「釣り」を通じて出会った、“鮎川魚紳”的な大人たち

──指出さんが受ける取材といえば最近はすっかり、「関係人口」についてのことだと思うんです。だからこそ、今日は関係人口だとか、町おこしだとか、「ソーシャル」という切り口についてはちょっと横に置いておいて、あえて「釣り」について聞きたいなと思っているんです。

指出 そうですね。宇野さんにこんな機会をいただけて、嬉しいです。もともと僕はアウトドアと釣り雑誌の出身なのですけど、たしかに釣りそのものの魅力について語る記事はあまりないですね。

──そもそも、指出さんはいつ頃から、どうやって釣りを始めたんですか?

指出 釣りを始めたのは小学2年生のときでした。僕は群馬県の高崎市の出身で、当時、家から子供の足で5〜6分ほどの場所に、利根川の支流の「烏川」という川があったんですよ。そこが僕にとって初めての釣り場で、中学に上がるくらいまでは、学校が終わると毎日のように通っていましたね。

▲群馬県高崎市の風景
▲高崎にいた頃の指出さん

 『釣りキチ三平』ブームのときに小学生だったので、もうめっちゃめちゃ感化されていたわけですよ。『釣りキチ三平』の作品世界では、いつかは釣ってみたい日本の怪魚とか世界の名だたる有名魚みたいなものが続々と出てくるんですが、むしろ三平くんが家の近くにあるひっそりとした沼で謎のフナを釣るみたいな話が僕の原風景に重なって、ゾクゾクしたんですね。
 なので、いつかは世界に通じる釣りをしたいという気持ちの前に、まず自分の家の近くに、じつは秘密の沼があるんじゃないかとか、その秘密の沼には人にまだ発見されてない得体の知れないフナがいるんじゃないか……みたいなことを想像しながら釣りをしていた感覚があります。
 1980年代の群馬の田舎で、他に遊ぶ場所もなかったので、放課後の烏川には他の小学校からも釣り好きの子供たちが集まっていて。川が蛇行して、沼のようになった三日月湖を「溜まり」と呼んで、みんなで釣りをしていました。「ソトコト」的に言うと「サードプレイス」になるんでしょうね。学校でもないし、家でもない、小学男子が皆でわーわー言える場所として、その釣り場が機能してたんです。

──まさに学校でもない、家でもない第三の場所が「川」だったんですね。じゃあ、その中には川でしか会わない人もいたりしたんですか?

指出 そうなんです。自分の通っていた学区に「溜まり」はあったんですが、その両隣の学区の釣り馬鹿たちも年上から年下まで集まっていて。釣りを通じて仲良くなって、お互いに高校生、社会人と成長しても一緒に釣りに行くような関係性になっていきましたね。

──趣味を通じて、家庭と学校を往復するだけの日常やそこでの固定された人間関係から逸脱していく回路があったわけですね。それってまさに「コロコロコミック」的な世界観を地で行っていたわけですね。

指出 たしかに『ゲームセンターあらし』あたりと近い世界ですね。釣りは同年代だけではなく、大人たちとの出会いも生んでくれました。そもそも釣りに興味を持ったきっかけは、僕のおじいさんなんです。明治生まれの人には、鳥を綺麗に鳴かせたり、菊を大きく咲かせたり、金魚のランチュウを立派に育てたりといった趣味を持つ人たちが多かった。つげ義春さんの『鳥師』にも和鳥の愛好家が出てきますが、あんなイメージです。
 僕のおじいさんもカナリアのような鳥を飼っていて、よく鳴くようにと魚のすり身を餌に与えていました。そのすり身も魚屋で買うんじゃなくて、うちの近くの川の年間遊漁券を買って、投網で魚を採って作っていたんですね。小学生だった僕はおじいさんと一緒に川へ行って、魚をバケツに入れる係をしてました。川からいきなり現れる、ギラギラしながら跳ねる魚をバケツに入れるのも、生きた魚を水を張ったバケツに入れて眺めるのも、ものすごく楽しかったですね。

