こんにちは。

 消極性研究会の栗原一貴(津田塾大学)です。今(原稿初出時:2020年2月)私はアメリカの西海岸の街、シアトルに住んでいます。1年間の滞在で、ワシントン大学で客員研究員として籍を置きつつ、家族とともに生活をしています。

 今回は私の消極性研究についてお届けするつもりではあったのですが、ここアメリカはシアトルでの生活は私の消極性パーソナリティに予想外の強い影響を与えており、ぜひそれを皆様と共有させていただきたく、筆をとりました。

 なお無遠慮にアメリカでは、などと主語を大きくして語ってしまっていますが、適宜「シアトルでは」や「栗原の生活圏では」と読み替えていただけるとありがたいです。また、昔から語られている、同調圧力・低コンテクスト・高コンテクスト文化みたいなことを今更語っているだけのような気もしますので、詳しい方々には有益な情報を提供できなくて申し訳ありません。理系の私が柄にもなく社会的なことを論じるので、皆様お手柔らかにお願いします……。

アメリカ人はナイスガイでありたい

 アメリカ人は、基本的にナイスガイでありたい、そうでないといけないと思っている、と在米歴の長い知人に聞いたことがあります。確かにそう感じます。初対面でも愛想がよく、笑顔が素敵で、私のような一時滞在者にも「My pleasure!」と親身に相談に乗ってくれます。一方でその反動のギャップもあります。日本的感覚で、「ここまで愛想がよく面倒見のいい人なら、信頼できる。きっとしっかり仕事してくれるだろう」と予想していた人でも、意外な仕事の杜撰さが後に発覚し、おいおい何だったんだあの笑顔と自信は、と思うこともしばしばです。しかし個人的には、そのギャップを差し引いても、とりあえず人当たりがよいというだけで、コミュニケーションの躊躇はぐっと少なくなります。

アメリカは空気が薄い

 アメリカはとても空気が薄いと感じます。もちろん酸素濃度のことではなく、日本人が読むのに心血を注ぐあのコミュニケーションの空気です。多様性の極みともいうべきシアトルは、多種多様な人種と文化のサラダボウルであり、かつ「どんな人でもwelcomeだよ」という態度をとることをアメリカの皆さんはプライドに思っている、あるいはそこにアイデンティティを感じているように思います。そして、シアトルはマイクロソフト、アマゾン、コストコなどの有名大企業があり、実際のところ経済的にも潤っているのでしょう。物価は高いですが、人々に余裕が見られます。余裕があるとき、人は理想を追求したくなるもの。そういう意味で、シアトルは(リベラルな?)アメリカ人が理想とするアメリカ像をしっかり実践できている場所なのかもしれません。もちろんホームレスの人々も多いですよ。でもホームレスへの各種社会的支援もなかなかのボリュームです。

 日本人がアメリカ文化で辟易する、飲食のカスタマイズ文化。スターバックスのコーヒーのカスタマイズ。サブウェイのサンドウィッチのカスタマイズ。これらもひとえに、「みんな違って当たり前。君は何を望むの? それを叶えるのが私たちの喜びさ。」ということこそおもてなしと考える、アメリカ文化の一つの象徴のような気がします。「おまかせで」とは対極ですね。コミュニケーションにおいても、誰がどんな思想を持っているかなんてバラバラ。違っていて当たり前。言いたいことがあれば言えばいいし、言いたくないなら言わなければいい。興味があればwelcomeだし、興味がないなら去ればいい。静かにそこに居たいならそれも自由。この考えが徹底している感じがします。

 ですから、いろいろ日本でコミュニケーションに関する自意識をこじらせて消極性研究会を立ち上げたほどの私ですが、ここシアトルではコミュニケーションの負荷が小さく、他人の発言の裏に何があるのか詮索を始めようとしても「思い悩むだけ時間の無駄」とすぐに直感するように適応してしまいました。人に親切にすれば偽善かどうかなんて考えるまもなく感謝され、見知らぬ人に何か親切にされたら裏を読む暇もなく感謝してそれで別れる一期一会。サバサバしている、ドライである、浅い付き合いであると批判することもできますが、私は意外に、(実情はどうあれ)表面的に穏やかで笑顔で愛想がよい人たちに接していれば、幸せを感じる人間であったのだなと気付かされました。

