散歩動画を探すための100万人以上の都市マップ(※PCからのアクセスで検索可能)

じっくりと増えてきている「散歩動画」

 ここ数年の間に、主観視点で撮られた無編集のYouTubeの散歩動画のアップロード数がゆっくりと増えてきている。100万人以上の都市部であれば、世界のほとんどの地域で、その風景をYouTube経由で散歩しているのを見ることができる。アフリカや、アジアの貧困地域では、やや動画が見つかりにくい地域もあるが、それでも世界の大半の都市風景が動くところをたちどころに見ることができるようになってきている。風景を見るだけであれば、Googleストリートビューでも見ること自体はできるが、都市の人々が、動き、生活するその様を高解像度で確認することができる。世界遺産も見ることができるし、日本に限って言えば、急行の停まるような駅ならだいたいの駅周辺の風景が収められている。
 こうした動画が急増しつつある背景には、手ブレがほとんど気にならない高解像度の屋外映像が、簡便に撮りやすくなってきたことがその一因にある。2020年前後の段階で、iPhone 11 Pro MAX以後のPro MAXシリーズや、Osmo Pocketシリーズ、GoPro、Sony ZV-E10などといったおよそ3万円~10万円強ぐらいで手に取れる屋外撮影に適した小型カメラの選択肢が揃うようになってきた。


▲YouTubeビデオを前に歩く

 これらの動画は、とくに何か劇的なことが起こるわけではないのだが、ものによっては数万、数十万の再生数になっている動画も少なくない。誰がどのように楽しんでいるのか、その全貌はいまひとつよくわかりきらないところがあるが、私個人としては、散歩の動画を映し出しながら、同期して、画面の前で足踏みするというのが面白いよ、というのを広めている。特に、画面の前で足踏みをしながら、友人や家族など誰か親しい人と数十分ほど一緒に歩くと、あたかもその土地に旅行にでも来たかのような気分を味わうことができる。
 去年から、ちくちくと動画を探して、おすすめの散歩動画の一覧も作った。コロナ禍のなかにも関わらず、サマルカンドや、ウイグル、ジャマイカなどの世界の都市風景に親しみを感じるようになってきた。

暴動とデモの境を歩く

 こういった動画は、単にさまざまな都市の風景を観光的に記録するだけでなく、その地域の重要な時間も記録している。
 この文脈でさまざまな動画を探し歩いているのだが、特に印象深かったものの一つが、2020年のBlack Lives Matterのデモ隊に参加した人の動画だ。抗議活動の風景をそのまま歩きながら主観視点で撮影した無編集の動画がYouTubeにいくつもアップロードされている。


▲「protest 4k walk -vlog」でYouTubeで検索をかけた結果

 私は、その動画を大きなモニターで映し出しながら、デモ隊と供に数十分の道程を歩いた。
 最初、デモ隊は、警察の庁舎を抗議活動に参加した全員で取り囲むことを目標に据えて、行進は、おだやかに開始される。「Black Lives Matter!」「Black Lives Matter!」の掛け声とともにデモは進む。
 しかし、十数分したところで、デモ隊は数十人の警察官によって行進を制止させられる。警察官の指示によれば、この先を直進せずに、左に曲がれという。警察からの要請は「左に曲がれ」それだけだ。
 その要求を聞いたデモ隊の人々は、急速にざわつきはじめ、デモ隊に参加している黒人の男性が、悲痛な表情とともに警察に対して絶叫をはじめ、デモ隊の他のメンバーが彼に説得をはじめる。
 それまで、平和的に歩いていた人々の行進が、たった3分で急激に雰囲気が変わり一触即発の空気が流れる。他の地域でのこの抗議活動ではすでに死者も出ているときだ。
 現場の空気感は、この抗議活動が平和なデモとして終わるのか、それとも暴動と見分けのつかないようなものに変わりうるのか、そのぎりぎりの瞬間を映し出す。


▲ざわつきはじめるデモ隊(出典:https://www.youtube.com/watch?v=tdo2_0affNU〈2021年11月5日閲覧〉)

 デモの参加者たちからは、警察を罵る絶叫をする人間が現れ、警官隊も、このデモが暴動に発展したとしても対処ができるように、陣形を組み始める。
 数分ほど、何人かのデモ隊参加者からの絶叫が続く。供に歩いていると、直接的な暴力による衝突が発生するかと思われる雰囲気に飲まれそうになる。その場で、必死の形相をしている人々を前にして、この場でどう動くべきか、ということを考え始めようとしている自分に気づく。実際は、その場にいるわけでもないのに。
 その後、しばらくしてデモ隊は、警察の要請どおり、ルートを変更して左折しはじめる。ぎりぎりのところで、このデモ隊は暴動には発展せずに、デモ隊も、警察もともに際どい雰囲気のなかをどうにか終わらせることに成功する。 
 結局、この動画では、直接的な衝突は起こらない。
 緊張感のある場面はあるものの、この動画は、暴動という事件が起こらなかった動画だ。