──それが釣りの原体験だったと。

指出 そうですね。その後、釣りへのめり込んでいくんですが、そこにも大人との出会いがあって。小学2年生の頃ですね。父親が通っていたスナックがあって、夜に父親を迎えによく行ってたんです。そこにはパワフルなママと、アニメ『ルパン三世』の初代声優だった山田康雄さん似のマスターがいて。店ではママの印象が強くて、マスターがどんな人なのか、いまいちわからなかった。でもある日、そんなマスターが僕を魚釣りに誘ってくれたんです。竹の釣り竿を用意して、店から30分くらいの秘密の沼へ案内してくれてね。そこでマスターが釣りをしている姿に、子供ながらに感動したんですよ。

──感動というのは?

指出 釣りを通じて、違う側面を大人が見せてくれたことにですね。夜のマスターはママの横で寡黙に作業していて、それこそ失礼な話、なんとなく冴えないおじさんくらいに思ってたわけですよ。だけど、昼間は好きな釣りをこんなに楽しんでいるし、実はすごく釣りが上手くて、テクニックを教えてくれた。大人の「素の顔」を見たのも初めてでしたし、親戚でもご近所さんでもない他人と、一緒に釣りをして楽しいという経験をしたわけです。これが本当の原点だと思います。

──これまでの指出さんのインタビューを見てみると、当時の放課後に通っていた川で、すごく年上の釣り仲間と出会ったとか、その人といまだに付き合っているとか、仕事上も大きく影響を受けているといった話をよく出されているのが印象的です。つまり、「川」で指出さんは『釣りキチ三平』の鮎川魚紳みたいな大人にたくさん出会ったわけですね。
 彼は三平くんに釣りだけではなく、生き方のようなことまで教えてくれる存在だったと思います。

指出 ああ、本当ですね。両親や年上の兄弟、親戚とも違う生き方をしているんだけれど、「釣り」という僕と共通のものを持っている。彼らは僕が成長するにつれ、異性の話や、パチスロの話なんかも教えてくれて。釣りという非常に小さなコミュニティながら、社会のことを教えてくれる大人たちが周りにいましたね。
 高崎に「かわせみ倶楽部」という、古い古い釣り倶楽部があるんです。その代表の池谷成就さんという方が、僕の釣りの師匠みたいな人で。この「かわせみ倶楽部」は非常に大きなことを成し遂げられていて、昔、川で擬似餌のルアーやフライを投げることは禁止されていたんです。でも、池谷さんが漁協やいろんなところを一生懸命説得していった結果、群馬県ではルアー釣りが解禁されたんですよ。絶対に変えられないと思われていた規則を変えてしまった人なんですね。

▲「かわせみ倶楽部」代表の池谷さん

 中学生の頃からいろんな釣りの技術や考え方を池谷さんに教わっているんですが、「魚釣りを一から考えたときに、一番大事なものは何だと思う?」という問いが最初だったんです。宇野さん、何だと思いますか?

──よく釣れるルアーとか、フライとかですか?

指出 僕も同じことを言ったんですが、「違うよ、釣り針だ」と。釣りにおいて、すべての物事は釣り針から始まる、と池谷さんは言うんですね。魚が針にかかって逃げることは、実は釣りに関しては悪である。かかった魚をちゃんと釣り上げるところまでが釣りなんだ、という彼の哲学がありまして、そのためには「自分に合う針」を選ぶことから始まる、と。池谷さんの場合、こだわりすぎて釣り針メーカーに数千個のオリジナルの針を個人で注文しちゃったくらいなんですが(笑)。
 でも、その池谷さんの考え方は、僕が「ソトコト」を作る上で大事にしている視点に繋がるんです。まず「釣り針」を選ぶことがすべてであると。すると、次は針に合う金具を考え、金具に合うルアーを、ルアーに合う釣り糸を……と、針から逆算してすべてが決まっていくんですね。そしてそこには「あの魚を釣りたい」という狙いが最初にある。
 これは雑誌作りにおいても同じで、僕は「ソトコト」を作る際、「自分が見えている、自分が発信することが届く読者は誰なのか」をまず考えるんです。1匹の魚のことだけを考えて針を選ぶように、一人の読者だけをまず考えて、どんなメディアにしていくか考える。よく雑誌づくりでは「ペルソナ」を考えよ、と言いますよね。こういうライフスタイルを送っている人には、これがきっと合うだろう、と考えるところから始めるやり方ですが、釣りで言うと感度の高い釣り竿や最高性能のリールを選ぶことに近い。それとはある種、逆のやり方かもしれません。

