はじめに

 先日、ある本の取材で、こんな質問を受けた。

「コロナ禍で民藝についての考えが変わったことはありますか。」

 それに対して、こう答えた。

「コロナ禍では、以前よりも『民藝』印がブランド的機能を果たすようになっているのを危惧しています。」

 いまにして振りかえれば、やや強い言い方だったようにも思う。ただ、ともすると、民藝がそういうものとしてしか理解されなくなりつつあるのではないか。「そういうもの」というのは、伝統的で、地方色があり、自然素材で手仕事になる生活道具といった、ステレオタイプ化された「物」たちのこと。もちろん、物があっての民藝だ。だけれども、物につきないのもまた民藝である。にもかかわらず、近ごろはもっぱら前者ばかりが取り上げられる。物には「かたち」がある。「かたち」は人を縛る。物につきない、つまりすでにでき上がった「かたち」に縛られない、自由なまなざしもまた民藝ならではであったはずなのに、それが発揮されないまま、既存の「かたち」──それを「民藝」印と呼んでみたわけだが──にがんじがらめになってしまう。そうして、本来なら、民藝の触発を受けて新たに見出されるべきはずの物が見出されず、新たにつながるべきはずの人たちがつながらない。そうした事態がいたずらに放置されているのではないか。そう危惧する。
 と、なんだか周囲に対する不平不満を並べるような書きっぷりになったけれども、ここまで書いてハタと思いいたった。いやいや、それはほかでもない自分の仕事ではなかったか、と。まさしく。哲学という立場から、物があっての民藝における物につきない側面(それは逆に、物につきない民藝ならではの物の「かたち」と表裏一体でもあるのだが)、その現代的意義を問うてきたわけなのだから。
 じつは先の取材では、冒頭のやり取りのまえに、まずこんな問いかけがあった。

「いまなぜ民藝に注目しているのか、考えをお聞かせください。」

 それに対しては、こう答えていた。

「おおげさなことを言えば、生きる意味を再確認させてくれるからです。」

 本当のところ、最も危惧すべきは、生きる意味への問いかけに対する応答、とりわけ民藝を手がかりとして探っていたはずのそれが、ほかでもない自分自身のなかで聞こえなくなりつつあることと言うべきなんだろう。そうなった一因にはやはりコロナ禍があるのかもしれない。かつては、物づくりにいそしみながらたくましく生きる人々との出会いを求め、各地を訪ね歩くことを通して「いまなぜ民藝か」をめぐる考えを深めてきたのに、それがまるでできない状況がずっと続いているのだから。
 気がつくと、生きる意味への応答はますます色褪せていくばかりの日々である。であればこそ、いただいたこの機会に、そうした応答をささやかながらもあらためて試みてみようと思う。それがこの論考の目的である。

