10年ほど前に京都に住んでいたことがある。あの頃の京都にはまだ「京都らしい」町家が残っていた。私はずっと着物を着る生活に憧れていて、いつか京都に町家を買ってそこに住もうと半ば決めていた。ところが、2012年の末に転勤を言い渡され、京都を離れることになってしまった。もちろん東京でも着物は着られる。けれど東京で着る着物は京都で着る着物とは違って、非日常のものになってしまう。そのような何かしっくりこない感じを抱えたまま東京での暮らしは続いていって、それからまた10年がすぎた。

 この10年のあいだに京都の風景は変わっていった。インバウンドの観光需要が大きくなっていった結果だった。気がついたら私の好きな京都の町家は上京区あたりにしかなくなっていた。私が住んでいた頃には中京区や東山区にも残っていた町家は、めっきり少なくなってしまっていて、あったとしても篦棒に高価なものになってしまっていた。そうではないものは「なんちゃって町家」風の建物ばかりになっていた。私は10年前に投資し損ねたときに、「私の中の京都」から追い出されたのだと今でも思っている。

 私が東京でもがいているあいだに、イギリス人の友人が長年過ごした東京から滋賀に移り住んだ。それも私の知らない滋賀県の田舎にだ。遊びに来てもいいよと許可が降りたので、さっそく1泊2日でお邪魔したのは3年前の春のことだ。そして、びっくりした。自動車がないと、最寄りの駅にもたどりつけないその田舎には、10年前に失ってしまった「私の中の京都」が残っている素敵な場所だった。しかも、そこには住人はいたけれど観光客はいなかった。もちろんそこにあったのは京都の雅やかな雰囲気ではなく落ち着いた風情があった。そこはなにか、取り残されたような街だった。

▲日野の風景
▲850年続くお祭り「日野祭」の様子。祇園祭のように町内ごとに「山」を持っていて(鉾はない)、この「山」と御神輿とで練り歩く。女性が参加できないのは祇園祭と同じ。この写真をよく見ると、男性の長半纏の下は女物の長襦袢を身に着けている。
▲馬見岡綿向神社

 私はここに住む決意をしたという友人夫妻がとてもうらやましくなった。我ながら素直すぎるというか、非常識だったと思う。しかし気がついたら「私もこんなところに住みたい」とその日のうちに口に出していた。それからしばらくして彼から連絡があり、「まさえに合う、小さな家を見つけたよ」言われた。それが今の家との出会いだった。2019年の初夏のことだ。

 その家は約100年建っているようだ。なぜ「ようだ」なのかというと、当時を知っている人はもはやいないので誰も証明できないからだ。ただ建築の様式にせよ資材にせよ、戦後にはこのパターンはないので、おそらく築100年近いだろうと持ち主の方に言われた。もともとの持ち主は数年前にお亡くなりになっていて、そのあとは私と同世代のお孫さんが年に何回か足を運んで管理していた。「こんな古い家を誰も引き取ってくれない」と諦めていたそうだった。

▲修繕前
▲風通しのために取り壊した納屋

 この日野という町は近江商人を一番多く排出したという誇りのある町だ。日野にはボランタリーに街並みの保存を行っている古美術商さんがいて、私とこの家との橋渡しをしてくれたのはこの人だった。何代も住んでいる人が多いので、こうした小さな古い町には不動産業が機能しない。そのため不動産の売買は個人的な口コミか役場の紹介がきっかけになる。手続きは町のご意見番的存在でもある心優しい司法書士事務所の先生(大岡越前のようだ)が親切に対応してくれた。あっという間に家は私が引き継ぐことになった。家屋に残っていたものの中で、家電など最近造られたであろうものは処分してもらって、それ以外の家財道具はまるごと私が引き受けた。

 見学の日に初めて玄関の敷居を越えたときのことは今でもはっきり覚えている。家の中に、いい風が流れている感じがした。そのときには私をこの町に導いてくれた例のイギリス人の友人夫妻と、彼が手配してくれた工務店の髙木さんも来てくれた。その工務店の髙木さん曰く、これはそのまま、手を加えずに住めるくらいいい家だということだった。シロアリも出ているし、隙間もあるし、電気の配線は瀬戸物の碍子(がいし)だし、キッチンは「昭和すぎる」し、とても私にはそう思えなかったけど、近江八幡でウィリアムヴォーリスの修復を手掛けている彼が言うのだからそうなのかもしれないと思った。とにかくこうした古い家の修繕には口うるさいことで知られる彼には、この家の構造には手を加えないこと、町家の雰囲気を壊すような外観にはしないことを強く勧められた。

