人間関係や娯楽も含め、あらゆるものが市場原理に侵される現代社会。その「外部」はどのように求められるのか、「身体論」を手がかりに上妻世海さんにお話を伺いました。
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端的に言うとね。
はじめに
ーー上妻さんとは、2018年のデビュー論考集『制作へ』の刊行以来、いろいろな機会で対話を重ねていて、PLANETS では連続講義「作ること、生きることーー分断していく世界の中で」やウェブマガジン「遅いインターネット」などにも登場してもらっています。その折々の機会で、人間がものを作るという行為の本質について、上妻さんは哲学の古典から近年の人類学の潮流、あるいは最新の進化生物学や脳神経科学まで、様々な領域の知見を独自のスタンスで咀嚼しながら自らの思索を深めてこられていますよね。
そこで今日は、「身体」というテーマについて、いま上妻さんが考えていることを改めて語ってもらえればと思っています。最初に、上妻さんが身体論という切り口について、どんな問題意識を持っているのかから伺えますか?
上妻 まず重要なのは、形式と実質という区別を明確に理解することです。身体は、感性的であり、イメージ的であり、言語的でもあります。そして、それらは、複雑に絡み合っていて、身体は、自らを再帰的に規則化する基体でもあります(それを学習と呼ぶこともある)。形式的に思考することに慣れてしまった/強いられてしまった人であれば、まず第一に、自らの身体を既に教育した/された、家畜化した/された、規則化した/されたものであることを自覚し、そこから形式的なものを「引き算」していかなくてはなりません(身体を組み替える上での準備体操)。
哲学者エルンスト・カッシーラーは、「おとなが外国語を学ぶ際のほんとうの困難は、新しい言語を学ぶよりも、以前の言語を忘れる点にある」と述べました。ここで彼が言いたいことは、大人は学習した規則によって既に感覚やイメージが規定されてしまっているので、別の規則を受け入れる準備として(それが基本にして奥義なのですが)、透明なそれらを自覚の領野に持ち込み(不透明化し)、そこから「引き算」することが難しいということです。もちろん、それは面倒なことなので、僕たちは、言語の上で教育や市場からの影響を否認することもできます。「論理-言語」の上ではなんとでも言えるのが、「論理-言語」の可能性であり(古代ギリシアの幾何学者たちは、地上における重力の法則を知らずに放物線の固有性を探求しましたし、リーマン幾何学は、アインシュタインが一般相対性理論をリーマン幾何学を用いて発展させるまで、その物理的な意味は不明のままでした)、それと同時に限界です(実質を無視して、形式的に好き勝手な理想論を述べられる)。
しかし、このテキストが「身体“論”」である以上、自覚的に形式と実質の差異は区別されなくてはなりません(そしてそれが可能であることは、日本語と英語のように、構造がかけ離れた言葉を学びうるという事実が示しています)。なぜなら、身体は、(思考を挟まずに)素直に向き合えば厄介なものではないのでしょうが、現代の環境では、なかなかそうもいかないからです。形式を用いたほうが有用性が高い環境であれば、あるいは、形式の有効性しか学べない/教えられない環境にいれば、形式の守備範囲外であっても、それを暗黙裡に強いる/強いられる傾向が出てくることは明らかです。
つまり、形式と実質の区別無しに済ますということは、形式化していく傾向に盲目的に従うということを意味しているのです。僕たちの選択以前に、近代的環境が身体に強いる方向性を暗示している以上、身体論は、まずそれらを明示的にする必要があります。そして、筆者/読者は、その上で理性の命令に従うかーーカントは、形式化していく傾向を理性の命令と捉えたのですがーー、それとも理性の命令範囲を限定し、人間は神ではないことを受け入れるか、を決めれば良いのです(カントは、神とは理性のイメージであると考えていました)。ゲーテは、「外国語を知らないものは自国語について何も知らない」と言いました。彼の言葉を、身体論に拡張するなら、別の身体を知らないものは、自らの身体について何も知らないと言い換えることができます。逆に言えば、理性一元論で物事を語る人々は、自らの身体を知らないが故に、未熟な全能感に浸っていると言えるかもしれません。
ーーただ、デカルト以降の理性中心主義や、軍隊や学校制度のように身体を形式的に統御しようとする近代的な規律訓練の社会制度のようなものに対しては、20世紀後半くらいから批判や見直しの声もだいぶ高まってきていたと思います。卑近なところで言えば、すでに現代社会では体罰や精神論は減りつつあり、社会が規則を個々に強制する装置は機能していないようにも見えるのですが、その点はどう評価されていますか?
