2022年の8月に食農倫理を専門とする南山大学の太田和彦、差別の哲学を専門とする東京理科大学の堀田義太郎に、カードゲーム『マナーな食卓』を遊んでもらった。


その上で倫理学者の観点から、ゲームでは何が表現できているのか、あるいは表現できていないのか、そもそもこのゲームは面白かったかなどについて、ゲームの製作者である大谷通高、井上明人と議論してもらった。

『マナーな食卓』はどういうゲームか

堀田 堀田義太郎と申します。東京理科大学で、哲学系の科目を一般教養で教えています。このカードゲームは大谷さんからかなり前にプロトタイプを頂き、既にゲームを体験しましたので今日は2回目ですが、率直に言って面白かった。けど、結構しんどい。非常に頭を使います。よく考えて話さないといけないので、そういう意味では心地よい疲労のようなものを感じました。ゲームで頭を使ったので、このセッションであまり話すことはないのですが。ひとまずは、本当に面白かった。

太田 南山大学の太田和彦と申します。実は、『マナーな食卓』は、私が運営の一人となって開催したイベント「シリアスボードゲームジャム」をきっかけに制作された作品なので、私はたぶん開発を最初期から見ている人の一人だと思います。この作品はすごいです。チーム内での議論と試遊を通して、コンポーネントやルールが次々に変化していく過程をとても面白く拝見していました。実際に遊ばせていただき、「こういう提案をすれば大喜利的に笑いはとれるけれど、ウシ人間は納得しないだろうな」とか、「魚人間だったらこういうマナーを提案できるのではないか」など、自然と想像の水路ができる仕組みになっているところも素晴らしいです。

大谷 総合地球環境学研究所の大谷です。このゲームの制作者、それと本日の司会です。堀田さん、太田さん、試遊ありがとうございました。それこそ本当にこのゲームの最初期はカードゲームではなくて、盤面型のゲームでした。テストプレーを重ね、版を重ねていった結果、カードゲームになったといういきさつもあります。

井上 立命館大学の井上明人です。そもそも『マナーな食卓』がどういうゲームか、制作者の一人として改めて説明させてください。

出典

 ここに鳥人間、キノコ人間、シャケ人間、普通の人間、ウシ人間のカードがあります。プレイヤー何人かがそれぞれの役割を担います。例えばウシ人間がいる前で牛丼が出てきます。さて牛丼をどうやって食べますか。作法カードがいくつかあります。口いっぱいに詰め込む、食器を持ち上げる、ほほえむなど。具体的にこういうマナーで食べますというカードを何枚か持っている状態で、あまりいい手札がない状態のことがよくあります。例えば、とりあえず最初に使えそうな手札が「ほほえむ」という手札しかなかったから、「牛丼を前にほほえみます」とか。そういう謎のマナーを提唱することになるんですね。

「ごちそうさま」と言って終わるようなカードもありますが、自分がどのようなかたちで、目の前の相手の同族の人を食べるのか悩みながらマナーを提唱して、それが相手にちゃんとしたマナーに聞こえるのか。それとも差別的なよくないものとして名指されるのかを、お互いに競い合います。

 マナーの主張がだめだ! 差別的だ! と言われて負けることもあれば、程よいマナーだと認められるとポイントがたまります。ただし、「差別的だ」と言われるのも、言われ放題では終わらず、あまりに言いがかりだと感じられた場合は、ゲームの最後で、相手をやり返せる設定になっています。そんなようなゲームを作りました。

(著者提供)

大谷 私からもゲームについて補足説明します。肉を食べるというのは命を食べるということでもあります。マナーは誰に対する、何に対するマナーなのかでその意味合いは変わると思います。一緒に食べる人たちに向けてのマナー、食材となったものに対する礼儀としてのマナー、作り手に対するマナーなどで食事のマナーは構成されています。

 このゲームでは命を頂くということを実感してほしいため、「食材となった命にどうやって敬意を払うか」を「マナー」というかたちで表現しました。

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肉を食べますか?

