「庭プロジェクト」とは、これからのまちづくりについて、建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会です。
第31回となる今回の研究会では、ランドスケープデザイナーでE-DESIGN代表の忽那裕樹さんをゲストに迎えました。手がけてきた水都大阪のまちづくりから、会場デザインプロデューサー補佐・ランドスケープデザインディレクターをつとめた大阪・関西万博、そしてその先にある都市の未来まで語っていただきました。
「庭プロジェクト」の連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
「かたち」だけではなく「使いこなし」までデザインする
忽那さんはまず、自身のデザインの根幹にある「使いこなし」という考え方から話を始めました。ランドスケープデザインというと通常はハードの空間づくりが中心になりますが、E-DESIGNはハードのみならず、「しくみ」や「うごき」などソフト面のデザインも同様に実施しています。
「僕らはランドスケープのデザインをやっていて、ハードの空間づくりをベースにはしています。ただ目指しているのは、そこで暮らす人々がオープンスペースやパブリックスペースを自由に使いこなしている姿です。それが美しい風景になり、その積み重ねが都市の魅力を形づくっていくと思っています。
楽しく使いこなす姿が生まれるために必要なのは、ライフスタイルや暮らしが豊かになると想像できる場所であること。そしてもう一つとても大切なのが、そこでいろいろな活動や使いこなしをしているときに、他の人たちとつながっていける場所であることです。そうした期待感をつくっていけるかどうかが、ハードだけではなくてソフト、あるいは仕組みやアクティビティのデザインをしていく際に重要になってくると思っています」(忽那さん)
この思想を、忽那さんは「しくみ」「うごき」「かたち」という3つの言葉で整理します。ランドスケープにとどまらず、建築まで含めてすべての風景をデザインするために避けて通れないのが、空間を縛っている法律や条例を変えていくことだと言います。
「日本の法律は安心安全を担保するうえで素晴らしいと思いますが、使いこなすための自由という観点から見ると、かなり束縛されているところがあって。そういう条例から国の法律まで含めて変えていくことにチャレンジしています。その前提で医療や福祉のプログラム、子どもたちやお年寄りのためのプログラムを開発して、そこで活動ができるきっかけをつくっているのです」(忽那さん)
その実践の幅は広く、海外では400ヘクタール規模の中国での開発やベトナムのリゾート等に関わり、国内でも個人の坪庭から都市スケールまでを横断して手がけています。例えば、パナソニックの工場跡地を桜の門にしていく建築家・安藤忠雄との協働プロジェクト、ジョン・ジャーディと組んで屋上全体を公園にした「なんばパークス」。また東京の赤羽では二十年ほどかけて団地を少しずつリニューアルし、もともと車道だった場所を広場に変えてきました。近畿大学のキャンパスのように、美しいランドスケープを学生を呼び込む「商材」として機能させた事例もあります。


中でも忽那さんが時間をかけて紹介してくれたのが、リハビリテーション病院の庭でした。厚生労働省とのパイロット事業として、ランドスケープの中にリハビリプログラムを200ほど組み込んだといいます。
「脳梗塞で倒れたおじいちゃんが、『庭球を握れと言われても、そんなん握力ないから無理や』と言っていました。リハビリプログラムは庭球を握ったり、ボタンをはめたりといった単調な動きを繰り返すものも多く、それだけだとモチベーションが湧かないわけです。でもかわいい園芸療法士の方を連れてきて『この方と一緒に庭をつくりませんか?』と言ったら、いきなりシャベルを握って土を力強く掘り返し始めて、『握力回復しとるやないか!』となったようなこともありました(笑)。もしくは園路に多様な勾配をつけたり、段差をもうけたりすることで、楽しく散歩することそのものをリハビリにすることができます。こういうプログラムを、医者と一緒に開発してきました」(忽那さん)

また関西空港の建設に伴う計画の一貫として埋め立てられた泉南市の土地が、計画が頓挫し、行政の財源不足により長らくそのまま放置されていたところ、「30年タダで貸してもらって、民間で資金調達して公園をつくり、その後の公園内商業で儲けさせてもらう」というスキームを提案、「Sennan Long Park」という形で再生されました。