上妻 仮に近年、親や教師が子どもを勉強や部活に強いる権限が縮小していたとしても(外的な強制の縮小)、市場原理がより広い環境を支配していく傾向に歯止めがかからない限り(それは限りなく不可能であるように見えます)、形式的思考の一般化は変質しつつ、拡大しているといえます(内的な強制の拡大)。市場での商品やサービスを消費するには、市場でのゲームに勝ち続ける必要があります(資本による一元化)。そして、市場では、あまり親しくない他者(取引先の人々や会社の同僚、あるいはインターネットを介した全ての他者)とのコミュニケーションが重要視され、ゲームである以上、攻略する必要があるため、形式的で誰にでも規則化可能であり、論理的で誰にでも推論可能な言語が求められます。
一定期間共に暮らし、親密な関係になれば、かなり不合理であっても相互理解は可能ですが(日常会話は、「論理-言語」の観点から言えば、ジョークやナンセンスで作り上げられており、言語は文字通り解釈されることはほとんどないか、文字通り受け取る人がいたら逆に会話は成り立ちません)、即時的なコミュニケーションには見知らぬ他者との共通の形式が必要となります(そもそも論理とは、古代ギリシア人が異邦人とのコミュニケーション手段として見出したものです)。また、その形式が平等なルールでなければ、人々は不満を募らせ、それを是正する方向に進みます。たとえば、オリンピック競技になった武道の場合、その不合理な部分(魅力でもある)は、その傾向によって合理的なスポーツへと漸進的に変形させられます。数百年の歴史ある武道が数年のスパンでルール改正に遭うことに疑問を呈する人がいますが、形式化とはそういうものです(異邦人同士の共約不可能な神話体系から古代ギリシアの一元的論理へ、という歴史の反復)。競争は、外的に強制されるわけではないとしても、勝ち組/負け組という言葉があるように、内的に競争するよう動機づけられてしまいますし、市場原理が一元化した近代的環境に住んでいる以上、都市生活者は、市場の外側では衣食住すら満たすことができません。
ーーなるほど、国家権力や指導理念のレベルでは西洋的な自由主義や民主主義の進展によって身体を理性的に統御しようとするクラシックな近代の発想は相対化されたけど、21世紀的なグローバル資本主義の全面化とかインターネットの普及が、かえって人々にフーコー的な生権力の内面化・無意識化を促進しているとも言えるわけですね。
上妻 そうです。言うなれば、外的な強制がなくとも、環境は人が自ら競争に駆り立てるよう整えられているのです(起業家やスポーツ選手など競争のプロフェッショナルが目標にされるのは、その一端にすぎません)。
マルクスが指摘するように、市場経済が成り立つには、土地と人々を分離することで、人が自らの手段で衣食住を満たせなくすることが必要です。現代の僕たちには想像しがたいでしょうが、土地という労働手段から人々が引き離されることで、初めて賃金労働者が誕生します。中世においての貧困者の定義には、歴史学者イヴァン・イリイチによれば、賃金労働者が含まれています。発展論者は、GDPの増加を指摘することで、世界は全体として豊かになっていると指摘しますが、中世の基準から言えば、ほとんどの人々が土地を奪われ、自らの家を自給自足できなくなっているという意味で、世界は貧困に向かっていると言えます。僕は、どちらかが正しいとは思いませんが、誰かが何かを主張する際には、その背後にある暗黙の基準設定を見抜く必要があると思っています。盲目的な発展論者を相対化する上でも、様々な時代や地域の基準を学ぶ必要があるのです。
そういう観点から見ても、歴史学や人類学はとてもおもしろいと思います。相対化は、正しさのために行われるよりも、自由のためになされるほうが活き活きと働き始めるものです。現在の基準にも、過去の基準にも囚われないために、それは行われるべきなのです。まさに「他者の身体を知らないものは、自らの身体をまったく知らない」の具体的事例でもあります。
市場とインターネットが内面化する身体的行為の「形式」化
ーーそうした市場環境が無意識下で我々に強要する内面的な身体規制というのは、現代の情報環境ではどんな局面で表出していると思いますか?
