「そぞろ歩き」のすすめ

 特に理由もなく歩き回ることを「そぞろ歩き」という。
 漢字だと「漫ろ歩き」。「漫ろ」は「これといった理由もない」というユルい意味もあり、そこにスピード感がない「歩き」が加わると、まったく効率性というものが感じられなくなる。実に精神に負担がかからなそうな言葉である。
 実際に言葉だけじゃなく適当に一人で歩き回って、あれこれ目に入ったものを見て、勝手にあうだこうだと考える時間は気持ちがノホホンとなっていい。
 そして、何よりあんまり金がかからない。
 テキトーで、ユルくて、金がかからない一人の趣味は中毒性があるので長く続いてしまう。
 なので、私はもう20年以上、このあんまり目的を設定しない「そぞろ歩き」を自主的に行っている。

 この日は、JR南千住駅に降りてみた。
 休日に勢いで電車に乗っていたら、父方の祖母が南千住で生まれたらしいということを思い出しただけで、それ以上の理由もなく気まぐれに降りただけである。……祖母の生まれた場所を探す……というような使命感も特にあるわけではなく、漫然と足を進めてみた。

松尾芭蕉の足跡と「コツ通り」に遺る旧い街並み

 南千住という場所にどれくらいの知名度があるだろう?
 東京観光でわざわざ荒川区の南千住駅に降りる人はそう多くない。
 同じ千住という地名がついても、隅田川の対岸にある足立区の北千住は下町の代表格のように語られることもあるが、南千住はそうでもないだろう。

 実際、常磐線のホームを降りて南千住駅西口前広場に出ても、特に目を引くようなものはない。唯一、駅前ロータリーの真ん中に松尾芭蕉像が立っているくらいである。

 この像は、ここ千住が松尾芭蕉の奥羽への旅の出発地点、つまり「奥の細道」の始まりの地であることを記念しているらしい。この像だけでなく、千住界隈では松尾芭蕉と弟子である曽良があちこちに描かれているのはそういうわけである。

 千住は1594年に徳川家康によって荒川(当時)に建設された千住大橋により、奥州へ向かう要所であり、奥州道中と日光道中の初宿(江戸から最初の宿場)として幕府に指定された宿場町であったので、この「奥の細道」推しもその痕跡と言えなくもない。
 ただ、江戸近郊では有数の大きさと歴史を誇る千住宿だが、ここ南千住の宿場はお隣の北千住の宿場よりは、やや後発の新参者である。
 記録によれば、現在の北千住の宿場は「本宿」と呼ばれるのに対して、南千住は1660年(万治元年)に新たに追加された宿場であるため、区別されて「下宿」もしくは「南宿」と呼ばれた。わざわざ南千住を「千住加宿」と呼び、「後から付け加えた」感を出す呼び方もあるくらいなのだ。
 もっとも「下宿」と呼ばれていても、メインストリートであったコツ通りから千住大橋まで町並みが伸びており、幕末には宿屋以外にも材木屋や薬種問屋、足袋屋、畳屋、菜種屋などが軒をつらねていたというから、相当に賑やかではあったのだろう。

 ちなみに、当時から「コツ通り」と呼ばれた通りの名前は健在である。
 江戸時代には、千住自体を「コツ」と呼ぶことがあり、「コツ」の地名の語源は諸説あるが、下宿南側にあった小塚原(こづかっぱら)処刑場を略したからという説もある。こういうもっともらしい地名語源は、民間語源と呼ばれる根拠が曖昧な場合が多いので真偽はわからないが。
 落語「今戸の狐」に出てくる小間物屋のおカミさんが、ここの千住宿の宿場女郎上がりだったために、「コツの妻」と呼ばれたということになっている。現代の我々にはひどい言い方にも聞こえるが、この「コツ」が最後のオチにつながっている。
 博打の隠語でサイコロを「骨」(コツ、骨で作られたものが上等だったから)というが、ヤクザから「骨(コツ)の采(サイ)」と問われた主人公が勘違いで、「コツ(千住宿)の妻(サイ)はお向かいのおカミさんです」と答えるというオチなのだが。

 その「コツ通り」を歩いてみる。当たり前だが、今では江戸情緒を感じることはあんまりできない。それでも、江戸時代ではないにしても古い時代、大正昭和くらいの街並みの痕跡は残っている。
 細かいことを言えば、公衆電話の間隔の短さ。