▲トムさんと高木さん。左がトムさんで、右が高木さん。
▲瓦の様子を見に行く髙木さん。見てる方がヒヤヒヤしたけど、こうしたところが髙木さんの魅力でもある。

 彼と二人で、修繕の方法を決めていくなかで、現代人が日本家屋に住むということがどういうことか、私なりにわかってきた。
 まず座ったときの目線がマンションや現代の家屋とは違う。つまり椅子に座ることを前提としていないので、目線がより低く設計されている。
 次に暑い夏を前提に作られているので、逆に冬は寒い。本当に寒い。昔の家は壁が少ないのに家の中が暗くて寒いのはなぜだろうと思う。熱は、天井、床、壁、窓などから逃げていくが、それぞれの断熱性能によって違いがある。同じ面積なら、壁よりも窓の方が逃げやすい。100年経った隙間だらけの窓や壁はものすごくたくさんの熱が逃げていってしまう。それは、実際に過ごしてみてはじめて知るタイプの寒さだった。
 キッチンやトイレは居間や寝室から遠くに設けられていることも現代の家とは違う。今はどちらも寝室に併設されていることもあるのだけれど、昔、「不浄なもの」は普段過ごす空間から遠かったのだ。
 他にも、この家には「走り庭」というものがある。これは家の風通しを確保して、カビやシロアリから家を守るための風の抜け道のことだ。昔の町家では、土間に台所があった。「はしり」はこの土間の台所にある流し、「にわ」は下足を履くための空間のことで、「走り庭」は台所の裏口から玄関までまっすぐに通っている場合が多く、我が家もそうだ。玄関と裏口がつながることで風通しが良くなって、夏のあいだは冷房の代わりにもなる。
 玄関から屋内に上がるところには段差があり、これは上がり框(かまち)という。この段差は最近のマンションなどでバリアフリーの観点からはなくなっているのだけれど、この家にはなんとこの段差が45センチもある。寝ぼけて歩いていたら落ちて骨を折るくらいの段差があるのだ。このように、この家はあちらこちらが凸凹していて、バリアフリーなんてものはとてもありえない。

▲走り庭
▲上がり框

 こうした問題を、修繕で一つひとつクリアしていきたかったのだけれど、私の意見は工務店の髙木さんに却下されることが多かった。上がり框に階段をつけること、蔵を取り壊すこと、全体的なバリアフリー化など、ぜんぶ却下された。高木さんは、古い町家ならではのものを変えたら買った意味がないと言った。「蔵があって、今は皆持て余すモンなんや」と。不要な蔵は取り壊すには費用がかかる。しかしこの町の人はそれを受け入れて、不要な蔵と一緒に暮らしている。不便や不要あっての古い町家のスタイルなのだ。不要や不便を解決したら、それはもう町家ではなくなる──それが高木さんの主張だった。

 修繕の作業のあいだ、私は何度か日野の現場を訪れた。新幹線と在来線を乗り継いで、東京から近江八幡駅まで行き、そこで高木さんに自動車でピックアップしてもらった。駅から日野の現場まで何度も往復したがその車中では度々、修繕の方針で意見が合わずよく口喧嘩をした。しかし、彼の言うことはいちいち、もっともなことだった。なので、どれほど喧嘩をしてもその後にいつも立ち寄る寿司屋では仲良くした。

 私は、彼と折り合いをつけることにした。絶対に譲れないことを絞り、彼に提示した。1つ目はキッチンとお風呂とトイレは現代の技術を使うことだ。具体的にはキッチンは棟梁の手作りと最新のガスコンロを組みわせて、この古い家に合った木を活かした見た目をもつけれど、使い勝手がいいものに変えた。お風呂とトイレはユニットバスや便座暖房を入れて新しくした。2つ目は歳をとったときに絶対困ることに対策を打つこと。具体的には明るさの確保や床下に断熱材を入れることだ。3つ目は納屋を取り壊すこと。これは風通しをよくして、カビやシロアリなどの害虫を避けるためだ。最後の4つ目は安全面の対策で、これはセコムを入れた。

 こうして日野の古い町家に移り住んで3ヶ月近くが経つ。昔の家で暮らしていくなかで、つい100年足らず前の人々と現代人では生活動線や体の動きがまったく違うのを日々感じている。朝から夜まで何度もふすま、障子など半端ない数の引き戸を開け閉めする。掃き掃除、拭き掃除など複雑な清掃、神棚、氏子神社、庭の手入れ、季節によって室礼を変えるなど東京のシステマティックな暮らしにはなかった「手を動かさずして生きていけない」生活を送っている。

▲手を入れた後の今の家
▲庭師さんが秋にセンリョウの剪定をした枝を手水鉢にさりげなく入れておいてくれた。美意識を感じた。
▲蔵で埃まみれになっていた分福茶釜。釜の部分は灰皿。昔の信楽のたぬきはみなスリムでキリッとした顔つき。福を分けられる家であるよう玄関に室礼。

 こうした暮らしをしていると、日本人の生活は大きく変わってしまったのだと痛感する。その頃から、世代が2代くらい変わっているから、当時ここで暮らしていた「人」はもういない。ただ「当時の人が作ったもの」は残っている。当時の人の手から生み出され、日々の暮らしの中で使われていたものやそのものたちに施された工夫は、どれも当時の人々の「住まい方」を語っているように思える。まず、起きたら採光のために、朝開けるべき戸を動かす。陽が陰ったら、またその戸を閉めて別の戸を開ける。天気の良い日は蔵と離れに数時間風を通す。そのルーティンはまるで舞台装置のように感じる。

 これから、私の暮らしはどうなっていくのだろうか。自分でもよくわからない。気がついたら、着物が似合う暮らしだとかとかそういうことではなくなってきたのだった。でも東京の高層マンションの小さな部屋にいるよりは生きている実感がある。土があり、季節があり、寒さを体感しつつ、断熱シートをガッツリ貼りつつどうやって生き抜くかを考える自分がいる。

(続く)

この記事は、2021年3月15日に公開しました。
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