私は鳥瞰図に目がない。
 鳥瞰図というのは、その名前の通り、飛んでいる鳥の目から見たような眺めを描いた図のこと。衛星写真や航空写真が一般的ではない時代に描かれた鳥瞰図は、描くものの技量によって表現方法が違うので面白い。それを描く人間の空間把握能力と表現方法によって、その鳥瞰図の個性が変わってくるのでついつい細かく見てしまう。
 Google mapのような技術とは違う、個人の能力が強く介在した鳥瞰図を見つけると思わず購入したくなるのだ。

 先日も、日本海海戦25周年を記念し、昭和5年(1930年)に上野で開催された「海と空の博覧会」を描いた鳥瞰図を購入してしまった。

▲日本海海戦二十五周年記念 海と空の博覧会鳥瞰図(著者蔵)

 現在は上野動物園のある会場に巨大なパヴィリオンが建設されたこの博覧会は、空の知識を啓蒙し、産業発展を促すことを目的としていたが、時代もあって軍事的な展示も多かった。
 この鳥瞰図の下の方、何やら水飛沫が上がっているが、これは不忍池で行われた水雷発射実験場を描いていると思われる。
 この水雷発射の展示が実際にどういう形で行われたかはわからない。まさか本物の機雷や魚雷を爆発させたとは思えないが、何やらそれを模したような仕掛けをしたのだろう。この鳥瞰図に描かれたような、実際に水飛沫が上がる展示だったのかもしれない。
 「上野の不忍池でそんなことをやっていたのか!」と驚くかもしれないが、明治から戦前までは最新で大規模な仕掛けがある展示会や博覧会は、上野公園不忍池の周りで行うことが多かった。
 広い空間があって派手なデモンストレーションを行うには最適な場所と思われていたようで、1909年12月には元フランス海軍士官ル・プリウールと日本海軍士官相原四郎が製作したグライダー実験が不忍池で行われたこともある。
 以後航空機の展示などで上野不忍池が使用されることは度々あり、第一次世界大戦の終結を記念して開催された大正11年(1922年)の「平和記念博覧会」でも、不忍池で水上飛行機の飛行デモが行われた。

▲国会図書館デジタルコレクションより(出典

 こう考えると上野公園は、ハイテクな技術や産業の展示を行う場所、今の幕張メッセや東京ビッグサイトのような役割を担った場所だったのである。
 現在、コロナのためにイベントの多くが中止され、私も2年ほどは大きなイベントに行っていない。最新技術の展示会が好きで、以前は「国際航空宇宙展」や「防水技術展」などの開催と聞くと、嬉々として見学しに行った。
 こうした大規模イベントが中止される状況の中、その代わりと言ってはなんだが、かつて行われた巨大な博覧会の匂いを嗅ぐため、上野公園に行くのも悪くない。
 そう思うと街歩きの虫が疼き出し、さっそく上野公園に行ってみることした。

 まず、新しくなったJR上野駅公園口から上野公園へ向かう。
 2017年から始まった改修により2020年からは公園口改札口は100mほど北側に移設されている。JR東日本リテールネット(現:JR東日本クロスステーション)が運営している駅ナカの商業施設「エキュート」も好調な様子で、コロナ禍でも多少の賑わいを見せている。

 そして、毎度上野に来るといつも思うのだが、ここの地場産業は「パンダ」(当然ジャイアントパンダのことだが、以下パンダと略す)なのではないかと感じてしまう。

 上野といえばパンダ、パンダといえば上野という感じで、周囲にパンダが溢れている。上野のお土産はパンダを冠したものが多く、看板や公園内の郵便ポストですらパンダである。

 上野駅公園口を降りた向かいにある売店「パークス上野」さんには、「パンダのうんこ」なんて商品もある。麩菓子なのだが、パンダならばうんこと名付けてもお土産になるらしい。
 上野のパンダの力は絶大である。