生の哲学としての民藝

 「生の哲学」(Lebensphilosophie)という哲学史上の潮流がある。十九世紀から二十世紀初頭にかけて、ショーペンハウアーやニーチェをはじめ主としてドイツの哲学者に端を発し、フランスのベルクソンやアメリカのウィリアム・ジェームズら、ひろく欧米各地の哲学において現われた哲学的動向とされる。生の哲学は、特定の主義主張のもとに集った学派ではなかった。むしろ、産業革命以後、効率化・合理化が進む近代社会において、個々人の存在が画一的に管理され、主体性が剝奪されてゆくなかで、ときに不合理きわまりない側面すらもつ、生々しいまでの生の実感の回復を希求する社会的気運に応じた、同時多発的な哲学的リアクションだった。
 ただ、少し俯瞰して考えれば、生の哲学は上述の時代だけに限定される過去の歴史的トピックではない。メルロ=ポンティ、アレント、フーコー、ドゥルーズ、アガンベンといった二十世紀後半以降の哲学においても生は重要な論点だった。他方、生の哲学は狭義の哲学のなかだけの動向でもない。ニーチェとほぼ同時代を生きたウィリアム・モリスによるアーツ&クラフツ運動を嚆矢とする一連のデザインシーンの展開は、産業化・都市化の暴走に抗い「生活」の豊かさを真摯に見つめ直せばこそのものであった。デザインだけではない。民俗学や人類学、労働運動や社会運動、精神医療や福祉活動、自然保護や帰農・地方移住など、近代社会が盲信する合理性や効率性からこぼれ落ちていったものたちを救い上げようとする様々な試みは、ひとしく生の哲学と同根のものと言えるのではないだろうか。当の生の実感はといえば、時代を経るごとに一層希薄になり、昨年来のコロナ禍によって大きな揺さぶりを受けてきたことは言うまでもない。とするなら、近代以降現代にいたるまで、時々の社会状況や価値観の変化に添いつつ、様々なジャンルにおいて、生の哲学のバリエーションが試みられてきたと見ることもできるだろう。
 百年前に遡る民藝運動もまた、そんなバリエーションのひとつだ。そうして、そんな民藝に対する近年の共感の高まりもまた、根底においては、現代ならではの生の哲学の胎動のひとつと考えることができる。この間、僕は著作や講演でくりかえし「いまなぜ民藝か」という問いを掲げてきた。その意図は、民藝に寄せられる共感の内実を明らかにすることを通して、これからの社会の道筋を探ることにあったのだが、それはまた、現代社会に生きる人たちが求める生の実感、その現代ならではの「かたち」を探ることでもあった。先の取材で「生きる意味」に言及したのも、もちろんそういう背景のもとでのことである。
 「民藝」という言葉は、一九二五年に哲学者の柳宗悦らによって、「雑器」や「下手 物(げてもの)」に代わるものとして考案された造語である。歴史的にも世間的にも顧みられることなく、「雑」や「下手」という扱いに甘んじていた生活道具のうちに、現代的意義がひそむことを確信すればこその命名でもあった。彼らにとって民藝とは「最も自然な健全な、それ故最も生命に充ちると信ずるもの」(『日本民藝美術館設立趣意書』、一九二六)であり、そこに「活ける生命の美が見える」(柳宗悦「何を『下手もの』から學び得るか」、一九二八)ことへの喜びが、彼らの確信をより堅固なものとしていった。このように、その草創期より民藝をめぐる言説において、「生」は重要なキーワードだった。彼らのこうしたまなざしの裏面には、生の充実から乖離していく同時代の動向に対する批判的な理解があった。そうした状況を克服するすべを、日々あたりまえのものとして使われる身近な道具のありように求めたところが民藝ならではの創意だった。そのことが端的に示されたのは、「用」をめぐる議論においてである。結論を先取っていえば、用とは生のことにほかならない。一般に、「民藝とは何か」と問えば必ずと言ってよいほど「用の美」というフレーズで説明され、その目するところは、「実用性」「機能性」といったふうに解されている。だが、民藝が注目した用はそうしたものに留まるものではなかった。

「だが私は注意深く言ひ添へておきませう。茲に用と云ふのは、單に物への用のみではないのです。それは同時に心への用ともならねばなりません。ものは只使ふのではなく、目に見、手に觸れて使ふのです。若し心に逆らふならば、如何に用をそぐでせう。丁度あの食物がきたなく盛られる時、食慾を減じ從つて營養をも減ずるのと同じなのです。用とは單に物的な謂のみではないのです。若し功利的な義でのみ解するなら、私達は形を選ばず色を用ゐず模様をも棄てゝいゝでせう。だがかゝるものを眞の用と呼ぶことは出來ないのです。心に仕へない時、物にも半(なかば)仕へてゐないのだと知らねばなりません。なぜなら物心の二は常に結ばれてゐるからです。模様も形も色も皆用のなくてならぬ一部なのです。美もこゝでは用なのです。用を助ける意味に於て美の價値が增してきます」
柳宗悦『民藝とは何か』、一九四一