上妻 たとえば、近年流行りのポリティカルコレクトネスに関する議論では、誰にとっても不快でないよう配慮することが求められますが、具体的に知らないすべての他者に対する配慮という意味で、それは、形式的な言語の完成形であると言えるものです。もちろん、市場において(社会的領域において)そのような配慮がなされるのは、当然のことです。
市場とは異邦人が出会う場所であり、市場が社会を覆い尽くした近代とは、皆が孤独を強いられる社会のことだからです。SNSで気楽に発言できないことをしんどいと思う人は、SNS以前の社会的発言が人前でのスピーチや雑誌への寄稿、メディアでの発言など、決して気楽なものではなかったことを思い出すだけでよいのです。確かに1990年代から2010年代に到るまで、インターネットは部族的なものでした。人々は、各々の信じる神話に閉じこもり、各々が信じる神話によってぶつかりあっていたのです。今では考えられないですが、ネット上の創造的な多くの事象は、有用性とは無関係になされていたものでした(動画投稿や生配信は、むしろお金を払ってやるものであった)。しかし、インターネットが社会化した以上、親密な会話はまたもや物理的な場に戻ってきたのです。もちろん、それは、そこが焼け野原になっていなければ、の話です。技術とは、発展ではなく、外在化であることを示したのは、人類学者アンドレ・ルロワ=グーランです。歯は鋭い石へと置きかわり、筋力は馬力や水力や電力や原子力に置きかわりました(そして、人の歯や筋力は退化したのです)。同じように、コミュニケーションが簡易的なテキストメッセージに置き換わっていたとしたら、僕たちの身振り、手振り、口ぶりを伴う誘惑の仕草は、退化していくのでしょうか。もしそうだとしたら、もはや、僕たちには市場原理に適応できるか、不適応のまま生きづらさを享受していくしかないのか、の二択しか残っていないということになります。かつての共同体への憧憬は、単なる懐古趣味に過ぎないと言えてしまうわけです。
しかしながら、このことを理解すれば、SNSで正義を振りかざすことにやっきになっている人たちも、ーーもはやネットは市場原理によって勝つ/負けるという構造が前提されている以上ーー勝っている(とされている)人びとが、上から目線で負けている(とされている)人びとに対して、形式的正しさを押し付けていては、反発が起こるのは当然だということも理解しなくてはなりません。もともと部族的な多種多様性があった場が、わずか十年程度で市場原理に支配される場になったのです。ポリティカルコレクトネスだけでなく、あらゆる権利論は、形式的であるがゆえに一階の論理にしか対応できません(それは必然的に、肯定と否定を切り分けるのみであり、否定された人々の権利は肯定できない)。確かに権利という概念は、形式を神格化する西欧だからこそ生み出せた素晴らしい発明品ですが、その不可能性もすでに明らかなのです。
たとえば、アメリカ大陸は、ジョン・ロックの所有権の理論に基づいて支配されました。それは、簡単に言えば、確固たる自我が労働によって耕した土地は、その自我の所有物となるという理論です。つまり、神から与えられた身体による労働によって、身体から土地に所有権が拡張するというわけです。しかし、アメリカ・インディアンは、土地が誰かの所有物であるという考えをもちませんでした。土地は誰にも加工されず、誰の所有物でもなかったのです。故に、アメリカ大陸には、正義による権利の押し付けがあったわけです。勝手にルールを定めて、勝手にそのルールによって支配すること。その形式さえ守っていれば、正義の名の下に侵略できるということです。同じことがインターネットにも起こっています。確かに正義は、形式を守る側にあると言えます。しかし、多様性とは、形式の上で守られるわけではありません。その形式を共有していないものたちのあいだにこそ、真の多様性が宿っているのです。僕たちは、アメリカ・インディアンに、近代法の観点から、支配の正当性を強弁できたとしても、それはそれでよいのでしょうか。
また、現代政治学では、「翻訳できない権利」という議論があります。たとえば、強制された友情(友情権)、強制された愛情(愛情権)、強制された尊敬(尊敬権)というのは、語義矛盾になります。それらは、運や誘惑や勇気といった形式化不可能な要素を必要不可欠とし、形式化された途端、中身のないものとなるからです。そして、それは権利論のみならず、形式一般が孕む問題でもあります。友情権、愛情権、尊敬権が語義矛盾に陥るように、金で買われた友情や愛情や尊敬は、悲しさや虚しさを生み出すだけです。それらは、権利にも、貨幣価値にも翻訳できないのです。あなたがもし過去に戻り、過去の株式や競馬の情報から億万長者になれたとして、現在の恋人や友人と同様の関係は築けるでしょうか。もし、それらが大切だから、過去に戻りたくないと思えるなら、あなたは幸運であり幸福です。なぜならそれは、あなたが形式以上(権利や金銭価値以上)のものを手に入れる運に恵まれているということを意味しているからです。パプアニューギニアの狩猟採集民にとって、幸福とは運に恵まれていることを意味するのは偶然でしょうか。モンゴルの遊牧民にとって、運の宿った家畜や樹木が特別視されているのは偶然でしょうか。ポリネシア人のマナは、変な形をした物事に宿るとされていること、それらが感染していくものとされていることと、運の次元は無関係でしょうか。現代人は、長時間ゲームの内側にいることで、運という幸福に関わる次元を放棄してしまっているのではないでしょうか。
ーーそうですね。カイヨワが『遊びと人間』で規定した遊びの4分類の枠組みでも、純粋な身体的な快楽としての「眩暈(イリンクス)」や、自分が制御できない事象に身を委ねる「運(アレア)」から、近現代に近づくにしたがって次第に形式的なルールが整備され、技量によって制御可能な「競争(アゴン) 」に向かっていくという文明像が描かれています。その大きな流れは、現状においても変わっていないという。
