本日お届けするのは、哲学者・下西風澄さんとファッション研究者・藤嶋陽子さんとの特別対談です。
「ファッション」への期待や身体をめぐる自意識は、現代の情報環境下でどのように機能している(してしまう)のか。自身の身体像に対する等身大の悩みから、数世紀規模でのファッションと身体の移り変わりまで、研究者の視点から語っていただきました。
端的に言うとね。
ファッションと実存とのかかわり
──現在PLANETSでは「遅いインターネット計画」という運動を約2年ほど続けており、「速すぎる情報の消費速度と、それを半ば強いるようなSNSのコミュニケーションがデフォルト化した情報社会に対して、どのように自分なりの距離感を測り直すか」という問題提起をし、これまで「書く」「走る」などの切り口からさまざまな発信を行ってきました。
今回は「着る」ということをテーマに、個人の欲望がネット上の広告やマーケティング戦略に特に利用されがちなファッションについて議論したく、Webマガジン「遅いインターネット」で連載中の「横断者たち」にもご登壇いただいたファッション研究者・藤嶋陽子さんと、ファッションスクールでの非常勤講師の経験もお持ちの哲学者・下西風澄さんとの対談を企画しました。はじめにお二人の簡単な経歴からお伺いできればと思います。
藤嶋 はい。私はファッション研究を専門としていて、もともとはミュージアム、ファッションショーといった空間メディアが果たしてきた役割の歴史的変遷を研究していました。最近では、下西さんも所属していた佐倉研(東京大学大学院情報学環・佐倉統研究室)の関連から、AIなど先端テクノロジーがファッションのような産業構造にどのような影響を与えるのか、あるいはそのなかでファッションに対する人々の欲望や価値観はどのように変化するのか、といったことも研究として向き合うようになったところです。下西さん、本当にお久しぶりです。
下西 お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。僕も簡単に自己紹介をすると、大学院の博士過程で哲学、特に現象学と言われる分野を中心に研究していました。意識や身体にフォーカスした研究、あるいは認知科学やAIといったサイエンスのほうからの身体へのアプローチも含めた融合領域に関心を持って研究をしていました。その中で、そういったテクノロジーは単なる技術的な問題ではなく、歴史の中で思想として紡がれてきたものだということにだんだんと気づき始めました。その後大学院を辞め、今は哲学史や文学史の中で、いま言った人工知能も含め人間の意識や身体がどのように形成されてきたのか、というようなことを執筆しています。
ファッションはまったく素人なんですが、もともと身体論や意識論といった領域を扱っていたこともあり、エスモード・ジャパンというファッションスクールで非常勤講師をしたり、山縣良和さんらの運営するファッションデザイナーの学校で講師や講評をする機会があったり、ファッションについて語る機会はこれまでにも少しありました。
──ありがとうございます。藤嶋さんは文筆家としても活動されていて、特に「見た目の多様性」をめぐる言説について独自の問題提起をされてきたと思います。「ボディポジティブ」のムーブメントを切り口に、一見マイノリティを尊重しているようにみえながらも、そこにはまた別の疎外感も生まれているんだという指摘が非常に興味深かったのですが、具体的にどんなことを扱っていたのか紹介していただいてもよろしいでしょうか?
