場で何かが起きる度に修正する必要がありますよね。逆に現場もマスタープランを見ながらプロジェクトを進めたとしても、なかなかその通りにはなりません。境界を壊すのではなく、「溶かす」ということが重要なんです。グランドデザインに対して真っ向からアンチテーゼを出すのではなく、ビジョンと現場を行ったり来たりすることで、理論上の話と現場の話も溶けていく。こうすることで、マスタープランの完成度を高めていくやり方が、これからのまちづくりには必要だと思います。

本流から外れた「ジェネリックシティ」から豊かさを掘り起こす

石川 私は「創造的メンテナンス」というキーワードを挙げたいです。特に都心部の都市開発は、これからますますダイナミックなことができなくなっていきます。街が空洞化していく中で、今ある資源や資産をいかにして読み替え、より創造的に使いこなしていけるかどうかがキーになってくると思うんです。よりクリエイティブで面白い使い方を知っているプレイヤーがいることが、そのエリアの魅力や豊かさを決めていくのではないでしょうか。

都市体験のデザインスタジオfor Cities が仕掛けるアーバニストのための学びと 実践の場「Urbanist Camp Tokyo」

指出 先日アメリカに行ったのですが、アメリカでは「サステナブル」という言葉をかつてほど見かけず、「リジェネラティブ」という言葉が多く使われていました。対してヨーロッパではSDGs、サステナブルというワードがかなり大きな力を持っています。どちらも目指しているところは変わらないでしょうから、考え方の違いというよりは、テクニックが違うのでしょう。「創造的メンテナンス」は「リジェネラティブ」に近いワードだと感じました。「リジェネラティブ」とは、ゼロから何かを生み出すのではなく、既存のベースとなる土壌を再生していくという意味の言葉ですが、今は維持して未来に向かっていくという「サステナブル」のフェーズから、「でも楽しいこともやっていこうよ」という「リジェネラティブ」な感覚が求められるフェーズへと変わってきているように感じます。
 そうした社会の中で、私が最近気になっているのが「ジェネリックシティ」の問題です。山伏の坂本大三郎さんが、「ソトコト」の連載の中で建築家のレム・コールハースの文章の中から引用して書かれていたいたコンセプトですが、端的に言えば、いま世界中の町が同じ風景、つまりジェネリックになっているということ。それは確かに僕も感じていて、このままジェネリック化が進んだら、旅をする理由がなくなるんじゃないのか、ということが一番の心配です。

藤村 私はジェネリックな風景の中に個性を見出すことが重要だと考えています。たとえば先ほどの話に出た神戸のポートアイランドはまさにジェネリックシティですが、歴史を掘り起こしていくと、当初は理想に燃えて、さまざまな人がボトムアップでまちづくりをしていたことがわかりました。コールハースの「ジェネリックシティ」は、そういった都市にストーリーを見出していく手法の入り口にある考え方だと思っています。そもそもコールハースはヨーロッパで一番つまらない都市と言われていたオランダのロッテルダムという街で育ち、インドネシアを経て、日本に来ました。そこで「一見つまらない東京という街が一番面白いじゃないか!」という価値の転換を図り、それが「ジェネリックシティ」や「ビッグネス」というコンセプトにつながっていく。
 私はそうした、つまらないと思われている地域の歴史を掘り起こして価値を見出すロールモデルに共感します。「日本は都市も郊外もジェネリックになってしまって、何も面白くない」と諦めるより、そこにどんな人や空間があるのかを再発見して提案していく方が、ずっと楽しい。たとえばヨーロッパ中心主義で見るとニューヨークはつまらないジェネリックシティですが、そこには新しい論理がある。これは『錯乱のニューヨーク』という本でコールハースが述べたことですが、同じように日本の国内のどの地域にも固有の歴史があり、おそらく日本の大きな歴史の本流から外れた場所にこそ、見出すべきコンセプトがあるのではないか思っているわけです。

