「高松勇者」が出した結論としての『黄金勇者ゴルドラン』

勇者シリーズは「谷田部勇者」において、少年が自我を持ったロボットに命令し、そしてロボットがそれに応えるという構造を完成させることで、子供が現実世界に存在したまま玩具の世界にアクセスできる回路を構築した。特に「谷田部勇者」の最終作であった『ダ・ガーン』は、遊びの世界の外側に子供たちの世界を拡張していくこと、そしてロボットを通じてしかアクセスできない世界に主体の中間性を持たせ、子供と玩具が相補的に機能する成熟のイメージを見出していった。

一方、「高松勇者」は勇者シリーズの作品を自己参照しながら、その原点、あるいは本質を捉え直そうとする果敢な試みを繰り返し、その過程で勇者シリーズという想像力の境界を明らかにしていく。「高松勇者」の一作目である『勇者特急マイトガイン』は、搭乗型ロボットの美学の上で勇者シリーズを捉え直し、自らが直接「父」となる万能感と、その限界を確認していく。それを批判的に受け継いだ「高松勇者」二作目『勇者警察ジェイデッカー』は、逆にロボットに人間と同じ心を与え、少年がロボットたちの「母」となる想像力を導入した上で、改めて父性と母性のバランスが成熟には必要なのだと語っていく。それはひとつの完成形といえる一方で、ロボットが完全に人間と同じ心を持ってしまえば、そこに宿る成熟のイメージは単に人間のものであって、もはやロボットあるいは玩具と結びつく必然性を失う。また母性を強調し少年とロボット、子供と玩具の閉じた関係に見出された美学は、比喩的に言って子供を子供部屋に閉じこめることになりうる危うさもはらんでいた。

それでは(結果的に)三部作の最終作となった『黄金勇者ゴルドラン』において、「高松勇者」はどのような結論を出したのだろうか。

『黄金勇者ゴルドラン』。金、銀、鉄に彩られたロボットが並ぶ。空を駆ける蒸気機関車が、物語のテーマを示している。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p141

「宝物」としての玩具

まずあらすじから確認していこう。『黄金勇者ゴルドラン』の主人公は3名、いずれも小学六年生と設定されている。タクヤはやんちゃで悪知恵が働き、カズキはクールで頭脳明晰、ダイは動物を愛する力持ちと、際立った個性が与えられている。

彼らは宝物――4年前に埋めたタイムカプセルを掘り出したことをきっかけとして、その奥に眠っていた「パワーストーン」と呼ばれるアイテムを偶然掘り起こしてしまう。パワーストーンからは「ドラン」と名乗る巨大ロボット――本作の勇者ロボ――が復活し、タクヤたちを「主(あるじ)」と呼び従うことになる。そしてタクヤたちはこのパワーストーンが全部で8つあること、すべて揃えることでドランの故郷である黄金郷「レジェンドラ」への道が拓かれることを知る。一方、ワルザック共和国の王子ワルター・ワルザックもまた、パワーストーンを求めレジェンドラを目指していた。物語はパワーストーンを探してさまざまな場所を巡るロードムービーと、ワルターとのパワーストーン争奪戦が重なって進んでいくことになる。そして集めたパワーストーンからは順次新たな勇者ロボが復活し、パーティのメンバーが増えていく、というわけだ。

宝石、金属、メッキ

この設定に玩具のデザインを合わせた時点で、「高松勇者」が『黄金勇者ゴルドラン』に与えたコンセプトはすでに大部分明らかであるように思われる。結論から言えば、『黄金勇者ゴルドラン』は「玩具で遊ぶこと」そのものを主題としている。
まず、勇者ロボたちのモチーフから見ていこう。序盤から登場し主要な役割を果たすのが、ゴルドラン、シルバリオン、アドベンジャーの3体である。「黄金剣士ドラン」と、「黄金竜ゴルゴン」が合体した主役メカが「黄金勇者ゴルドラン」。「空の騎士ジェットシルバー」「星の騎士スターシルバー」「大地の騎士ドリルシルバー」が合体したのが「白銀合体シルバリオン」。蒸気機関車から変形、銃火器で武装するのが「鋼鉄武装アドベンジャー」だ。

