この日野の古い町家に引越ししたあと、この家のために投資したものがいくつかある。

 まずストーブと厚いお布団の類(ゲスト用含む)、ユニクロのヒートテックとモコモコなスリッパ、はたきと暗い所で灯りがともるパナソニックの掃除機、雪かき用のスコップ、そして皮スキや左官の人たちが使うコテなどの工具がこれに加わる。それに消臭剤と防虫剤も買い足した。古い町家に住むと、笑っちゃうくらいたくさん小道具がいる。

 井戸の水質調査もお願いした。この家の井戸はキッチンにあって蓋が閉まっている。ずっと気になっていたものの中々開けられないでいたのだけれど、先日遊びに来た夫婦がさらりと蓋を開けた。この夫婦は建築とか、土木とか、街づくりとかにかかわっている人たちだ。そうしたら、内側が石垣で積み上げられた綺麗な作りの井戸が見えた。結構深そうな井戸だった。そこで、私は考えた。飲めないまでも、この水を何らかのかたちで利用することが、Disaster-Readyな生活の、町の、日本の、地球のためになるのではないかと。そして、私は井戸の水の現在の状態を知りたくなったのだ。検査そのものも、結構面白そうだなと思った。

 こうして古い町家に手を入れて暮らしていくのは想像していたよりもずっとたいへんなのだけれど、ただ唯一、庭だけは私の中で別だ。毎日庭を眺めながら縁側でほっこりお茶をする、裏庭で本を読みながらお茶をする、休みの日はバーカウンターでお喋りしながらお茶をする。こうして庭で食べたり、飲んだりして過ごす時間にはきっと良い思い出がついてくるに違いない。

 「庭オフィス」もよく、やっている。母屋が寒いという理由もあるが、庭は自然の移ろいや、生き物の様子や、匂い、風と音を感じながら過ごせる場所だ。それが田舎の良いところであるし、朝の9時から夕方の6時まで仕事をしているので、気がづくと夜になっているという点では東京での生活と変わらない。そこで、外で過ごせる時間を大切にしたいと思ったのだ。

▲中庭に面した小さなキッチン。仕切りをつけてもらったら、バーにもなる幅だったので、ここでコーヒーやお茶を入れている。

 うちの庭はたしかに風情があるのけれど、ところどころ違和感もある。そもそも数年ものあいだ住む人もなく放置されていたので、最初に訪れたときはとても雑然としていた。灯籠や掃除用具などが置かれ、木はみな伸び放題、足もとは雑草を含む大きくなった植物に覆われて足の踏み場もない。たとえるなら、数ヶ月ヘアサロンに行けず、本来のスタイルが見えない状態と言ったら良いだろうか。

 仮に築100年とすると昭和初期あたりに造られた庭なので(*)、これまで家が修繕されたり改築されたりするたびに庭もそれなりに影響を受けたであろうと思われる。庭に設置されているものが変わったり、増改築で建物と庭のバランスが崩れたりなどということが、たくさんあったはずだ。

(*)先日、役場で詳細がわかるデータをもらったところ、明治23年の建築だったので、130年を超えていたことが判明した。

 そこで昨秋、かつての仕事仲間でもあった京都の植彌加藤造園さんに、分不相応であることは重々承知で手を入れてみてもらえませんかとお願いしてみた。加藤造園の職人さんたちは京都の国宝「南禅寺」、山縣有朋の「無鄰庵」、名庭「何有荘(かいうそう)」など名だたる庭を管理している。十数年前、私は彼らの管理する京都の名のある庭をいくつか拝見したことがあった。そのとき植木の剪定について加藤社長から「京都の造園は今を見ていない、数年先に枝の1本1本がどう成長する姿を予測していくのだ。だから毎年同じように木を丸く、四角く綺麗にばさっと刈るのではなく、ハサミで1本ずつ剪定して育てていくのである」という話を聞いたのだ。それはものすごいすごい手間だなと思った。その後、一緒に仕事をする機会があって、彼らの手で数年放置されていた旅館の庭が実際に生き返るのを見た。

 たとえば彼らは雨樋の金属成分の雨が原因で赤くなったスギゴケを、人目のないところに一度下げて生き返らせてあげる(私はそこを苔のサナトリウムと呼んでいた)。
 あるいは桜の木々が台風や虫などで放置され樹勢が弱くなっていることを知ると、老木や先が長くないであろう木のそばに若い桜を植えて徐々に世代交代させていく。数十年先の姿を考えて次の世代の準備もしてあげるのだ。
 彼らの仕事はひとつひとつの手間に、こうした優しさがあふれていた。