上妻 カントは、たとえ現実が複雑で混じりあっていたとしても、いずれ形式化できるという可能性がある限り、形式的に思考することの意義は失われないと指摘しました(上述した数学の事例など)。確かに、学問的な意味で、形式的な多様性を擁護する議論が盛んになることは良いことでしょう。それによって、形式上想定可能なあらゆる権利が主張できるからです。しかしながら、僕は、形式的な議論には関心ありません(そして、それは身体論とは呼べません)。形式的に理想の社会は、容易に想像できることだからです(そして、身体論は、形式を離れて、別の身体へと生成していくことだからです)。あらゆる権利が認められ、あらゆる物や事が商品化した世界において始まるのは、これまで以上に苛烈な競争です。なぜなら、仮に社会が論理的に過不足ない形式をまとってしまえば、このように「翻訳できない物事」こそ人々の目標となるからです(カントは、翻訳できない物事を知りませんでした。シラーはカントについて、「もし彼が愛を感ずることができたならば、彼は人間性一般の最も偉大な現象の一つであったであろう」と語っている)。
逆に言えば、これまで以上に、友人がいないことや恋人がいないこと、人びとから尊敬されないことが引き金となって社会的な事件が生じていくでしょう。なぜなら、もはや形式的には、なんの問題もないはずなので、すべては自己責任、努力不足、能力不足だと考えられるためです。市場には競争という大前提が存在している以上、負けている(とされている)人びとからすれば、「お前たちは、すべてに配慮しているふりをしているが、私たちの不満に対して無関心じゃないか」と思われるだけです。もちろん、近代以前であれば、市場は共同体と共同体の〈あいだ〉に生じる隙間に過ぎませんでした。形式と競争に駆り立てられる人びとは、単に卑しい人びとと見なされていましたし、ソクラテスのように、「歳の市の商品の真只中で、私が全然必要としないものが何と多くあることだろう」、と快活な心をもって言うこともできたはずです。
しかし、現代では、労働市場や恋愛市場といったように、人自体や人の関係など資本ではないものが市場ゲームの一部として語られていき、本来娯楽であるはずのビデオゲームをeスポーツという競争に書き換えてしまったことにも現れているように、市場は共同体の隙間からすでに共同体自体を次々と飲み込み、競争から逃れられる余地は、ほとんど残っていないのです。つまり、「頭の良い奴らの言ってることはよくわかんねえけどよ。それでも楽しくやってんだ」といった余地が埋め尽くされてしまい、なるべく市場と無関係に生きる権利は失われてしまっているのです(形式の限界)。
ーーその実感はよくわかります。そういったあらゆる精神領域に及んでいる市場ゲームの圧力に対して、改めて身体と向き合い直すことで、多少なりとも外側に出られないかというのが今回の主旨なのですが、その可能性はどう感じますか?
上妻 頭が良い(とされている)子供たちは、近代的環境が放つこの暗黙の方向性に敏感なので、親や教師に強制されることなく、自ら進んで神経症的で、機械的な身体を育て上げてしまうかもしれません(外から物理的に強制されたわけではないので、自覚するのが以前よりも困難な可能性すらあります)。最近、ある学生と話す機会があったのですが、彼の口癖は「それってコスパ悪いですよね」や「それはリスクが高いです」といった市場の言葉でした。彼との話題は、読書についてなので、僕は、余暇や遊びにまでコストパフォーマンスやリスクを考慮するのは、むしろ遊びの快楽を減らすのではないかと思ったのですが、彼には、それが「論理-言語」の守備範囲を超えているという自覚はなさそうでした。たとえば、ビデオゲームであっても、攻略ばかりを重視して、最短ルートや強い武器のありか、効率的なレベル上げをネットや攻略本で調べ上げてしまっては、せっかくの遊びを退屈な作業に還元してしまいます。今やゲームの外側があるという言説自体が古いものになりつつあるようですが、余暇や遊びの他にも、形式性を考慮するとダメになるものは多数あります。行動経済学者ジョージ・エインズリーが示したように、実は、愛情や友情、尊敬というのは、形式的に(効率的かつ一般的な方法で)目指されると台無しになってしまうものなのです。エインズリーは、実験科学ベースで語るので、現代政治学の文脈とはまったく参照関係にないのに、同じものが議題に上がっているのは、興味深いところです。
たとえば、セックスを目的にした恋愛は、下劣とされますし、恋人の作り方を本で学んでいるのは愚かです(愛情を攻略だと勘違いしていることが明らかになるから)。友達が欲しいから周りに意見や態度を合わせているだけの人は、真に仲間の輪の中には入れない/入れてもらえないですし、尊敬されたくてなされる行動は非常に滑稽です。エインズリーは、愛情や友情、尊敬のような長期的報酬は、間接的なものだと指摘します(性に道徳が付きものなのも、友情に物語が先行するのも、尊敬の前に理念が語られるのも、そのような迂回が必要だからです)。なぜなら長期的なものを目指すには、それを台無しにしてしまう短期的、中期的な報酬から防衛する必要があるからです(短期的なギャンブル欲にはまってしまえば、愛想をつかされますし、中期的な形式的人間になってしまえば、機械的でつまらない人間と思われてしまいます)。
もちろん、僕は、論理や効率を全面的に否定しているわけではありません。論理的思考は、市場ゲームや単純作業では有効かつ求められるものです(非効率な作業は、余暇への余裕や創造性の余白を削ります)。しかし、形式には有効な範囲が存在し(中期的領域)、長期的な報酬を求める際には、形式はそれらを台無しにしてしまうということも理解しなくてはなりません。ゲームの事例でも明らかなように、形式は楽しみを作業へと還元してしまうのです。形式は、実質を形式化することで、本質を奪うのです(豊かな生活を作り上げる動的な人間関係をフォロワーの数や家計簿における100円単位の機械的節約術に還元するように)。
身体の「実質」を取り戻すために
ーーでは、ここで言う身体経験の「実質」とはどういうものなのでしょうか?
