3.1.3 準備説から現代的学習説へ

 グロースの準備説は批判されつつも、ゲームを「学習」としてみなす立場自体は、現在も多様な領域で支持を集めていると言っていい。

 多くの人々に、「そうかもしれない」と思わせたし、「ゲームとは何か」を説明するための手立てとして、こうした予期や調整、学習、上達といった概念を伴う説明は多様な形で変化して展開されるようになった。「ゲームとは何か」について、研究者に多数決をとったなら、かなり強力に支持されている説だといえるだろう。現代における影響力の強い「ゲームとは何か」に関わる議論――たとえば、Salen& Zimmermanの意味のある遊び(Meaningful play)や、カイヨワの遊び論――のほとんどが、学習説の見地を、何らかの形で部分的には含んでいる。

 ただし、「多くの論者が支持している」ということは、それだけでは、ただの多数決に過ぎない。ゲームを学習として見なす立場は、単にメジャーな観点というのみならず、経験的/実験的に説得的な論拠を積み重ねてきてもいる。

3.1.3.1 ゲーム開発現場における支持

 まず、先程も述べたようにゲームを「学習」プロセスとして把握することがゲーム開発実務に有効な側面があった。とりわけ、アクションゲームのようなプレイヤーの技能が上達していくゲームでは、学習説は相性がいい。ゲームのマップをどう設計し、難易度を調整していくか。新たなキャラクタースキルをどの段階でアンロックし、どのような強さの敵を配置するかを考えるとき、プレイヤーがどう学習し、予測をたて修正していくプロセスを見越しておくことが開発者にとって有用な技術となる [1]。抽象的な理論である以上に、開発の現場で、実際に部分的に運用が可能だということは、それは少なくとも現実の一部を捉えているということだ。これが、ゲームという現象の一側面であることは、実用的にも試され、合格しているケースが数多くあるといってよい。

 ただし、「現場で使える知識」が、対象の説明として最も良い説明であるというわけではない。現場で「使える」ことは、何かしらの適切な説明かもしれないが、経験則でしかないという限界も抱えている。では、もう少し学術的な知見としてはどうだろうか。

 動物行動学や、認知科学など複数の学術分野において、この点を検討するための研究が行われてきている。

3.1.3.2    動物行動学的/人類史的な説明との整合性

 まず、グロースに特有の視点であったゲームの動物行動学的・人類史的な起源と関わる論点がどのように根拠付けられるかという点を確認していこう。本書は進化論的な論点については詳細には扱わない。それでも、子どもが生存のための方法を積極的に習得することに、快楽が伴ってきたという見方には、進化史的にも遡れそうな部分がある。たとえば、動物行動学的な話としては、ライオンの子育てで「狩りの訓練としての遊び」によって甘咬みをする、という話はよく知られている。また人類史的な話としては、第二部でも紹介したアフリカの原住民の遊戯研究[2]では、小さな子供たちが狩りや植物採集を「遊び」として行っていることが、大人になったときのための訓練となっており、学習と遊戯が緊密に結びついた原住民の生活が存在することが、示されている。

 また、多くの動物の行動のなかに、食事とも睡眠とも性ともかかわらないものが観察される。これは、食欲や睡眠欲といった一次的な欲求では解釈しがたい。好奇心のようなものが前提としなければ、説明の難しい行動が多数みられる。こうした点は古典的なグロースの準備説を部分的に支持しているといえる[3]

 ただし、グロースが主張したような、「遊びが後天的な学習をするための本能」である、という部分の主張は、現代においては支持しづらい。たとえば、後天的な学習は「遊び」以外の形でもありうる。社会的学習をする生き物には、蟻がいるが、蟻は一般に遊ぶものとは考えられていない。遊ばないが社会的学習をするような生き物という反例は他にもあり、遊びが社会的学習の必要条件や十分条件とは考えにくい。もっとも、遊びが社会的学習を促進する重要な要素である可能性はある。猿やクジラなど、遊ぶことが確認されている種と、脳の容量は正の相関をすることも知られている。遊びの頻度・複雑性と相対脳サイズには、哺乳類の大きな分類単位を横断した比較では相関が見られるが、霊長類や齧歯類など、より低い分類階層での比較ではその関係は弱まる、あるいは一貫しない[4]。 こうした問題はあるものの、サルなどの動物行動学研究において、遊びをする集団や個体が、様々な学習を経ていると思われる報告も数多く見られる[5]。遊びやゲームが、学習と相関する何かであるという主張自体は充分に可能なものと言える[6]

3.1.3.2.1 何を「学習」するのか?:学ぶ対象が生存と関わる必要はあるのか?