 一方で、直接衝突が起こるまでを撮影した動画も、数多くアップロードされている。2020年の香港の抗議活動、2018年のフランスのイエローベスト運動の動画では暴動にまで発展した映像を見ることできる。今年のミャンマーのクーデターに対する抗議デモ、昨年のインド農民デモなど、さまざまな抗議活動と供に歩く動画をYouTube上で見ることができる。
 また、デモといえば、左派リベラル的な活動というイメージが強いと思うが、「protest walking」というキーワードで発見できる抗議活動の動画の種類は、かなり多様だ。たとえば、反ワクチン運動の抗議デモは、世界のさまざまな国で見られるが、ヨーロッパ各国やアメリカでの反ワクチン運動の主観視点動画もアップロードされており、各国の反ワクチン運動の担い手たちの顔ぶれを確認することができる。
 直接的な暴力を行使した動画は、もちろん多くの再生回数を稼いでいるが、興味深いのは、結果として何の武力衝突も起こらなかったような抗議動画も、数十万以上の再生数を稼ぎ、大きな注目を集めているということだ。

「何も起こらないかもしれない」映像を見ること

 「動画と供に歩く」ことの持っている緊張感は、ドキュメンタリー映画のそれとは異なったものがある。
 抗議活動を主題に据えたドキュメンタリー映画は数多くある。成田空港建設をめぐる機動隊と住民・運動家たちの衝突を撮った「三里塚」シリーズや、近年の政府へ抗議活動を撮った映画としてウクライナの政権転覆にまで結びつくまでの抗議活動の急速な拡大プロセスを撮ったドキュメンタリー映画『Winter on Fire』、香港の抗議活動を主題にした『ジョシュア』など多数の作品があり、大きな注目を集めた作品となってきた。
 これらの作品と比べたとき、抗議活動を主観視点で撮影した無編集動画(下記、「抗議動画」と略す)と供に歩いたときに得られる体験は「単に手間のかかっていない作品」とは言いづらい魅力にあふれている。

 編集されていない抗議動画は、何か事件が起こるのかもしれないし、事件が何も起こらないのかもしれない。良くも悪くも抗議動画の映像は「事件」の発生を保証していない。「何も起こらないかもしれない映像」の存在は、映像作品を見るという作法のなかでは、受け入れにくいかもしれないものだ。通常、映像作品は、読者に何かしらのインパクトなり、娯楽なりを提供することを暗に前提としている。しかし、YouTubeにアップロードされた抗議動画は、ものによっては単に平和な抗議活動が繰り広げられるだけに留まる。
 その有り様の違いは、登場人物の顔の撮影角度にも見られる。ドキュメンタリー作品では、しばしばカメラに向かって顔を向けているシーンが多く取り出されているのに対して、YouTubeの抗議動画の登場人物たちはカメラに背中を向けているか側面から撮影されたシーンがほとんどである。
 そして、ドキュメンタリー作品で撮られた「現実」を解釈するよりも、抗議動画で撮影された「現実」は、解釈の仕方がいっそう難しい。映像内で起こっていることが、どういった文脈のなかで、どのような意味を持ちうるのか? ドキュメンタリー作品であれば、文脈は説明文で補われ、映像は順序立てて提示される。そのため、映像内の文脈を解釈することはそこまで難しくない。
 しかし、抗議動画の中で起こることの解釈は、無理に何か解釈しようとしても、それほど意味のないことのほうが多いだろう。実際の時空間のなかで、普通の人々が行う行為は、ほとんどのタイミングでは、劇的なことは起こらない。抗議動画を「映像作品」として、鑑賞するのは、かなり難しい。こういった抗議動画を見るという体験は、衝撃的なドキュメンタリーの映像を見ることと比較したとき、退屈な、劣った体験だと思う人は少なくないだろう。
 抗議動画は、主観視点で撮られた無編集の動画のなかではまだ何かしらの事件らしきものが起こるほうの動画だ。単に観光地を散歩しただけの動画や、どこかの駅周辺を散歩しただけの動画などは、本当にたいしたことは何も起こらない。その土地の風景が流れるだけの、観光の動画だ。こういった、「何も起こらないかもしれない」映像を見るというのは、一般的な映像作品と比較して見ようと思うと、ちょっと耐えられない体験になってしまうかもしれないものだ。
 しかし、こういった動画の視聴回数は、ときには数十万を優に超えており、決して「つまらない」「劣った」動画ではないのだ。