藤嶋 この問題に対しては研究として向き合ってきたというよりは、自分自身が当事者として感じたところを出発点に、ご縁があって書き始めました。6年ほど前、私はダイエット真っただ中で、減量に加えて美容整形を体験したりと、ものすごく容姿に執着していました。その執着というのは、「きれいになりたい」という想いはもちろん前提としてあるのですが、それ以上に、容姿を磨くことにすごく労力をかけてきた自分に対する達成感と、それを認めてほしいという気持ちが強くあったんです。
こういった体験があって、「ボディポジティブ」のようなプラスサイズなど多様な身体をポジティブに受け止めようといったムーブメントの中で、自分が置いていかれてしまった気がしました。というのは、私は自分の容姿を変えるために必死の努力をしてきた分だけ、そのままの自分の身体像とうまく向き合うことができ、ポジティブに捉えることができる方たちが前面に出てきたときに、自分がすごく弱い存在であるように感じてしまったんです。かつて私が自分の容姿を受け入れられなかったのは、そうするだけのキャパシティがなかったからなのではないか、自分の醜い執着心だったのではないかと感じるようになってしまって。ボディポジティブのムーブメントは素晴らしいことだと思う一方で、自分の弱さを強く意識してしまいました。
そういった実体験があって、『現代思想』の特集「フェミニズムの現在」で書かせていただいたのは「容姿を変えることが救済になっている人たちもいるのではないか」「容姿を変えたいという願いそのものは尊重してもいいのではないか」ということです。容姿を磨くことが自分の人生の成功につながった人、それが生きがいになっている人たちもいるなか、「現在の容姿をありのままで受け入れる」と唱えることもある種の分断に繋がっているのではないかとも思いました。たとえばボディポジティブを題材とした歌の中でも、「スキニービッチ」といった言い方をして、容姿にこだわることやモデル体型であることを揶揄するような表現もありました。どちらが美しいのかという問題ではなくて、自分にとっての容姿との付き合い方や受け入れ方、それぞれの塩梅があるといった捉え方をしてもいいのではないかなと感じています。
下西 そういった問題について僕からは実存主義の観点からお話しすると、「ありのままなんてものは人間にはないんだ」というのがこの思想の出発点なんです。戦後のヨーロッパ、特にフランス・パリから広まった考えで、当時サルトルが言っていたことは「ありのままの本質なんてものはそもそも人間にはないんだから、自分で自分の生き方を選んで引き受けるんだ」というところから始まりました。
だから、自分の生得的な身体を実存として引き受けて生きられるのであればそれでいいんだけれど、なんらかの外部──資本やメディアによって与えられるものを内在化しようとするのであれば、それは権力や市場の側からみれば、ある種の収奪の対象になっている。たとえば容姿についても「こういう見た目が美しい」という外部から与えられた規範で実存を満たしていても、そのブームが去ってしまう、あるいは部分的にでも否定されてしまうと、そのことを肯定できなくなってしまう。身体イメージに限ったことではないですが、そういうふうに「いかに生きるべきか」といったことの自己決定権を他者に委ねることの問題が、副作用として生じているのではないかと思います。
また身体という点を深掘るならば、たとえばミシェル・フーコーは人間の身体というのは、常に権力によって形作られ続けてきたというふうに考えました。身体とは生まれつき与えられたものというよりも、いくらでも変容されうるものなんだと。身体はたしかに原初に与えられている。だから僕たちは、布団のなかで身を縮めているときも、世界の果てまで行くときも、あるいは海辺で美しい風景を見ているときも、どんなところにも行けるんだけれど、それはいつでもこの身体と共にでなければならない。身体からは絶対に離れることはできないということで、フーコーは身体を「過酷な場」というふうに言ったわけです。