 「学習」概念の詳細についても少し確認しておきたい。

 たとえば「遊ぶように何かに上達する」というときに、そこでは生存に必要な活動だけがなされるわけではない。ビデオゲームのようなものはまだしも、時にはフェイクニュースの拡散や、その人の人生を駄目にしてしまうような活動がゲームとして設計されていることもある。これは、生存に必要であるどころか、むしろ逆の事態である。むろん、長い人類史のなかで、過去に生存に有利であった特性が現代社会においてエラーを起こしているだけだということも言えるかもしれない(進化的ミスマッチ)。いずれにせよ、少なくとも直接的には生存と関係しないことは多い。

 これは、サルなどの動物でも似たようなことが観察されることがある。よく遊ぶサルは技能をよく獲得することがあるが、そういったサルは遊びに熱中しすぎるせいか体格の成長が遅くなるといったケースが報告されている[7]

 つまり、(A)遊びを通じた繰り返し行動による認知の変化(習熟、上達)は、(B)遊んだ個体が大人になったときに生きていくために有利になる(生存上の利点)わけではない。学習による変化と、生存上の有利さは共通する要素をまったく含んでいないわけではないが、そこには違いがある [8] 。ゲームや遊びにおいて、安定的に確認しやすいのは、前者のような学習による変化であって、生存に有利という点は「そういうこともある」という程度に留まっている。

 現代では、グロースの準備説のような「遊びの本能」といった人間本性のようなモデルを必ずしも想定しなくなった。チクセントミハイの「フロー体験」は結果的にゲームや遊びの説明理論として有用なものとして参照されているものの、基本的には人間にとっての「楽しさ」の説明仮説であり、ゲームの本能論のようなものではない。ユールのモデルもある種の意味の典型性の範囲を指し示すといったものであり、素朴に人間本性のようなものを説明する理屈にはなっていない。グロースは野心的に、遊びと進化の関係性を示したが、この仮説は魅力的な論点ではあるが、そのまま支持できる類のものではない。[9]

3.1.3.3    認知科学的な説明との整合性

 進化論的な視点がいささか根拠として不確かな一方で、ゲームや遊びにおける学習と、快楽の結びつきについては、脳神経科学のようなハード・サイエンスから見てもある程度支持できそうな状況が構築されつつある。

 コンピュータ・ゲームのプレイを通じてドーパミン放出が高まることを示唆するようなNature論文も一九九八年ごろには出てきているし[10]、金銭的利得の予期・獲得が快楽に関わるとされる脳活動(報酬系の作動)を活性化させることは確認されてきている[11][12]。また、コンピュータ・ゲームのプレイ中に、側坐核・扁桃体・眼窩前頭皮質などを含む中脳辺縁・皮質辺縁系の関与を、性差の観点から検討した研究もある [13]。フロー体験と神経活動の関係を、探索的に対応づける研究も現れている [14]

 (A)脳の側坐核などの複合的な部位が連動する形で活性化する「報酬系」のメカニズムと、(B)心理学的な内発的動機づけ実験の間が、近年では少しずつ架橋されようとしてきている[15]。こうした、報酬系をめぐる話は、我々の日常言語で理解している「人間」のモデルを、ハードに基礎づけうるように思わせる。しかし、脳の活動計測についての研究が、ただちに人間の学習と快楽の結びつきを、示してくれるわけではない。