滋賀県の草津では、長年、洪水に悩まされてきたもともとの河川を付け替えた結果、生まれた跡地の7キロをめぐり、6車線の道路にするか公園にするかで議会が真っ二つに割れた末、公園化が決まりました。

こうしたプロジェクトでは、E-DESIGNは設計だけでなく、その後の指定管理業務も受託し、市民活動の支援から植栽管理まで担っています。
「かたちのデザインをして、工事が完成した後に、市民のみなさんに『はいどう使ってください』というのが従来までのランドスケープデザインでした。対して僕らは、空き地の段階からみなさんに集まっていただいて、『火を焚きたい』『花火をしたい』といった公園では絶対やったらあかんと言われていることでも、とにかく何をやりたいのか話を聴く。そして整備する段階から工事現場でも市民活動を進めて、必要であれば行政と協働して条例も変えて、従来禁止されていることも可能にする公園として整備して使っていただく。そういうスパイラルアップで動いているんです。仕組みも使いこなしのワークショップも含めて、すべて『かたち』『しくみ』『うごき』のデザインだと捉えています」(忽那さん)

こうしたE-DESIGNの手法の原点は、1995年の阪神・淡路大震災にありました。忽那さんが関わったのは、被災した商店街のアーケードを架け替えるというプロジェクトでしたが、100店舗あった商店街は28店舗にまで減っていました。
「アーケードを架け替えるのは資金面でも厳しいし、それがすぐに活性化につながることはあり得ないと思ったんです。商店街のアーケードを綺麗にデザインして終わり、ということにもできましたが、復興につながりづらいことを形だけでやってしまうのはどうかなと。そこで子どもたちに、この街を表す漢字1文字を公募で提案してもらって、商店街の人たちに選んでもらったものを大きなフラッグにして商店街の天井から吊るすプロジェクトを手がけました。選ばれた漢字を提案した子どもの両親やじっちゃん、ばっちゃんまでみんなで見に来てくれるので商店街は大賑わい。5億円かかるはずのアーケードの架け替えが、1枚5万円のフラッグ10枚、計50万円で済んだわけです。そういう活動を経た後、商店街の空き地に僕たちがつくった広場は、子どもたちが陶器市をやったり、震災の鎮魂行事の場になるなど、地域に愛される広場として成長しました」(忽那さん)

形を整えるだけでは、街は生き返らない──その確信から忽那さんは2000年にE-DESIGNを立ち上げ、「かたち」「しくみ」「うごき」を掲げて歩み始め、会社は現在で25年になりました。
大阪はもともと海だった。「水都大阪」という一大プロジェクト
会社設立から数年後、忽那さんは「水都大阪」という大きな機会に巡り合います。アートと市民参画を軸に『水都大阪』を活性化させたいという大阪府・市の方針を実現する動きが進む中、忽那さんはその構想の提案や推進に関わるようになりました。
「大阪府、市、経済界の三者が協働して『水都大阪』を活性化する動きに協力し、河川の中長期のビジョンを提案するなど、コミットを深めていきました」(忽那さん)
そもそも「水都大阪」とは2001年に内閣官房都市再生本部によって「水都再生をもって大阪の都市再生とする」という都市再生プロジェクトに指定されたところからスタートしており、大阪という地域は大きく変革しつつありました。なぜ「水都」なのかというと、元を辿ればそもそも大阪は海だったという背景に行き着きます。
「大阪城がこの半島状に突き出したところにあって、淀川と大和川から土砂が堆積していった。満ちたときに出ていって、引いたときに帰ってくる船の運航をしていて、ここの波がめちゃくちゃ速かったので『浪速(なにわ)』という名前になっているんです。ちなみに大阪市北部の中心地『梅田』は『埋めた土地』だから梅田と言われています」(忽那さん)

江戸時代には水路網が発達し、全部で263の橋が架かっていました。そのうち幕府が架けた公儀橋はわずか12。残りは儲かった商人が橋を架けて都市に還元する仕組みだったといいます。元禄の天神祭には360隻の船が出て、「東洋のベニス」と呼ばれた時代もありました。