 たとえば、器を例にとるなら、機能性という「物への用」はもちろんとして、色や形、模様などの美的要素、すなわち「心への用」を兼ね備えたものでもある。物への用と心への用、両者があいまって、器の用をなしている。だが、用をめぐっては、さらに重要なポイントがある。物と心の二つの用は、いわば表層的な分類にすぎない。それに対し、いわば「用そのもの」とも言うべき、より深いレベルからこの問題を見とおすまなざしを、民藝はもっていた。柳宗悦ははっきりとこう言う。「用」とは「生活」そのもののことである、と。

「或はここで『用』といふ言葉を『生活』といふ言葉に置き換へる方が更によいかも知れぬ。生活は物心の生活である。凡ての工藝は生活工藝でなければならぬ。従つて生活の幅や廣さや深さは、やがて用ゐる品物にもそれに適ふ幅や廣さや深さを求めてくる。生活と工藝とは分つことが出来ぬ。一體となつてこそ完き生活がある。」
柳宗悦「用と美」、一九四一

 まず「生活」、つまり生そのものを見とおせばこそ、用という事象が解きわけられることにもなったと言うべきだろう。それが民藝の創意の要点だった。そうした視点に立てばこそでもあるのだろう、民藝ゆかりの面々は、そろってこうも言う。民藝は作られるのではなく、生まれるのだ、と。たとえば、柳宗悦は、「『井戸』は生れた器であつて、作られた器ではない」(『喜左衞門井戸』を見る」、一九三一)と言い、柳宗理は、「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」(『デザイン柳宗理の作品と考え』、一九八三)と言う。「私の仕事が、作ったものというより、少しでも多く生れたものと呼べるようなものになってほしい」(「一瞬プラス六十年」、一九七三)と、晩年の濱田庄司は願った。河井寛次郎は、意図せずともそんな物づくりがあたりまえのこととしていとなまれた人々の生活を、小編「部落の總體」において称揚する。

「どんな農家でも──どんなにみずぼらしくつても──これは眞當の住居だといふ氣がする。安心するに足る家だといふ氣がする。喜んで生命を託するに足る氣がする。永遠な住居だといふ氣がする。これこそ日本の姿だといふ氣がする。小さいなら小さいまゝで、大きいなら大きいまゝで、どれもこれも土地の上に建つたといふよりは、土地の中から生え上つたと言ひたい。どんな家も遊んでゐるような家は一軒もない。〔…〕人々は始め自分達の好き勝手を持つてこゝに這入つて來たのに相違ない。そして殖えるにしてもそんなにして殖えたに相違なく、その自分勝手な振舞の組合せが現在この村の姿なのに相違ない。その好きずつぽうの綜合がどうしてこんなになつたのか、自分はこの驚くべき設計者の顔に當面せざるを得ない。しかし村の人達は村の美について勿論気付いてゐる譯ではない。それどころか、何處の村でも大抵の場合、さういふ事には無關心である。」
河井寛次郎「部落の總體」、一九四四

 「部落」というのは、河井が住まいした京都市の南、京都府相楽郡精華町の植田部落のことである。戦中の灯火管制のもとで窯が焚けない日々がつづくなか、河井はこの部落に立ち寄った。つくる営みへの渇望が、部落に満ちる生命力の痕跡を見出させたのかもしれない。「どれもこれも土地の上に建つたといふよりは、土地の中から生え上つた」という指摘からは、周囲に繁る樹木と同じく、あたかも大地に根を張って存在するかのように、ムクムクとした藁屋根の家々が寡黙ながらも生の息吹を湛えて佇む姿が連想される。彼の目はそうした集落の様子に釘付けになる。「いつの間にか身體中が眼だけにされてしまふのであった」。そうして、すさまじく感動する。「この村は始めから終ひ迄自分を魔法にかけてしまつた」。感動のあまり「化物のやうな喜び」に打ち震えながら。読んでいる自分まで、震えてくるようですらある。