しかし一方で、身体というのは、自らの意思で変容可能なものでもある。たとえば谷崎潤一郎が『刺青』という刺青師をテーマにした短編を書いていて、そこで描かれたのは、彫師が身体に「刺青」を掘ることで別の宇宙が刻まれ、その身体は別の場所に行けるんだというようなことです。だから身体というものは、与えられたものであると同時に、そこに別の宇宙を記述して変容していく自由度も持っている。谷崎を引用するフーコーは、場所に規定された身体と、非場所という自由を持った身体の両面を、また権力に規定される身体と、自らの意志で変容可能である身体の両面を見ていたし、おそらくファッションはこのあたりの問いに関わるものであるはずです。
そういう意味では、身体に何かを装うとか、変容させるとかいうことは、虚構をそこに作り出すことでもあるわけですよね。であるならば「ありのままの自分」がことさらに主張されるというのは、ある意味では虚構の衰退でもあるわけです。寺山修司は「女は化粧をすることによって、虚構によって現実を乗り越えようとしている」と言いましたが、「ありのまま」という考えは、人をこの唯一の現実に束縛することでもあります。そしてこの現実しかないということが逼迫感や閉塞感のようなものを作り出しているのだとすれば、それに対して別の形でそこに虚構をもう一度作り出すことで生き直すことができるのが人間の生き方の自由さでもあるはずで、それはフーコーが処方箋として主張していたことでもあります。「ありのまま」ということが、本当に「もともと与えられた身体」という意味であれば、人間は閉塞するしかないでしょう。だから、そこでいかにして別の宇宙にアクセスする可能性を持つのかという視点がないと、ファッションだけではなく文化というものは衰退していかざるを得ないというふうに思います。
藤嶋 昔、とある美容整形のCMが「あと1ミリわたしの鼻が高かったら世界は変わるかもしれない」というような表現をしていました。そこでは自分の環境がよりよくなる可能性を与える手段としての容姿があって、あり得たかもしれない別の自分の可能性、いわば下西さんのおっしゃった「虚構」への期待を煽るような形で刷り込んでいるのではないかと感じていました。
また最近Netflixで視聴した、片付けコンサルタントとして知られるこんまりさんの『Sparking Joy』という番組では、サイズの合わなくなった大量の洋服を片づけられない人が登場するのですが、それは単に「もったいないから」という理由ではなく、「いつかそれが似合う自分になれるかもしれない」という期待からでした。自分の中で思い描いている身体像、自分の可能性を手放したくなくて持ちつづけているのではないかと思いました。最終的には、こんまりさんの導きで大量に服を廃棄することで悩みが解決するんですが、それは自分自身の現状や現実を受け止めるようなプロセスでもあったのではないかと思ったんです。
つまり、過剰な可能性への期待が自分を苦しめていて、それを手放し現実的な自分を受け入れることが苦しみからの解放となる。でも一方で、「じゃあTシャツとデニムだけでいい」と開き直ったら、自分自身の可能性に感じる喜びや服を買うこと自体の楽しみといったことも手放して、逆に自分の欲望をふさぎ込むことになってしまう。そのバランスが難しいと感じます。
下西 さきほどサルトルの話をしたとき、自分の実存は自分で選び取るものだと言いましたが、僕はそれを全面的に肯定しているわけでもなくて。つまりこれは、かなり厳しい思想でもあるんです。果たして人間がどれだけ実存を自己決定し、その責任を引き受けられるだけの強い主体でいることに耐えられるかと言うと、僕は耐えられないと思う。特に、グローバル化やインターネットが常識になった現在では、一方で独立した主体の不可能性が即物的に加速すると同時に、それゆえ逆説的に主体であることの要請が増大して、その矛盾がますます強くなっている時代だと思います。強い主体になりきれない者たちが、過剰な商品や過剰な言説・コミュニケーションに接続することで、本人は一時的には救われます。でも他方で、それを管理する側からすれば、容易に人間の実存が消費のネタになるような状況が生まれている。自分の実存を必ず自分が決めなければならないというような強い意志を持つことは、逆に完成されない自己の傷口と隙間を生むことでもあって、何らかの自分の弱さが突き付けられてその弱さを補うためのものが現れれば簡単に依存してしまうような状況が起こりえます。だから僕たちは、自分で自分のことを完全に決定するというモデルそのものを考え直さなくてはいけない段階にあるのかなと思っています。もちろんそれは簡単なことではないですが、まずはそのことを認めることが最初の一歩になるのではないかと思います。