──面白いですね。コスパだけを考えたら、釣り針から考えようとはならないじゃないですか。

指出 そうですね。そんなふうに釣り名人でありながら、池谷さんは「萬来軒別館」という美味しい中華料理屋さんの店主なんです。

──そこもなんだか、少年漫画のキャラクター的ですね(笑)。すごい世界だなあ。

世界をさまざまな角度から見る「水面下」のコミュニケーション

──ここまでの指出さんのお話を聞いていると、「川釣り」というのが実は重要だったように思えます。川釣りは海釣りと比べるとどこか「日常感」が強い。生活空間と地続きの場所にすごい魚が潜んでいる、という感覚が大事なのかなあ、と思います。

指出 僕は「水面下」という言葉が、釣りのひとつの本質を表すキーワードだと思っています。まず、僕たちは陸上で生きていて、魚たちは水の中で生きているじゃないですか。実際にはすごく近い距離にいて、同じ空間を共有しているにもかかわらず、互いの間を水面というものが隔てている。だから、はっきりとは見えないんだけど、いろんな種類の、それぞれの持ち味のある魚が確実に生きていることはわかっている。そういう、水面下にいるものたちに会ってみたいなということが、そもそもの原点ですよね。見てみたいというより、もっと接触してみたいという衝動が、僕の中では小学校のときからすごく強かったんです。

──つまり、「存在は十分認知できてるんだけど、なかなか目で見ることができないものに触れること」こそが、本質ということですか?

指出 そうですね。たとえば、同じ空気中であれば、はっきりと見えるから山が500m先にあるとか、富士山が近くにあるといった認識はしやすいんですけど、沼や川、海では、その水面の下を想像するのは容易ではない。だからこそ、魚という存在には想像力をかきたてられるんです。その魚が生きている世界にアクセスするための一つの方法として釣りがあるのだと思います。

──人間がなにか水面下の存在のようなものに触れようとする場合、実にいろいろな方法があるし、その結果発生する関係性もさまざまだと思うんですよね。その中で「釣り」というアプローチだからこそ得られる関係性ってどういうものなんでしょうか?

指出 そうですね……もともとはものすごく弱いかたちでコンタクトを取る技術だと思うんですよ。たとえば水面下に対する好奇心のあり方としては、ソナーを使って魚群探知機で3Dで水中全体を見るとか、あと力技で池の水を全部抜いて捕まえてしまうみたいなかたちもありうるじゃないですか。でも、そうやって見えそうで見えない水面下という未知の世界を一気に暴いてしまうと、その後の虚無感みたいなものも非常に大きいと思うんですよね。あくまで僕個人としては、ですが。そういう数ある水面下にアクセスする方法の中で、釣りは一番、創造性を残してくれる方法だと思っています。
 たとえば沼で小さな鯉を釣ったら、「このサイズだと親も同じ沼にいるな」と推察できる。そういう風に、一匹から情報を拡大していくのが楽しいんです。ヒレが切れてるのはオス同士、産卵期でケンカをしたからかな? ということは、同じ種類の魚がたくさんいて、オスが取り合うくらいメスもいるのかな……みたいに。ひとつの沼に通っていると、同じ魚を再び釣り上げることも当たり前にあるんです。だから釣りを通じて、水面下の情報の精度を少しずつ高めていくのも楽しかったのかもしれません。

──同じ魚を釣るというのは、キャッチアンドリリースをしてるってことですね。

指出 ええ。川や沼の釣りでは、よほどのことがないと釣った魚を食べません。海の魚や、川釣りでもアユやワカサギは食味を楽しむ楽しみがありますけどね。釣りの世界もいろんな考えがあって、釣った魚を食べるのが礼儀だという人も、僕のように自然環境を考えてキャッチアンドリリースをしたほうがいい、という人もいます。楽しみ方でいうと、僕はアイスのガリガリ君くらいの大きさのポケット水槽を持ち歩いていて。そこへ釣った魚を入れて、しばらく眺めるんです。

