東京に出て、最初に住んだのは JR金町駅の沿線であった。
 葛飾区金町は東京の東側の端っこで、水元公園を越えれば埼玉県三郷市、江戸川を越えれば千葉県松戸市という場所である。
 今から数十年前なので、当時は田んぼがけっこう残っていて、大都会東京に出てきたというよりも、都市の近郊農村に引っ越してきたような気がした。
 江戸川に近い場所であったため、窓を開ければ延々と伸びている高い堤防が眼に飛び込み、休日には河川敷のグランドで草野球の試合がいくつも行われ、堤防の上の道路を犬の散歩やランニングをしている人などがひっきりなしに通行しているというような土地で、山に囲まれた盆地の地方都市で生まれ育った私には、まったく馴染みのない風景が物珍しかったと記憶している。
 特に驚いたのは、散歩がてらに河川敷を歩いている時に、30cmほどのデカいネズミのような動物が葦の中から飛び出してきたことだろう。東京に来て、そんな得体の知れない動物に遭遇するとは想像もしていなかった。
 のちに、その動物は一部では「マツドドン」などと呼ばれていて、1940年代に毛皮用に輸入されたものが逃げ出して繁殖したマスクラットという外来生物であることを知るが。
 金町から都心に向かうにしても、常磐線の上り電車に乗って、中川、荒川、隅田川という大きな河川を渡っていかねばならない。
 そのうち、常磐線に乗っていると、「今、三つ目の鉄橋を渡ったから、北千住が近いな」などと、越えた川で場所を把握するようにもなっていった。
 つまり、私が最初に受けた東京の洗礼は、人混みでも、超高層ビルでもなく、関東平野の大きな河川とその周辺の生活環境ということになる。なんとなく意識下に「東京は平らな土地にデカい川が流れている」と刷り込まれてしまったのだ。
 当然こういう風景は東京全体ではなく河川が集中する下町の話なのだが、高い堤防の連なる大きな川を見ると、今でも東京に出てきた頃の10代の自分を思い出す。
 都心の繁華街や高層ビルよりも、都内の大きな河川の河川敷を歩くと、今でも「ああ、東京にいるんだな」と思ってしまう。

 だから、しばしば大きな川沿いの街を歩きたくなる。
 そこで浅草から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に乗車し、荒川を越えた小菅駅で降りてみることにする。
 葛飾区小菅は、下町を水害から守るために作られた人工の迂回水路の荒川放水路と、昔の荒川の分流であった綾瀬川に挟まれた三角形の地区である。

 上は駅前に設置された周辺地域案内の地図を撮影したものだが、これを見れば川に挟まれた土地というのがよくわかると思う。
 現在は東京下町となったこの辺りは、古来から河川が集中しており、江戸時代からいくつもの大規模な工事によって川がまとめられたり、流れが変えられたりしているので、川の来歴を説明するだけで大変な場所。しかし、だからこそ、水害を防ぐため、川沿いで生活するためのインフラ施設や景観が顕著に見てとれる土地と言える。

 ホームを降りてすぐに目に飛び込むのは、巨大な要塞のような東京拘置所。
 小菅といえば、この東京拘置所抜きでは語れない。下りの東武伊勢崎線やJR常磐線の電車に乗れば、嫌でもこの巨大な施設が眼に飛び込んでくる。

 ちなみに手前の茶色の団地のような建物は、拘置所職員用の官舎。刑務官は、万が一の事態の際の緊急招集を想定して、拘置所に隣接もしくは施設内に官舎が建設されることが多い。
 ホームから改札に向かうために階段を降りるが、この小菅駅ほど「高架駅とはこういうものである」と感じさせてくれる駅はないだろう。