ファッションが指し示す「身体」の両義性
下西 そこで、僕がファッション業界の人たちと話すようになっておもしろみを感じたのが、ファッションというのは服だけの話ではないんだということです。山縣良和さんが話していたのは、日本語には「ファッション」の訳語はないんだけれど、中国だと「時装」すなわち「時の装い」というふうに訳されると。ファッションという言葉の語源は「fasces(ファスケス)」と言って、古代ローマ帝国で斧に木を束ねた権力の象徴物で、「束ねる」という意味を持っていました。そしてファッションと同じく「fasces」を語源として生まれたもう一つの言葉が「fascism(ファシズム)」です。つまりファッションは、一方では自分の固有の身体が持っているものの表現ではあるんだけれど、同時に不可避的に他者たちとの共生に開かれた/巻き込まれたものでもある。山縣さんはそれを「状況の前衛」だというふうにも言いますが、自分の身体はただ一個だけ宇宙の中にぽつんと存在するのではなく、さまざまなものへアクセスし、他者に伝播しながら作られているようなものだという発想が、自分にとっては発見で「なるほどおもしろいな」と思ったんです。
つまり、一人の人間に決められることはものすごく限られているし、一人の人間の個性とか生来的に持っているものなどは、それが接続している環境や文化全体に対してはるかに矮小であると。それをどういうふうに自分とは異質なものとアクセスさせたり混ぜ合わせたりしていくかという相互作用の中にこそ本当の表現が生まれているのであって、むしろ自分で自己決定しなければいけないという考えのほうが幻想であるということです。「ファッション=服」という考え方も、「この私」「この身体」で閉じられていると思い込むからそう考えられてしまうのであって、むしろこの身体を形作る膨大なコンテクストの一部として捉えるという発想もあるわけです。たとえば実際、ネットに自撮りがアップされているとして、それが全身像だったとしてもその人がほかにどんな人とかかわっているかとか、どんな活動をしているかといった全体を見なければその人のことはわからないわけですよね。ファッションはそういう意味で、単に一個の身体を纏う衣服ではなく、その人をとりまくさまざまな関係性や状況をふくんだ総合的な人間像の芸術でもあるわけです。
藤嶋 そうですね。ただ、現在は流れてくる情報が膨大で、その人の良い部分、良く見せたい部分ばかりが目に飛び込んできます。批評家のきりとりめでるさんが、近年の通販サイト、特に韓国系のアパレル通販ではモデルが自撮りしている風の写真が商品写真になっていると指摘していて、興味深い事象だなと思っていました。こういった写真をSNSで提示されつづけると、高度にイメージコントロールされたものがリアリティを装っていく。以前、下西さんがTwitterで「SNS上で見る広告は人の欲望を引きずり出してくるようなものだ」とつぶやいているのを見て、まさにそうだなと思って。
下西 そのとき考えていたのは、資本主義はフロンティアを求めつづけた挙句、人間の内面にある欲望までを市場とみなすようになってきたわけですが、それが過剰なところまできているな、という実感でした。ネットと手を取り合った資本主義、というのが現代では最強の人間を囲い込む環境になっているわけですね。
藤嶋 ファッションは、人間の欲望と分かち難い。そしてマーケットを成立させるためには、その欲望に罪悪感を抱かせないようにパッケージを用意することもあります。米澤泉さんが『「くらし」の時代』で「エシカルである」ということをブランディングとして利用する事例を扱っていましたが、自分の価値判断が揺さぶられて、自分なりの塩梅や距離感が見出しにくくなる。こういった大きな商業的な構造やサイクルと、どういうふうな距離をとるか、向きあうかといったことを考えることが必要だと思っています。
──下西さんが先ほどおっしゃった本来の意味での「ファッション」、自身をとりまくさまざまな関係性の総合としての「ファッション」が、現代の情報環境下では機能しにくいということですよね。この点をより掘り下げてみたいのですが、「開かれた身体」としてのファッションについてもう少し具体的にお聞きしてもよろしいでしょうか。