指出 面白いですね。三浦展さんが書かれた『ファスト風土化する日本』では、郊外の均質化されたロードサイドの風景について述べられていますが、僕が地方に行った時に「これは日本特有ではないか」と思うものが、まさにロードサイドの風景です。たとえば佐渡島には日本では珍しい航路を含めた国道があるのですが、この国道がファッションストリートになっています。地元の高校生や中学生が週末におしゃれをして、嬉々として出かけていく光景を見ると、僕たちから見ると「ファスト風土」であったとしても、当事者である若者からみたら、めくるめく夢のような街であったりするわけです。僕はよく地方に行くとブックオフにも行くのですが、たとえば能代のお店と岡山のお店では棚が全く違います。こういう小さな差異を楽しんでいる自分を改めて思い出したりしました。

「ニュー移住」のススメ

指出 僕は「ニュー移住」というキーワードを挙げました。この言葉は、井上さんが書かれた「境界を溶かす」や石川さんの「創造的メンテナンス」、藤村さんの「80’s」が全て包含されているキーワードだと思います。簡単に言うと、「移住」という堅苦しいものを解放してポップにしたいと考えているんです。極端な話、移住しなくてもいい。たとえば、新潟県の山古志地域の人口は今800人を切るくらいですが、デジタル村民が1,000人を超えています。このように、東京に居ながら他の街に住んでいるような感覚を持つことは、自分の幅を広げるとてもいい機会になると考えています。僕もいま兵庫と東京で二拠点生活をしていますが、兵庫でNPOの理事として若者たちと一緒にシェアキッチンでご飯を食べているときの自分と、東京で国の会議に参加して議論したり、「ソトコト」の締め切りに追われたりする自分、両方あることで補完性が保たれるんですよね。

井上 私はいま「大丸有SDGs ACT5」という活動の中で、伊豆下田の社会課題を考える「下田プロジェクト」に取り組んでいます。これは大丸有で働くビジネスパーソンが多様な能力を地域で発揮することで、地域課題を解決していくことを目指したプロジェクトです。このプロジェクトで忘れられないのが、地元の土建業、議員さん、商店主のおっちゃんたちが「シャッター商店街がね〜」と話していたとき、そこにいた女子高生の言葉です。「おじちゃん、街はやっぱり経済回さなきゃだめだよ」と言ったんですよ。「おぅ‼スゲー」と思いました。地域が盛り上がるためには、そこにいる人たちから発せられる、こうした意思が必要不可欠です。
 ただ、意思があるだけではうまくいきません。よく「よそ者」「若者」「馬鹿者」が地域を変える、と言われますが、私はそれらの人をつなげる「回し者」が必要だと考えています。「経済回そうよ」と言っている女子高生と地元の人をつなげたり、普段は大丸有で働いている「よそ者」をつなげることで、地方を活性化していきたいという思いがあるんです。

石川 私たちはその土地のリズムを掴むために、住むような形でその土地に入っていくのですが、その際によく「よそ者」の価値を感じます。たとえばネガティブな評判のある地域は住んでいる人たちの自己肯定感が低かったり、自分たちのエリアに自信がなかったりするのですが、「よそ者」だからこそ、彼らが価値がないと思っているところに価値を見出せたり、光を当てられるように感じています。
「若者が地域を変える」という考えもとても大事だと思っています。最近、仲間内で「鮭モデル」と勝手に呼んでいるのですが、鮭が大きくなると川を遡って帰ってくるように、19歳になって高校を卒業して、土地を離れた子たちが、見聞きしてきたものをもう一度還元していく場所として、生まれ育った場所が選ばれるにはどうすればよいのか。そのために魅力ある機会をどうしたらつくっていけるのかを考えてたりもします。