 近年では携帯電話やスマホの普及もあって、低利用の公衆電話はNTTでも撤去するようになってきているが、ここには結構近い距離で公衆電話が並んでいる。
 公衆電話の利用が大きな地域を除いて、市街地では500m圏に1台設置されていればいいということになっていると聞くが、ここは明らかにそれよりも近い距離にある。
 今でも公衆電話が盛んに利用されているということはないだろう。
 災害時の連絡用を想定し、万が一携帯電話が不通になった場合の備えということはあるだろう。
 とはいえ、わざわざ新たに公衆電話を設置したとは思えないので、昭和から設置されたものが残っていると考えるのが妥当だろう。
 公衆電話が目立つ道はそこそこ古い道なのである。

 そして、東京の古い通りでは珍しいものではないが、関東大震災以降に多くなった商店全面の衝立壁。看板建築などでよく見かける、看板の役割を担っていた正面のファサードをもった建築が多いのは、大正昭和の佇まいが残っている場所と言えるだろう。

 もっとも、この建物は今ではすっかり看板の役目を失って(減階、階を減らした可能性もあるが)、あんまり意味のないものになっている。
 こういうかつての役割があったが、今ではまったく意味がないものになってしまった部分を指す建築学的な言葉はあるんだろうか?
 路上観察学会ならば「トマソン」なのだが。気になる。
 この辺りは戦後も工場勤めの労働者家庭が多く、商店街として中小の商店が賑やかだったはずで、この意味が無くなったファサードもそんな在りし日の痕跡を残していると言える。

汐入エリアにそびえるリアル「シタデル砦」たち

 しかし、ここ南千住でもっとも気になるのは、こうした古い街並みの合間から見える、ニョキニョキと伸びている高層マンション群である。

 南千住を歩くと、こうした乱立する高層建築がすぐ目に入ってくる。
 SF小説では古くから人口増加問題対策として「アーコロジー」的な高い人口密度の高層都市が想像されてきたが、ここ南千住の高層マンションはなんだか未来への高揚感とは違う奇妙なものを感じる。
 SFではなくファンタジー世界に登場する岩山の砦か、個人的には映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の敵役イモータン・ジョーの拠点、シタデル砦のように見える。
 映画では、荒廃した乾燥の大地の中で、イモータン・ジョーはその大地から突き出たシタデル砦の水源を掌握することで人々を支配した。

 「南千住の高層マンションをイモータン・ジョーのシタデル砦に例えるなんて、お前は妄想が過ぎる」と言われそうだが、南千住の高層マンションも水を巡る歴史の中で形成されたと言える。
 下の国土地理院の地図を参照してもらいたい。
 コツ通り周辺の古い宿場町は南千住5丁目および7丁目だが、その隣に隅田川に突き出たような地形の南千住8丁目があるのがわかるだろう。
 この川が湾曲した部分の南千住8丁目周辺は、「汐入」と呼ばれている。

▲出典:国土地理院ウェブサイト(出典

 地図でもわかるだろうが、南千住駅周辺の古い宿場町側は建物がごちゃごちゃしているが、汐入エリアは道も真っ直ぐで空間にも余裕があるのがわかると思う。
 二つの地区の街並みを見比べてみれば、一目瞭然。
 左が旧宿場町側、右が汐入エリアである。

 微妙に真っ直ぐでない道に家屋が密集している旧宿場町に対し、真っ直ぐな道に集合住宅建築が立ち並んでいる汐入エリア。
 隣接している土地の景観がここまでガラリと違っているのが面白い。
 この「汐入エリア」こそが、南千住に現れたシタデル砦の始まりと言っていい。

 南千住の汐入は、川に弓のように突き出たような地形で、古来から川の砂洲、湿地帯だらけの浮島のような土地であったらしい。古い地図など見ると、ほとんど家も描かれておらず、単に「アシ」(葦)とだけ記されているだけで、おそらく葦が鬱蒼と生えているような閑散としたところだったのだろう。
 浸水を防ぐため、汐入と宿場町の間には、かつて「汐入堤」もしくは「砂尾堤」など呼ばれる堤防が、現在の南千住7丁目から台東区まで築かれていたらしい。その堤の北端にあったと言われる山王清兵衛を祀った小祠は今も残っている。