宝石から復活する勇者たちは、それぞれ貴金属をモチーフとしている。すなわちゴルドランは金、シルバリオンは銀、アドベンジャーは鉄だ。実際の玩具でも、ゴルドランとシルバリオンには金属によるメッキ処理がふんだんに使われており、華々しい光沢を放つ。もちろん化学変化を起こしやすく産出量の多い鉄は一般的な意味合いでは貴金属には含まれない。それでもここで敢えて「貴金属」と言いたいのは、本作において「宝物」という言葉が重要な意味を持っているからだ。

『黄金勇者ゴルドラン』は、宝探しの物語である。冒頭において、タクヤたちにとってはじめてのパワーストーンがタイムカプセルの下から掘り出されたことはすでに述べた。4年前に埋められたタイムカプセルに入っていたのは、当時のタクヤたちにとっての「宝物」だった。しかし現在のタクヤたちは、それを懐かしみつつも、自分たちの未熟さを物語るものとして評価する。プラモデルの出来は稚拙で、トレーニング用のハンドグリップは今となっては軽く、発明ノートに書かれたアイディアは荒唐無稽である。こうしたかつての宝物に、すでにタクヤたちは興味を失っている。そしてパワーストーンという新たな「宝物」から復活したドランと共に、退屈な日常を抜け出し、新たな冒険へと旅立っていくのである。

これが意味するところは明白だ。現実世界の子供たちにとって、勇者ロボは玩具である。そしてあらゆる遊びは、子供たちの成長によって常に陳腐化していくものだ。そもそも勇者シリーズのみならず、映像作品とタイアップされた玩具は、その展開を映像作品の放送に依存する。生産的にも、長期間に渡って作られ続ける玩具は稀である。一度きりで作られ、アニュアルに更新されていく映像が終われば、次の玩具へと切り替わっていく。そうした状況において、玩具が持つ意味を問うこと――玩具はいかにして「宝物」足りうるのか、という問いが本作の物語的なコンセプトである。すなわち本作における「宝物」は、宝石=タイムカプセル=パワーストーン=勇者ロボ=玩具という要素がすべて結びついた概念として考えられる。パワーストーンとの争奪戦とは、いうなれば子供同士の玩具の取り合いなのだ。

メインアイテム「黄金合体ゴルドラン」。日本刀を携えており、頭の竜の意匠など、日本的なデザインである。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p39

「所有物」としての勇者ロボ

この「宝物」のモチーフに、もうひとつのモチーフである「仕える者」が重なる。ドランは「剣士」を名乗るわけだが、ここでいう剣士は和風のデザインと共にあらわれ、意味合いとしてはいわゆる「侍」に近い。そしてこの「侍」は、主君――パワーストーンの持ち主に忠誠を誓う存在として描かれる。後に加わる勇者たち「黄金忍者空影」「黄金将軍レオン」もやはり「忍者」「将軍」と主君のために働く職業が充てられている。同様にシルバリオンは「騎士」であるし、アドベンジャーはそのデザインから考えれば「戦士」あるいは「兵士」と受け止められる。いずれもある主君、命令の主体に「仕える者」としての立場がモチーフとなっている。

これは物語上の扱いとも対応している。いったんパワーストーンから勇者を復活させたとしても、そこで生まれる主従関係は永続的なものではない。いったん勇者を打倒することでパワーストーンに戻し、もう一度復活させれば、所有者の変更は可能という設定が置かれている。勇者たちはそれまでの記憶を失い、新たな所有者を主君とあおぐことになる。作劇的にはこれによって勇者たちを争奪することが可能になるわけだ。