ところが戦後、1970年の万博にあわせて川の上に高速道路が架けられ、蓋をされてしまいます。さらに工業用水の取りすぎで地盤が3メートルほど沈下し、堤防の内側からは河面が見えなくなってしまいました。「僕らが小さい頃は川が臭くて、橋を渡るときには鼻をつまんでいました」と当時を振り返ります。
そうした状況が変わる契機となったのが、2001年に始まった「水都大阪」プロジェクトなのです。このプロジェクトは、長く分断されてきた大阪の府と市が、ようやく手を結ぶ機会でもありました。
「府と市はめちゃくちゃ仲が悪くて。競争して同じものをつくってくるとか、府と市が合わさると『ふしあわせ』になると、そういうことまでずっと言われていました。それが『水辺の再生をもって大阪の再生とする』として国から都市再生プロジェクトに指定されたのが2001年。それを契機に府と市、経済界が協働して水都再生を進めていくことになったんです」(忽那さん)
官民の連携で規制緩和が進み、放置されていた河川沿いにカフェが並びはじめます。水門で水位を一定にして親水空間を整備、川面に近いところを歩けるようにした道頓堀では、最初はフェンスだらけで街に背を向けていた店舗が、次第に川側へ張り出すようになりました。コロナ前には、その賑わいが日常の風景になっていたといいます。


キモは「中間組織」。アートを起点に都市を変えていくために
忽那さんが「水辺の使いこなし」に関して一貫して語るのは、楽しみを分かち合い、困っている人を「助けたい」と思う人がすぐ近くにいるように、マッチングしていくという発想です。河に挟まれた中之島公園を中心としたエリアでは、誰かの笑顔を見るためのイベントを公園でのフェスという形で重ねてきました。「そうしていくうちに、組織やリーダーが出てきて、愛着と誇りを持つというプロセスにつながっていく」と忽那さんは考えています。

象徴的だったのが、東日本大震災で被災し、結婚式を挙げられないまま避難していた夫婦のためのプログラムです。レンタル衣装屋さんが全部タダで貸してくれたり、ヘアメイクをする人、ネイルの人、花を用意する人が集まったり、高級ホテルが親戚一同に無料で部屋を提供してくれたり。「公園で、みんなの力で誰かの幸せをつくっていくというプログラム」が動き始めました。

また、忽那さんが審査員として関わった大阪府主催のアートプロジェクトで、大きなこけしのアート作品を設置しようとしたときには、近くを走る高速道路を理由に警察から「高速道路を走っている人がこのこけしと目が合って事故ったらどないすんねん」という思いがけない反対を受けたといいます。大阪府担当者がこけしと同じ高さまで風船をあげて、その様子を高速道路からビデオに撮り、車からはほぼ見えないという証拠を何度も警察に示して、なんとか設置許可を取ることができました。こうしたエピソードを忽那さんは笑いながら、しかし手応えのある実践として語ります。


そして忽那さんは、これらの活動を支える組織の重要性を強調しました。水都大阪に係る一連の成果を経て、水都大阪の活性化を主導する一般社団法人「水都大阪パートナーズ」を官民連携で立ち上げたのです。
「府知事と市長、経済三団体のトップが揃う会議体の場で、その一般社団法人の立ち上げをオーソライズしてくれました。その事務局には鉄道会社やエネルギー系の企業から出向していただいて、(窓口となっている)一般社団法人を応援する。この中間支援組織が機能していることがまちづくりにとってすごく重要で、官民連携で民間の活力を導入する際の依り代になるんです。将来の大きなビジョンを構想として立てて、それに向かって社会実験をやっていく。小さいものから大きな夢につなげていくというビジョンを、市民のみなさんと経済界とも共有しながらやってきました。
行政と事業者を直接つなぐとうまくいきません。だからこそ間に立つ存在が要るんです。中間支援組織としての一般社団法人が実施する収益事業によって、半年で8000万円の利益を上げたときには、そのうち500-600万円を中間支援組織に入れてもらい、翌年に若いスタッフが水辺のコンシェルジュとして関われるようにしました。このように投入される税金を少しずつ減らしながら、パブリックを経営していくモデルを実践してきたのです」(忽那さん)