アメリカは自主性が大事

 私がひとつびっくりしたのは、ヨガインストラクター資格のトレーニングでの一幕です。(なぜ私がそんなことをしていたかは、ご興味があればこちらを御覧ください。)ある意味これは修行ですし、師匠はストイックなご老人でしたので、私は日本の武道の徒弟制度に準じた態度で師を敬い、失礼のないようにしていました。あるとき、難しいヨガのポーズの指導の際、先生が一人の女性受講者を指名し、皆の前で実演するよう指示しました。これまで、このような場面では(基本皆さんナイスガイなので)はい喜んで、という感じで指示に従っていたのですが、今回はその女性は遠慮がちに「そういう気分ではない。」と告げました。師匠は「君なら大丈夫、やってご覧」と優しく諭したのですが、しばらく膠着していると外野の別の受講者たちが団結しながら「彼女は嫌がっている。やらせるべきではない」と師匠に抗議したのです。師匠もそれを受け入れ、次の課題へと進みました。アメリカでは個人の自主性が、このような社会的上下関係の想定される場所であっても高い優先度を持つようです。

 公共の場でも、すこし変なことをしている人がたくさんいます。バスの中で歌っている人。待合室で椅子が足りないときに床に座ってくつろぐ人。カフェでウロウロしながらブツブツ喋っている人。セグウェイのような電動一輪車で大学内を移動する人。このような人を、基本的に排斥しません。自分の正義に照らして良くないと思う人がいれば、声掛けします。異論があれば議論し、なければ合意して解散。ただそれだけなのです。ですから、自分が公共の場にいるとき、特に何も他人から声がかからなければ、「ああ、私はここにこのまま居ていいのだな。」という直感的安心が得られます。自分の存在や行動が周囲に不快感を抱かせていて、誰かが私に自粛するよう願っている、というような可能性に思いを馳せ萎縮する必要がないということに、確信を持てるのです。

理想のアメリカが私を凡庸にする

 おそらく日本にいるよりも幸せに生きている私ですが、問題もあります。私は以前、東京の満員電車に乗って90分ほどかかる職場に通勤していました。そのころは、あの異常な時間と空間に辟易しつつも、満員電車で他人に「私は不快に思っている」とトラブルを避けつつ伝えるには、どういう機器やデザインが必要か、などの消極性研究興味が尽きず、それなりに成果も出ました。その後、職場のそばに引っ越しして自転車通勤になり、満員電車から開放されて著しくQOLは向上しました。問題は満員電車にまつわる消極性研究興味も薄れてしまったことです。やはり必要は発見の母なのだな、と実感しました。

 今私はアメリカに住んでいて、私の消極性研究の根幹にあるコミュニケーション上の鬱屈や違和感、ストレスなどが急激に浄化されています。とても穏やかな日々です。しかし職業研究者としては死活問題です。消極性に関する研究興味も薄れてしまい、なんとも尖ったところのない、凡庸な科学者になってしまっている危機感があります。

 1年限りのお客様としての滞在で、特に競争社会・格差社会アメリカの陰の面を見ず、生き残る苦労をしていない私です。唯一の武器と言っていい消極性研究者としての市場価値を失っては、この社会で安定して暮らしていく自信が今のところ持てません。結局私は、自分の主戦場である日本に帰っていくのだと思います。

理想のアメリカは日本には来ない

 日本もアメリカみたいになればいいのにな、と無邪気に思いますが、やはり難しいのでしょうね。

 私が日本の英会話ビジネスで苦手なのは、場違いなネイティブ講師のハイテンションでした。「Don’t be shy!」と笑顔で言われても、それができれば苦労しないよ、とんだ根性論だと内心憤っておりました。一人のネイティブ講師に対し、複数のshyな日本人学生。講師のハイテンションについていけなくて場が凍りついたとき、その空気に耐えられなくて、自分自身がピエロ役になり、無理やりなハイテンションを演じ場を前に進める。我々の間で俗に「SHYの逆張り」と言われている行動です。

 以前私は、「SHY英会話」というコンセプトを提案したことがあります。「私たちは英語という言語を学びたいのだ。いかに言語と文化が不可分であっても、思慮深く文化を言語から切り離し、淡々と言語としての英語を学べる場があるべきだ」というのがその趣旨です。言語を学びたいのであって、ハイテンションな性格の外国人を演じる演技力を鍛えたいわけじゃない。ハラスメントとも言える安易なロールプレイは辞めて、もっと心穏やかに英語を学ぼうよ、という主張は、情報科学系学会の懇親会の場で披露した際、意外と多くの賛同を得ることができたように思います(残念ながらまだSHY英会話は具体的な実現方法を模索している状況です。皆様の中で興味のある方がいらっしゃれば、ぜひ議論したいです)。