 これは「見る」ということに対する態度の問題だというように整理できる。
 たとえば、ゲームの映像を見るときのことを考えてみてほしい。ゲームを遊ぶことは、時に劇的なことが何も起きない映像を数時間にわたって見るという行為だ。たとえば、『Minecraft』のような作品で、淡々と掘削をしているときのことでもいいし、『ポケットモンスター』でレベル上げをしているときのことでいい。「ゲーム実況」を見る人であれば、ゲーム実況動画を見るときのことを考えてもらってもいい。そこでは、劇的な何かは起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。プレイヤーの遊び方によって、それは大きく変化することもあるし、しないこともある。むしろ、何も起こらなかったことに対してホッとすることすらある。ゲームを遊ぶときの映像を見るときに生じている「期待」のあり方は、劇的な事件が起こることを必ずしも期待しない。このとき、オーディエンスないしプレイヤーは、何も劇的なことが起こらないことを許容しうる存在になっている。
 多くのTV番組や映像作品、あるいはインターネットの炎上のあらましを知らせるニュースは、劇的な場面を届けるという形で最適化され、制度化された存在となっている。それらは、「何かが起こることを前提とし、何かが起こることを期待させるメディア」だ。そのように制度化され、作り手と受け手の双方が「何かが起こること」を期待しているメディアにおいては、何も起こらないことを是とするものを作ることは、不可能とも言っていい。
 もちろん、ゲームを遊ぶとき、あるいはゲームを遊んでいる実況動画を見るとき、プレイヤーやオーディエンスの頭のなかでは意識が散っているわけではない。
 少し敵が強いエリアに行ってレベル上げをするときは「何かが起こるかもしれない」ことにビクビクしながらゲームをしているわけだし、ゲーム実況を見るときは実況者のキャラの面白さを味わうことに意識がいっているということもあるだろう。その結果として、「何かが起こる」ということがなくとも、結果としてプレイヤーやオーディエンスの体験自体は満たされる。
 「現実」が文字であれ、映像であれ、何かしらの媒介を通じて伝えられるとき、それは何かしらの強いインパクトを持ちうると思われる情報をベースとして伝えられる。そのような情報でなければ、情報の受け手は、ふつう、その情報をどのように処理すればよいのかがわからなくなりがちだからだ。
 しかし、すでに確認してきたように、「見る」というモードにおいて、我々は必ずしも、劇的な事件を経由せずとも、映像と向き合うことが可能だ。

何が「現実」の追体験なのか

 また少し話は変わるが、私はこの6年ぐらいの問題意識の一つとして、ドキュメンタリーのような「現実の記録」をベースにしたものをゲームというメディアで実現することはできないだろうか、と考えてきた。ゲームというメディアが、社会的に軽い扱いを受ける理由の一つは、このメディアが単にエンターテイメントのみのメディアとしてのみ見られ、ドキュメンタリーや、ニュースのような「現実の記録」をもとにしたものを構築しえない側面がある。
 そのために、Wikipediaの「地方病」の項目を『ひぐらしのなく頃に』を読むようなインターフェイスで読めるようなものをつくってみたり、いくつかのシリアスゲームをつくってみたりしてきたのだが、なかなか典型的な「ゲーム」というメディアのあり方そのものに馴染ませるには、難しい。
 実際の歴史をテーマにして扱った作品自体はあるにはある。第二次大戦後のノルウェーにおけるナチスの優生政策の結果、強引に産み落とされた子供を養子として育てながら差別と闘う『My Child Lebensborn』、旧ユーゴの紛争の銃後の悲惨な生活を体験させる『This War of Mine』、イラン革命を描いた『1979 Revolution: Black Friday』、ナチ政権下におけるチェコでのレジスタンス運動を扱った『Attentat 1942』などだ。
 特に、『Attentat 1942』は、実際の戦時中の映像を部分的に用いつつ、ゲーム内に挿入される映像もドキュメンタリー的な雰囲気を作ろうとしている。記録映像をどのようにして、ゲームというメディアの中に混ぜ込んでいくかという意識が強く感じられる作品になっている。ただし、残念ながら(?)これらはいずれも歴史をテーマにはしているが個別のエピソード展開自体は、かなりフィクションを交えて描かれている。
 やはり、〈現実の記録そのもの〉をゲームに変換するということはとても難しい。何より、現実の記録というのは、一つのあり方でしか展開しない。あたりまえのことだが、そのことが、とにかく「ゲーム」というメディアと相性が悪い。選択肢を作って、Aを選んだら戦争が回避できて、Bを選んだら戦争がはじまり、Cを選んだら……といったような選択肢のバリエーションを提供することはできない。実際には起こってしまった戦争を起きなかったことにするのは、歴史をテーマにしたフィクション作品であって、ノンフィクションの作品ではない。それゆえ、「プレイヤーの努力に応じてゲーム内の展開が変化する」という条件を備えた、ノンフィクションのゲームというのは、かなりアクロバティックなゲームデザイン上の発明を考えないことには難しいだろう。
 「現実そのもの」は「ゲームらしいゲーム」にはなりづらい。それゆえ、ゲームというメディアは、ドキュメンタリー映画やノンフィクション小説のようなものの後塵を拝するしかないのではないか、と考えていた。
 しかし、先述した点を含めて、よくよく考えてみれば、事態はまったく逆なのではないだろうか?