大谷 そういう意味で、先ほども言いましたが、肉を食べるって命を頂くことです。「いただきます」という言葉がありますね。この言葉にはいろいろな意味があると思いますが、そのひとつに食材に対して敬意を示す言葉でもあると思います。

 もちろん私は肉を食べます。そうしたとき、いろいろなことを考えますが、やっぱり他の命を頂いている、ということが気になっています。そのことにどう折り合いをつけたらいいのか、自分の中の問題意識としてあります。

 私はそれを敬意というかたちで自分の中で落ち着かせたところはあるのですが、そういったところも含めて、まず、倫理学者の堀田さんからお話を伺いたいと思います。堀田さんは肉を食べますか。

堀田 多分、それは一番最初にお話ししておくべきことだと思いますが、私は肉を食べます。

 シリアスな食肉倫理を話すにあたって、肉を食べる自分には語る資格がないのではないか、と思うところもあります。難しいのですが、でも、肉は食べています。

 この問題を考えるとき、いわゆる共感、同情、かわいそうといった、動物や家畜の個体に対する想像力というのは非常に重要なきっかけだと思っています。

 ピーター・シンガー『動物の解放』は動物解放論のバイブルだと思いますが、彼は理性的に、「苦痛を感じるという点で、同情をかきたてられる」と言っています。生き物は苦痛を感じるから、生き物が苦痛を与えることは利益に対する平等な配慮に反するという、そういう倫理学の学説というかたちで、誰もが理解するはずだと。

 他方で、本当にひどい事例(例えば、工場畜産)がたくさん出てきます。かわいそうだという感覚を非常に強くかき立てられる。

 先ほど言いましたように、私はそこまでいかずに『マナーな食卓』を面白く楽しんでしまったのですが、想像力を掻き立てさせるいう点では、もう少しシリアスな方向に振るような工夫が必要かもしれません。

太田 私は肉を食べる食農倫理学の研究者です。ときどき誤解されるのですが、食農倫理学を研究している人は全員ヴィーガンなわけではありません。堀田さんにもご賛同をいただけるかと思うのですが、倫理学者は倫理学的に正しいことをするのが仕事ではなく――もちろん正しいことをするのは倫理学者以前に人として重要です――、何々をすべきである・すべきでないと考えられているのはなぜか、という価値判断の基準や背景を掘り下げてゆくのが仕事です。

 それをふまえて食肉に話を戻しますと、議論は諸々あるのですが、基本的に「食肉は、少なくとも現代人のような頻度ではするべきではない」という主張を支える理由の方が多面的で妥当性も高いです。それでも私が食肉をやめていないのは、十分な代替品がないという点が大きいです。私はダイズアレルギーなので、市場に出回っている代替肉の多くを占めるソイミートは、ほとんど食べられません。ソイフリーの代替肉が安価で気軽に手に入るようになればおそらくそちらを選ぶでしょう。でも、今のところ社会の仕組みと、私のライフスタイルの中で取れる選択肢がまだかみ合っていないため、私は菜食主義になっていません。

 もちろん、菜食主義になっていないのはおまえの覚悟が足りないからだ、本当に切実な問題だと思っているのであれば、他にも植物由来の代替肉があるはずだから探すべきだという指摘は当然ありうるでしょう。でも、個人に高い負荷をかけなければ正しいことができないというのは、それはそれで問題なのではないのかと思うわけです。ほどほどの善き意志があれば、社会と自分をうまく更新し続けられるような仕組みを作ることが望ましいと思っていますし、その実現に向けては真剣です。ひとまずこれが私の食肉に対するスタンスです。

 そんななかで『マナーな食卓』は、食肉について想像を巡らせることができる、面白くて深いゲームに仕上がっていると思います。

 以上を踏まえたうえで、『マナーな食卓』についてコメントをすると、よくできているし、面白いゲームに仕上がっていると思います。シリアスゲームの遊び方のひとつとして普通に楽しんで遊ぶということもそうですが、最後にゲームをやったことを反省的に考え直すデブリーフィング(振り返り)のパートがゲームに組み込まれています。要は遊び終わったあとで、ゲームの中で体験したことは何なのだろうかと考える簡単なセッションをやります。シリアスという観点で言うと、一番おいしいところだとよく言われています。