 今私はアメリカにいて、SHY英会話のヒントになるような学びができないか常にアンテナを働かせています。その一つが、9月から通い始めた英会話教室です。当然のことながら、ネイティブ講師は超ハイテンションでした。しかし、私の中では何かが違いました。ここはアメリカで、生徒は非ネイティブで多国籍な人たち。小さなグループですが、そこには教室の外と同じ、アメリカの縮図がありました。つまり支配している空気がアメリカなのです。言いたいことを言うだけ。他の人が考えることを詮索するだけ無駄。私は他人とフレンドリーになれるよう、ナイスガイであることに務めるだけ。一緒に学ぶ外国人はワシントン大学のポスドクの韓国人、中国人が多く、意外にSHYな人たちが多かったです。私はその場で、なるべく場を盛り上げるよう誠意を尽くしました。それはある程度「SHYの逆張り」ではあるのですが、界王拳とも言うべきこの身を切る技に消費する精神力は案外ずっと少なく、それほど苦ではありませんでした。

 もしこれが、アメリカであってもネイティブ講師に対し生徒の中にSHYな日本人がそれなりにいる、という状況だとしたら話は別です。私の自意識はブラックホールのようにその一部の日本人に吸い込まれ、エンドレスな空気の深読みに陥り、気苦労にさいなまれることでしょう。

 ここから考えるに、日本でもアメリカのような居心地良さを得るには、場の空気を気にしない契約を守れる人々のみと付き合う必要があり、かつそれはたとえ少数でも抜け駆けして目配せして同調圧力を強めるような空気を醸し出す人が現れたらすぐに破綻する、とても儚いものなのだと実感しました。

 海外の各種文化に触れて感銘を受けた方々が、その雰囲気を日本に直輸入して広めたくなる気持ち。海外滞在を通じて今、私は以前よりそれを理解することができます。しかし不用意に輸入しても、先述の英会話教室におけるネイティブ英語教師の場違いハイテンションのようになり、伝える側と受け取る側で空気の壁が生まれてしまいますよね。

 異質な雰囲気・空気の導入には、周到な雰囲気・空気のデザインが求められます。これこそが消極性デザインの活躍の場所であり、結局私はその激戦区、あるいは未来社会である日本でこれを研鑽する必要があるのだな、と覚悟を決めた次第です。

 それではまた。

補遺

 この文章を消極性研究会のメンバーに前もって読んでいただき感想をいただきました。神戸大学の西田健志さんから、特に深い洞察をいただきましたので紹介させていただきます。彼の主張は、要約すると「口に出して言ったこと以外は存在しないとみなして気にしなくてよい文化だからこそ、その中で自己主張がしたくてもできない人には余計に辛い社会なのではないか」という点です。なるほど、「アメリカは空気が薄い」と申しましたが、日本でよく象徴的に使われる意味での空気が薄いだけで、「基本ウェルカムでナイスガイで自主性を尊重する雰囲気」がシアトルに充満する空気感、敢えて強めに言えば同調圧力ということもできそうです。そしてたまたまそれが私にとっては居心地良いと感じられた、ということだったのでしょう。

 彼の分析によると、私の消極的な性質は後天的に身に着けたものであり、状況に応じてスイッチをonにしたりoffにしたりできるからこのような考えに至るのだろう、(そして、そのように自分でスイッチをコントロールできない人も世の中にはいる)、とのことでした。
彼は続けて、「栗原さんは困っている人を助けることから解放されたから楽になったということかなと整理がつきました。困っていると主張しない限りは助けなくてよいから。」と分析します。このように麗しい言葉で表現いただきましたが、要するに私は、コミュニケーションの場において、同席する人たちが不快に感じているかもしれないという不安に対する耐性が低いということだと思いました。その不快という感情が、特に私自身に対する不快でなくてもです。

 もっと言えば、要するに人の負の感情に対する耐性が低いのでしょう。あからさまに負の感情を表明している人はもちろん苦手です。だから表面的にでも友好的に接してくれる人には好感が持てる。しかし日本ではさらに、表面的には友好的なのに内心では不快に感じている、という状況が頻繁にあるから、それを過剰に警戒してしまうということだと思います。
 消極性研究会は、世の中で散見されがちな「その程度で消極的だと名乗るなよ、俺のほうがもっと消極的だ」のような不毛な逆マウントの取り合いを離れて、多様性を尊重し、個々人が自分の性格と置かれている環境を分析し小さなハック(改変)を試みることでより良い生活を目指すことをお手伝いしたい、という立場をとっています。それに鑑みて、今回の私の文章のタッチは少々「オレオレ論」過ぎて、軽率だったなと反省しました。精進します。
 最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。

(了)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年2月6日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年5月27日に公開しました。
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