下西 僕はたまに「ここのがっこう(coconogacco)」というファッションスクールでデザイナー志望の方々に講評をすることがあるのですが、たとえばその中で、ある学生さんが自分の顔にすごくコンプレックスがあるということでたくさんの仮面のような顔のマスクを作ってきました。でも、単に「自分の考えの表現としてそれを作りました」というところで終わっているのでは先に進まないなと思うところもあります。
というのは、当時はちょうど香港でデモが盛り上がっていた時期でした。香港警察はAIの顔認証システムを使って個人を特定しようとカメラを市民に向け、逆にデモ側の人たちはレーザービームをカメラに向けてAIに誤作動を起こさせようとするとか、それこそマスクで顔を隠すとかして「顔のアイデンティティー」をめぐる熾烈な攻防が行われていました。つまりここでは「顔を隠す」ということの意味がまるっきり変わっていて、たとえばある人が自己の固有のコンプレックスの表現として作ったものでも、それが社会の中に放り出されたときにはまったく別の意味を持ちうるということです。こういう問題に対して、自分のかけがえのない実存的な問題と、本当に顔を隠さなければいけないような人たちとの共通言語を作っていくことによって広がりが生まれるのではないか、一人で閉じることができないということがファッションの意味なのではないか、というような話をしました。
さきほど虚構が弱くなっていると言いましたが、別の言い方をすればそれは現実のほうがよりラディカルになってしまっているということでもあります。たとえば誰かが「マスクがおしゃれだからみんなもしよう」と言っても絶対着けなかったのに、コロナ禍になった瞬間にファッションが一気に変わってしまった。そういったラディカルに変化する現実に対してどうアクションするかということを考えることで、「作る」ということを通して自分と世界が結びつくような経験が生まれるのではないかなと思います。
あるいは他者の身体といかに接続するかという点で言えば、僕は以前、中世日本のファッション史の下地について論じたことがあります。たとえば平安時代には検非違使庁という刑罰を執り行う組織があって、その中で罪人の処刑を職務とする放免という刑吏たちは異形な格好をしていました。臓物で染めたと言われる派手派手しい摺衣という服を着ていたり、すごく長い七曲がりの杖と言われるような杖を持っていたりして、かなり異質な存在だったんです。
あるいは琵琶法師と呼ばれた人たちは、榧の木の杖で魂を黄泉に還す存在であると信じられていて、そこには呪術性が宿るという意味でモノの力がありました。彼らはその血筋や思想やコミュニケーションによって神秘性を得たり、他者たちと結びついていたのではなく、その衣服、杖、琵琶など、モノそのものに宿る力によって、あるいは剃髪や盲目の瞳といった身体そのものの異形性によって、神秘性を示し、人々を魅了していました。人々は彼らの言葉や態度ではなく、モノや身体を通じて、この世ならざる非現実の世界にアクセスしたのです。おもしろいのは、彼らは被差別民でもありながら神聖な存在ともみなされていて、たとえば放免のファッションはだんだんと、つぶてや博戯といった、今で言うヤクザのような人たちの間で流行りだしたんです。そこからだんだんその服を禁止するような法令が増えてきて、一方ではその網目を縫うように子どもが着たり、地方の反権力的な人たちが着たりして、最終的には婆娑羅大名という人たちの間で流行する。それが南北朝の動乱から幕府の転倒にまで影響があったのではないかというようなことを書きました。こうした現象は、過去の歴史の一過程とはいえ、不具の身体という逃れられない自己固有の生と、差別や権力という社会規範の中間領域で形成された興味深い身体の表現です。彼らにおいては、隠された内面ではなく、外部化されて目に見える、物質としての衣服や身体こそが、いわばコミュニケーションや思想の媒体として機能したのだと思います。