 そして今がまさに公開デブリーフィングで、一番シリアス度が高い。遊んでいるときは楽しくていい。それを深める作業ができればいいと思います。

井上 私も基本的に肉は食べますが、ブタだけ胃が受けつけません。立場的に太田さんとかなり近い感じがしています。培養肉など機能的代替物があれば多分選ぶと思います。同時代人がやっている同程度の悪というのは、肉食以外にもいろいろありますが、数十年後の人たちに批判されることはある程度仕方なしという気でいます。その感覚の中で、肉食をしているのかなと。

 カードゲームの話に戻りますが、理想としてはゲームでなるべく複雑な問題も含め、わかるようになったらいいのですが、カードゲームではデブリーフィングが難しいと言えます。デジタルゲームであれば、ゲームの中でも比較的デブリーフィングができて完結する作品が少しずつ出てきていますが、カードゲームの場合はルールをかなり絞らなければいけません。そのぶんフォーカスできる部分がすごく少なくなります。ただ、カードゲームでもシリアスさを学ぶことができる作品もあります。

大谷 菜食主義(特にヴィーガニズムの人たち)の人たちの中には、生きものの命をモノとして扱うことに対して批判的な立場を取っている人もいます。工場畜産としての動物への扱いがまさにモノ的であると。ぎゅうぎゅう詰めの鶏小屋で、周囲のニワトリを傷つけないようにするため、くちばしを切られた状態で管理されている。基本的に私たちの社会では肉食主義がマジョリティの価値としてあり、肉食それ自体を問題としない場合が多い。そのため、菜食主義の方たちが肉食について前提を覆すためにいろいろな議論を展開しています。

 ところで今回のゲームでは植物は扱っていません。ゲームの都合上、所要時間30分程度を考えておりましたので、キャラクターを限定しました。現実の様々な諸相を反映できないところが多く、そのような意味でデブリーフィングが重要です。デブリーフィングしたうえで、菜食主義や肉を食べることなど、いろいろなことを考えてもらえたらと思います。

食べる者/食べられる者/食べさせる者

大谷 ところで、堀田さんは肉を自分が食べることについて、どう折り合いをつけていますか。

堀田 先ほど太田さんが言われたことに半分同意で、半分違うなと思いました。改めて考えると自分の生活に負い目はやはりあります。肉を食べているときはほとんど考えませんが、考えるモードになると反省させられるというか。無自覚に生きてきましたので、まだ折り合いをつけ始める前段階かもしれません。

大谷 私は自分なりの折り合いのつけ方を考えているところです。それは、命を頂くということは、自分も食べられるかもしれないということなのだと意識しておいたほうがいい、というものです。他の命を食べ過ぎた分だけ、その分、他の命から復讐されるかもしれないというような考え方でして、ひとまず食べる/食べられるという関係で互いの立場を形式的に対等にするものです。命を食べた分は、別の形であれ、その恩に報いるみたいなことをやったほうがいいのかなと。蚊に刺されたりしても蚊を殺さないようするとか、自分の命を糧に他の生き物にも生きてもらう、というような考え方ですね。これは確かに命を提供しているか、という点では対等ではないです。ただ、別の命で自分が生かされているのであれば、自分の命も別の命を生かすことに役立ててもらう、という意味で対等にする考えですね。これは他の生き物とは別に人間だけが特別な存在ではないと意識することでもありまして、これはカルロス・カスタネダ(アメリカの人類学者)が書いた本に登場するメキシコの呪術師ドン・ファンの思想に影響を受けていますが。

太田 そうですね。例えば、『食農倫理学の長い旅』の著者である食農倫理学者ポール・トンプソンは菜食主義者ではありませんが、週の3日は肉を食べないようにしていると述べています。そういう仕方の折り合いのつけ方もありますよね。

 でも、「肉を食べることについて折り合いをつける」という話をするにあたっては、誰に対して、何について折り合いをつけようとしているのかについてもう少し細かく考えた方がよいかと思います。食肉についての議論の中では見過ごされがちですが、フードシステムの中には、(1)私たちのような肉を「食べるもの」と、(2)家畜という「食べられるもの」だけでなく、(3)畜産や加工・運輸・小売に携わっている「食べさせるもの」がいるわけです。