▲指出さんのポケット水槽。この小さな水槽に魚を入れて眺めるそう。

 いま僕が夢中になっている魚は、ひとつがイワナで、もうひとつがタナゴです。先日もとんぼ返りでタナゴ釣りに行っていたんですが、タナゴの大きさはほんの3~5センチほど。「田んぼの間を流れる用水路を、ちょろちょろ泳いでいる小魚」くらいのサイズ感なんです。でも釣れたタナゴをポケット水槽に入れて、ある時期に眺めると、婚姻色と呼ばれる、人間では到底生み出せないような美しい彩りの魚になるんです。
 僕はその姿を横から見るのが好きで。上から見ていると、ただの紡錘形の灰色や黒の魚で終わっちゃうんですけど、横からだと大変にまばゆい。綺麗な姿を堪能して、弱らないうちに逃すみたいなことを繰り返しているんですね。

▲イワナ
▲タナゴ。横から眺めるとまばゆく、美しい。

──つまりそれは釣り上げて水槽に入れない限り、絶対に得られない視点なわけですよね。先ほど「水面下」という言葉も出ましたけど、指出さんにとって、釣りは世界をいろんな角度から眺めるために必要なコミュニケーションなんでしょうね。

指出 魚を釣ること自体、要するに魚に納得してもらって、針にかかってもらうことなので、コミュニケーションなわけですね。魚に納得してもらうために、釣り人はいろんな技術を使ったり、自分オリジナルの餌の配合をしたり、工夫を凝らしていく。
 実際、魚と人間ってコミュニケーションが取れないように見えて、意外と取れると思っているんです。いまも家でタナゴを飼っていて、餌がない時は寄ってくるんですよ。ツンデレなんですね(笑)。この絶妙な距離感というか、本来コミュニケーションが成立しなさそうな存在と、いかに関係性を築いていくかは結構大事なことだと思っていて。
 お互いに共通の言語があれば理解や容認も生まれやすいですが、魚のように水面下にいるものとは、本来コミュニケーションが難しいですよね。でも、そうした自分と遠い存在とコミュニケーションを取りたい、という欲求が釣りに含まれていると思ってます。その結果、この間もカネヒラというタナゴの一種をポケット水槽に入れて眺めたくて、練り餌を文字通り練りに練って、1時間かけて釣り上げたんです。アホですよね。

──いや、すごく贅沢な時間ですね。コストパフォーマンスで考えると、絶対出てこない発想じゃないですか。

指出 まさにその通りで、僕はこの51年間で釣りに費やした時間やお金を考えると、空恐ろしいくらいコストパフォーマンスの悪い生き方をしているわけです。何しろ、釣りって「釣れない時間」がものすごい割合を占めている。本当にわずかな「釣れる瞬間」のために、魚に思いを巡らせて熟考し、何倍も竿を垂らして待ち続けていると。おまけに新鮮なアユやイワナなら、スーパーで買えばあっという間に、1匹数百円で手に入る。でも、その魚がのびのび泳いでいる場所で釣るとなると、交通費やら諸々入れて1匹数万円近くのコストがかかってしまうんですね。
 でも、その徒労に終わる時間や出費を、実は無駄じゃないと捉えられるかが、釣り人としては大事なんだと思います。経済的な価値じゃないところにすごくコストをかけて魚に出合う、ある意味で「大きな無駄の蓄積」みたいな遊びなんですよね。その「無駄」は、僕にとっては一縷の望みでもあります。僕自身、釣りの時間があるから、社会で意欲的に仕事をしたり、家庭で楽しく生きていったりできているのかもしれません。そういう無駄を認められる余裕が、社会においても、人間関係においても、ないよりはあったほうがいいと思うんですね。

