ゲーム研究者の井上明人さんによる連載「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「ゲームや遊びとは何か?」。この問いに答えるべく、ゲームや遊びに関わる多様な現象——ルール、コミュニケーション、非日常など——が興味深いかたちで相互に関係しあっている、その複雑さを論じます。
今回は、ゲームにおいてルールが成立しているとは一体どのような事態なのか検証します。

「中心をもたない、現象としてのゲームについて」のこれまでの連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
3.2 ルールとゴールこそがゲームなのか?:学習説と他説の関係(1)
前章では、ゲームを積極的な学習のプロセスとして捉える立場を「学習説」として整理し、その七つの要件を示した。ここからは、この学習説が、ゲームについての他の説明モデルとどのように関係するのかを順に検討していく。最初に取り上げるのは、もっとも標準的な説明である「ゲームとはルールやゴールをもつものである」という立場である。ルールやゴールという形式は、学習説とかち合うのか、それとも支えるのか。まず、ルールやゴールが何をしているのかを具体的に見ることからはじめたい。なお、「学習説」という表記はやや読みづらいと思われるため、言い換え可能な範囲で「熱中と上達」という表現を「学習説」とほぼ同義で用いていく[1]。
3.2.1 ルールとゴールが世界の見え方を変える
3.2.1.1 行為を設計するものとしてのルール
人間にとっての世界のあり方は、人間がどのようなルールとゴールを設定するかによって、大きく姿を変えることがある。
少し具体的に考えるために、鳥の話をしよう。
かつて北米には、クリスマスの時期に鳥や小動物を撃ち、その数を競う狩猟のイベントがあったという。参加者は野外に行き、獲物を撃ち、持ち帰り、その数を比べる。このとき鳥は、生きものというだけではなく、競争の成果を示すものになる。一羽の鳥は、一羽の獲物であり、また一つのゲームの得点でもあった。これは、クリスマス・サイド・ハントと呼ばれていた。
一九〇〇年に鳥類学者のフランク・チャップマンは、これとは別の形式を提案する。鳥を撃つのではなく、数えてはどうか、と。持ち帰るのではなく、観察し、識別し、記録する。のちにクリスマス・バード・カウントとして知られるようになるこの試みでは、鳥は狩猟の成果ではなく、観察の対象であり、記録されるべきデータとなった。
チャップマンは、既存の「クリスマスに鳥をめぐって野外で行う活動」という季節的な枠組みを意識しながら、鳥を殺すのではなく数えるという、別の活動形式を提案したのである[2][3]。
野外に出る。鳥を探す。数を数える。そうした点では、二つの活動は似ている。しかし、何をしてよいのか、何を成果とみなすのかが変わることで、鳥を見る方法も、身体の使い方も、必要とされる技能も変わることになった。撃つべき鳥は、見分けるべき鳥として眼前に現れることになる。持ち帰るべき獲物は、報告されるべき記録になる[4]。撃つことの上達を楽しむのではなく、見分けることの習熟を楽しむことになる。この違いは明らかだ。
どのようなルールやゴールの構造のなかで、世界を捉えようとするかによって、世界との関わり方は大きく変わる。人々の行為の仕方――ゲーム――を形づくる基本的な要素に、ルールやゴールといったものがあることは、多くの人が認めるところだろう。「ゲーム」の辞書の解説には「ルールを前提とした遊戯」といった解説が書かれていることが多い。つまり、辞書的な定義を前提とすれば、「ルール」と「遊戯」が結びついた形態が「ゲーム」だということになる。
辞書のみならず「ルール」はゲームを成立させる重要な論点だという言及はほとんどの遊びやゲームの研究者に見られる(Stenros 2017)[5],[6]。カイヨワ[7]、クロフォード[8]、サレン&ジマーマン[9]、サットン=スミス[10]、マクゴニガル[11]、スーツ[12]、など、定義全体は違っても多くの論者が「ルール」の重要性に何らかの形で言及している。
だとすれば、ゲームにおいてルールが成立しているというのは、一体どのような事態なのか。人の行為がゲームによって変化するとはどのようなことなのか。そこでは何が起きているのか。本章はまず、この問いを考えることからはじめたい。
3.2.2 ルールとゴールだけがあれば、ゲームは成り立つのか?:行動を方向づけるための要件
3.2.2.1 ルールであれば、何でもいいのか?