 橋脚や梁が丸見えで、剥き出しコンクリートの高架下に、駅に必要最低限な改札と階段、エレベーター、トイレなどが設置されただけと言っていい。しかし、線路下の高架の床板が事実上の天井なので、上の空間がえらくオープンで解放感を生んでいる。仮設の駅という訳ではないが、経済性を追求したが故の奇妙な開放的な雰囲気がある。
 ここ小菅駅は荒川放水路(現在の荒川のこと)の建設にともない、北千住―小菅間に鉄道橋を建設するための路線変更が行われたことで、大正13年(1924年)に建設された駅。この駅自体も河川の影響で生まれた施設と言えるだろう。
 戦後の一時期営業が休止されていたが、昭和25年(1959年)に再び営業が開始された。そういう意味では路線選定の際にあらかじめ計画された重要駅というよりも、何かの都合で慌てて開業した駅という歴史を感じさせる作りだろう。
 ホームに昭和の小菅駅を撮影した写真があったが、これを見ると昔は一つのプラットホームの両端に線路が隣接している現在の「島式ホーム」ではなく、向かい合うようにプラットホームが二つ並んでいる「相対式ホーム」であったらしい。

 また、現在の橋脚を連ねた高架ではなく、土を台形状に築き、その上に線路やプラットフォームを置く「盛り土方式」の高架駅だったことが分かる。荒川の堤防を越えて鉄橋近くに作られた駅であるので、この高さのプラットフォームになってしまうのだろう。駅舎やプラットホームに向かう階段も、後から無理やり作ったようで、現在の駅と同様に、最低限の駅として成り立てばよいという感じが、個人的には面白く感じてしまう。

 改札を出て駅前に出てみるが、そこは駅前というよりも住宅街の路地という感じで、コインロッカーと自販機が並んでいる程度。駅前というのにはあまりに殺風景である。

 古い地図で確認すると、そもそも明治の終わり頃は田圃しかないないような場所で、駅が建設された後の昭和前期にちらほら住宅が作られるようになったらしい。
 その駅前の住宅地の中を南に進むと、東京拘置所の官舎が現れる。しかし、その官舎の前には、敵を防ぐ中世城館の堀のような水路がある。

 東京拘置所の周りだけに収監者の脱走を防ぐために作られた堀ではないか! と思ってしまうが、そんなことはない。
 これは古隅田川と呼ばれる河川。現在の隅田川とは当然違う。
 先ほども書いたが、このあたりは江戸から何度も河川改修や水害対策の工事が行われている場所で、いくつかの河川がまとめられたり、流れの方向を変えられたりして、かつては川があったが今は違う場所を流れているということが多い。
 しかし、川自体が完全に無くなった訳ではなく、暗渠化されたり、水量がかなり少なくなっているが、わずかに川として残っている所もある。そうした川は、「元○○川」や「古○○川」などと呼ばれることがある。
 この古隅田川も、そうしたかつての大きな流れの痕跡のような川で、武蔵と下総の国境となっているほどの大河だったが、中川の灌漑工事などで工事によって水量が徐々に失われた結果、一時期は雑排水路(ドブ川)となるが、下水道整備でその役割もなくなり、現在はこのような姿で親水公園や親水遊歩道などが併設されている。
 ただ、安政の大地震(1850年代に連続して発生した大地震)では、この古隅田川沿岸で液状化現象により大きな被害が出たという記録が残っている。今は小さくなっていても、川というのは何がしかの影響を土地に残しているので侮れない。
 ちなみに現在の隅田川はかつては旧入間川の下流部分で、江戸時代の瀬替などの河川改修工事を経て大川と呼ばれたが、昭和に入って荒川の分流として隅田川と名付けられた河川。
 このように江戸東京の河川はひどく入り組んだ歴史を辿っているこの古隅田川沿いを東の綾瀬方面に向かって歩く。


 川の上にデッキの道が架けられているが、これは足立区と葛飾区が共同事業として整備した「古隅田川緑道」。最近では下水道が整備された結果、雑排水路であった河川を親水エリアにしていく事業があちこちで行われている。
 この「古隅田川緑道」もそのケースの一つで、水路には大量の鯉が放流され、デッキを人が歩く音を聞くと、餌を求めて水面に口を突き出している。鯉は日本固有種のノゴイと外来種では違いがあり、安易な放流は慎むべきだが、ここの鯉はどうなのだろう?
 さらに進むと小菅地区を荒川と共に挟んでいるもう一つの川である綾瀬川にぶつかる。