 でも、パンダは地元にどれほどの利益になっているのだろう?
 以前、関西大の宮本勝浩名誉教授が、双子のパンダ誕生は1年間で約300億円の経済効果があるなんて速報値を出したことがあったが、実際に溢れんばかりの上野のパンダ商品を見ていると、あながち見当違いの数字でないかもと思える。

 上野の人々がパンダに抱くイメージは、上野動物園第14代園長である土居利光氏の「上野地域の商店関係者におけるジャイアントパンダに対する意識」などを読むとうかがえる。

 上野の観光などに関わる人々のアンケートの結果だが、「観光資源」としての経済効果よりも、「地域の有意義な動物」であり、他の地域と上野の差異を際立たせてくれるものと見ているらしい(参考:土居利光「上野地域の商店関係者におけるジャイアントパンダに対する意識」〈観光科学研究9、2016〉)。

 経済的な有益さというよりも、上野という土地のブランドイメージをパンダが担っているという意識らしい。

 そもそも、上野では動物園の動物たちが、重要な観光資源やブランドイメージとして機能してきた長い歴史がある。

 明治15年(1882年)に博物館の付属施設として開園された上野動物園では、戦前にも海外から贈られたライオンやキリンなどが飼育されており、特にライオンは大変な人気を博したらしい。下写真は当時のライオンの飼育室(獅子室)のもの。

▲国会図書館デジタルコレクションより(出典

 パンダ来日以前も上野動物園の動物たちが集客を高める働きをしていたのである。
 しかし、戦時体制中の昭和18年(1943年)に、東京都長官(戦時中に東京市と東京府が併合され東京都制がしかれ、現在の都知事に相当する官選の東京都長官が任命された)の命令によるゾウ・猛獣の殺処分が行われた(児童文学「かわいそうなぞう」のモデル)。加えて、戦争末期には物資不足食料不足のため、健康状態の悪化で殺処分された動物もいた。
 戦争終結後、日本の復興と共に上野動物園も再建が始まったが、「上野で再びゾウを見たい」という声が高まり、その声に応えて、昭和24年(1949年)にはタイの実業家ソムアン・サラサスから日タイ友好のためにアジアゾウ「カチャー」が、インド首相ネルーにより日印友好のためにアジアゾウ「インディラ」が贈られてくる。
 この二頭のゾウにより上野ではゾウブームが起こり、上野動物園でも「ゾウまつり」というイベントを催し、アドバルーンや仮装行列などが企画され、翌年からは列車やトラックを使って各地を回ってゾウを見せる巡回イベントなども行われた。
 その成果もあって、この時期には動物園の年間入園者が350万人を超えたと記録にあり、戦後の上野観光資源としては、まずゾウの存在感が大きかったのである。
 ちなみに、タイから来たアジアゾウ「カチャー」は、戦争中に殺処分されたゾウの「はな子」の名前を受け継ぐかたちで改名され、昭和29年(1954年)に井の頭自然文化園に移されている。2016年に69歳で亡くなるが、これは国内のアジアゾウとしては最高齢の記録である。
 現在ではJR吉祥寺駅前北口広場に彼女の銅像が設置されており、上野から吉祥寺・井の頭という二つの地域のシンボル的な動物になったという意味で、かなり数奇な生涯だったと言えると思う。