そういった、モノや身体が持っている呪術性を解放することは現代でも可能だと思いますが、それには、異質性を許容するような社会でないと難しくて。決定的に異質な存在であった放免や琵琶法師、その人たちのまとうものが持っていたある種非現実的な力──それは虚構によって現実を書き換える力であり、別の宇宙をこの現実に到来させる力でもあります──さえも受容する感性が大事だと思っているのですが、現代は逆に異質なものが出てきたときにはそれを均すようなコミュニケーションのモードのほうが強くなっている気がしています。異質なものを否定して排除しようとすれば、必ず地下に潜伏するか無意識に抑圧して病理化すると思います。そうではなく、自分が受け入れられないものとどういうふうに対話するかといった感性を育てていくのが文化の役割で、とりわけファッションというものはそういったものを肯定する力があったはずです。
「異形」なものたちの居場所
藤嶋 下西さんのおっしゃることにはすごく賛成です。一方で、私の普段みている「ファッション」は商業的な部分なので、受け入れ難いもの、馴染みにくいものが現れたときに、ファッションはそれを肯定した先に、新鮮さをもたらすものとして消費してしまうところもあるとも思うのですが。ファッションの軽やかさ、軽薄さというか、受け入れやすいものにして消費する。なので下西さんが言う異質な存在にとっての居場所を残すような機能を果たすことが、どこまでできるのだろうかと疑ってしまうところもあります。
「本当にこのまま10年20年と続く新しい価値観にしていくことができるのだろうか」「せいぜいここ5年くらいのトレンドで終わってしまうのではないだろうか」というようなことを考えてしまいます。「ファッショントレンド」という強いサイクルがあるなかで、どういうふうに実現されるのかと……。
下西 僕も別に、いま婆娑羅のような明らかに反社会的な人たちや異形性を召喚してそれを受け入れろと言っているわけではないし、異形なものというのは見た目の派手さだけを意味しているのではなく、未知なもの、不確定なもの、偶発的なものたちのことです。「自分に受け入れられるものだけしか受け入れない」というような発想は、結果として自己を苦しめるのではないかということです。別の言い方をすれば、免疫がつかない。それこそウイルスも元々は人間の細胞を進化させるのに寄与していたのに、少しでも人間に害を与えるとわかった瞬間に完全な除菌を施して、本来あった生態系を完全にクリーンにするような思想に一気に変わってしまう。そういうふうに過剰に自己防衛的になるのではなく、自分が認められる「多様性」ではないような異質な多様性と、どう共生していくかという倫理やコミュニケーションのあり方を形成していくべきではないかということです。もちろん僕は実際のマーケットの構造などには踏み込めないので、あくまでも精神のあり方のような領域に限定した話ですが。
ただ「共生」と一言で言ってもお互いが中和するような形ではなく、それぞれの性質を維持したまま区分けされて、それが偶発的に混ざり合うくらいのあり方のほうがいいかなと思っていて。たとえばTwitterでは本来リアルの場では出会わなかったような人たちが、プラットフォームが一元化し強制的に同じ土台に乗せられたことで、逆に派閥化が加速して不毛な争いが起こるという状況になっているので。
藤嶋 私がボディポジティブに対して抱いていた違和感はそこだったのかもしれません。SNSを介したあるムーブメントのエンパワーメントには功罪があるというか、自分を侵食するようなものに思えてしまいます。半分ではその価値観を良いと思っている自分もいるけれど、もう半分はそこに乗り切れない自分がいて、答えを迫られているように感じてしまう。そういう自分の分裂的な状態もそのまま保留できるというか、流動的なあり方も許容できるようになればいいな、と思います。
下西 それはネット全体の問題でもあるけど、冒頭で紹介したサルトルの言うような、自分で自分の意思を自己決定するというのは結構過酷で大変なわけですね。それに耐えきれない人たちにとって、自分の代わりに選択と意思を供給しつづけてくれるシステムがインターネットになっているわけですが、それは悪魔のささやきでもあって。無限に自動供給してくれるものに身を委ねてしまえばたしかに幸福になるんだけれど、それは宗教と違って何の歴史の保証もないし、気づいたら収奪されているというようなことにもなりかねない。