弱さへのまなざし

 では、生を見とおすところに本領を発揮した民藝的まなざしは、二十一世紀のいま、どのような意義を有するのだろうか。
 プロダクトデザイナーの深澤直人は、二〇一二年に日本民藝館館長に就任した直後、日本民藝館の収蔵品をあらためて瞥見して言う。「こんなに凄いのかと興奮しました。感動しすぎて〝ああ、いいなあ〞とそんな言葉しか出てこない」、と。それはまさしく、かつて河井が部落の家並みに感じ取った生の息吹に対する反応と同質のものではなかったろうか。つづく説明は、その機微を知るにあたっておおいに参考となる。

「民藝は生活道具で、道具はまず使い勝手のよさがあり、そこに美しさが揃って合格だという感じがある。でも、僕は、ここにあるものを見て、その上に立ちのぼる何かを強く感じたんです。」
「深澤さん、民藝はデザインですか?」
「Casa BRUTUS vol.154」、二〇一三

 「使い勝手のよさ」は物への用、「美しさ」は心への用と考えてよいだろう。「〝ああ、いいなあ〞とそんな言葉しか出てこない」と、深澤に感動をうながすのは、それらを超えて「その上にたちのぼる何か」である。この「何か」こそ、民藝が「用」の一字に託したもの、すなわち生の息吹を湛えるものではないか。深澤はさらにつづけてこう述べている。「何かとは、愛着、えも言われぬ魅力。カッコよさやクールさは一切なく、あったかいものでした」と。ここからただちに連想される、民藝について語った柳宗悦の言葉がある。

「吾々に近づけば近づく程その美は溫い。日々共に暮す身であるから、離れ難いのが性情である。高く位するのではなく、近く親しむのである。かくて「親しさ」が工藝の美の本質である。器を識る者は、必ずそれに手を觸れるではないか。兩手にそれを抱き上げるではないか。親しめば親しむ程、側を離さないではないか。あの茶人達は如何に溫かさと親しさとを以て、それを唇に當てたであらう。器にも亦かゝる主を離さじとする風情が見える。その美が深ければ深い程、私達との隔りは少ない。よき器は愛を誘ふ。」
柳宗悦「工藝の美」、一九二七

 深澤にとっても柳にとっても、民藝は、よそよそしいものではなく、本質的に親しさや近しさを有するものである。遠巻きに眺めるものではなく、おのずと「手を触れ」、「抱き上げ」たくすらなるような「あったかいもの」、温もりをそなえたものである。この温もりは、ただ器のそれではなく、それを介して蘇る生の温もりではなかったか。しかも、そこにたちのぼる温もりは、特別な、たぐいまれな、喝采を浴びるような生のそれではない。

「私は朝鮮の藝術よりも、より親しげな美しさを持つ作品を、他に知る場合がない。それは情の美しさが産んだ藝術である。『親しさ』Intimacyそのものが、その美の本質だと私は想ふ。」
柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」、一九二〇

 柳がはじめて器物に惹かれ、しかも親しさのもとに受けとめたのは、植民地化され、日本社会にあって蔑まれていた朝鮮半島のそれとの出会いからだった。世間からの評価とは無縁と思われる世界に、柳は「『親しさ』 Intimacy」を見出した。なぜか。朝鮮の歴史と現状に、深い悲しみという、普遍的な生の真理を痛感したから、だ。自分もまた悲しい存在である。貧富貴賤の違いなく、ひとしく生は悲しさを免れえない。ありのままの生を前にして、派手な意匠でその悲しみを糊塗するのではなく、悲しさをそのままに受けとめ寄りそう健気さ。そこにはじめて宿る温もりを、柳は器物をはじめとする「朝鮮の藝術」に見てとった。その体験は、数年後に民藝という言葉の創出をうながす大きな背景ともなった。

