平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と遊び』。今回は友人・Kさんとのエピソードをお送りします。
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端的に言うとね。
人にはどうしても覚えられない言葉というものがあるのではないだろうか?別に世界一長い昆虫の名前ーセイタカアワダチソウノヒゲナガアブラムシとか、日本一長い植物の名前ーリュウグノオトヒメノモトユイノキリハズシとかではなくもっと身近な言葉で、だ。私の場合なぜか『ピクルス』。言うまでもなく野菜の酢漬けの事である。これを書いている今も『ピクルス』だったか『ピルクス』だったか分からなくなりスマホで調べたぐらいである。たとえばバーで酒を飲んでいてピクルスが食べたくなっても名前が思い出せない。だが、『マスター、ほら、あれ、頂戴。西洋風の野菜の酢漬け……』とは言えない。馬鹿だと思われるからだ。そこでこそこそとスマホで調べる事になる。そして私は自信満々で言うのだ。『マスター、ピクルスをくれ』と。
なぜこんな話をしたかと言うと最近吉祥寺に出来たあるバーでピクルスの話になり、バイトの女の子たちによるピクルス選手権を開催する事になったのだが、どれもこれも今ひとつでよしそれならひとつ俺様が作ってやろうという流れになったからだ。『ピクルス』という言葉も曖昧な私だが、作るのには問題ない。というか得意だ。というか得意というのが恥ずかしいくらい簡単だ。コツはひとつ——らっきょう酢を使う事だけである。同量のらっきょう酢と白ワインを火にかけてアルコールを飛ばし、そこに好きな野菜を放り込む。あとは香り付けにタカの爪やらニンニクを入れれば出来上がり。二時間後にはもう食える。簡単である。
さて、今回、別に私はピクルスのレシピを書きたかったわけではない。問題は吉祥寺に出来たバーの方だ。店名は『ミーデヤンス』、そしてアニメ版金田一少年の事件簿等の脚本を書いていたKがマスターを務める。このKがなかなかのクズ、いや、鬼のようなクズなのだ。まず女癖が悪い。すぐにプロポーズをする。特に少しでも自分に気がある女を見ると飢えた鮫のように大口あけて襲いかかる。金銭にルーズである。借りた金は返さない。私も5年ほど前に12万ほど貸したが返って来ない。あと8万貸してくれ、20万になればすぐに返すから、と意味不明な事を言う。すぐに土下座をする。ズボンを脱いでケツを見せる。
もう随分前の話になるが、そんなKが私をキャバクラに誘った。奢ってくれると言う。珍しい事だ。そこで店に行ってみるとC子がキャストとして働いていた。C子は当時、Kの彼女だった女だ。私はびっくりした。脚本家志望のC子はKの弟子であり、つまりKは弟子に手を出したわけだが、昼間は普通のOLで夜の仕事とは縁がなかった。そこで質してみると、金欠のKはC子をキャバクラに売り飛ばしたらしい。『いいわ。あなたがそう望むなら……』『ふ……可愛い奴、抱いてやろう』と、まあ、そんな感じだったらしい。ところが私とKが席に着いてもC子はやって来ない。Kが違う女を指名したからだ。C子は待機席から暗い目でこちらを睨んでいる。一方、Kはシャンパンやらフルーツを頼んでやりたい放題。奢ってくれると言われたものの、私は勘定が心配になった。シャンパンとフルーツはキャバクラでは高価なベストツーだからだ。
だが、私の心配は杞憂だった。Kは金を出さない。微動だにしない。『金は……C子が払う。奴の給料から引いておけ』と仰った。これはひどい。案の定、私とKが店を出るとC子がドレスの裾をたくしあげ追いかけて来た。『せめて私を指名せんかい』というわけだ。もっともである。だが、数年後、C子はKに復讐を果たす事になる。Kは『締切りがある人生は二度と御
免だ』などと嘯き脚本家を引退したがC子は売れっ子になったのだ。今では時々、Kは安いギャラでC子の本の下書きなどをしているらしい。いい様である。
さて、私がKと知り合ってもう10年になり、その間、海のように空のように心の広い私はKを許し続けて来たが、Kだけはいかん、と嫌悪する者が何人もいた。私の友人のひとりーゲーム作家のNもそのひとりだ。あまりにも頻繁なKの嘘や不義理に愛想を尽かし、とうとう絶交を宣言した。それはNの勝手だが、迷惑なのは私だった。それまでさんざん三人で飲み倒して来たのが、Nの絶交宣言で事情が変わった。時間差で会うはめになったのである。6時から9時まではK、9時から12時まではN、という具合である。だが、それも面倒になって来た。馬鹿馬鹿しい。
そこで私はふたりの仲をとりもつ事にした。ふたりを家に招き、手料理を振る舞い、KにNへの謝罪を命じた。悪いのはKの方だからだ。ササッとKは土下座をした。Kには恥という概念がない。土下座など屁に等しい。それを知っているNは仲直りを拒絶した。『ふざけるな』と。『お前はクズ』だ、と。私はそんなNを叱りつけた。手料理までして和解の場を設けた私に恥をかかせるのか、と。そう言われてさすがにNもしぶしぶとKの謝罪を受け入れた。『では握手をしろ』と私。Nは嫌々Kと握手をした。『よし、次はキスだ』と私。それだけは嫌だ、とNは抵抗した。私はNの頬をぐりぐりした。Kはにやにやしている。Kにとって男同士のキスなど屁でもないのだ。私にぐりぐりされてNはしぶしぶKとキスをした。次の瞬間、Kはぐおっと声を上げてのけぞった。キスをしながらNはせめてもの嫌がらせで舌を入れたのだ。技ありである。とにもかくにもこんな具合でふたりは仲直りをしたのである。めでたしめでたし。
(続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2025年11月11日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2025年12月18日に公開しました。