上妻 それを示す上で、イメージを例に挙げて考えてみます。第一に忘れてはならないのは、最古の表現は、ーー人類学者アンドレ・ルロワ=グーランによればーー歌や踊り、あるいはマントラなど、内臓-情動-身体技法的なものの外在化であったということです。喜びや悲しみ、嬉しさや憂い、弛緩や緊張のリズム、あるいは戦いや狩りで血湧き肉躍る身体を、外側の環境に秩序づけることで安定させたいという欲求があることは、フロイトをはじめとして多くの論者も見出してきました。
また、ある行動科学の実験では、被験者に鏡の無い部屋で好きなように歩いてもらい、後でその人に歩きのシルエット動画をいくつか見せます。被験者は、自分の動きを外側から見ていないにも関わらず、類似しているいくつかの動きの中から、どれが自分の動きであったか識別できます。運動は、内的な感覚だけでなく、外的なイメージも同時に生成しているのです。あるいは、児童心理学は、赤ん坊が未だ鏡で自らの姿形を見たことがない状態でも、親から喜びや悲しみなどの表情や内臓感覚を写し取ることを教えてくれます。保育園などではよく知られていることですが、一人子どもが泣き出すと、それが感染して、子どもたちは次々と泣き出しますし、一人が楽しそうに遊んでいると、その感情が広がって、あたかも楽園のような空間が誕生します。それは大人から見た場合、外側から入ってくるイメージがあたかも同時に内側から沸き立つ感覚でもあり、内側の感情は外側のイメージでもあるようです。身体は、内と外において二重に「感覚-イメージ」を生み出しています。それを内と外に区別するのは、後続する認知過程に依存しています(脳神経学者ラマチャンドランの研究など)。
身体は、原初的な鏡であり、内と外を常に反射しながら/されながら、感覚-イメージ-言語を混濁させているのです。大人であっても、ジムでバーベルを持ち上げ、筋肉がパンプする度にアーノルド・シュワルツネッガーになったかのようなイメージに酔いしれる人もいれば、マフィア映画を見終えた観客が映画館から肩で風切って出てくることを考えれば、「感覚-イメージ」が未だ現代人の中で生き残っていることを実感できます(逆に恐ろしい出来事があれば、映画『13日の金曜日』で殺人鬼ジェイソンに追われるキャンプ指導員候補生のイメージに取り憑かれることもあり、ホラー映画を見終わった後の帰り道では、やけに誰かに見られているような不安に襲われることもあるでしょう)。少なくとも、ニーチェが記したように、獲得形質の遺伝が大部分において否定されている以上、人類はどこまで文明を発達させたとしても、新たに生まれ落ちるたびに太古の身体からやり直しているわけです。人類学が明らかにしているような、狩猟民の「私はシカでなく、シカでなくはない」、「シカは私でなく、私でなくもない」といった不安定な自己同一性は、彼らに特別なことではありませんし、霊長類学が明らかにしているように、チンパンジーからホモ・サピエンスに到るまで、僕たちにとって群れの中での親密な関係が実存の基盤となることも、変わらず根付いているものなのです(とはいえ、数万年後にはどうなっているかは定かではありません)。
問題は、現代人には、内臓感覚や運動やリズムを元にした「感覚-イメージ」を描き出せる人がほとんどいないという事実です。たとえば現代の表現を見てみると、多くの場合、マスメディアやSNSによって膾炙した一般的な線、形、表象が反復されているだけです。宇宙人の表象は、近年更新されているでしょうか? 妖怪や怪物の表象の豊かさは、先端の表現よりも、むしろ過去の文献の中に溢れています。イメージは現在、論理と有用性(ゲーム)に囲い込まれており、外側から一方的に眺められた「論理-イメージ」へと変貌しています。創造性という言葉は陳腐化し、「論理-イメージ」を少しズラして、引用することを意味するようになりつつあります。コード化した/された身体においては、感性もイメージも形式的に画一化されています(「論理-感性」と「論理-イメージ」)。故に、形式上でのズレを楽しむことが消費社会におけるおしゃれなライフスタイルとなるわけです。
ーーそうですね。ファッションなんかも他者によって決められるコードに準拠する部分と、自分自身が理想に思う身体イメージとのせめぎ合いの現象だったりしますし。