「そこ[朝鮮]では自然すらも寂しげに見える。峰は細く樹はまばらに花はあせてゐる。地は乾き、ものは潤ほされず、室は暗く、人は少ない。藝術に心を託す時、彼等は何事を訴へ得たであらう。音に強い調もなく、色に樂しい光もない。只感情に溢れ涙に充ちる心がある。現はされた美は哀傷の美である。悲みのみが悲みを慰めてくれる。悲しき美が彼等の親しげな友であつた。藝術にのみ彼等は心を打ち明ける事が出來る。」
柳宗悦「朝鮮の美術」、一九二二

 一世紀を経て、現代社会を生きる僕たちにとって、生をとりまく状況はますますよそよそしい。さもあたりまえのように、人生に勝ち負けがあるかのように言われ、できないことは悪いこと、敷かれたレールから落伍すれば、まるで無意味な存在になりさがったかのように見なされる。ここへきてあらためて民藝に寄せられる関心が高まっているのは、こうした社会状況と決して無縁ではない。
 インテリアデザイナーの内田繁による「弱さのデザイン」という試みは、直接民藝に関わりはしないが、現代社会における生を取り巻く状況をふまえ、あらためて日常的な物のあり方に目を向けていったものとして注目に値する。「弱さのデザイン―ウィーク・モダニティ」と題された文章の冒頭で、内田はまず次のように述べている。「弱さのデザインとは、けっして『かたち』だけの問題ではありません。むしろ、かたちから離れたところにこそ弱さは潜んでいます」、と。さらに内田は、この百年にわたる生の疎外の本質を、「強さ」の肥大化として切開する。

「あえて『弱さ』という概念を持ちだしたのは、二十世紀は『弱さ』を克服し、強さ、強い社会に向かった時代だったのではないかと考えたからです。そして、その強さは、二十世紀後半になると、構築的で規範的、固定的で自由度の少ない状況を生み出しました。デザインをとり巻く生活文化も、資本主義社会の経済優先主義にとり込まれ、合理主義的効率化を通じ、企業利益と強固に結びついたものになりました。
近代合理主義の基本構造は、資本主義社会を目指すものでした。資本主義は、私的利潤の自由かつ無限な追求です。つまり企業の利益を優先し、そのこと自体を社会常識としたわけです。多くのものはそうした構造から生まれ、人間生活を優先するものではありません。そうした理念の下敷きが近代合理主義なのです。近代合理主義の理念をルイス・マンフォードは、科学技術を背景とした『力、速度、標準化、大量生産、定量化、組織化、制度、画一性、規則正しさ、制御』などによるすべての構築としました。これは弱さを含んだ人間そのものからは、およそかけ離れた理念です。
このように二十世紀は『弱さ』の克服によって肥大していったわけです。『弱さ』とは、合理的でないもの、目に見えないもの、手に触れられないもの、あいまいなもの、不定形なものなど、近代合理主義の枠から外れるものであり、それらの抹殺によって、近代はその『強さ』を実現したのです。
しかし、人間はそう強いものではありません。うつろいやすく、気まぐれで、傷つきやすく、脆(もろ) いものです。そうした人間をとり巻く世界は、近代の合理性とは整合しきれないものです。」
内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』、二〇〇七