 綾瀬川もかつては曲がりくねった流れの暴れ川であったが、埼玉県草加市付近から八潮市付近の中川までの放水路(綾瀬川放水路)が建設されるなどで水量を減らし、数々の水害対策を施されて現在の姿になっている。 
 しかし、川もそうだが、その川と並走するような高架道路の首都高6号線もなかなかの存在感である。

 首都高速道路のような広範囲な道路整備を行う場合、どうしても予算がネックになってしまう。特に用地買収が困難なのだが、都内でも大きな河川沿岸は線上に繋がっている公共用地として大きな空間が確保されていたために、川沿いは大規模な道路を建設するにはもってこいの場所であった。故に首都高の多くが河川沿いに建設されているのである。小菅駅のプラットフォームの上にも首都高中央環状線の高架道路が走っているが、これも荒川沿いという立地だからだろう。

 この河川沿いに建設された二つの高速道路が、荒川と綾瀬川で並走するこの場所で合流するのは必然と言える。ここに首都高の小菅ジャンクションがあるのも、そうした地形の結果である。

 小菅地区は首都高の高架道路で囲まれている土地だが、結局これも河川が集中するという地域的な特性と言える。

 しばし、綾瀬川の南に降り、水戸橋付近で再び荒川方向に向きを変える。
 ちょうど東京拘置所をぐるりと回るようなコースである。
 拘置所や刑務所は周辺の住民からは歓迎されない「迷惑施設」であるが、東京拘置所は江戸時代には関東代官伊那氏屋敷、将軍の鷹狩の休憩所である「小菅御殿」であった場所に、政府が明治12年(1879年)に集治監(囚人の収容施設)を設置したのが始まりなので、その歴史は相当に古く住民からすればあるのが当たり前になっているかもしれない。
 それに現在の拘置所は高い壁もなく、周囲をあまり威圧しないような配慮がされている。かつて壁があった場所には、拘置所の建物を隠すように公務員宿舎(住民は拘置所職員とは限らない)が建設されており、周辺で拘置所が見える場所でもコンビニもあるし、公園では子供が遊んでいる。

 知らない人は後ろの建物が拘置所だとは思わないかもしれない。最近では周辺に老人ホームや家族用の集合住宅も増えているので、これも都市のジェントリフィケーションの一種と言えるのだろうか? 
 ただし、よく見れば収監されている人への弁当や着替え、缶詰、雑誌などのを購入出来る差入屋さんがあったり、保釈保証金相談の看板などがあったりと、拘置所の近くにいるということを感じるものを見ることは出来る。 

 このまま拘置所を右手に見ながら歩くと、荒川の高い堤防に突き当たる。
 そこを登ると、堤防と高架道路に塞がれたいた空間が一気に開けて、スカイツリーがよく見える風景となる。

 ちょうど休日だったので、河川敷のグランドでは少年サッカーが行われていたが、堤防の上には、どうやら父兄らしき人が試合を熱心に動画撮影している。

 最近では少年サッカーに熱心な家庭では、自分の子供がプレイしている動画を撮影して、親子で分析やトレーニングの参考にするらしい。そう考えると、高い堤防のある河川敷グランドは、良い環境なのではないかと思う。
 堤防の上からだと、河川敷グランドで行われる試合中の動きが俯瞰で撮影出来るからである。無論、スタンド席のあるグランドならばもっと明瞭に俯瞰で見えるだろうが、そんな施設の数は限られている。しかし、河川敷には東武鉄道の鉄橋から堀切橋の間だけでも、球技用のグランドが6面もあるのだ。
 河川と堤防が日本サッカーの進歩につながっている部分もあるかもしれない。
 久しぶりに荒川の河川敷を歩いてみたが、こういう発見もあるのが楽しい。
 だから、こういう街歩きが辞められない。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年12月27日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年11月3日に公開しました。
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