 食べるものの食べられるものに対する折り合いのつけ方と、食べさせるものの食べられる者に対する折り合いのつけ方は違うでしょうし、食べさせるものに対する食べるものの折り合いのつけ方も違うでしょう。さらに、食肉の何に対して折り合いをつけようとしているかによっても、話は変わってくるはずです。

 われわれは肉を食べるというと、個人としてまさに肉を口に運び、咀嚼する瞬間を思い描きがちですが、食卓からは見えないフードチェーン――農業、生産、加工、流通、消費、廃棄など――が広がっていることを忘れるべきではないでしょう。

堀田 「食べる/食べない」や「買う/買わない」の違いもそうですよね。

太田 そうです。「食べる/食べない」と「買う/買わない」は同じ行為ではありません。例えば、集約畜産に反対しているので肉も卵も買わないし食べないけれど、自分の育てている鶏と、その鶏が産んだ卵は食べても良いとしている方もいます。これはまた別の折り合いのつけ方ですよね。食はひとつの倫理的な公準のもとで捉えることは絶対にできません。誰の誰に対する倫理なのかという射程をある程度狭めてからではないと、考え出すこと自体がそもそも難しい。

 それでも、考え出すための最初の手がかりとして感情的なもやもや感があるのは間違いないので、『マナーな食卓』は良い出発点になると思います。

大谷 確かに。ゲーム設計の段階で悩みましたが、『マナーな食卓』では食べる/食べられる関係に限定しているところがあり、人と食の様々なプロセスや関係は反映できていません。

 だからといってこのゲームに意味がないというわけでもなく、現実世界の複雑さを考えるきっかけになり得る。それがシリアスゲームの魅力のひとつですね。

堀田 私の場合、普通のコミュニケーションゲームになってしまいました。手持ちのカードをどうやってうまくプレゼンテーションするかという感じに。

面白くないゲームはゲームなのか

大谷 今回、このゲームを制作するにあたって、現実の課題をどれだけ表現できるかということだけでなく、遊びとして面白さについても考えることもあって、そういう意味では、シリアスゲームはシリアスなだけでもダメで、面白くないとゲームではないのではないか、ということも考えました。

 だから、食肉の倫理を表現するにあたり、一方でどこまで現実の諸相を表現するのか、他方で、ゲームとして面白味を持たせるために、現実の諸相をどこまで切り落とすか、そういった点についても、ものすごく考えました。その意味で、シリアスな側面だけをきちんと表現したけど面白くないゲームっていうのはゲームなのかという問題が出てきますね。

井上 重要な問いがいくつか出てきました。まず食にかかわる倫理や食の様々な場面を扱ったゲームがあるかどうかについて話します。実は結構あります。

 シリアスゲーム系でよく参照されるのが、『ザ・マクドナルドビデオゲーム』です。マクドナルドのフードチェーンの仕組みを支えるためにどれだけウシや農作物に負担がかかっているのか体験するデジタルゲームです。

ザ・マクドナルドビデオゲーム

 ほかにもリアルな現代農業体験のゲーム『ファーミングシミュレーター』もあります。こちらのゲームは毎年新しいバージョンが出ていて、けっこう人気のようです。農業機械をリアルなシミュレートをしており、かなりしっかりと機械を操作して遊べるのですが、そういうのもあります。他に『天穂のサクナヒメ』なども話題になりました。

 こうしたゲームでは、食べることをめぐる様々なトレードオフの中で迷いを体感できるのが魅力です。ただ、いろいろな仕組みをすべてひとつのゲームに取り入れてしまうと、複雑になりすぎるため、ある程度フォーカスを単純にしています。

 デジタルゲームと違ってカードゲームは直接対面をするメディアなので、相手の顔を直接見ることができるという特長があります。『マナーな食卓』では、楽しむことを大切にしていますが、参加者によって雰囲気が左右されることもありますね。