──とても大きな問いですよね。魚を採ることで生計を立てる「漁」の思想と、「釣り」の思想の違いなのかなと感じました。

指出 プロフェッショナルとアマチュアアングラーを分けるラインかもしれませんね。ただ、アマチュアにもプロ並みに情熱をかけている人はいます。僕は10年くらい、北海道のイトウ釣りに1週間くらい休みをとって通っているんです。今年はどうしても行けなかったんですが、そこにくる人は猛者ばかりですよ。それこそ、高知ナンバーの車とか。

──北海道から高知まで、車で!  全国から集った鮎川魚紳級の名人たちが、時間もお金もすさまじく費やしながら、切磋琢磨しているわけですね(笑)。

指出 その結果、友情が生まれるというのも、まさに「コロコロコミック」か「少年ジャンプ」的世界かもしれません。

「待つ時間」がもたらす豊かさ

──指出さんの「釣り的思考」をもう少し掘り下げていきたいのですが、釣り糸を垂れている時、何を考えているんでしょう?  猛烈にお忙しい中でも、釣りの時間を捻出されているわけですよね。

指出 実は、そこに何か魚がいるだろうと思って、漫然と釣り糸を垂れることがあまりなくて。想定する魚を釣るために、事前にものすごく準備をして、トラブルを回避しながら臨んでいます。もうひとつ言うと、魚を釣ることよりも、魚を釣り上げたあと「ちゃんと逃す」ところを非常に意識しています。
 というのも、僕が基本的に釣っているのは、自然産卵・自然繁殖をしている「ネイティブ」と呼ばれる魚なんですね。日本では魚と人のバランスがうまく取れていないことが多くて、川に放流し、釣り人のために魚がいる環境が作られていたりする。それはそれで重要なことなんですが、やっぱり僕は、人の手が加わらずに循環している魚という生物に、一縷の望みを感じていて。これだけあらゆる部分で人の手が加えられている世の中で、自分で卵を産み、自然の中で育ち、また子孫をのこすネイティブの魚に、すごく敬意を覚えるし、憧れているんでしょうね。
 だからこそ、「ここは足場が高くて安全に魚を釣り上げられないから、あそこまで行けば手元に寄せられるな」みたいなことを釣りの最中は考えています。

──めちゃくちゃ具体的かつ、そして細かいですね。

指出 長くやってるからです(笑)。あとはやっぱり、水面を見てる時は悶々と悩みごとについて考えています。世の中の問題とか、仕事のこととか。でも、そういうふうに別のことを考えていたり、よそ見をしていたりするときのほうが不思議と釣れるんです。釣り人あるあるなんですけど。

──それはどうしてなんでしょう。針に警戒心が伝わっていたりするんですかね?

指出 釣り竿と釣り糸を伝わって、何かのパルスなのかが伝わっている、という人もいますね。特にルアーやフライを使った釣りの場合、この偽物の餌を、そうと気付かれないで魚と認識してもらうには、限りなく人の気配は消えたほうがいいわけです。『釣りキチ三平』には「石化け」「木化け」という話も出てきますが、別なことに気が移っているほうがいいのかもしれませんね。あとは、不意打ちを食らったときのほうが強烈な印象に残る、というのもあると思いますよ。

──僕の周りにいる釣り好きを見ていると、楽しみ上手な人が多い印象なんですね。釣り以外にも、彼らは色んな趣味を持っていて。それってやっぱり、待つ時間が長いからなのかな?と個人的に思っていたんです。

指出 釣り人の1日のうち、釣り竿を振る時間は意外と短いんです。朝の数時間と、夕方の1〜2時間くらいで、残りはキャンプをしてバーベーキューをしたり、ダッヂオーブンで料理を作ったりする人も多いですね。あとは鳥や渓流の草木に詳しくなったりする人も。釣り場にいても、魚よりもそれ以外のものを見ている時間のほうが多いですからね。東北の渓流釣りに通っていると、蕎麦屋に詳しくなるんですよ。