 強さへとひた走り肥大化した産業社会に呑み込まれていったのは、もちろん「デザインをとり巻く生活文化」だけではない。何よりも僕たち自身がそうだ。弱さを見すえる内田のまなざしが捉えるのは、最終的には「人間そのもの」である。そもそも「人間はそう強いものでは」ない。「うつろいやすく、気まぐれで、傷つきやすく、脆いもの」、弱いものである。また、内田はこうも言う。「ここでいう『弱さ』は、強さと対比的なものではありません。『弱さ』とは、存在それ自体がはらんでいるピアニッシモなイメージそのもののことです」、と。ただ弱いのではなく、ピアニッシモ、つまりあらん限り弱く、はかない。
 この数十年にかぎっても、たびたび甚大な災害を経てきたなかで、現代社会はきわめて脆弱なもので、その安全も「神話」でしかないことが露呈されてきた。しかも、目下のコロナ禍によって、本来であれば守られるべきはずの弱く小さな存在が、むしろないがしろにされる現実を、僕たちはくりかえし目の当たりにしてきた。であればこそ、いまあらためて寄りそうべきは、「合理的でないもの、目に見えないもの、手に触れられないもの、あいまいなもの、不定形なもの」たち、すなわちそうした弱さを本質とするありのままの生でなければならない。二十一世紀のいま、生への民藝的まなざしに注目する意義は、こうした弱さをないがしろにせず、そこへと確実にアクセスすることにある。弱さを弱さのままに、その悲しさをあくまで悲しさとして。

〈ムジナの庭〉という試み

 現代社会において、民藝的なまなざしは、もちろん物の新たな発見に資するものでもあるだろうけれども、生にひそむ弱さを救い上げるものとして、新たな人とのつながりに寄与するものでもあるのではないだろうか。

「純真な心の流れに逆らわない物の精神について思えば、自分の仕事柄、知的障がいを持つ人々の純真さに重なってしまう。それは民藝における知を誇らない無心、従順性、繰り返しと継続性、素朴で素直であるという条件に合致する。」
福森伸『ありのままがあるところ』、二〇一九

 そう述べる福森伸は、早くより、民藝と福祉との接点を見出したひとりだ。彼が施設長をつとめる知的障害者支援施設〈しょうぶ学園〉(鹿児島市)では、日々の活動の中心にアートや音楽、手仕事をすえており、そこから生みだされる表現の「純真さ」が多くの人の共感をあつめている。
 福祉は遠い世界の話ではない。心疲れた多くの人たちがいる。不安定な雇用環境のなかで、将来の展望が描けない人たち、家族関係のもつれから、本来安心して自分を委ねることができるはずの家庭で心を開くことができない人たち、学校にも仕事場にも、この社会のどこにも居場所を得られぬ人たちがいる。なかには、それでもなんとか、人の手を借りずに苦境を脱しようとするあまり、孤立してしまう人たちさえいる。そうした現状を顧みたとき、民藝的なまなざしの実践的展開のひとつとして福祉、とりわけ心の問題へのアプローチをあげることができる、いやあげるべきだと思うのだ。
 その思いをさらに強めることになったきっかけのひとつに、フランスの精神科医、ジャン・ウリが注目した「コレクティフ(collectif)」というコンセプトとの出会いがある。そこに民藝を介した生きる意味への応答と通底するもの、しかも現代社会において求められるその「かたち」を見出したように思ったのである。
 コレクティフの同義語としてフランス語にはほかに「グループ(groupe)」があるけれども、あるべき集団の姿を表す際にウリが用いたのはコレクティフだった。これらは、もともとサルトルの用語だった。コレクティフの例として、サルトルは、停留所でバスを待っている人々の群れをあげる。社会運動を志向した彼からすると、そんなふうに単に群れ集っただけの状態では不十分と考えられ、共通の目的へと組織化された集団としてのグループという概念が創出された。端的に言えば、集団としての「強さ」を有するグループが理想とされたわけだ。ところが、ウリはこれを逆転する。コレクティフでいい、いや、それこそが求められるべき、人々の集い方の姿ではないか、と。彼が開設した精神科クリニック、ラ・ボルド病院は、その具体的実践の場でもあった。