そして水都大阪のもう一つの柱が、「アート」でした。まちづくりとアートを結びつけ、都市の魅力を高めていく。文化を担う部局と都市整備系の部局が一緒に動く例はめったにないと前置きしつつ、忽那さんは具体例を次々に挙げていきます。大阪府の文化課が主催した「おおさかカンヴァス推進事業」では、都市整備形の部局の協力も得て、道頓堀で巨大な寿司を流すアート作品を公募提案で実現しました。日本で初めて開店した回転寿司の元禄寿司がこの近くにあるという歴史を背景に、クリエイターが作品化したといいます。
「阪神タイガースが優勝したときよりも人が来ていました(笑)。都市を使いこなしていくアートがたくさん展開されることで、『俺にもこれをやらせろ』という人が増えてくる姿を描きたいと思っています」(忽那さん)

若手から大御所まで、アーティストが都市に関わるきっかけをつくる。忽那さんが繰り返し名前を挙げたのが、アーティスト・西野達氏が「おおさかカンヴァス」で展開した一連のプロジェクトです。公衆トイレを増設して高級ホテルをしつらえ、学生がコンシェルジュをつとめて宿泊料を取る。当時は公園法が改正されておらず、旅館業法を含め7つほどの法律に触れる試みを、さまざまな工夫で乗り越え実現されました。


アートへの関心の有無を問わず人を巻き込む仕掛けの一つが、ゴルフボールでした。
「これも若手のクリエイターがおおさかカンヴァスに応募して実現したものですが、本来、人が立ち入ってはいけない河川敷でゴルフの打ちっぱなしをするプロジェクトですが、水質浄化の機能を持ったゴルフボールにすることで河川部局から許可を得ました。こういうプロジェクトだと、全然アートに興味がない人も楽しめると同時に、普段、使われていない河川敷という都市インフラも活性化するんですね」(忽那さん)

舞台が大阪西部の港湾に移ると、誰一人いない更地に、仮設の状況をつくり出していきます。
「港湾の誰一人いないところに、こういう状況を仮設的につくって、人が来ないところにあひるちゃんを浮かべると、最低一万人は来るんです。手前の動物を板絵にして設置した作品も含めて話題になりました。

この作品は中之島の西の剣先に設置されたのですが、東の端には安藤忠雄さんが発案された噴水があるので、それに対抗して?笑、作られました。箱状のものは公衆トイレになっていて、おしっこの勢いに応じて小便小僧から水が噴射される仕組みになっています。

本物の車にミラーチップを貼り付けてミラーボールにしてしまう西野さんの作品も同時に展示していて、そのエリア一帯を即席のクラブハウスにしてしまおうというものでした。もともと何もない倉庫街にこういったアート作品が仮設展示されたことで、数万人の人が見に来たんですね。それを見た維新派という著名な劇団が、ぜひこの場所を舞台にしたいとなり、翌年に10日間の公演を実施しました。満員御礼が続いたことでこのエリアの見方がすっかり変わり、さらにその次の年には活魚を販売して、その場で食事もできる場所が常設で設置されることになり、連日、すごい人で賑わうことになったんです」(忽那さん)


ここで忽那さんは、これらの活動の核心を一言で言い切ります。
「アートを単に一過性のイベントで終わらせず、都市政策に有効な形で実施する。それが都市を紡ぎ出す方法です。『こうも見えるよ』『こうも使えるよ』『こういうアクションで違う意味の共有媒体にしていく方法もあるよ』と、物理的インフラの上に、人間関係の資本というインフラを掛け合わせて、つながっていく可能性を信じたい。これ『でしかない』ものを、これ『でもある』ものに変えていく。それを常にやっていこうと考えています」(忽那さん)
一度パブリック空間で事業を手がけた人が、別の場所でも河川の規制緩和に挑む。かつては河川空間にホテルを建てるなど考えられませんでした。船が行き交う風景を作れとばかり言っていた松井一郎知事の時代を経て、年間20万人ほどだった乗船客は、忽那さんたちが関わった範囲で130万人ほどにまで増えたといいます。