 真面目な感じの方とプレイすると、とても憂鬱な感じになり、相手の顔を伺うんです。これは同じゲームであっても遊びの振り幅が出る部分だと思います。

食べられる食べられないという、線引き自体がもやもやする

(著者提供)

大谷 ここで堀田さんに伺います。肉食について倫理学や哲学の領域ではどのように考えられているのでしょうか。

堀田 シンガーなどが述べているように、苦痛を感じるのは間違いない。明らかに間違いがないのに殺して食べているわけです。肉食をやめることはできると思います。私にとって心理的な負担もそれほどおそらくかからない。慣習として肉食している感じがある。一方、肉は食べないようにしている人が身近にいると、なぜ肉を食べてしまうのか考えてしまいます。

 私はネコを飼っています。ネコも動物です。ネコをかわいがっているわけですが、そのネコの肉が出てきたら食べられないと思います。自分が飼っているネコの肉でなくてもです。だけど、ブタやウシだと食べる。矛盾しているのではないですかと言われたときに、矛盾していませんと言い切れない感じがします。

大谷 この動物はよくて、この動物はだめだという感覚に差があり、線引きか何かがされている。線引きそのもの自体がもやもやする。もやもやというか、それをやっている、一貫していないというような。

堀田 まさにそうです。

大谷 菜食主義の中には、生き物に苦しみを与えない、命を奪わないというところに軸を置き、その一貫性を保っているから善く生きることができる、といった説明もあったりしますが。

堀田 私が実践していないから言い訳になってしまうのますが。ただ、善く生きるといっても、いろいろな側面がもちろんありますから、それだけをやっていればいいかといったらそうは思わない。でも、できるのに、そして何か問題があって矛盾があるとわかっているのにやらないとなると何か負い目を感じますね。

大谷 確かに。一方で私は「菜食主義の人たちも植物は食べているな」と素朴に思ってしまいます。植物はなぜ食べてもよいのか、植物に知性があるという議論もあります。知性をどのように定義するかという問題はありますが、植物は動かないためにモノとして認識されており、食べることにあまり意識が向かわないように思います。

 ただ、実際は超スローで植物も動いています。植物から見れば人間が高速に動いている。勝手に自分の一部を取っていくような存在として人間がいたりする。

 では植物は生きてないかというと、生命体として認識されており、ただ感覚があるかどうかというのはわからないため、おそらくそこで切り分けられているのかなと思います。菜食主義では植物はどのように考えられているのか。生命体という認識なのか、もしそうであれば、そのことにどう折り合いをつけているのか。

堀田 確かに、苦痛の有無はとても大きい線だと思います。だけど、それだけがすべてではない。だからといって何をしてもいいという話ではないですよね。

 これは一緒に本を書いた池田喬さんから学んだことですが、それぞれの生物に特有のライフスタイルがあり、それを尊重するという点は重要で、大いに考えられます。先ほどの培養肉の話になりますが、培養肉は苦痛を仮にまったく感じないとしても、いわゆる「自然」に存在している生物のライフスタイルを破壊している気がします(笑)。その意味で、私はどちらかというと培養肉のほうが危機感というか抵抗感があるかな。

太田 なるほど。そういう発想はなかったです。

「なぜ哲学者だけで議論しているのだ、動物行動学者と生態学者も呼べ」

大谷 では、太田さんにお話を伺いたいと思います。食と農(土や植物を扱ったり、環境調整する)の倫理について、何が問題となり、どのような議論が展開されているのでしょうか。

太田 食農倫理でよく言われている議論を順番にご紹介します。

 まず基本として、農業は飢餓を克服することが重要な社会的使命です。人々を飢えさせないだけの生産物を育てるために、技術開発や品種改良を行うわけです。しかし、人々に安価な食べ物が行き渡るように大量生産を続けてきた結果、土壌劣化や気候変動などで生産基盤そのものを失いつつあるという、非常に皮肉な状況に置かれているのが現代の農業です。