3.1.3.3.1 心理的な説明モデルの限界

   繰り返すが、「ゲーム」という概念のありようは、実験心理学や脳神経科学が対象とするような実験室実験よりもさらに広範な日常的経験である。そのため、脳神経科学実験が、ゲームのすべてが説明できるわけではない。ハードサイエンスは、強い根拠となりうるという印象が与えやすいが、脳神経の活動計測の意味を知るために様々な推測が挟まっている。言うまでもなく、脳神経生理学的な根拠によって、学習説の全てが肯定されるかのような議論は、安易かつ、不用意な学際的方法と批判されるべきものだ。「脳神経生理学的な根拠があるから、ゲームの学習説が正しい」のだ、などと結論してしまうことは、複雑性の水準をまたぐことに対して無頓着すぎる。複雑性のレイヤーが異なる現象[16]であり、複雑性のレイヤー間をまたぐ創発的現象にはブラックボックスが存在する。脳神経生理学的な説明と、心理学的な説明の間には大きなジャンプがある[17]。そして、脳神経科学的な説明と、日常的に「ゲーム」を遊んだり、作ったり、語ったりする際の感覚の間にも大きなブラックボックスが横たわっている。脳神経科学的な説明と、我々の日常的なゲームを遊ぶ行為の間には、国や時代によって異なる「ゲーム」という言語の意味、社会制度、市場、身体など様々な要素が挟まっている [18]

 脳神経科学のいくつかの論文をもって、人間の学習と快楽が固く結びついているという強い結論付けを行うことは避けるべきだろう。たとえば、「ゲームをするとドーパミンが出る!」というような話はよく聞くが、一般に「ドーパミン=脳内の快楽物質」と語られるが、脳内の化学物質や脳内の部位との関連はかなり複雑で、そう単純な話ではない[19]。ドーパミンの放出を扱った論文をあえてならべてみると[20]、ゲームを遊んだときに増加するとされるドーパミンの量が食事や瞑想よりも少し多い程度に過ぎなかったりする。性行為よりも少なく、コカインなどよりは遥かに少ない[21]。しかし、言うまでもなく食事、瞑想、性行為、コカインとゲームを遊ぶことは同一の現象ではなく、ドーパミンの増加を示すことがゲームの機序を考えさせる手がかりにはなるが、それはゲームという活動の一部を説明するに留まる。ドーパミンの量だけを手がかりに「ゲームの体験が食事よりも優れている」とか「ゲームは、性行為よりもたいしたことがない」などと言われても、そんなドーパミン至上主義的にはあまり説得力はないだろう。

 脳の状態の測定結果には多くの解釈や推論が挟まっており、神経基盤に関する説明と、心理学のような高次のレベルでの説明をまたいだ基礎づけは一足飛びに行えるものではない。研究上の課題は多くあり[22]、強い結論を導くことができるとは言えない[23]。もっとも、だからといって、まったく説明力がないとか、根拠としての価値がないというわけではない。それもまた、極端に禁欲的すぎる態度だというべきだろう。すでに述べたように、脳神経生理学、心理学、そしてゲーム開発者たちが、ほぼ同一の現象について、別々の水準から一貫した説明が試みられようとしていることは、特筆すべきものだと言える。

 繰り返しになるが、報酬系で全てを説明することはできないが、学習説が想定するようなプロセスを通じて快楽が発生する機序と、報酬系のモデルがかなり類似するものであり、将来的に両者の説明を橋渡しできる可能性は少なくない。両者は、完全に整合的とは言わないまでも、似通った説明となっている。

 現代的な学習説は、認知科学を取り込みながら議論を更新してきた。そのため、両者がある程度近似する説明体系となっているのはある意味では当然のことでもある。100年後にも学習説はあるだろうが、おそらくそれは、現在の学習説が、部分的に修正されたような説明になっているだろう。 [24]