 インドから贈られてきた「インディラ」は、1983年に亡くなるまで上野動物園で過ごしたが、死後その骨格は同じ上野公園にある国立科学博物館に展示されている。

 しかし、人気を博し集客力を持ったゾウであるが、やはりパンダが及ぼした影響には叶わないように思う。
 上野のパンダは昭和47年(1972年)、当時の首相である田中角栄による日中国交正常化を記念し、中国政府から日中友好のためにジャイアントパンダ「ランラン」と「カンカン」が贈られたことから始まる。
 首都大学東京大学院の杉本興運氏(現:東洋大学准教授)の「観光対象としてのジャイアントパンダとその社会的影響」(「生物の科学 遺伝」特集パンダ研究、2020年No.1)によれば、これにより上野ではパンダフィーバーが過熱化し、この年の入園者は700万人を超えたとある。周辺商店街ではパンダの看板が立ち並び、夥しい数のパンダ商品が生まれたのはこの時からである。
 しかし、驚くべきことは、このフィーバーはすぐには終わらず、上野動物園の入園者数が最高を記録するのは2年後の1974年の764万人ということだろう。1980年代にはさすがに少し減って600万人前後、1990年代には400万人を下回ったが、2008年に「リンリン」が死亡し、上野からパンダが消えた時期は300万人を割り込んでしまったらしい。
 上野観光連盟や商店街連合が、中国側に支払う金額でパンダ招聘に難色を示した東京都に陳情を繰り返し、2011年に「リーリー」「シンシン」が上野動物園に来ると、年間入園者数は再び300万人を超えている。
 初来日から50年以上経ち、パンダも何度も入れ替わったが、それでも100万単位の集客力を左右するパンダの存在感は侮れないものがある。
 ちなみに初めて日本に来たパンダ「ランラン」と「カンカン」は死後剥製として保存され、多摩動物園や上野動物園、それ以外の動物園や博物館への貸し出しが盛んに行われている。

 上野内で見られるものとしては、ゾウの「インディラ」の骨格が展示されている国立科学博物館に、1980年から1997年まで上野動物園にいた「ホァンホァン」の剥製が展示されている。

 こう考えると、上野動物園で人気を博したアイドル的な動物は、死後も同じ上野の科学博物館で、科学教育に寄与するのが流れなのかもしれない。

 こうした上野とパンダの関係を見ると、経済だけなく地域文化にもパンダが染み込んでいると言えるのかも。経済だけでなく、現在は文化としてのパンダの力にも、侮れない強さがある。
 その力は上野という町名が付く場所だけではなく、お隣の御徒町にも及んでいる。御徒前駅前の広場は、「おかちまちパンダ広場」と名付けられているくらいだし。

 上野のパンダに関する事柄は数えればキリがないが、周辺の公式キャラクターでパッと思いつくものでも、上野大丸・松坂屋の「さくらパンダ」、上野観光連盟の「うえのパンダくん&うえのパンダちゃん」、アメ横の「ウェルモパンダ」などなど、パンダだらけである。
 中御徒町から湯島天神へ向かう道は、学問の神様である天神さまに因んで「学問のみち」と命名されているが、ここにも「開運パンダ」という公式キャラが控えている。

 加えて、去年(2020年)1月には、合格をテッパンにするという意味で、「学問のみち」周辺商店街などの主催による鉄製「テッパンダ」像が作られ、合格祈願を願う受験生のために御徒町駅前のパンダ広場に設置された時は、「パンダ力はすごい!」と感心してしまった。

 台東区ではない千代田区神田万世橋を本拠にする「肉の万世」も、上野動物園の赤ちゃんパンダ誕生を記念して限定パンダパッケージを発売したこともあるので、上野パンダの影響力は秋葉原の老舗まで及んでいるらしい。

 先にパンダが上野という土地のブランドイメージと言ったが、今や上野を中心としたパンダ文化圏は、台東区を超えて千代田区にまで広がっているのだろう。

 そんな上野のパンダ文化の中で、注目したいのは公園内の上野東照宮前にある「東照宮第一号売店」さん。戦後に建てられた創業60年の老舗売店だが、上野公園内にこのような形態の売店がいくつもあったが、現在はここだけになってしまった。
 このお店のメニューに、夏季限定「パンダそうめん」なるものがある。

 きゅうりの目とさくらんぼの鼻、ナルトの口で出来た、このシンプルな「パンダそうめん」こそ、上野公園の売店の歴史とパンダ文化の融合を示すもののような気がする。

 かつての上野公園は徳川家の菩提寺である寛永寺の境内であったが、上野の山は桜の名所で、花見の時期には江戸の人々が押し寄せた。こうしたお客を見込んで、境内の茶屋設置も元禄12年(1699年)には許可されている。