──面白い。これって何気ないけど、実はすごく大事な話だと思うんです。指出さんに関する記事をいろいろと読んでいると、指出さんが編集していた釣り雑誌に影響を受けた人を見かけるんですね。要するに彼らは指出さんの作っている雑誌から、釣りの情報を得ているだけではなくて、ファッションやライフスタイルの面でも影響を受けている。こんな「釣り人」のスタイルっていいなあ、という視点で読まれていたと思うんです。
 こういう視点は、単に魚を釣って、サイズや量、珍しさをゲーム的に競うことを中心に置いても、魚を採って食べることを中心に置いても出てこない。「釣り」というものを通じて、何か自分の世界観とか、世の中に対する距離感をつくりあげているからこそのものだと思います。

指出 僕は釣りやアウトドアのメディアもずいぶん作らせてもらいましたが、そもそもはかっこいいもの、変わらない強いものや素敵なものが好き、という気持ちが根っこにあるんですね。だから中学生の時に使っていた30数年前のスウェーデン製のリールを、今も直しながら使い続けている。

▲指出さん愛用のリール

 僕は1980年代に10代を過ごしたんですが、当時の群馬の男の子たちは「やっぱおしゃれに生きてみたいなあ」「でも俺、北関東出身だしなあ」という狭間にいたわけです。僕自身、マガジンハウスさんのメディアに載ってるような代官山や自由が丘に行って楽しみたいと思う反面、そこまでの勇気はなく、自分の家の近くには川や池、沼しかなかった。
 そこで遊んでいる中で、自分は「もうちょっとおしゃれに釣りをしてみたい」という気持ちが強かったと思うんですよね。特に中学生くらいのときは。だから、アメリカの釣り雑誌やイギリスのフライフィッシングの雑誌をメールオーダーで取り寄せて、かっこいいな、こういうギアがもっと日本の釣りの世界にも来ればいいのに、と感じていました。
 そこから始まって、本来の釣りの世界は「誰よりも大きい魚を釣る名人になることが美徳」みたいな中で、「もうちょっと釣りをやわらかく感じながら楽しめないか?」みたいに考えながら、釣り雑誌を編集していたことは確かですね。基本的には、いろんなサブカルチャーのパロディです。僕自身が好きだったメディアから影響を受けていて、『STUDIO VOICE』の感じを釣り雑誌に取り入れたりしてましたもん。

▲雑誌「Outdoor」。写真は指出さんが高校生のときのもの。 指出さんはこのテイストにあこがれて、大学4年生のときに「Outdoor」編集部でバイトを始めたそう。

──これは大事な問題ですね。水面下の存在と触れ合うことは、ものすごく人間の世界を広げてくれる。しかし、今日に至るまで、今の社会の都市文化はそれは少年漫画と一緒に卒業すべきものだということにされている。しかしこうして自分が中年になってみて、周囲の顔色とタイムラインの潮目ばかり気にしてつまらないことしか言えなく、できなくなっている大人ばっかりになっているのをみると、やはり三平くんが釣りを好きなまま大人になるのって大事だなと思うんです。

指出 僕は80年代のど真ん中に高校生、大学生と過ごしてきたので、田中康夫さんや浅田彰さん、中沢新一さん、坂本龍一さんといった80年代ヒーローには大変な影響を受けていて。大学も東京の四谷にある上智大学に通っていたんですが、当時は東京にバブルの名残があって、友達も先輩からもらったタクシーチケットで四谷から中野に帰るみたいな、だいぶ華やかな時代だったわけです。
 でも、僕は山登りのサークルに入って、多いときには週4日は山に入っていたんですよ。なので、そういう時期に東京にいなかったのは、僕にとってうまくバランスをとってくれたんじゃないかなと。東北の赤いトタン屋根の風景とか、石州瓦の美しいオレンジの景色をかっこいいじゃん、なんて思っていたので。80年代のすさまじいスピード感ですすんでいた東京にはない、ある種の持続可能性みたいなものが地方にはあったんですよね。そこの魅力に気づくことができたのは、今に繋がっていると思います。

▲指出さんが20代のころに手掛けた記事

「自分にとっての日本地図」をつくる

──時間の使い方だけでなく、釣りが好きな人は土地の見え方も違ったりするんでしょうか?