「あなたは何者ですか」とわざわざ突きつけて、「何者でもないでしょう、あなたはこの人ですよ」と提示するような、ほんとうに宗教に似たようなシステムになってきていて、元々そこまで問題を抱えていなかった人でも絡め取られてしまうことがある。その治療法として「多様性」というワードがサプリメントのように使われるのはすごくまずいだろうなというのが僕の感想です。多様性と言うときに、本当に異質な人がいてもいいんだという場所を作っていくような思想を、少なくともリベラルの人たちには守ってほしい。今はそれがむしろ逆転しているところもあるくらいで、「多様性」の名のもとに包括しようというような動きがインターネットを通じて行われているわけだけれど、そうではなくて、変な奴がいてもいいんだということを受け入れる。たとえば宮崎駿が『もののけ姫』で「自然」を描いたのは、単なる森は大事だといったエコロジーの思想ではなくて「自然というのはいざとなったら人間を殺しにくるものなんだ」という話でもあるわけですよね。自分にとって危険なもの、ときには自分の命を脅かすような受け入れがたいものと共生する感性をいかに形成していくかということが大事だと思います。なぜそういうものを安心して受け入れられないかと言うと、何かのフレーズに委ねないと生きていけないという自分の主体の弱さからくることでもあるので、それを無理に強化して強いものとして生きるのではなく、半分は何かに寄りかかりながら、でももう半分では弱い自分を受け入れられるような生き方はないだろうか、と。
僕がファッションの世界へ期待するものといえば、「ままならない生」のようなものを抹消するのではなくその存在価値を許容することであって、それがファッションの人たちの素晴らしい仕事の一つかなと思っています。弱いものを急に強くしようとする、あるいは強く生きようとすると、侵略戦争に突入した日本や一気にトランプに傾いたアメリカのように、短期的なカタルシスに暴走し、それを無意味に繰り返すことになりかねないので、弱いものが弱いままに生きれるような、あるいはそういうものを受け入れられるような生き方を、肯定できるような思想や文化ができたらなと思います。
藤嶋 今日の下西さんのお話を聞いて、自分自身がファッションのマーケットに引き込む力の大きさや、そこでの理想と産業としての存続のバランスの難しさに対して、少し諦めのような気持ちを抱いていたのかもしれないと、はっとした部分もあります。鮮烈なインパクトを持つデザイナーの作品もあれば、そこから私たちひとりひとりが生活のなかで手にするものまで、広く、ゆるやかに繋がって存在することがファッションの面白さでもあり、その豊かな可能性に対して、もしかすると部分的にしか捉えられていなかったのかなとも感じました。
下西 それは僕が数百年前のことばっかり考えている人間だからというのもあるけど、でもマスに関心がないわけではなくて。むしろ、大衆やマスマーケットの一見表層的に見えるものの中にどういう欲望があるかというものを見せることも、現場の近くにいる研究者だからこそできる立場だと思います。大衆が抱えている潜在的な欲望は、実はラディカルな人たちとはまったくすれ違っていることもありますよね。だから、大衆がどうして異質なものを受け入れないのかとか、なんでみんなと一緒になりたいのかとか、どちらかと言うと僕はむしろそういうことに関心があって。大衆がもし自らの欲望を市場やメディアに委ねざるを得ないのであれば、それを動かしている力学は何で、どういう歴史性や思想性、あるいは経済原理のなかで形成されているのか、その巨大で複雑なゲームを読み解きながら、そこに参加したりときには離脱したり、ズラしたりといった知的でクリティカルな態度も重要だと思います。逆に言えば、そういうマスの現実に対する冷静な認識がないと、虚構の力は単に市場を補完する新たな養分として吸収されていくだけになると思います。だから、大衆の欲望を見たりマーケットに近づいたりすること自体は全然変なことでもなくて、その中にある欲望を取り出すことに面白みがあるのではないかなとも思うので、藤嶋さんがいま諦めの中にいるのであれば、その正体が一体何なのかということはぜひ見せていってほしいなと思います。
(了)
この記事は徳田要太が司会・構成を、中川大地が司会を務めPLANETSのメールマガジンで2021年12月1日に公開しました。あらためて、2022年1月13日に公開しました。
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