[1] 特にコンピュータ・ゲームの「レベルデザイン」(マップデザイン)と呼ばれる分野ではかなりの頻度で見られる説明の仕方であると言っていいだろう。たとえば、大野功二『3Dゲームをおもしろくする技術』(SB Creative,2014)では、レベルデザインに関する最初の解説がまさに学習説的なゲームの把握を前提にして論じられているものである(pp. 390-408)し、渡辺修司らの前掲書にも類似する記述が見られる。ゲームデザインの実践について述べた書籍のうち、ゲームのマップ構造の設計に関わる記述があるものは2000年代中盤以後に「レベルデザイン」の概念が普及して以後、ほとんどの書籍でこういった説明が採用されるようになった。また、筆者自身も2006年に、ユリイカの任天堂特集号に『スーパーマリオブラザーズ』のゲームデザインを学習説的な観点から説明を行っているし、それ以後も何度かこの説明を行っている。そのため、国内の議論状況については筆者自身がこうした説明を増加させるような結果に関与してしまっているため、第三者としての立場から述べることが難しいが、日本語圏だけでなく、英語圏のゲームデザイン書籍でもこういった説明は頻繁に見られる。
[2] 亀井伸孝(2010)『森の小さな「 ハンター」 たち: 狩猟採集民の子どもの民族誌』, 京都大学学術出版会
[3] Berlyne, D. E. (1966). Curiosity and Exploration: Animals spend much of their time seeking stimuli whose significance raises problems for psychology. Science
[4] (Iwaniuk, A. N., Nelson, J. E., & Pellis, S. M. (2001). Do big-brained animals play more? Comparative analyses of play and relative brain size in mammals. Journal of Comparative Psychology, 115(1), 29.)
[5] Berghänel, A., Schülke, O., & Ostner, J. (2015). Locomotor play drives motor skill acquisition at the expense of growth: A life history trade-off. Science advances, 1(7), e1500451.
[6] グロース以後の動物行動学の発展は、デイヴィッド・トゥーミー /梅田 智世 訳(2026)『生きものは遊んで進化する』河出書房 原題:Toomey, David. (2024). Kingdom of play: What ball-bouncing octopuses, belly-flopping monkeys, and mud-sliding elephants reveal about life itself. Blackstone Pub.
[7] Berghänel, A., Schülke, O., & Ostner, J. (2015). Locomotor play drives motor skill acquisition at the expense of growth: A life history trade-off. Science advances, 1(7), e1500451.
[8] これに近い論点としてたとえば、進化心理学的な仮説も提案されている。(下記は前掲のデイヴィッド・J・リンデン『快感回路』2014、河出書房、文庫版、p. 183で紹介されているもの)、男性が女性と比べてリスクを積極的にとりたがる傾向(ギャンブルに親和的な傾向)が実験的にみられる原因として狩猟の際の合理性が関わっているのではないかといった議論など、人間の「起源」に関わる議論のうち、ゲームと関連しそうな仮説自体はいくつかある。進化心理学的な仮説それ自体は興味深いが、それ自体が有効な論拠をもつものではないためここでは進化心理学的な仮説は直接に扱えない。そして、たとえ遺伝子と脳の働きをつなぐような比較的有力な説明力のある仮説が提案されたとしても、現在の状況では、進化心理学的な仮説から、現在の我々の日常経験を説明しようとするのは、かなり大きな距離があると言わざるを得ない。現時点の科学的水準では、思考実験的な可能性として提示する以上には、ゲームにかかわる心の働きを、進化心理学的な説明を「論拠」という側面から説得的に提示するのはかなり難しいと思われる。
[9] また、教育ツールとしてのゲーム(シリアスゲームなど)の可能性というような論点は、「学習説」とは少し異なる。教育ツールとしてのゲームが機能する理論的なバックグラウンドとして、学習説的なものが参照されることはよくあるが、繰り返すように学習される対象が「教育的に望ましいもの」であるかどうかとは関わらない。たとえば、銃撃戦のゲームに上達するのはある種の「学習」であるが、「教育的に望ましい」こととは独立している。学習説は教育ツールとして有用性そのものの理論ではない。
[10] Koepp, M. J., Gunn, R. N., Lawrence, A. D., Cunningham, V. J., Dagher, A., Jones, T., … & Grasby, P. M. (1998). Evidence for striatal dopamine release during a video game. Nature, 393(6682), 266-268.ただし、この論文では金銭的報酬も関わっているため、厳密にはゲームプレイのみで報酬系が活性化したとは言えない。
[11] Breiter, H. C., Aharon, I., Kahneman, D., Dale, A., & Shizgal, P. (2001). Functional imaging of neural responses to expectancy and experience of monetary gains and losses. Neuron, 30(2), 619-639.
[12] Knutson, B., Adams, C. M., Fong, G. W., & Hommer, D. (2001). Anticipation of increasing monetary reward selectively recruits nucleus accumbens. The Journal of neuroscience, 21(16), RC159.