大阪・関西万博のランドスケープデザイン
ここまでの水都大阪の蓄積を踏まえて、話題は大阪・関西万博へと及びます。
まず前提として確認されたのは、大阪という都市が西へと伸びてきた歴史です。大阪城から西に向かって街がつくられ、東西の道は「通り」、南北を走る道は「筋」と呼ばれます。御堂筋はもともと6メートルの道でしたが、20世紀前半に大阪市長を務めた関一が南北の大通りを通そうと、これを44メートルに拡げる決定をしました。大阪は瀬戸内海を通して大陸の文化と物資が入り込む場所であると同時に、西へ西へと延伸してきた都市でもあります。その2つが衝突したところに新しい大阪の姿が描かれてきた。万博の会場も単なる埋立地ではなく、本来そういう意味を持つ場所なのだと、忽那さんは強調します。
もっとも、忽那さん自身は当初、万博に関わるつもりがありませんでした。「会期のあるイベントに興味はない」と断っていたといいます。万博会場デザインのプロデューサーを務める建築家・藤本壮介さんが「大阪のことなら忽那さんが全部知っている」と紹介され、会いに来たのが始まりでした。
「僕は最初、藤本さんをいろんなところに紹介する役で、一言で言うと『飲み会担当でええかな』と思っていたんです。それで耳よりな情報をちょっとだけもらえたらええなと(笑)。僕はアフターには興味があったので、『つくるのはええけど森はどうなるんですか』と聞いたら、『更地にして全部切り倒すことが前提です』と。『何を言うてんねん』と思いました。『命をテーマにして、そんなことしたら命輝かんやろ。絶対にここを残すべきや』と義憤にかられて万博に参加することにしたんです。」(忽那さん)
森を残すという一点から、忽那さんは会場全体のランドスケープデザインに踏み込んでいきます。そして大屋根リングとその中心にある森を含めた会場全体を、忽那さんは「海」に見立てました。
「僕はランドスケープデザインをするとき、器のデザインをしていると思っていまして。そこに盛られるいろんな料理が美しく見える、一番のベースになる背景、その地盤、お皿をつくっている。今回は、先ほどお話したように、会場の夢洲を含むエリアは、大陸から瀬戸内海を経て太古からさまざまな物資や文化が運ばれてきた場所です。そこで、会場全体を瀬戸内海に見立て、植栽で構成される大小様々な島々を点在させることで、しまなみの風景を作ることを提案させてもらいました。静けさの森は一番大きな大島にあたります」(忽那さん)

中央に大島としての「静けさの森」を据え、そこから大小の島々が広がっていく。緑がくさびのように差し込まれ、緑を通してパビリオンが見え、また次の緑の先に次のパビリオンが現れるよう、シークエンスのなかにしまなみの風景を織り込みました。


「『真っ白なテントだけだと、人が登りたいと思う空間にならないですよね』という話を藤本さんとしていて。リングの上からは、六甲山や大阪の町並みが一望できるので、それらを借景的に捉えて『天空の草原』というコンセプトを立て、さらにリングを大きな時計に見立て、ストライブ状に草花を植え込んで『季節の時計』として表現することを提案しました。季節に合った花が咲き、秋にはすすきが繁茂するなど、季節が織りなす布のような風景をつくることを目指したんです」(忽那さん)

しまなみの風景を会場のモチーフに据えたのは、造園の「見立て」の文化に根ざしています。会場全体を海に見立て、大小の植栽帯の丘を島に見立てる。「自然をコントロールする日本の技術は世界最高峰だ」と忽那さんは言い、その造園技術を万博のスケールで見せようとしました。また、今回は複数の府営公園から間伐予定の樹木を万博会場に移植しています。なかでも70年万博の記念公園は地面の下に瓦礫が埋まっており、根がうまく張れないことから風倒木になる危険がある木もあったため、それらも会場に運んで植えています。忽那さんは形の悪い木やひょろひょろの木、片側にしか枝のない木まで集め、それらを美しく構成する原理を当てはめていきました。
「僕らが日頃アナログでやっている樹木の配置については、日建設計さんがすべての樹木の情報をデータ化し、森の風景として自然な形状になるよう、また木陰が多くなる配置をコンピューター上でシミュレーションする手法を開発しました。そこに『どうやったら美しい森として構成できるか?』という僕自身の美的感覚も入れ込んでもらい、全体の配置計画を進めました」(忽那さん)