「ウリにおいてcollectifとは、何らかの集団において、その構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態のことを意味しています。しかしそんなことは本当に可能なのでしょうか。例えば、病院や学校の食事はどうでしょう。月曜日のお昼は何、火曜日のお昼は何、というようにはじめからメニューが決まっているはずです。それに従うしかありません──カロリーや衛生など、それなりの理由もありますが。ただもし、来月のメニューを病院や学校にいる人全員、つまり患者・医師・看護師・事務の人など、あるいは先生や生徒や用務員さんなどが集まって決めたとしたらどうでしょう。なかなかできそうなことではありませんが、はじめに書きましたようにラ・ボルド病院ではそれが実行されています。というよりも、治療行為の重要な一環として、そして日常的なこととして──こうしたことを、ウリは les moindres des choses (ほんのちょっとしたこと)と呼んでいました──食事メニュー決定のためのディスカッションが行われているのです。」
多賀茂「はじめに」
(ジャン・ウリ『コレクティフ』、二〇一七)

 新たな精神療法として注目される「オープン・ダイアローグ」や「当事者研究」がそうであるように、個々人の独自性を損なわない治癒のあり方を重視する姿勢は、近年精神医療の世界で共通して顕著になりつつある。それらのなかであえてウリのコレクティフに共感する理由は、どこまでも「日常的なこととして」取り組まれた点にある。共感のあまり、コレクティフを「たまたま」と言い換えてはどうかと考えている。バス停に居合わせた人々の群れは「たまたま」形成されたものだろう。サルトルはその偶発性や皮相性を揶揄するように「もっとも表面的でもっとも日常的」と言っているが(『弁証法的理性批判 Ⅰ』、一九六二)、それでいいと思うのだ。キーワードは「ほんのちょっとしたこと」。取るに足りない、気にもかけない。日常とはそんな事柄の集積だ。何かを顧みようとすると、つい目に留まりやすい側面や性格、何か特別な存在を求めがちな僕らのまなざしは、おうおうにして、この「ほんのちょっとしたこと」を見逃してしまう。コレクティフをめぐるウリの議論は、まさにこの見逃しをセーブする作法を論じるものと見ることができるだろう。
 と同時に、そこにバス停があるという点にも注目したい。「たまたま」の実現の要には、物の存在がある。たまたまそこにあるもの。たまたまなんだけど、それがそこにあるからこそ、人が集い、何かが始まる──それはもしかすると、枯渇した生の実感を、ささやかながらもいまよりも与えてくれる──きっかけとなるもの。そうした物のありようを見いだすまなざしは、先述したような弱さを本質とする生に向けられる民藝的なまなざしと重なるのではないだろうか。
 二〇二一年春に開設された福祉施設〈ムジナの庭〉(東京・小金井市)が目ざすものは、こうした「たまたま」な存在にほかならない。
 メインテーマは「何歳からでもリスタートできる社会へ」。取り組むのは、「就労継続支援」と呼ばれる福祉サービスである。発達障害や知的障害、精神疾患や難病のある人など、様々な事情により生活や就労に困難を抱える人が、働く準備をしたり、訓練や仕事を行いながら、「心身のバランスを取り戻し、仲間や応援団を増やして次のステップへ進みやすくする」ことを目的としている。
 そうした目的を実現するために、〈ムジナの庭〉では、いくつか柱となる仕事を用意している。特に大切にされているのは、文字通り「庭」の手入れをはじめ、植物にまつわる仕事である。「はけ」と呼ばれる崖状の林地帯や武蔵野公園など、雑木林が広がるかつての武蔵野の風景を留めたエリアに施設を設けたのもそのためである。だが、通所者に対し、そうした仕事を強制することはしない。訪ねてくる人たちには、それぞれに得意不得意や好き嫌いがある。それらに柔軟に応じること、個々人に対してはもとより、日によって異なるメンバー構成にも配慮して、決してあらかじめ設定した枠組みに当てはめるようなことはしないことが何よりも重視されている。「みんなといてもいいし、一人で過ごしてもいい」(「BRUTUS no.945」、二〇二一)。まさしくコレクティフ的な場であることが目ざされているわけだが、それゆえ何をするところなのか、あいまいで、わかりにくいと言われることもある。しかしながら、このわかりにくさこそが肝要なのだと思う。わかりやすさは、暗黙のうちに一義的な強制力をともない、閉鎖的な雰囲気をまといかねない。そうではなく、求められているのは、たえず偶発的なできごとにオープンであること。〈ムジナの庭〉という名称は、施設近くにある「ムジナ坂」にちなむものだが、ムジナ(アナグマ)の掘った巣穴に、タヌキやキツネがいつの間にか棲み着いているように、「それぞれが得意なことで活躍しながら、ともに暮らしていける場を作りたい」という想いが込められてもいる。
 〈ムジナの庭〉のこうしたスタンスを支えてくれているのが、施設の建物である。築四十年になるこの二階建ての建物は、もともと建築家の伊東豊雄が設計し、「小金井の家」と呼ばれた住宅だった。とはいえ、低コストで手がけられたという事情もあったためだろうか、誰もが足を止めて注視するような特徴ある外観を呈しているわけではない。目立たず、むしろ通りすぎかねないほどである。しかしそのおかげで、樹齢三百年になるケヤキやムクノキが鬱蒼と茂る寺院に隣接した立地の空気感を損なうことなく、周囲の環境に溶け込むように佇む。建物内部にいても、玄関からの吹き抜けや上階の三方をめぐるように配された窓のせいか、強く隔離されているという気配はまるでなく、反対にじつに開放的でやさしく包み込まれているような感覚になる。福祉施設として活用するにあたって改修を手がけたo+h は、そうした元の空間の特性を的確に読み解いた上で、建物を新しく蘇らせた。二階内部を区切る袖壁に新たに施された開口部は、その象徴とも言える。壁の向こうにソッと身を潜めることもできるが、決して隔絶されるわけではない。その絶妙さにより、建物に宿されていた「透明性や軽さ」(「新建築住宅特集 no.422」、二〇二一)が引き立つことにもなった。以前にもまして、風が流れ、音が響き、光が抜ける。たまたまそこにある、そのさりげなさとともに。