 また10年ほど前から、山縣有朋の家だった無鄰菴を加藤造園さんが手がけることになったのだけれど、それからの10年の変貌は驚くほどのものだった。年々少しずつ、枯れきった庭が瑞々しいものに変わっていくのだ。自然の中で植物や石、水と対話しつつ気長に庭全体を見守る彼らの姿に、私はいつも感動し、涙するのだ。

 だからもちろん、私の家の庭の手入れはこうした名庭管理の合間にとお願いした。

▲植彌加藤造園の庭師・井上さん。

 私の家の中庭は小さな、これといって特徴のない日本庭園だ。庭師の井上さんが来てくれた昨年秋、まず彼は庭の輪郭を整えた。伸び放題の槇の木の高さと形を定め、ジャングルと化した(お正月のお飾りで有名な)千両を庭にふさわしい本数と位置にして、まるで恐竜がいそうな巨大なギボシ(夏に咲くユリ科ギボウシ属の多年草)も庭にふさわしくした。
 しかも鬱蒼とした植物を整えた後には、信楽焼のたぬきと、同じく信楽焼のミニチュアの灯籠二つとセラミックの鶴を灯籠のそばに見つけたのだ。それは先住者のお茶目さを知った瞬間だった。そして後々、これらが我々へのメッセージだったことを知ることになった。

▲秋、ジャングルと化した中庭で木を剪定する井上さん(上)とサポート役は頼もしい外国人庭師のパサさん(下)。

 次に井上さんは昭和40年代ごろに使われていたらしいお手洗い跡の前に置かれている石を見て「これ、灯籠だったんちゃうかな」と言った。私は井上さんがそう考えた理由がよくわからなかったので、このとき彼の話を聞き流していた。それよりもその灯籠と思わしき石の隣にある手水鉢をキッチン側に移動させたらワインクーラーになって夏が楽しいのではないかとか、灯籠のことはそっちのけで考えていた。
 そんな私に呆れたのか、井上さんはその日の帰り際に、高さを整えるために刈った千両の枝を捨てずに、その手水鉢にさらりと活けて帰っていった。あるべき姿の美しさより自分の欲が先走っていたのを、花で教えてくれた井上さんの所作に、自分がちょっと恥ずかしくなった。

▲手水鉢に剪定した千両の束をさりげなく入れて帰る。美意識が日常になっていて感動的。

 冬になった。我が家の庭仕事はお休みになった。私も古い町家の寒さに耐えかねて冬眠状態になった。12月末にはどっさり雪が降った。珍しい大雪だという。中庭も真っ白になった。寒い縁側から中庭を見ると、真ん中に居座っている灯籠が、まるで雪だるまのようで邪魔くさいなと感じた。それ以来、私はこの灯籠を見るたびに、どこかで違和感を覚え始めた。

▲昨年末は大雪だった。木と灯籠の大きさが不釣り合いだと思いはじめたのはこのときから。

 そしてようやく春が来た。この家が古民家の例に漏れず、寒いことを実感した冬だった。3月中旬に庭仕事を再開した井上さんは例の手水鉢を本当にキッチンのところまで移動させるのか、そして手水鉢に接している水溜りをどうするのか尋ねてきた。私は手水鉢はキッチン寄りに、水溜りは潰すか、それともメダカを飼うために残すのか、二通りの選択肢があり決められずにいた。

 井上さんは「本来あるべき場所から移すとね……」と言いにくそうに、私のワインクーラーのアイディアをやんわり却下しているようだった。私は水溜りはボウフラも湧いて不衛生だから、水を抜きましょうと言うと話をそらした。曖昧に合意され井上さんは水溜りの水を柄杓でかきだし始めた。私はデスクに向かっていたので見ていなかったが、彼はなんとその水溜りから灯籠の「火袋(灯りを入れる部分)」を掬いあげたのだった。私は関心も寄せていなかった幻の灯籠の実態が現れたことで、ワインクーラーという自分の物欲的薄っぺらさを感じはじめた。
 一方、井上さんは「と、なるとこの水溜りは『海』やな」と庭の過去の姿を解説しはじめた。この庭の手水鉢は正確には蹲(つくばい)と呼ばれる役石をともなう形式の一部で、灯籠と砂利の海がつきものなのだ。つまり、この水溜りはもともとは砂利の「海」だったが、そこから長い年月のあいだに何かしらの理由で砂利がなくなってしまい、水が溜まっていったのだ。そしてその水溜りの中に、これも何らかの理由で取れてしまった灯籠の火袋が沈んでいたのだ。井上さんは「火袋の頭がないけど、代わりにちょこっとした石を乗せる」と言いながら、いよいよ冬から気になっていたバランスの悪い大きな灯籠を動かした。