4月13日に開幕し10月13日に閉幕する会期は、ソメイヨシノが散った後に始まり、紅葉の前に終わる。四季の二大武器を欠いた条件のなかで、忽那さんは季節の変化を見せる工夫を重ねました。
忽那さんは、この森を会場のど真ん中に置くことの意味を、「静と動」という対比で語ります。
「この森に入って中心部に来ると、水と森と空しか見えない。森の周囲には最先端のテクノロジーを展開するパビリオンなど喧騒の空間が広がっている。命がテーマになっている万博で、命について考える空間として、真ん中に静けさの森がある。水と緑と空しか見えない、僕らの命の源泉になっているものだけが見える環境を、万博のど真ん中につくっていく。静と動の空間という対比も含めて、貴重な場所なのではないかと思っています。こういう水と緑と空の風景のなかで、アート作品が設置されたり、アートと対話するイベントなども実施されました。森の中はできるだけ人口密度が下がるよう、近道ができないような動線計画をしているので、森の中に入っていっても、さまよってしまうんです。虫や鳥など、生物の多様性が豊かな、緑溢れる空間がわずか1年半で完成し、世界的な植物学者やアーティストたちも評価してくれました」(忽那さん)

森の中には、子どもたちが水に入って遊べる風景や、アート作品も織り込まれました。忽那さんは、それらが境界なく一つの環境としてつながっていることを重視します。
「盛土をしてつくった植栽帯は海に浮かぶ島をイメージしているので、植栽帯の周辺にはこどもたちがぴちゃぴちゃ入っていけるような水の溜まりをつくることで、しまなみの風景を再現したかった。夜も昼も、鈴虫などが音楽を奏でているような場所にしたかったんです。これほど緑や虫が豊かな生態系が実現したのは、自然の再生能力の一つだと思います。しまなみの風景の島としての緑地帯が点々と配置され、パビリオンはそれらの緑のフィルターを通して次々と見えてきて、建築の敷地境界が明確にならないように工夫し、それらの小さい緑の島を抜けるとやがて大島としての静けさの森にたどり着くという風景のあり方を設計しました。
都市の真ん中に森を持っているほうが、涼しさをもたらしたりと、構造的にも良いと思っています。ですから、会場の真ん中に緑を配することで、これからの都市づくりの方向性を示したいということも話し合っていました」(忽那さん)

そして森だけでなく、会場のさまざまな場所で水と光の演出が試みられました。落合陽一さんらテーマ事業プロデューサー8名のパビリオンが面する「いのちパーク」では、霧が吹くデザインをめぐって、こんな一幕もあったといいます。
「ここもテストランのときに、石井総長が『白くてなんにも見えへんな、あぶないんちゃうか』と言うので、『大きな声でそんなこと言わないでください』という話をして(笑)。霧の調整をせずにそのままにしたら、前が見えなくなるほどの濃い霧を子どもたちが大いに楽しんでくれました」(忽那さん)

光を受け止める会場地面のデザインにも、忽那さんの一貫した思想が貫かれています。磨きをかけた部材を組み合わせて敷いた舗装は、色の違いによって、浅瀬から深い海になる様子を表現し、夕日の差す西側では磨きをかけた舗装材が光ることで、舗装全面がきらきら光る水面のように見えるデザインに設えました。
「照明のデザインディレクターは東海林弘靖さんが務めたのですが、彼は会場を照明デザインでピカピカに照らし出すようなことはしないという考え方で、行燈的に落ち着く、暗がりもあるようなデザインによって、新しい夜をつくろうとしていました。すべての場所を均一の照度で照らしてしまうのではなく、反射光を受けることでほのかに明るい場所をつくる等といった光の環境を丁寧に生み出してきました。夜の月が水面に映って、そこに人の姿がちゃんと映る。人がいる風景を美しく見せる、人が舞台の主人公として見える。僕がいつも考えていることが、ここ万博でも実現されたと思っています」(忽那さん)