 次に、食肉と結びつきが深いのが動物福祉(アニマル・ウェルフェア)の議論です。人間が飼育動物に対して与える苦痛を最小限に抑え、動物の待遇を改善しようとする考え方です。動物福祉は家畜以外にも、動物園で飼育されている動物や研究室で飼育されている実験動物も視野に入るので、家畜の場合は「家畜福祉」とも呼ばれます。ただ、その動物にとって何が苦痛なのかは、種によって大きく異なります。例えば、たくさんの鶏を個別の狭いケージで飼育するのは倫理的に許容できないので、畜舎の中で放し飼いにするとします。すると、鶏同士で序列を示すためのつつき行動がはじまり、順位の弱い個体はつつき殺されてしまいます。トンプソンは動物福祉のあり方を考える際、なぜ哲学者だけで議論しているのだ、動物行動学者と生態学者も呼べという話をします。それは完全にもっともなことだと思います。

 そして、「肉を食べるべきではない理由」の分類です。最初にお話ししたように、倫理学はある価値判断の根拠について分析・検討する分野です。

 例えば、1970年代に登場したピーター・シンガーの「動物の解放」やトム・レーガンの「動物の権利」の議論は、人間以外の動物を倫理的配慮の対象とするべきだとするものです。動物も生存する権利を持っているので、食肉をしなくても生存できる人間は、動物の生存権を侵してはならないというレーガンの主張は、『マナーの食卓』で疑似的に食べられる側を体験することで把握しやすくなるでしょう。

 また、「肉を食べるべきではない理由」に人道的見地や環境保全の観点をあげることもできます。私たちは今日、90億人分ほどを養えるだけの穀物を収穫可能です。それでもなぜ食料不足が叫ばれているかといえば、その穀物の約4分の1が家畜の飼料になるからです。さらに、飼料としての穀物を得る農地のために熱帯雨林が伐採され、大量の淡水が使われるなど(世界の淡水使用量の30%ほどが畜産に消費されています)、畜産は非常に環境負荷が高い業態です。

 他にも宗教的にタブーだから、身体が受けつけないから、健康のために、単に嫌いだからなど、肉食を避ける理由はいくつもありえます。いずれにしても、ここでのポイントは、何かを食べることに「気が引けるな」と思ったとき、このような感情は何によって生み出されたのか、そのときに関わった知識は何だろうかと、一旦立ち止まって考えることで、今後、私たちの食べるものが否応なく変化していく日々の中で、やはり変わっていく私たち自身を省みることができます。

 おそらくわれわれは、肉を当たり前のように食べる最後の世代でしょう。環境負荷を考えれば食肉はますます疑問視されていくはずです。代替食の生産と消費など様々なところへ複合して変化してゆくと思います。そのときに何が譲れて、何は譲れないのか、あらかじめ考えておくことはできると思います。

井上 身近なところで菜食主義の人たちが増えると、肉を食べるという慣習から抜け出すことの負荷はだいぶ変わると思います。海外の同業者、ゲーム研究をやっている知り合いはヴィーガンが増えつつあります。10年、20年後ぐらいには「慣習」が変わっているかもしれません。

大谷 肉食はイデオロギーとしても認識されない、それこそ肉食が巨大なイデオロギーとしてあるためで、その認識を変えるのはかなり難しいという議論はなされていますね。私たちは常に変容の過程にいますし、食そのもの自体が食べることだけで完結していない。文化や社会の問題もある。さまざまなことが複雑に絡み合っていて、どう考えればよいのか言語化が難しいですが。

人間ではないという理由で何をしてもいいのかを、差別論から考える

大谷 差別の話に移ります。ここで紹介するのはスナウラ・テイラー『荷を引く獣たち』です。著者のスナウラ・テイラーは障害を持っている女性ですが、動物の扱われ方と障害者の扱われ方が共通していることを指摘してます。その扱われ方の構造は互いに似たものであるにもかかわらず、動物のほうはまったく論じられていないと。しかも、その両者のつながりも論じられていないことを問題視しており、鋭く批判しています。