特にゲームにおける「ルール」の問題を細かく検討した哲学者といえば、まず挙げるべきはバーナード・スーツだろう[13]。
スーツによれば、ゲームをプレイするという行為は、いくつかの要素からなる。第一はゴール――「前遊戯的目標(prelusory goal)」)とされる――これは、そのゲームの一部になる以前にも、ゲームとは独立に記述できる達成すべき事態であるという[14]。たとえば、ゴルフなら、球がカップに入ることがそれにあたる。手で運んでも、転がしても、そのゴールは実現できる。どんな手段で達成したかを差し引いて、結果だけを取り出したものが、前遊戯的目標である。
ゴールは行為に方向を与える。何を目指すのかが定まらなければ、ある動作がゴールへ近づくのか遠ざかるのかが決まらない。徒競走なら、ほかの走者より先にゴールラインを越えることだ。ゴールは、ばらばらの動作を、一つの課題へ向かう行為へとまとめる[15]。
しかし、ゴールだけではゲームは成立しない。球をカップに入れるだけならば、手で拾って運べばよい。目的地に到達するだけならば、自転車を使えばよい。ゴールを達成することだけ考えるなら、より簡単で効率のよい方法を選ぶのが合理的だということになってしまう。
そこで第二の「遊戯的手段(lusory means)」が問題になる。ゴールを達成するのに、ルールが認めた手段だけを使う、ということだ[16]。ゴルフでは球を手で運ぶのではなく、クラブで打つ。競走では相手を妨害せず、定められた方法でコースを走る。
そして第三に、この手段の限定そのものを作り出すルールがある[17]。それは、もっとも効率のよい手段をあえて禁じ、より回りくどい手段を求める[18]。球をカップに入れるだけなら、クラブで何度も打つのは回り道だ。ゴールへ着くだけなら、相手を転ばせるほうが早いかもしれないが、競走ではそれは認められない。
この制限は、すでにある活動にわざわざ付け加えられた妨害行為的なものではない。手で運ばずクラブで打つからこそゴルフになり、何でもありの手段ではなく、特定の方法で走るからこそ競走になる。ゴールが何を実現すべきかを定め、ルールがそこへ至る手段を絞る。両者が組み合わさって、取り組むべき課題と、それを阻む障害が生まれる。スーツがゲームを「不必要な障害を克服しようとする自発的な試み」と要約するのは、この意味だ[19]。ルールとゴールは、何を、どんな困難のもとで目指すのかを定めることで、その活動のかたちそのものを作っている。
3.2.2.2 ルールを理解している主体は誰なのか
ここで、少し変わった事例を考えてみたい。
最初に鳥がゲームの獲物として扱われるという話をしたが、逆に鳥自身はゲームのプレイヤーたりえるだろうか?ルールのもとで試行錯誤する行為者は、どこまで人間でなければならないのだろうか?
実は、二十世紀後半のアメリカには、鶏を相手に三目並べで対戦できる装置があった。「バード・ブレイン」などと呼ばれたその装置では、人間が電子的なディスプレイの盤面に手を置くと、小部屋のなかの鶏が光る場所をつつき、あたかも鶏が選んだかのように、電子的な盤面に印が現れる[20]。
これは外から見れば、人間と鶏が三目並べをしている……ように見える。

「バード・ブレイン」の外観(著者による図)。人間は右側の盤面に手を置く。制限時間が表示され、左側の小部屋(Thinkin’ Booth)にいる鶏が光る場所をつつくと、鶏が手を選んだかのように盤面に印が現れる。
実際には、盤面を読み、相手の手を予測し、勝つ手を選んでいたのは実は鶏ではない。手を決めていたのは装置の側であり、鶏は光の刺激に反応して所定の場所をつつくよう訓練されていただけである。鶏はそこまで賢くない。
それでも観客の目には、鶏が考え、手を選んでいるように錯覚される。ここでは、ルールを実行する装置、刺激に反応する動物、そこにゲームを見る観客という三者が、きれいに分かれている。手を決める働き、盤上で反応する身体、それを競技として経験する意識が、それぞれ別の様態をとっている。
鶏の側が、まったく何もしていないわけではない。鶏にどのような訓練がなされたかの内容は公開されていないが、おそらく光る箇所をつつくことと、餌やりが連動するようにして条件づけされていたものと推測される。刺激への反応が餌などによって強化され、特定の行動が生じやすくなる。こういった学習はオペラント条件づけと呼ばれる過程である[21]。これは学習は学習でも、人間がゲームに熱中し、上達するような努力や創意工夫を伴う学習の過程とは異なっている。条件づけられた鶏のつっつきに、この意味での学習はない[22]。
鳥もある程度まで高度な遊びは行うことができる[23]。たとえば、棒で球を操作して穴に入れるといった程度のルールまでは理解できることもある[24]。だが、三目並べのような、ある程度まで複雑なルールを理解し、思考する主体であるとは考えにくい。その意味において鳥類は「ゲームを遊んでいる」とは言えない。主体的に努力し、その努力を楽しむような主体であるとは考えづらい。バード・ブレインのような装置で、そこに「ゲームをしている」という構造を錯覚するのは、もっぱら人間の側の問題でしかない。
行為する主体と、それをゲームとして意味づける主体が、ズレていることはよくある。行為に、勝敗を定め、その出来事を一つの競争として解釈しているのは人間である。行為する身体と、それをゲームとして解釈する主体は別の存在である。
3.2.2.3 どうすれば「ルールに従って、ゲームをしている」ことになるのか
スーツも似たような論点を考えている。ある人が、ゲームのゴールへ向かい、ゲームのルールに従って行動しているならば、その人はゲームをプレイしていると言ってよいのだろうか、と。外から確認できるルールとゴールだけで、ゲームプレイの成立を十分に説明できるのだろうか、と。
スーツは、そうではないと考えた。それを示すために、次のような風変わりな思考実験を提示している。