「檻の中」にしないために。「まちごと万博」というプラットフォーム
一方で、運営をめぐる苛立ちも率直に表に出していきました。協会の広報がパビリオンの情報も若手建築家のコンペの情報も「入札できるまでダメだ」と出さない。それではチケットも売れない。
「僕だけ守秘義務なしでどんどんしゃべっていきますというスタンスを取りました。会場の整備中も、例えば静けさの森がどんなふうになるのかの情報もまったく外に出ないので、僕が某新聞にすっぱ抜く形で公表し、それがきっかけになって準備中の会場を公式にメディアに公開するなどのアクションにつながった。閉幕後も森を残したいとという僕の希望も、最初はしゃべらないでほしいと言われていたのですが、積極的に話してきました」(忽那さん)
アートについては、さらに深刻な問題がありました。今回の万博は、アートの予算がそもそも組まれていなかったというのです。
「お金を持っている企業なり個人が、規定を満たしさえすればアート作品を会場に置けるしくみになっていたので、『それやったら本当に会場はどうしようもなくなるよ』という話をして、協会に正式にアート・コーディネーターを位置づけてもらいました。そしてゾーニングを決めたうえで、ルールがいっぱいの会場の中、作品とその背景がうまく合うように作品の配置を検討しました。ポケモンGOのフォトスポットとして、オブジェ8体を配置するのもアート・コーディネーターの仕事の一つだったのですが、その作業が一番大変だったかもしれません。ポケモン社の人たちが、『フォトスポットで観客が写真に撮る際に、背後にミャクミャクが写ったら絶対ダメ』だと言うんです。『なんでダメなんですか?』と言ったら『ポケモンの世界にミャクミャクはいません』としかめっ面で言うものだから笑いそうになりました」(忽那さん)


会場の装飾を彩った「こみゃく」や会場の東西に配置された大きなミャクミャク像も、当初の計画にはなかったといいます。開幕一年前に急遽、会場装飾が必要だということになり、忽那さんが大阪のクリエイター集団を推薦して位置づき、彼らがミャクミャク像を提案したり、後で「こみゃく」と呼ばれることになる会場内アートなどを生み出しました。「いらっしゃいミャクミャク」は正座しているんですが、「それだと足が長いミャクミャクになってしまう」となかなか許可が出なかったというエピソードを、忽那さんは苦笑とともに振り返りました。

そして忽那さんは、こうした会場づくりの先に「まちごと万博」という構想に至ります。きっかけは、地元の盛り上がりの低さへの危機感でした。
「大阪商工会議所の会頭で、サントリーホールディングス代表取締役副会長の鳥井信吾さんに『地元でさえ万博が盛り上がっていないのは、どういうこと?』と聞かれて、『十分な情報が発信されておらず、自分たちの街にどんな効果があるかもわからへん万博に誰が興味を持つと思いますか?』と返しました。大阪では僕らの仲間でもあるクリエイターたちが結集して、demo!expoという団体をつくって、勝手に自分ごととして万博を盛り上げる活動を数年前から日本全国で続けていた。そこで『まちごと万博共創プラットフォーム』というしくみをつくって、大阪商工会議所に事務局を担ってもらい、さらに府、市、経済界三団体にも公式に位置づけてもらうことで、demo!expoのような万博を盛り上げる活動をオーソライズしてバックアップする体制を整えたんです。
また会場だけでなく、街中も万博で盛り上げようという活動を応援する『まちごと万博共創プラットフォーム』には全国のたくさんの地域やテーマ団体が登録してくれました。中でも先のdemo!expoの活動は飛び抜けていて、会期前から、鳥井さんや僕らを呼んでカーニバルをやったり、万博をテーマに集まる『EXPO酒場』を全国各地で展開したり。万博会期中には、大阪のキタとミナミに常設の『EXPO酒場』までつくってしまって、パビリオンで勤務を終えた外国人スタッフたちが大勢集まってお酒を飲んだり踊ったり……と街中でも大いに万博を盛り上げてくれました」(忽那さん)

この発想の根には、都市の在り方が変わっても、相変わらず塀で囲った敷地内で実施する現代の万博のあり方への批判的な視座があります。そういう万博を忽那さんは「檻なか万博」と揶揄してきました。
「檻の中でやる万博に未来なし、と。ただ、都市を広げていかなければいけない時代は、万博をきっかけにしてインフラを、大阪で言うとモノレールをつくっていくきっかけにしていた。でも、いまそういう時代じゃないのに、変わらず檻で囲った敷地の中で万博をやっているのはなぜなのか?という話をしていて。絶対に街中でやるべきということで、いろんな活動が会期中に街中で起こっている状態をつくっていきました。もう一つの万博会場は自分たちでつくっていくということで、お土産屋さんとか工場とか、そういうところと協力しながらやってきた。そっちのほうが、僕はレガシーとしては十分効いてくるところだろうなと思っています」(忽那さん)