 差別論と動物倫理の話がどうつながるのか。堀田さんからご意見を伺いたいです。

堀田 スナウラ・テイラーのような問題提起を、現代の差別論で正面から受け止めるような議論というのは、おそらくこれからなのではないかと思います。障害者差別の話はありますが、今のところ人間の中での話になっています。種差別という言葉はもちろんありますし、シンガー以来ずっとありますが、私が知る限り、差別の枠組みは基本的に人間の中での人間扱いされないというものです。まさにスナウラ・テイラーも述べているように障害者は人間扱いされないとか、テイラーの本にもありますが「動物のように食べる」とか、そういう意味での蔑視に対して、「いや私たちは人間だ」と抵抗している面もあります。

 私は人間と動物は明らかに違いがあると思っています。決定的な違いは生き方そのものです。その生き方の差がかなり大きい。だからといって、動物に無駄な苦痛を与えていいとは思わない。ただ、差別という枠組みにそもそも入れるのかどうかに疑問があります。彼らは種差別という言葉は作っていますが、差別の話として本当に言えるのかどうかはわかりません。

井上 種差別という言葉が出ました。ご説明いただけますか。

堀田 ピーター・シンガーが『動物の解放』で述べているのですが、人種差別や性差別は人間の中での人種や性別に基づいています。一方、種差別は動物に対して、人間ではない(種が違う)という理由だけで、苦痛を感じるという重要な面では同じなのに不利な扱いをすることを言います。1970年代以前の動物実験など、とてもひどい事例がありました。

大谷 太田さん、差別そのものは食農倫理学で扱われたりしますか。

太田 私が知る限り、主流のテーマではないですね。

大谷 ゲームというフィクションの領域では倫理や種差別を扱う場合が多いですよね。そういう意味ではデジタルのある種の可能性を感じます。無意識的に行っている種差別的な行為を意識させるような仕組みがあるのだろうと思います。

井上 デジタルゲームが差別をどう扱えるかという点については、ポジティブとネガティブな側面の両方があると思います。

 ポジティブな側面から言うと、プレイヤーが人間以外のものになることで、人間にひどい扱いをされることを体験したり、ロボットになって未来の人間社会の中でどのように生きるかを体感できる。ゲーム『デトロイト ビカム ヒューマン』はこうした差別の被害者側に立つことができる作品ですね。

 ネガティブな側面で言えば、多くのゲームでは戦闘が扱われていますが、敵は仲間とはまったく異なる規範が適用されます。ゲームではリアルな身体ではないため、ひどいことをしても大丈夫だと判断してしまう。また同じ仲間であっても攻撃や防御の能力に応じて、必要か不要かが単純に判断されてしまいがちです。

大谷 確かに、ゲーム内で様々な役割を体験することができる反面、感度が低くなる危険な側面はありますね。

哲学で考えたとき、マナーは本当に必要なのか

大谷 最後に議論したいのは「マナー」です。私は「マナー」を命に対する敬意を表現する方法として取り上げました。それはひとつの「マナー」のあり方としてありますが、自分の気持ちを落ち着かせたり、心地よく生きたり、周りの人を不快にさせない、といった様々な機能が「マナー」にあると思います。

 では、哲学の視座から「マナー」は本当に必要なものか考えたいと思います。堀田さん、いかがでしょう。

堀田 倫理というのを、ルールの一種だと考えましょう。法律とエチケットやマナーの中間に、重なる部分もあるのですが、倫理があると言われることが多いと思います。法律の中核にも倫理がありますが、法律のように明確に明文化できない面も倫理にはあります。マナーやエチケットにも、道徳的に、社会でやってはいけない事柄が含まれますが文化的な違いがあります。

 例えば日本では家に土足で入ってはいかない。ただそれは道徳的に悪ではない。また、エチケットやマナーは歴史的に変遷してきましたし、文化によっても変わりますが、倫理は普遍性があると説明されることが多いです。

 他方で、マナーは極めて道徳的に重要だという議論があります。敬意を相手に示すことの重要性ですね。礼儀正しいように振る舞うようにとも言われますが、「振りをする」というのは演技しているようで本心からではなく偽物のように思われることがありますが、実は重要で、相手に敬意を示していることに意味があるという。まさにそういう話が『マナーな食卓』の前提にあるとしたら、鋭いなと思います。敬意というベースは変わらないけど、何が敬意になるのかで衝突するんですね。