まず、二百メートル競走の決勝で、ゴール地点の観客席に時限爆弾が仕掛けられていることを知ったスミスというランナーを想定する。時限爆弾を解体するために、このスミスがゴールに向かって走るとき、果たして彼はゲームに参加していると言えるのかというものだ[25]。これは、偶然の重なりによってゲームに参加しているように見えるだけだ[26]。ルールに合致する行為が現に行われているという点だけを見るならば、スミス以外の走者とスミスとの違いは見えにくい。スミスも、バード・ブレインの鶏も遊戯的態度を欠いているという点において、ゲームをしているとは位置づけにくい。ここでは単にルールの制限に合致した行為をしているだけではなく、なぜその制限のもとで行動しているのかが問題になるのである。
スーツはさらに、ゲームを理解していたとしても他にもまともにゲームをしているとは言えない例をいくつか挙げている。
たとえば、ゴール達成のために、こっそりとズルをするようなものは「いんちき屋(cheat)」であるという。これは、ゴールを認めるがルールを認めない者だ。
また、ルール通りチェスの手をさしたとしても、チェックメイトというゴールに無関係な手しかささないようなのは「ふざけ屋(trifler)」とする。これは、ルールを認めるがゴールを認めない者である[27]。
こういった形で、ルールやゴールを理解し、認めるという点を、スーツはゲーム成立の重要な要素として挙げている。ゲームを成立させるルールを受け入れることによってゲームは可能になる活動である。その活動を行うためという理由からルールを受け入れる態度を指し、「遊戯的態度(lusory attitude)」と呼んでいる[28]。
スーツによるゲームの概念は、つまり、特定の事態を実現しようと試み、ルールに許された手段だけを用い、そのルールがより効率のよい手段を禁じているにもかかわらず、その活動を可能にするという理由でルールを受け入れることだ、と定義される[29]。
そこで、問われているのはルールやゴールの形式的な存在ではなく、プレイヤーがその状況をどう理解し、どう向き合っているかである。
スーツのゲームの定義はしばしば「制限された手段」という要素のほうが強調して引用されることがあるが、ルールとゴールを重視しつつも、プレイヤーの「態度」や「理解」を定義のなかに含めている。ルールを重視するスーツが、ルールという観点をつきつめた結果、自ずから形式だけでは説明できない問題へと踏み出さざるを得ないことを論じているのがスーツの議論の特徴だと言ってもいいだろう[30]。
「ルール」や「ゴール」が極めて重要であるということと、「ルール」や「ゴール」だけでは、ゲームが成立しないのではないかということを同時に論じている、スーツの議論は、ゲームを物やルールの集合としてのみ捉える形式的なゲームの定義の先に踏み出している。
(続く)
[1] もちろん「学習説」は説、「熱中と上達」は現象なので、厳密には同義ない。
[2] National Audubon Society, “History of the Christmas Bird Count,” Audubon, n.d., https://www.audubon.org/community-science/christmas-bird-count/history-of-christmas-bird-count(2026年7月20日閲覧)
[3] Chapman, Frank M. (ed.) (1900). “A Christmas Bird-Census,” Bird-Lore 2(6): 192
[4] ただし、これは狩猟をしていた人々がそのまま観察者に転じた、というわけではない
[5] Stenros, Jaakko (2017). “The Game Definition Game: A Review,” Games and Culture 12(6): 499–520, p. 501。DOI: 10.1177/1555412016655679
[6] Stenros, Jaakko & Montola, Markus (2024). The Rule Book: The Building Blocks of Games, MIT Press (Playful Thinking シリーズ、オープンアクセス), Ch. 1
[7] カイヨワ:遊びの6特徴の第5項
[8] Crawford, Chris (1984). The Art of Computer Game Design, Osborne/McGraw-Hill, Ch. 1
[9] Salen, Katie & Zimmerman, Eric (2004). Rules of Play, MIT Press, Ch. 7 “Defining Games”, p. 80
[10] Avedon, Elliott M. & Sutton-Smith, Brian (1971). The Study of Games, Wiley, p. 7
[11] McGonigal, Jane (2011). Reality Is Broken, Penguin Press, p. 21
[12] Suits, Bernard (1978). The Grasshopper: Games, Life and Utopia, Broadview 版(2005), Ch. 3 “Construction of a Definition” , pp. 54–55
[13] Suits, Bernard (1978). The Grasshopper: Games, Life and Utopia, Toronto: University of Toronto Press. 本節では Broadview Press, 2005年版を参照する。邦訳として、バーナード・スーツ『キリギリスの哲学――ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年
[14] Suits, The Grasshopper, pp. 48–51.