上妻 もちろん、表現の水準だけで言えば、いつの時代も凡庸なものは凡庸であったと指摘することはできます。しかし、「論理-イメージ」は、日常的な水準で、精神的、肉体的にも弊害を生み出しつつあるようです。感覚からのイメージ形成が上手く働かず、メディアを介した形式的なイメージに身体が蝕まれることで、アメリカでは262万人もの人々が身体・筋肉醜形症という病に苦しんでいます(日本の統計データは知らないのですが、日本にも多数存在すると推察できます)。身体醜形症とは、外的に見れば一見するだけでものすごい筋肉量を誇っているのに、内的には痩せすぎていると思い込み、強迫観念的にジムに通い、大量に食べ、サプリメントを過剰に摂取してしまうことや、既に痩せ過ぎていて、皮膚が灰色に変色してしまっているのに、自らを太り過ぎていると感じ、食べることに拒否反応が生じてしまうことなどの症状を指します。身体醜形症は、感覚-イメージ-言語のバランスが崩れたことで生じる病の可能性があり、治療法の一つには、患者に特殊なウェットスーツを常時着てもらうことで、常に皮膚感覚を感じられるようにし、それによって「感覚-イメージ」を賦活することを目指すものもあります(サンドラ&マシュー・ブレイクスリー『脳の中の身体地図』)。それは、憧れのボディービルダーやファッションモデルからのイメージではなく、ウェットスーツによって感じる皮膚からのイメージによって、身体イメージを再構築するための訓練です。
このように、表現だけでなく、身近な病としても、論理と有用性(ゲーム)による感性とイメージの囲い込みは現れ始めています。もちろん、論理や有用性(ゲーム)が悪で、感覚とイメージを善として語るのは誤りです。それらにはそれぞれの可能性と限界があるだけです。ウェットスーツの例のように、身体の原初的鏡における双方向の反射を賦活させることで、翻って論理の便利さや有効性を改めて自覚できるようにもなります(効率的な生産と流通に支えられて、現代社会の便利さや快適さは作られている)。そして、それぞれの越権に対して批判を加え(論理がイメージや感覚を支配している状態など)、適切な領分に住まわせてこそ、それぞれの能力が遺憾無く混ざり合い、上手く力能が発揮されるのです。僕が群れの必要性を唱えるのは、別に過去の共同体の牧歌的なイメージを復権させたいからではありません。身体の原初的鏡の元では、自己と他者の区別は不問なのです。しかし、自己とメディア環境でのみその反省回路を閉じていては、身体醜形症を始めとして多くの問題が生じるでしょう(身体イメージはメディアの市場原理次第ということになります)。
故に、鏡の反射範囲を広げることで、実質を取り戻す必要があると論じているのです(思春期には見た目を過大評価しがちですが、少し年の離れた人びとと触れ合うことで、見た目への評価を適切に調整することができるなど)。過去を取り戻すことはできません。しかし、過去を分析し、現在を分析することで、至らない部分(形式化不可能な領域)を、別の仕方で作り上げること、これこそが新たな身体を作り上げる上での参照先となりうるはずです。市場原理は、中間領域の構築を得意としている反面、長期的領域を破壊する傾向を持っています。逆に言えば、長期的領域こそ、僕たちが自発的に作り上げていかなければならないものなのです。
僕の専門は、制作論ですが、制作も傑作を作り上げるという寿命を超えた長期的報酬を目指すものです。カントは、「生きることの価値は、もしもそれが享楽の総計に従って評価されるならば、『零以下に下落する』」と指摘しました。これは現代の進化心理学では、狩りの失敗は再度挑戦すれば良いだけだが、狩られることの失敗は死を意味することからも、生物は否定的な事象を肯定的な事象と比べてかなり大きく評価する傾向として知られています。しかし、カントは、悲観的であったわけではありません。なぜなら、彼は、制作の次元においてこそ、享楽の次元を超えて、普遍的で価値ある物が生み出せると考えていたからです。彼の知らなかったことは(知らずに彼はその次元を彼なりに実践していたのですが)、その次元が感覚-イメージ-言語の組み替えによって成立するということ、そのためには短期的-中期的- 長期的報酬の攻防が個人の中で生じているという事実なのです(彼は、あまりにも感覚やイメージを、短期的-中期的な報酬を軽視し過ぎています)。身体は、単純に形式化できるものではなく、そのようないくつもの要因の複雑な絡み合いと組み替えの絶え間ない実験場なのです。
ーーでは、身体イメージを組み替えたり報酬の視野を広げたりすることが求められるとして、現代人はその感覚をどうすれば取り戻せるのでしょうか?