アフター万博の大阪都市論
忽那さんは万博の話を踏まえ、最後に25年先の大阪を見据えた構想へと話を広げました。市内をロの字に流れる河川と東の森ノ宮エリア、西の万博跡地・IRの夢洲をつないだ線を弓に見立て、その真中を貫く御堂筋、その最北のグラングリーンがある梅田をつなぐ線を矢に見立て、緑の公共空間を面でつないで展開しようという「グリーンアロー構想」です。緑地と水路が連続してつながっているボストンの「エメラルドネックレス」の取り組みのように、何かに見立ててイメージを共有していく。点としての緑ではなく、それがつながることに意味があると忽那さんは言います。
「これだけ暑くなってくると、都市の真ん中に緑と水のネットワークを中心にした、歩いて楽しい街を作っていく構造転換が必要です。グリーンアロー構想の矢の部分は、ソフト面の活動を矢のようにどんどん放っていく、という意味を持たせているのですが、構想だけでなく、具体的な活動もいろいろ提案しています。それを実現していくための動きを、官民連携で取っていけたらと思っています」(忽那さん)
その一部である御堂筋は、既に動き出しています。全長4.2キロ、幅44メートルのこの道の中央をセントラルパークにしようという構想です。9年前、御堂筋80周年のときに、20年後の生誕100周年の姿として描かれました。東西の車道をなくし、南北を公園にする。忽那さんは経済界のトップたちを一人ひとり説得して回ったといいます。
「具体的なパースも提案したのですが、そうすると『うちの前をこんな公園にするつもりか?!』とクレームもたくさん出てきます。ですから『御堂筋のどこかがこうなったらええなあ、というイメージなんで、大きく捉えて賛成して!』と説得しながら進めて、最終的には官民連携の構想として打ち出すことができました」(忽那さん)


御堂筋は6車線をすべてなくす前段として、両側2車線を削った4車線化から着手しています。また関西空港から鉄道で大阪市内に入る玄関口、難波では大きな広場が生まれました。もともと南海難波駅前はタクシーが並び、喫煙所があるという、大阪の顔としてはふさわしくない場所でした。そこで商店街など地元の人々が15年ほど前から「車社会ではないものしたい」と地道に研究を続け、行政や鉄道会社とも交渉を重ねてやっと広場化が実現したのです。
忽那さんは地元と連携しながら、その広場のデザインを担いました。広場化の過程では、社会実験によってタクシーやバスの動線を移動させる計画や、隣接する商業施設の搬出入の膨大な交通量などの課題を一つずつ検証しながら進め、やっと万博に間に合う形で完成させることができました。
「この広場は道路法上は道路扱いなのですが、数年前に道路法改正で制定された『歩行者利便増進道』」、通称ほこみちという制度を活用していて、この制度を使えば、今後20年、道路上であっても民間が占有してカフェやレストランを建てることができるという画期的なしくみなんです」(忽那さん)
忽那さんは、このなんば広場が日本の都市計画における一つの転換点になると位置づけます。
「日本には、都市計画上、『広場』と位置づけられているものはないんです。先進国としては日本だけです。それが、ほこみちの制度ができたことで、こういう広場的なものも作れるようになったわけで、なんば広場はその初めての事例です。都市にとって、オープンな公共空間が中心にあることはとても重要だと思っています」(忽那さん)
こうした小さな活動の一つひとつを束ねていく拠り所として、忽那さんが掲げるのが「ビッグピクチャー」と「フローティングビジョン」です。官民連携で大きなビジョンを浮かべて立て、小さく活動を始め、それを中間支援でつなぎとめていくという構想です。
「オープンな公共空間をデザインし、そこを多様な人が使いこなすことでつながりが生まれていく。そういったハードとソフトを連携させることが法律改正によってやりやすくなっています。行政は現状と飛躍がある未来像を打ち出すことはハレーションが起きるのでなかなかできないのですが、夢を盛り込んだビッグビジョンを示して、それを誰がどうやるとかいうことは置いておいて、フローティングビジョンという形で浮かせておくんです。そうすることで若い人たちもいろんな形で実現のプロセスに関われるようになります。そうやってオープンスペースで紡がれる人々のネットワークが暮らしを豊かにし、次の都市をつくっていく。都市をつくるということは、こういうプロセスをベースにしてほしいと思っています」(忽那さん)
この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2026年7月16日に公開しました。