指出 はい。皆さんに「自分にとっての日本地図」を描き直してもらうのはおもしろいワークショップですよ。一般的な地図では、東京や名古屋のように、人間にとっての利便性や経済規模における重要な都市が大文字で表示されますよね。でも、釣りや登山が好きな人たちと話をすると、日本地図の主要都市の大小が違っていて、たとえば山形の鶴岡や長野の松本のように、山や渓流に入っていく玄関口となる街が大きくなるんです。つまり、自分の中の感情によって主要都市の大小が塗り替えられるんですね。「なぜこの地名を大きくするの?」みたいな質問から、その人らしさが表れてきますから。
 僕にとっても、岩手の遠野や青森の今別のように、東北の美しい川がある街は大文字になりますね。つまり「魚がいるから、その街を好きになる」という感覚はあります。でも、場所として好きだからといって、必ずしもその町の地域づくりに関わるわけでもないんですよね。あくまで好きなのはその場所に生息している魚であって、「魚がいるから、その街の人も好きになる」とまではいかないわけですね。

──人間の社会のものとは違う論理で、人の顔だけ見て描かれたものとは異なる地図の存在を知っている人と、そうでない人では土地へのコミットの仕方も変わってくるように思えるんです。

指出 おっしゃる通りです。川に喩えると、同じ川でも、時間によってまったく違う魚が現れるんです。時間によって魚も棲み分けていて、川の中流域だと、昼間はオイカワやウグイが遊んでいるんだけれど、夜になるとナマズが現れる。森も同じですね。
 そうやって森や川に棲み分けがあるように、地域にも棲み分けがあると思うんです。商店街のとあるスペースが、昼間は地域の老人たちの井戸端会議の場所になっていて、夜は若者たちが集まっている、というような。同じ場所を、違うレイヤーの人が使っていくのは大事なんです。僕は「ふくよか」という表現を使うんですけど、そういう土地のほうが、地域の力みたいなものが担保され、豊かになるんじゃないかな。

──それって「水面下」の話にも繋がりますね。同じ空間に存在しているのだけれど、水面で隔てられているものを重視する。そのためには複眼というか、複数の視線が必要だということですね。

指出 はい、「複眼」という言葉にはすごく共感します。単眼で見ていると、京都に地方都市が敵いっこないわけです。でも、人口や経済規模じゃない別の視点から自分の街の面白さを見つけて発信することが、やっぱり大事だと思うんですね。途中で話したポケット水槽から何が見えるのかというと、「小さいものを見つめ直すことで、実は新たな視点が生まれて、地域の解像度が上がっていく」ことだと思うんです。観察する対象がタナゴでなくても、野沢菜でもいいわけです。すると「うちには何もないよ」って言葉が出てこない地域になるんじゃないかなと。

SNSの単眼的な世界の外側へアクセスするヒントが、釣りにはある

──単眼的な視点では、どれだけ人々の共感を集めているか、という評価経済の一元的な価値観に回収されかねない。そうじゃなくて、自分と土地との間にある、細い1本の釣り糸みたいな関係性ものを探そうという話ですよね。

指出 そうですね。このお話って、たとえばミス・○○などのコンテストなんかにも通じると思うんです。ミス・○○って、自分が本当にその人が好きというよりも「この人はミス・○○っぽい」と投票されて結果が決まっているような気がして、そういう循環で世界のビジョンが選ばれていくのは個人的に不可解に思います。同じように、SNSだけ見ていると「結局みんな同じことを求めてるんじゃないか?」という結論に行きつきかねないけれど、そこから少し外れた、裏道みたいなものがあってもいいはずだし、そういったことが語られてもいいと思うんです。僕が言うところの「水面下」もそうですが、バスケットが好きとか、アイスホッケーが好きとか、そういったところから「もう1本の糸」が生まれていき、それが複眼的な視点を生むし、何かあったときのセーフティネットにもなるはずで。僕は仕事をしながらよく釣りの話をするんですけど、やっぱり気楽なわけですよ。少し本筋と外れたことを話すことで、相手が安心してくれる場面も多いですからね。社会とは逸脱した外側の世界との関係性を、それぞれの人がいかに持つか。そして、そもそも持っていいんだよ、ということは伝えていきたいですね。