▲上が水溜りそのままの状態。灯籠は台だけがある。下は水溜りの水を掻き出し火袋が発見されたとき。灯籠の台の上に火袋と仮の頭をのせた様子。

 そして、この大きな灯籠を取り除いた「亀島」が突然姿を現した。「亀島」というのは複数の石を並べて亀に見立てて「不老長寿」を表現したもので、蓬莱式庭園や枯山水によくみられるものだ(この見立ての文化は室町時代あたりからあるらしい)。
 しかもその灯籠を取り除いた後の土の中に、信楽焼の小さな亀まで出てきた。それはこれらの石が「亀島」であることを証明するものだった。

▲去年の秋に庭から出土した二つの灯籠と鶴、この春に出てきた亀のミニチュアたち。

 そこでその前の秋には、先述したようにこの庭から鶴と二つの灯籠のミニチュアが出てきたのを思い出した。枯山水の庭では「亀島」と「鶴島」がセットになっている場合がある。秋に本来の姿のヒントが既に出ていたのだ。そして、灯籠は一つでなくて二つであることも。私たちはようやくそのことに気づいたのだ。
 もしかすると、100年以上経っているこの家の守り(この辺りでは家の管理をすることを「イエノモリ」という)をしてきたどなたかが、この庭の本来の姿のヒントをこのミニチュアに託してそっと置いておいたのかもしれない。

 失われていた手水鉢の横の灯籠は、実際とても繊細な形状で不安定な佇まいだ。だからかつてこの庭に手を入れていた人は、この灯籠が地震などで崩れたときに備えて、後の世の人たちがこの庭を本来の姿に再生できるようにこれらのミニチュアの灯籠を置いたのではないか。そして鶴と亀のミニチュアは、庭全体の意図である「鶴島と亀島」の存在を示唆するために置かれたのではないだろうか。

 こうして、私の庭は本来の姿を取り戻した。それは、後世に改築され、付け足されたものよりもシンプルだが、そのぶん力強さがあって素敵だ。手水鉢、海、灯籠を横に従えた姿には一層の風情が醸し出されている。
 なお、鶴のミニチュアは「鶴島」を意図するものだと思うのだが、亀島ほどわかりやすい造形は見つけられておらず、正確なところは謎のままだ。ただ、私としては信楽の狸がいる小さな島を鶴島に見立てていたのかもしれないという気がしている。その証拠に庭師の井上さんは、無意識に小さな島の石を一つのみ残して他は取り払った。残したその一つは、鶴のような凛として上に向かうように見える石だ。
 やっぱり託された人なのだ、井上さんは。

▲これが「鶴島」?

 さらに話は続く。この手水鉢の横、海を囲う石を整理していたらその一つが、なくなったと思っていた火袋の頭であることに気づいたのだ。
 この小さな灯籠が崩れ、砂利の海が水溜りになった理由は謎のままであるが、本来あるべき姿を発見してくれと庭が井上さんと私にメッセージを送っていたようにすら思える。100年前の庭師の意図を、現代の庭師が再発見する。庭を介して時空を超えた瞬間だった。

▲こちらの写真は昨年秋のもの。敷石が小さいでしょ。

 この後、亀島に導かれるようにして敷石(飛び石)の位置と石が見える面積も見直すことになった。飛び石はそう簡単に動かないよう土の中にとてつもない大きな石が埋まっていて、見える部分は氷山の一角だ。つまり、敷石は地中に埋まっている部分の方が多い。これが昔のやり方だ。井上さんは石を梃子で取り出し動かした。華奢な庭師にとってこの作業は体力、技術、そしてデザイン力が総合的に要求される。このときは、体も脳もフル回転である。こういった作業の反復が目利きを作り出す訓練なのかもしれない。私たちにはただの重い石にしか見えないそれが、彼らには違うように見えている。その背景に隠された物語をわずかな手がかりをたどって読みとっていくことが、彼らの「目利き」の力なのだ。
 この庭の過去を探し当てて、受け取ったものたちを全部ひっくるめて、新しいかたちに成長させていく。それはなんて素敵なことなのだろう、と私は思った。それは壮大な物語の一幕のようなもので、私はそこに立ち会えたことが本当に楽しかった。

▲こちらは井上さん手入れ後の写真。埋まっている部分を出すことで庭のバランスと立体感が加わった。

[つづく]

この記事は、2021年5月24日に公開しました。
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。