上妻 そもそも形式的とは何でしょうか? それは、感覚やイメージや言語を用いる際に、ある形式(フォーマット)を暗黙の前提にする物や事を指します。たとえば、形式的思考といえば、形式を媒介にした思考のことであり、形式的儀礼といえば、型通りに行われる儀礼のことを指します(感覚やイメージを伴わない格式だけの儀礼という批判が含まれていることもあります)。カントは、形式について議論する際、数量性を最も重視しました。なぜなら、数とは、まさに公理という形式を前提にすることで漸進的に示される典型だからです(近代数学では、集合と構造を定義することで、そこから個々の対象を演繹する)。自然数の定義(厳密にはペアノの公理だろうが、もっと具体的な、指折りによる日常的定義でも良い)なしに1や2や3の意味は不明ですが、それが一度確立されてしまえば、個々の自然数は無限に演繹し続けることができます。そして、一度数量の形式を定立してしまえば、人びとは、目の前の林檎をそれ自体として受け取るのではなく、それらを数の体系に置き換えることで、量として処理することができるようになります。林檎一つ一つは、当然すべて異なるものですから、それを一々「これは旨そうだな」とか「これは硬そうだな」と、個別に考慮していては、大量の林檎を一度に取引することは困難です。しかし、それらをまとめて同質な数量として捉えるなら、林檎の数と貨幣の等価交換が可能になります。
また、言語の場合も同様です。形式的言語学では、単語の意味は差異の体系として定義されます。そこで林檎は、みかんや梨やスイカとの差異であり、珊瑚(サンゴ)や団子(ダンゴ)との差異として示されます。林檎は、外から身体を誘惑し、内に唾液を分泌し、手に取るように促す林檎それ自体の赤や香りや硬さではなく、様々な果実からなる体系や韻律の体系を通すことで、「何かではないもの」として否定的に定義されるのです。こうして、形式的身体は、物を実質から分離し、対象へと加工し、物は数量や差異を生み出す項として処理されるようになります。形式を通してこそ、私(内)と対象(外)は、明確な区分をもって語られるようになるのですが、形式が透明化してしまうことで、事後的にしか区別不可能な外からの誘惑/内からの衝動、内からの分泌/外への行為という鏡の原初的反射は抑圧されます。この方法は僕たちにとって、あまりにも強固に学び/教えられているため、殆どの場合、僕たちは、この置き換えを無自覚のうちに通過しています(形式の透明化)。しかし、ソ連の神経心理学者アレクサンドル・ルリアの一連の実験で示されたように、実際、形式への置き換えは教育に依存しており、読み書きのできないウズベクスタンの人びとは、具体的なものを具体的なものとして考えています(たとえば、彼らは、樽とコップと林檎など円としてカテゴリー化できるようなものを円としてカテゴリー化することができないし、その必要性に疑問を呈する)。
あるいは、形式的経済学を考えてみるのもよいでしょう。そこで経済は、需要曲線と供給曲線で描かれる市場と化します。そうすると、共同体や制度や家の関係などは、すべてこの曲線を非効率化する障害として見えてきます。しばしばニュースなどでも聞かれる流動性を高めることとは、とにかく規制を排除することですが、この視点ではすでに人と人の具体的な繋がりや慣習的な制度が邪魔な要因として前提されています(一部の経済学の流派では、それらは社会関係資本として見直されてきている)。しかし、そもそも経済とは、家の法(オイコノミアー)という意味であり、古代ギリシアの大家族が自給自足できるようやりくりすることを意味していました。言い換えれば、社会関係資本は、邪魔なものでも、見直されるものでもなく、むしろそれらを実質として扱い、いかに維持するか、いかに豊かにするかを考えることが経済だったのです。実質的経済から中身を捨象すること、つまり、家族を無視し、共同体をないがしろにし、善き生活とは何かとは問わず、慣習や制度を非効率性と見做し、ただただ形式的に資本の増加を求めることが、正義や幸福や善に繋がるとは限らないのは、現代の経済を事例として考えれば明らかです。
賢明なことにも、古代ギリシアでは、交換経済は共同体の正義、あるいは善き生活に奉仕する限り承認されていた行為であり、形式的に貨幣それ自体の増幅を目的になされることは忌避されていました。それが共同体の紐帯を破壊すると直観されていたからです。今でもよく聞かれる「お金では買えないもの」という言い方は陳腐ですが、この使い古された文句には、直観的な危機感が表されているように思います。なぜなら、すでに述べたように、長期的報酬(愛情や友情や尊敬など)は形式によって破壊されてしまうからです。言い換えれば、あらゆる物や事が貨幣交換の次元に置かれるということは、愛情や友情や尊敬という実質的な領域を無きものにしてしまうことでもあるのです(たとえば、恋愛市場などという言葉を使ってしまう人に、現実の恋愛関係を豊かにできるとは思えません。それは、ゆるやかに形成されていく長期的な関係を短期的な効率をめぐる戦略ゲームへと変貌させてしまうからです)。
形式化とは、物や事を誰しもに当てはめるための一般化であり、誰でも実現可能な手順への規則化であり、皆に適応されるべき権利の構想と獲得の歴史ですが、それは、あくまで一つの特殊な条件に対する特殊な手段にすぎません。それは、まったくもって万能ではなく、ただ効率よく、戦略的に、一般的に示すだけであり、間接的なもの(誘惑や冗談など)や遊びや余暇や一回性のもの(運)を指し示すことはできないのです(悪口や陰口を言うと逮捕される社会になったとしても、運に恵まれた/恵まれないという差異は依然として温存される)。