太田 堀田さんのお話に賛成です。実は私は『マナーな食卓』をプレイしていて、食材に対してよりも、一緒にいる人たちに敬意を払っていることを感じる方が多いですね。

大谷 なるほど。マナーは人間関係を円滑にする場合もあれば、マナーによって対立が生じることもあり得る。

太田 「肉食とどうやって折り合いをつけるか」だけでなく、「異なるマナーを持つ人たちとどうやって折り合いをつけるのか」は『マナーな食卓』を通して想像できることの一つだと思います。『マナーな食卓』では、差別的なマナーを提示したプレイヤーに対して「デミーン」(demean)と指摘するフェーズがありますね。

堀田 「デミーン」は結構重い言葉のような気がします。普通、私たちはこの人は差別的だと直接指を差して指摘しません。その場で訴えるというのはまさに楽しんでいる人たちに対してマナー違反になったりします。なのに『マナーな食卓』では組み込まれているので面白いなと。

大谷 ゲームだから体験できるところですね。「デミーン」は堀田さんと池田さんが訳されたデボラ・ヘルマンの『差別はいつ悪質になるのか』から使わせてもらいました。ヘルマンによれば「貶化(へんか)」という意味があります。人を貶めていることを意味する言葉で、差別と同様の意味合いを含むものとも考えられますが、私にとって何か印象的な言葉として残っており、ゲームのひとつの特徴として使用できればと思っていました。

堀田 短いですし、使いやすい言葉ですね。私は少しぎょっとしました。私たちが訳したヘルマンという人の差別論ではとても重要なキーワードなので、それを軽く使っているような感じが……と少し思ってしまいました。すみません。

大谷 いえいえ、こちらこそすみません。「デミーン」という言葉をどう使うかは、大変に気をつけないといけないのですが、このゲームのテーマにおいて、この言葉はゲーム性を明確にしてくれますし、なにより「ゲーム」というフィクションだからこそ、この言葉の意味を実感できることもあって、使用させていただきました。

堀田 いえいえ、英語では日常的にも使うようですし、今のは特定の本の意味付けを前提にした話ですので、もちろんぜひ使ってください。

井上 ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』という本があるのですが、これは中世ヨーロッパにおけるマナーの流通変化が、どういったプロセスを経てきたかを書いたものです。

 実は、昔の人は普通に机の下に唾を吐くのがマナーとしてまったく問題なかった。けれども、歴史的に徐々に机の下に唾を吐かないことがマナーになってきた。それはなぜか。

 よく言えば相手への敬意だという話もありますが、マナーをもっているかどうかということが、社会的地位を示すシグナルとして使われる側面が増えてきたからだと。

 興味深いと思ったのが、16世紀とか17世紀ぐらいのヨーロッパの貴族の食卓では、動物の身体を丸々焼いて食卓に出す場合が一般的だったようです。それは調理しやすかったからなのですが、当時のマナーの達人は、食卓に一滴の血も落とさずに部位を解体して食べます。それがいいと。

 動物の血液が忌避されており、現代よりも狩人などが多かった時代です。野生動物との距離が今よりも近かったはずの時代において、あえて動物の血が貴族の食卓に入りこむことが忌避されている。

 マナーをめぐる話は多文化主義的な側面があるという話が出ましたが、そこには社会的差別と、種差別的な感覚なども入りこんだ、渾然一体としたものとして運用されている。

大谷 そうですね。このゲームでマナーを主題にしたのは、正しさによる対立をコンセプトにしていたからです。

太田 チーム名が「Satsubatsu(殺伐)」ですからね。

大谷 自分の正しさが正しいと思っていると、他の正しさが受け入れられず、対立が起こってしまう。そのような状況を食事の場面でどう表現するか考えたとき、マナーが最適ではないかと思いました。

 ただ、皆さんと議論するなかで思ったのですが、マナーも人間関係を表す、ある種の表現の形態としてあります。そこには種差別、敬意の有無など人間社会の様々な問題が芋づる式に出てくる。『マナーな食卓』が様々な問題を考えるきっかけとしてあり得ると感じました。今日は、ありがとうございました。

(了)

写真撮影:石堂美花