「時間や季節によって景色や風の音が異なり、鳥の声も光の色も緩やかに移り変わっていく。ここにいるだけで、そのことがわかるんです。自然のやさしさを感じる空間では、目の前にあることに没頭できる。今の日本では、社会や家庭で苦しい思いをしてきた人が、安心して休息できる場所があまりにも少ないし、人は未来や過去のことを考えてしまうから不安になるんです。私が思い描いていたのは、とにかく思考をストップさせて現在に集中できる場所。生活することそのものが心のケアになる場を作りたかったんです」
「やさしい、建築。」
「BRUTUS no.945」、二〇二一

 言いそびれたが、〈ムジナの庭〉を運営するAtelier Michaux(アトリエミショー)の主宰者は鞍田愛希子、僕の妻である。引用は、彼女のコメントだ。植木屋や花屋での勤務を経て、既存のアプローチとは異なる植物との関わりの提案を模索するうち、彼女は植物(特にその香り)が人の心に作用する働きに注目し、みずから福祉施設を立ち上げるにいたった。身内だからといって、別に申し合わせたわけではないが、先のコメントを読んだとき、僕は自分が民藝に託してきたものとピタリ重なるように感じ、民藝と福祉の交流に希望を見出した気がした。そこにはきっと、現代ならではの生きる意味への応答の「かたち」がある。
 二〇二〇年春、コロナ禍による自粛生活を送るなかで、しばしば二人で三鷹の自宅周辺を散歩した。道中、理想とする福祉施設の姿について、語り合うこともあった気がする。「小金井の家」とはそんな日々の散歩の途中に出会った。それこそ、たまたま。

この記事は、2021年9月刊行の『モノノメ 創刊号』所収の同名記事の特別公開版です。あらためて2022年8月25日に公開しました。
本稿や特集「〈都市〉の再設定」が掲載された『モノノメ 創刊号』は、PLANETSの公式オンラインストアからご購入いただけます。
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