コミュニティ「ではない」、2020年代のまちづくり

宇野 僕はキーワードに「コミュニティではない」と書きましたが、これは今日このメンバーを集めた理由でもあります。僕はこの中では一番、まちづくりや都市開発からは縁が遠い人間なのですが、その僕から見たときに、疑問に思うことが2つあります。
 一つが、東京による地方の植民地化という、古くて新しい問題です。震災から「地方創生」の流れは、比喩的に言えば、港区や渋谷区や世田谷区といった東京のクリエイティブ・クラスの生きる世界と、地方の農村や漁村が直結している。それは前者のスローフード的な趣味やエシカルな自己ブランディングを満たし、後者にはメディアの注目と補助金や観光客からの現金収入をもたらすのだろうけれど、それが持続性のある地方経済の再建につながるとは到底思えない。そして、この二つのエリアに挟まれた、日本に生きる人の9割が暮らしている「普通の」街は捨て置かれている。
 僕はこういった街にある戦後的な、平成初期くらいで実質的に時間を止めてしまったライフスタイルを更新するためのまちづくりを考えるべきだと思います。これも比喩的に言えば、テレビから得た情報に動機づけられて、郊外の建売住宅から週末のたびに自家用車でメガモールに出かける、というライフスタイルが支配的な現状にメスを入れることのほうが、僕は特に地方にとっては意味があると考えています。渋谷と大分の山奥を架橋することよりも、その中間にある西武線沿線や埼玉の住宅地のような場所の生活を考え直すことのほうが意味があるのではないでしょうか。

 もう一つは、ローカルには震災以降より顕著になった藤村さんの言う「都市開発」への反動として、グローバルには気候変動リスクへの対応や格差の是正を背景にした左派の経済成長批判の帰結としてのコミュニティ回帰の傾向です。しかし、村落から都市への人口移動を促したのは、地域共同体のもつ閉鎖性が特に弱い立場の人に不利に働くからです。共同体はその中心にいる人びとには居心地が良い。しかし、周辺の人々はその生贄になり続ける。物語の主役たちに奉仕する脇役に甘んじることを余儀なくされ、最悪のケースでは敵役として、集団の結束を固めるための標的になる。このような力学から人間を解放する都市空間の可能にした個人主義とその自由が、いま結果的に過小評価されてしまっているように思います。これは最初に話した意識の高い「地方創生」の現場にもありがちな傾向だと思います。
 今日は藤村さんには10年ぶりに会ってお話を伺いましたが、いつの間にか都心ではなく、僕はそうは思わないけれど、不動産屋的には「イケてない街」にコミットするようになっていった。僕は今日、藤村さんのお話を聞いてその必然性のようなものがよくわかりましたし、僕が考える指出さんという人は、いま僕が述べたような東京と地方の関係についてこれからのコミットは「関係人口」でよいのだ、共同体に「所属」するのではなく土地に「かかわる」だけでよいのだと明確に言うことで一つの「答え」を出した人です。これは今でこそ当たり前の選択肢ですが、少し前まではとても口にするのに勇気がいる主張だったはずです。そして井上さんが主導した僕も参加する有楽町のまちづくりのプロジェクト「MSD」の一番のターゲットはビジネスパーソンで、具体的に言えばいわゆる「JTC」と呼ばれる古い体質の大企業で働いている彼ら彼女らが、「個人」としての自分を再発見して、別の可能性を見出せる街に有楽町を変えていこうというプロジェクトだったと思っています。そして石川さんは、このMSDの理想を実現するために本来この街に存在してはいけないようなものを注入し続けている。震災以降、この10年の「まちづくり」が多かれ少なかれコミュニティの再編に帰着しがちだった側面は確実にあると思いますが、今日はその試行錯誤の中で見えてきた「次」のフェーズにつながる議論ができたように思います。

藤村 宇野さん、それ最初に言ってくださいよ(笑)。そこから議論を始めても面白そうだと思いましたが、それはまた別の機会で。

[了]

この記事は石堂実花が構成をつとめ、2024年3月21日に公開しました。