 ちなみにこの山王清兵衛という人物、歯痛に耐えかねて切腹したという武士だったらしく、後に千住の歯神と呼ばれて歯痛避けの祈願をするものが多かったとか。
 この「汐入堤」の外側、つまり汐入地区は、ある程度水害を覚悟しなければならない場所だったのである。
 しかし、人が住んでいなかったわけではない。
 水害が多いということは、それだけ水に近いということも意味する。川を利用する河川流通従事者や漁師などにとっては、仕事上の利便性が高い場所でもあったのだ。
 また、江戸時代には周辺に存在した牡蛎殻堆積層から採掘された蠣殻を石臼にかけて作る胡粉(人形などの塗料)の生産も盛んで、遠くは関西方面にまで出荷されていたらしい。
 汐入エリアにはある胡録神社には、この胡粉をつくっていた石臼が奉納されている。

 この牡蛎殻堆積層も河川によってできたもので、つまり、水害のリスクがあっても、川からのべネフィットを得られる産業が確立しており、それに従事する人々によって小さな村が形成されていたのである。
 その後、明治の近代工業化の波は、こうした河川の水利用を大きく加速させる。
 明治期には東京中心部から近い南千住には多くの工場が進出してきたが、汐入付近は河川流通とのアクセスが容易で、大量の工業用水を川から得ることができる利点があった。
 人口が少ないために用地確保が容易ということもあって、汐入には東京紡績会社の工場や日本石油会社の油槽所などが建ち並び、汐入と隣接する南千住駅東側には、隅田川貨物停車場も建設された。
 この隅田川貨物停車場は、当時盛んだった河川流通と鉄道を結ぶための連絡駅で、構内に水路があったという。
 現在も貨物ターミナルの隅田川駅は存在しているが、河川流通の衰退によって構内水路は埋め立てられ、その痕跡は汐入公園内に残された隅田川の取水口と汐入水門跡くらいなのだが。
 汐入は東京の工業と流通を担う拠点の一つに変貌したわけである。

 しかし、戦争を経た昭和40年ごろになると、こうした汐入の工場群も地方へと少しずつ移転していき、昭和62年には物流の拠点だった隅田川貨物駅も縮小され、一部の用地が旧国鉄清算事業団処分用地として売却されてしまう。
 歴史をたどると、河川の水害に晒された閑散とした土地に、工業用水と河川流通目当てに工場と物流拠点ができたが、産業構造の変化によって再び広大な空間ができてしまったのである。
 ただ、東京近郊の広大な空間がそのまま放置されるわけはなく、すぐに東京都による白鬚西地区市街地再開発事業として、道路・公園・避難広場等が計画的に整備され、病院・学校などともに近代的な集合住宅群が建設されていく。
 この生まれ変わった汐入は、隅田川の対岸である千住大川端公園から見ると風景によく表れていると思う。

 まるで浮島に巨大な砦がそびえているように見える集合住宅群、コツ通りから垣間見えるシタデル砦こそ、かつての河川の水を利用した工場や物流拠点の痕跡だったのである。

 東京の中心地に近いが、水際ゆえに人口がまばらだった土地が、その水が近いゆえに流通と工業の用地になり、それが廃れると、高い人口密度の高層都市を思わせる空間になっていく。
 都市の変遷というのは、かくも面白い。
 そして、近年ではコツ通り周辺でも、こうした高層マンション建設などの再開発計画が進んでおり、駅周辺では用地確保のためと思われる空き地や駐車場を見かけることができる。

 なんだか、古い宿場町に高層の砦がじわじわと侵略している感じがしてくる。
 こういう古い街並みに高層建築という都市景観は、独特の異様と威容が混じり合って面白い。
 都市景観はアンバランスな方が、生命力が蠢いている感じがして、ゾワゾワしてしまう。
 
 最初に東京観光でわざわざ荒川区の南千住駅に降りる人はいないと言ったが、こう考えると新旧の街並みが、河川と高層マンションを通してせめぎ合っている風景は、なかなか見応えがある場所かもしれない。
 駅前の芭蕉像にあやかって、旧宿場町から見える高層マンションの俳句をひねるのも悪くないかも。