[13] Hoeft, F., Watson, C. L., Kesler, S. R., Bettinger, K. E., & Reiss, A. L. (2008). Gender differences in the mesocorticolimbic system during computer game-play. Journal of Psychiatric Research, 42(4), 253-258.
[14] Klasen, M., Weber, R., Kircher, T. T., Mathiak, K. A., & Mathiak, K. (2012). Neural contributions to flow experience during video game playing. Social Cognitive and Affective Neuroscience, 7(4), 485–495
[15] Howard-Jones, P. A., & Jay, T. (2016). Reward, learning and games. Current Opinion in Behavioral Sciences, 10, 65-72.
[16] 二部の、創発や還元に関わる議論を参照のこと
[17] この点は、脳活動の観察結果から特定の認知過程の関与を推論する 逆推論(reverse inference)の問題としても論じられている。Poldrack, R. A. (2006). Can cognitive processes be inferred from neuroimaging data?. Trends in cognitive sciences, 10(2), 59-63.
[18] もし、ブラックボックスがなくなっているのであれば、脳神経科学者や、心理学者が、ゲーム産業に従事するゲームデザイナーを超えるような大ヒットするゲームのメカニクスを設計できてもいいはずだが、残念ながらそういうことは起こっていない。強いてあげるのであれば、川島隆太が関わった『東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング』(任天堂・ニンテンドーDS、二〇〇五年)は、脳神経科学者が関わった大ヒットしたゲームタイトルだと言える。ただし、認知トレーニング一般については、訓練課題そのものの成績向上と、日常的認知機能への広い転移とは区別する必要がある。脳のトレーニングをうたったゲームについては、訓練課題での改善については広範な証拠がある一方、遠い課題や日常的認知機能への転移については限定的であると整理している。Simons, D. J., Boot, W. R., Charness, N., Gathercole, S. E., Chabris, C. F., Hambrick, D. Z., & Stine-Morrow, E. A. (2016). Do “brain-training” programs work?. Psychological science in the public interest, 17(3), 103-186.
[19] ドーパミンは快楽(Liking)そのものというよりは、報酬への期待や欲求(Wanting)に関わる物質であるという指摘もある。Berridge, K. C., Robinson, T. E., & Aldridge, J. W. (2009). Dissecting components of reward:‘liking’,‘wanting’, and learning. Current Opinion in Pharmacology, 9(1), 65-73.
[20] 研究ごとに、測定方法、対象者、脳部位、課題設計が異なるため、こういった並べ方は研究論文としては適切ではない
[21] 井手草平,2023,ゲーム・食事・瞑想・セックス・薬物のドーパミンの放出量の比較 更新 ,https://ides.hatenablog.com/entry/2023/07/22/000843, 2023年8月18日閲覧
[22] Palaus, M., Marron, E. M., Viejo-Sobera, R., & Redolar-Ripoll, D. (2017). Neural basis of video gaming: A systematic review. Frontiers in human neuroscience, 11, 248.
[23] Alameda, C., Sanabria, D., & Ciria, L. F. (2022). The brain in flow: A systematic review on the neural basis of the flow state. Cortex, 154, 348-364.
[24] また、グロースの準備説は「子供の遊びは説明できても、大人になってからも遊び持続することの固有の意味を説明できない」という批判があったが、こういった現代的な認知科学と接続されることによって現代的な学習説は、子供の遊びも、大人の遊びのどちらでも適用可能な一般性を保とうとしている。これは、ビデオゲームの研究のような子供に限らない遊び手を考えるような理論研究においては当然要請されることだったとも言えるが、子供の遊びについての研究が20世紀中盤以後、ピアジェ(ピアジェ/大伴茂訳『遊びの心理学』(1967=1951、黎明書房), 原著=Piaget, J. L, 1951. Play, Dreams and. Imitation in Childhood. New York: Norton. なお、同書は仏語原著 La formation du symbole chez l’enfant の英訳にあたる。)の影響によって、発達心理学領域の研究として発展を遂げたことで、子供の遊び研究は分野として独立したということも言える。

(続く)

この記事は、2026年6月4日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲームに関わる多様なトピックを扱っていきます。概念間の関係性についての詳細な議論はぜひ書籍刊行をご期待ください!
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。