──その「外側」というのは、都市空間から離れた地方の土地やもののことでもあり、都市の内部にある「水面下」のことでもある。80年代の都市空間が、サイバースペースに拡張されたものが今日のSNSだと考えると、僕たちはいま、どうそこに「外側」を発見したり、「水面下」のものへのコミュニケーションの回路を見つけ出すのかが問われているのかもしれませんね。僕たちにいま必要なのは、そのための「釣り糸」であると。

指出 面白いですね。宇野さんの話を聞いてまず浮かんだのが、釣り糸は蜘蛛の糸みたいなもので、まさに「Web」的だと思うんです。その釣り糸を、釣り人である僕はたった1本しか持っていない。でも、水面下に垂らすことで、沼の中の情報や魚に関する知識など、自分だけの情報をたくさん手に入れられる。これって、ローカルニッチWebみたいなものに近いはずで。現象としては、頼りない1本の糸が、水面でピクピク動くだけなんです。でも、その先に魚という他の生命体がいて、自分にとっては「ピクピク動くだけ」でも素晴らしい情報になる、と。

 もうひとつは、僕は釣り雑誌からも20年近く離れて、最先端の釣りの情報を取りにいくことからはだいぶ離れているわけです。そんな中でたまたま最近、「足踏み式のシーカヤック」に出合ったんですよ。シーカヤックの釣り自体は確立されていて、今までは自分でパドルを漕いでポイントまで向かっていた。それが足を踏むことで進めるようになったというのは、確かに情報としては遅いものかもしれませんが、自分にとっては5Gの普及のように大事なことだったんです。なぜかというと、足踏みカヤックは、遠い存在にリーチする上で、全く新しい機動性を手に入れることですから。魚との距離を、一から再構築してくれるくらい新しい手段なんですよ。

──いま、僕たちはネットワークで無限に繋がっている。けれど、「釣り」というのはそんな無数に繋がっている糸から1本だけを選んで集中することでもある。しかもその釣り糸は他の人間につながるのではなくて、水面下の人間ではないものにしか繋がらないわけですね。

指出 そうなんですよ。その釣り糸が、僕にとっては強いんですよね。細い糸なんだけれど、強い、頼もしい存在というのかな。

──釣りの話をここまで掘り下げられて、非常に面白かったです。最後に、釣りらしい釣りの経験がまったくない僕が40代から釣りを始めるなら、どういう感じがいいでしょうか?

指出 宇野さんが毎朝のようにジョギングをされているのをFacebookで見ているので、自分の足で移動するような釣りがいい気がしますね。そうすると、渓流釣りがおすすめです。渓流を前に前に進んでいくと風景が変わっていくので、そういう瞬間に思わぬアイデアが浮かんでくることもあります。
 ただ、渓流釣りはなかなか最初は釣れないんですね。3年くらい続けないと自分の手応えとして「釣れた」というところまで到達しづらいので、その時間を費やせるのであれば、ではありますが。ちなみに魚を食べるのはお好きですか?

──食べるのは全般的に好きですけど、おいしければ何でも、くらいですね。

指出 じゃあ、渓流の中でもイワナ釣りがおすすめです。イワナのいる源流は、圧倒的に水が美しいんです。水循環で一番最初の起点となる場所を見ると、「森があるから水の循環も生まれているんだな」と如実に感じられる。エコロジーという言葉を使わずとも、「このきれいな水が、多摩川に流れ着くんだな」と想像することは、私たちの暮らしに関して、遠近両方の視点で見ることに繋がると思うんですね。
 ただ、最初から源流に行くのはハードルが高いので、最初は二子玉川で1日入漁券を買って、オイカワやウグイから攻めるのがいいんじゃないでしょうか。僕もご一緒しますよ。

──本当ですか? まったくの素人ですけど、ぜひともよろしくお願いします。

[了]

この記事は、宇野常寛が聞き手を、友光だんごが構成を担当し、2020年12月7日に公開しました。
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