水害と空襲の記憶をとどめる千住大橋とリバーサイドの光景

 続いて、汐入エリアからコツ通りを経て、旧日光街道(現在の国道四号線)を北へ向かうと、蛇行する隅田川のリバーサイドへ。
 すでに触れたように、この千住は古くから水害に苦しめられてきた場所で、荒川と隅田川という大きな河川が併走する地形のため、昭和中期までは度々水害に見舞われてきた。
 その災害の痕跡は、隅田川の堤防からも見て取れる。

 昭和30年代から始まった堤防整備によって、なんとか水害は防がれているが、水面を拒絶するような、真っ直ぐ高い「カミソリ堤防」からは、当時の水害の恐怖が感じ取れる。

 この隅田川に架かる千住大橋も、昭和2年に再架橋されたタイドアーチ橋だが、実は関東大震災からの復興事業として建設されたものである。
 関東大震災後に建設された復興橋だけにその構造も強固で、東京大空襲でもこの橋は落ちなかった。

 東京大空襲ではこの千住地域は1万8,000戸以上が消失し、多数の人名が失われ、見渡す限りの焼け野原だったらしい。
 今ではそういう空襲の痕跡はわずかしか残っていないが、この千住大橋を北上した千住宮元町の千住神社内にその一つが残っている。
 戦争中に作られ、今でも保存されている防空壕だ。

 大きさや構造から見て、簡易的な防空壕ではないだろうか?
 空襲対策として建設された防空壕は、各町内会や職場、各家庭ごとに作られたが、現在ではなかなか保存されていないので、直に見られるのは貴重だろう。

尾竹橋通りを町屋へ歩く

 そこからさらに墨堤通りを北上し、千住桜木町から左に折れて都道313号上野尾竹橋線へ。
 通称尾竹橋通りと呼ばれる道路で、その名の通り、隅田川に掛かる尾竹橋から台東区の鶯谷駅まで続いている。

 この道路は車幅が結構広く、戦後に新しくできたように見えるが、実は大正時代に火災対策などを目的に計画されたものである。
 実際に大正14年の日暮里大火の際には、その道幅で延焼が止まったらしい。
 今回歩いた場所が水害や震災、空襲の痕跡が多かっただけに、延焼が止まった通りと聞くとちょっとホッとする。

 日本の商店街の多くは戦後の復興時に発展したが、この通り沿いの尾竹橋通り商店街も創設は昭和22年らしい。まだ空襲の焼け跡が残った時代から始まった商店なのだ。
 そのためか、昭和の匂いを漂わせた店も多い。御婚礼用の家具店や、今では少なくなった街のスポーツ用品店、玩具屋さんなど。
 いずれも戦後の経済成長に台頭した業種のお店だろう。
 江戸の宿場町から発展したコツ通りや、再開発の汐入とは明らかに雰囲気が違う、戦後昭和の消費文化が、そこかしこに感じられる商店街である。

 そして、そうした戦後を感じさせるものがもう一つ。
 この通りを東京メトロ町屋駅まで歩くと、地元民なら知らぬもののない、今川焼きの「博多屋」さん。

 これでもかというほど餡子が詰まった分厚い今川焼きは町屋名物と言ってよく、食べ歩きには最適だ。
 今川焼きは始まりが江戸時代と言われるが、明治時代に一般的になった庶民の菓子。
 しかし、町中に今川焼き(名称は色々だが)のお店が増えたのは、やはり戦後で小さな資本や店舗からでも始められたからだろう。
 現在では「センターまちや 」という11階建ての新しい複合施設の一階に店舗を構えているが、「博多屋」も創業は昭和27年で、やはりここの今川焼きも戦後昭和を感じさせる一品ではないかと。

 南千住駅からコツ通りと汐入地区、千住大橋を渡って千住宮元町にある千住神社、そして尾竹橋通りから町屋まで、特に目的もなく歩いて見たものを並べてみたが、こうして見てみると江戸東京の近郊の河川との付き合いから、災害の痕跡、再開発、戦後の復興と昭和の高度経済成長が一望できるような気もする。
 特に観光地とは言えないような場所も、景観と歴史の痕跡を見つけると、十分に面白い。
 それこそが「そぞろ歩き」の楽しみ方だろう。

[了]

この記事は、2021年4月6日に公開しました。