むしろ形式が扱えるのは、中期的な報酬ーー戦略化や規則化が可能な領域だけであり、短期的な報酬(癖や中毒など)を理解不能にしますし、長期的報酬をダメにするのです。確かに、酒や煙草やギャンブルへの耽溺は、中期的観点からすれば、愚かに見えます。それは中期的報酬をダメにするからです(たとえば、ギャンブルは、貯金を最大化しようとする目的を破壊する)。しかし同様に、長期的観点からすれば、中期的報酬も愚かに見えます(貯金を最大化しようとするあまり、夫婦関係を台無しにしてしまうなど)。実質的とは、身体が感情-イメージ-言語の複雑な混交であること、短期的-中期的-長期的報酬の交雑をそのままに捉えることです。それらは、異なる領域を担っているだけでなく、相互に支え合っているのです。時には、酒や煙草を嗜むことが中期的な節約や効率化を支えますし、中期的な節約や効率化が長期的な関係の豊かさや創造性への余白を生み出します。そして身体は、近代的環境によって偏ってしまったバランスを脱コード化-再コード化する際の指針でもあります。
ーーそうですね。現代のSNS環境などで社会的身体の画一化がますます進んでいったことに対する見直しの出発点として、僕たちが「身体」の余剰性に着目した真意を、とても正確に言い当ててもらった気がします。
上妻 僕も、ここまで“論”を紡ぐ以上、形式的な単語を用いていますが、厳密には個々の一回的な「これ」(運と誘惑)があるだけです。それらは、厳密には反復不可能であるがゆえに、形式的言語では描き出せないものなのです。僕が形式と実質を区別するよう指摘するのは、“論”自体が形式性を前提にしているからであり、僕が語りたいのは形式それ自体ではなく、そこから溢れ出る余剰なのです。つまり、もし読者がこのテキストを文字通り解釈するとしたら、僕の言いたいことは何も伝わらないのです。もちろん僕は、それでもこれを読んだ数人にはその余剰が伝わると確信しています。そして、それこそが「論理-言語」ではなく、「感覚-言語」や「イメージ-言語」が実在することの実例なのです。
一般的に言って、世に広まっている身体論は、身体論とは名ばかりで、認知主義や効用主義の行き詰まりから別の名前がつけられているだけに過ぎません。殆どの論は、形式的に主張可能な一般論を挙げているだけで、形式の可能性と限界、あるいは実質について踏み込む勇気に欠けています(権利的に可能な身体や機械的に実装可能な身体についての話に終始している)。今やご理解いただけたかと思うのですが、感覚論やイメージ論や言語論は、身体から形式的にそれらを切り取ることで成立しており、身体論を語るのであれば、そのような形式性を自覚し、引き算することから始まるのです。もちろん、身体について“語る”必然性はありません。繰り返しになりますが、形式と実質の区別は、“論”として語る上での必要性に過ぎないわけです(言語の上でいかなる論が可能であろうとも、現実には、それらが分離した状態はありえず、常に実質以外あり得ないのだから)。たとえば、西洋哲学や批評言語に疎いはずのヨガ僧、武道の達人、超一流のアスリートやダンサーやボディービルダー、狩猟採集民や遊牧民の些細なお喋りや振る舞いの中に、意図せず心躍らせる批評性が宿るのは(僕たちがそこにそれが宿っていると勝手に感じるのは)、彼らがそのような迂回を必要としていないからです(そもそも近代的なコード化を経ていないか、修行、鍛錬、トレーニングの結果、感覚あるいはイメージの経路から脱コード化-再コード化がなされている)。
しかしながら、このテキストは“論”であります。この語りが身体論である以上、「論理-言語」という経路を再帰的に用いて、論理による支配-従属関係から感覚-イメージ-言語の共生へと、身体を組み替えるややこしい試みなのです。僕が繰り返し必ずしも“論”を読む必要はないと主張するのは、感覚の経路やイメージの経路からの身体の組み替えも可能であることが彼らによって示されているからです。しかし、もしあなたが既に十分に論理と有用性(ゲーム)に浸り切っている身体であると感じるのであれば(哲学や批評に関心を持っている時点で、大抵の場合その身体であると言えるかもしれません)、むしろ毒でもって毒を制する方法が有効かもしれません。少なくとも、確固とした形式を緩めることに関しては、論理の有効性は疑いようがないものです(論理は明瞭に区分することが可能な唯一のツールだからです)。
身体論にできることの限界は、形式的に身体の実質を描き、それを指針とすることだけです。その先にあるのは、沈黙と絶え間ない実践なのです。何を語り得ても、何もできなければそれこそ形式的であります。段位があれば、権利的には武道家として認められるでしょうが、能力や姿勢や振る舞いが伴わなければ、実質的に武道家として認められることはありません。同じように、身体〝論〞にできるのは、形式を描き、それを引き算すること、そして、その実質を指針として進むべき道を指し示すことだけなのです。どのように生きるかは、各々の、まさに多様な生成に託されています。
具体例を挙げるなら、それは、僕にとって制作ということになります。僕は、もっと良い作品を作りたいというその一点にすべてを賭けているのです(そのために身体を組み替え続けるのです)。しかし、何も書かなければ、何も誕生しません。形式を引き算し、実質を組み替え、別の形式として作り上げ続けること。制作は、一個の人生を超えて継続していくものです(そして、生命も一個体のエゴを超えて継続していくものです)。
皆さんにとって、形式を超えて与えられた幸運や誘惑は何でしょうか。
(了)
聞き手=中川大地・宇野常寛
この記事は、2022年3月刊行の『モノノメ #2』所収の同名記事の特別公開版です。あらためて2023年1月5日に公開しました。
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