これはやはり「谷田部勇者」が完成させた、命じる少年と従うロボットという構図を再度参照している。ここではマイトガインが開拓した乗り物としてのロボットを通じたナルシシズムや、勇者ロボに人間と同じ内面を与えたジェイデッカーのような実験は、直接的には継承されていない。「高松勇者」はマイトガインとジェイデッカーで、それぞれ原点を再解釈することでその境界を押し拡げ、そしてその成立限界を確認してきた。ゴルドランにおける少年とロボットの関係性は、こうした外側への拡張よりも、むしろ「谷田部勇者」が完成させた構図の意味を内側に掘り下げているように見える。

小ロボ「黄金剣士ドラン」。帯刀した侍のイメージ。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p39

非日常にアクセスする「乗り物」

本連載では「谷田部勇者」の画期とは、子供=少年が命令し、ロボット=玩具が戦うことで、遊び手が現実世界に留まったまま玩具世界へとアクセスできる構造を確立したことにあったと指摘した。ゴルドランはこの構造を暗示的に作劇に取り入れることで、より明示的に捉え直していく。

どういうことか。本作におけるもっとも大きな特徴のひとつは、そのリアリティの水準にある。マイトガインとジェイデッカーにおいても、前者では作品世界そのものがゲームと関連することで、後者においては高次存在を登場させることで、ある種のメタフィクション性を持っていた。ゴルドランではリアリティの水準が意図的に大きく引き下げられることによって、そうしたメタフィクション性がさらに強調されて描かれる。

タクヤたちは物語において、日常と冒険を往復する。彼らはドランと出会う前と同じように学校に通いながら、放課後になるとパワーストーンがあると目される場所への冒険へと出かけていく。これらの目的地は、特に初期においては世界地図上に提示される。エジプト(と同じ場所にあるアジプトという名の架空国家)であったり、南太平洋の島(トコナッツ島と呼ばれる架空の島)であったりするわけだが、タクヤたちはアドベンジャーが変形した機関車に乗り込むことで、これらの場所に旅立つ。ひとたびアドベンジャーに乗り込めば、具体的な世界地図が提示されているにもかかわらずその実際の距離はほとんど無視され、海の底を走ってかんたんに目的地に辿り着いてしまう。そしてその回の冒険が終われば、彼らは自分たちが住む街へと自然に戻ってくる。

こうした演出がもたらす効果は、単に作劇をスムーズにするのみに留まらない。子供にとっての玩具遊びとは、日常と非日常の往復である。厳密にいえば、子供たちは日常に軸足を置きながら、玩具をきっかけに想像の非日常へとアクセスする。玩具を通じた現実から想像への旅こそがゴルドランの考える「勇者ロボ」の本質であり、このリアリティ水準の操作こそが、本作最大の特徴だと本連載では考える。ゴルドランにおいて勇者ロボたちは「魂を持った乗り物」へと復帰する。そしてその乗り物が向かう先は、まさしくイマジネーションの世界なのだ。

タクヤ、カズキ、ダイ。キャラクターデザイン自体が前作・前々作から大幅に変更され、リアリティ水準の調整がはかられている。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p165

では、この物語を通じて、子供たちはどのようにして成熟していくのだろうか。

実は本作において、タクヤたちは成熟しない。物語を通過儀礼と捉え、葛藤を通じて通じて成熟するのが主人公であるならば、実はその意味ではタクヤたちは主人公ではない。その代わり、より明確な葛藤と成熟を迎える「もうひとりの主人公」がいる。それがタクヤたちと「宝物」の争奪戦を繰り広げる悪役――ワルター・ワルザックだ。そしてワルターを通じて物語の後半に行われるリアリティ水準の操作にこそ、ゴルドランという作品が語る成熟のイメージはあらわれている。

(続く)

この記事は2024年9月19日に公開しました。(バナー画像出典:勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p39

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