 こういう江戸の茶屋こそが、「東照宮第一号売店」さんのような現代の上野公園内売店や商業施設の始まりではないかと思う。

 しかし、なにせ当時は将軍家の菩提寺境内であるので、花見での鳴り物や大騒ぎに対しては度々禁止令が出され、夜になると花見客は追い出されてしまったという。禁止令が度々出たというから、この規則を守らない者もいたのだろうが、王子の飛鳥山や浅草などに比べると、大人しい花見の場所とされていたらしい。

▲国会図書館デジタルコレクションより(出典

 その分、不忍池の周りや現在の京成上野駅出口付近にあった寛永寺仁王門前の門前町には茶屋や料理屋が立ち並び、夜でも大変な活気だったらしいが。

▲国会図書館デジタルコレクションより(出典

 その後、江戸幕府が倒れた明治5年(1872年)に、広大な寛永寺の境内は明治政府によって多くが上げ地(土地の没収)されてしまう。
 そして、明治政府はこの土地に陸軍病院と陸軍墓地の建設を計画するが、オランダ人医師であるアントニウス・フランシスクス・ボードウィン博士らの反対により計画は反故にされ、すった揉んだの挙句に翌年太政官布達によって、上野の山と不忍池は日本最初の都市公園に指定される。
 しかし、寺の境内から近代的な都市公園になってからも、上野の花見は廃れることはなかった。明治でも上野の春は、花見客で賑わう場所の一つであった。
 ただ少し違うのは、江戸時代には比較的静かな桜の名所であったらしい上野の山が、明治の錦絵などでは上野の花見での大騒ぎが表現されているようになったことだろう。

 上げ地が行われたばかりの明治5年に出版された「東京名所三十六戯撰」には、上野で大騒ぎしている花見客が描かれている。

▲国会図書館デジタルコレクションより(出典

 将軍家の菩提寺という枷が外れた上野の山では、多くの人々が大騒ぎで花見を楽しんだのだろう。
 こうした大騒ぎできるような場所で商売する人がいるのは当然である。
 明治24年には「上野公園休憩所椽䑓規則」という規則が出来ているので、公園内の敷地を借地し営業する休憩所があったのは間違いない。この規則では縁台や使用や営業が規定され、公園内の美化の一部などを担うことで営業が許可されたのである。
 つまり、江戸時代の茶屋は、上野戦争(明治政府と彰義隊との戦争)を経た明治でも、都市公園の休憩所や売店として多少形態は変わったが、連綿と続いたのである。
 やがて、上野で博覧会などが開催されるようになっても続き、むしろその流れは加速する。大正3年(1914年)に開催された東京大正博覧会の案内「東京大正博覧会観覧案内」を読むと、「奇抜ぞろいの売店及び休憩所」という章があり、「(会場内の)飲食店には随分奇抜な看板を掲げて客を呼んでいるものも尠くありません。…信州から名物更科蕎麦も来て居りますし、その他最も奇抜なものとしてはお伽料理だの行き当たり餅などというものも尠くありません」とある。
 この博覧会だけではなく、戦前の上野開催のイベントではいろんな売店が出店して、人目を引くような奇抜な商品が売られているので、先に紹介した「東照宮第一号売店」さんの「パンダそうめん」も、こうしたもの流れを汲んでいるように思える。
 つまり、「パンダそうめん」は戦後に急成長したパンダの文化と、江戸の茶屋縁台から続く上野公園の売店の歴史の融合の産物と言えるかもしれない。
 いや、少し大袈裟に言い過ぎかもしれないが。

 ああ、今回は不忍池まで歩いて考えたこともまで書こうと思ったが、上野公園のパンダと売店の話が思った以上に長くなってしまった。
 なので、今回は前編として、かつて存在したが今は消えてしまった不忍池の建造物について考えながら歩いたことを後編として次回書こうかと思う。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年9月16日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年10月21日に公開しました。
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