[15] Suits, The Grasshopper, p. 48.
[16] Suits, The Grasshopper, p. 51.
[17] スーツ自身は、この種のルールを constitutive rules と呼んでいる。通例「構成的ルール」と訳されるが、本書ではこの訳語を主たる呼称としては用いない。「構成的」という語は、サール(1969)が別の意味で用いた constitutive rules――「チェックメイト」のように、そのルールがなければおよそ存在しえない事態を新たに成立させる働き――の訳語としても存在しており、両者を同じ「構成的」で括ると混同を招くからである。スーツのルールが問うのは、効率的な手段をあえて禁じることで取り組むべき課題を作り出す働きであって、サールのそれとは力点が異なる。本書で「構成的」の語を使うときは、主としてサールの意味を指す。
[18] Suits, The Grasshopper, pp. 51-53.
[19] Suits, The Grasshopper, p. 55.
[20] Xu, April (2025). “Beaten by a Chicken: How a Chinatown Arcade Legend Became a Children’s Book,” Documented, October 2, 2025. https://documentedny.com/2025/10/02/tic-tac-toe-chicken-chinatown/ (2026年7月20日閲覧)。同種の装置には複数の名称と実装があったと考えられる
[21] Skinner, B. F. (1938). The Behavior of Organisms, New York: Appleton-Century; Skinner, B. F. (1953). Science and Human Behavior, New York: Macmillan.
[22] したがって「学習」という語は複数の意味がある。行動の頻度が強化によって変わることも、統計モデルの内部状態がデータによって更新されること(機械学習)も学習と呼ばれるが、人間が課題を理解し、失敗を意味づけ、上達を経験することとは、記述している水準が異なる。
[23] Diamond, J., & Bond, A. B. (2003). A comparative analysis of social play in birds. Behaviour, 1091-1115.
[24] Osuna-Mascaró, A.J., Mundry, R., Tebbich, S. et al. Innovative composite tool use by Goffin’s cockatoos (Cacatua goffiniana). Sci Rep 12, 1510 (2022). https://doi.org/10.1038/s41598-022-05529-9
[25] このスミスは、声が出せないなど、いくつかの条件があり、爆発に間に合ううちに爆弾へたどり着くには、ほかの走者とともにスタートし、トラックの内側を走らずに決められたトラックを半周して走るしかない状況が設定されている。Suits, The Grasshopper, Ch. 13 “Amateurs, Professionals, and Games People Play” pp. 131-133.
[26] Suits, The Grasshopper, p. 132.
[27] Suits, The Grasshopper, Ch. 4 “Triflers, Cheats, and Spoilsports” p. 60. なお、ルールも、ゴールも、そのどちらも認めない者は「あらし屋(spoilsport)」と呼ばれている。
[28] Suits, The Grasshopper, p. 54. スーツは遊戯的態度を、手段を限定するルールを受け入れることで可能になる活動が生じるように、そのルールを受け入れることとして説明している
[29] Suits, The Grasshopper, pp. 54-55. なお、賞金を目的とするプロ選手も、競走そのものをプレイすることによってゲームを利用しており、その仕組みだけを利用するスミスとは異なる。スーツの言い方では、前者は競技者、後者は機会を利用する者である(同書 pp. 132–133)。
[30] Suits, Bernard (1978). The Grasshopper: Games, Life and Utopia, Broadview Press, 2005, pp. 54–55.
この記事は、2026年9月3日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲ
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