 つまり、ドキュメンタリー映像や、ノンフィクション小説によって描かれる「現実」、あるいはインターネットの炎上を通して伝えられる「現実」のほうが、現実の簡便な写し絵としては、様々な制約の下にあり、粗雑な描写を強いられるものになっているのではないか、ということだ。「現実」を題材としながらも、「劇的なもの」にフォーカスをあてることでしか成立しえないのであれば、それは「現実」のうちのごくごく一部しか切り取ることのできない、不便なものだ。
 YouTubeの散歩動画とともに、その風景を歩くとき、先述したように我々は、「劇的なことが何も起こらないこと」を許容しながら、映像と向き合うことができる。もちろん、「YouTubeの散歩動画」とともに足踏みしつつ、誰かと話すという行為が、ゲームらしいゲームかと言われると、正直、それは微妙なところではある。何かしらのインタラクティブな体験の一種ではあるが、プレイヤーの努力に応じて、なにかの報酬が変わるというわけでもない。しかし 「ゲームらしいゲーム」にこだわらなければ、そこには未だカテゴリー化されていないタイプの映像との向き合い方が存在している。
 「劇的な事件」がなければ、何かを見続けることができないという現実との対峙の仕方は、一見、人を興奮させる、魅力的なもののように映るかもしれないが、その「劇的」であることにあまりに強く制約されてしまうのであれば、それはひどく不自由なことだ。
 この主張は、メディアの歴史を考えれば、決して突飛な主張ではないだろう。「読む」という行為の暗黙の前提が、音読ではなく、黙読を意味するようになったのも歴史的に徐々に進行してきた事態だし[*1]、映画を「座って」見るようになったのも、徐々に見るという行為の制度化が進行していったゆえの産物である[*2]。
 「見る」という行為が、インタラクションを排除する行為として通用するのが普通になってきたのは、近現代的な、「見る」ことの制度の誕生に依っている側面がある。
 「見る」ということを成立させる周辺環境を多様に設計しなおすことが可能になった現在において、見るという行為のなかに、かつて排除されたインタラクションを再度、挿入しおなされたとしても、それは、決して不思議なことではないだろう。

抗議動画・散歩動画の多層的な「没入」を可能にするもの

 最後に、「劇的な事件」に依らない抗議動画や、散歩動画のような没入がなぜ可能になっているのか、もう少し細かく、我々の意識のありようという観点から説明してみたい。
 簡単に言えば、これは我々が何かを見たり、読んだりするときの意識のあり方が、単一ではなく、多層的であるためである。「集中して何かを見る」という視聴スタイルを考えるのならば、そこで巻き起こることには何かの事件性がなければいけないが、「今まさになにかが起こる」という映像でなくとも、映像に関わる意識の流れが何かしら機能していれば、映像で起こっている「今まさに」の中身はたいしたことでなくてもよい。
 たとえば、RPGなどでのレベル上げのような作業を考えてもらえると良いのだが、レベル上げの作業をするとき、「はやくレベルが上がれ………!」ということだけに注視しなければいけない構造になっているとレベル上げの作業は苦痛である。実際、30年ぐらい前のRPGのゲームデザインだと、レベル上げは、それなりに苦痛だった。しかし、RPGの設計が洗練されていくにつれ、ゲームプレイヤーが、目の前の敵と戦いながら、中長期のゲームの流れを考えるような並列的な思考を要請するような設計のものが増えた。10分~30分程度の中目標として機能する「クエスト」のことを考え、キャラの育成計画を考え、数秒ごとにフィードバックが返ってくるような戦闘に参加したり、AIまかせで戦わせたりという形で、短期から中長期に至る戦術・戦略の並列的な思考の流れがプレイヤーに促されるような仕組みを作り上げてきた。
 これは、RPGでなくとも、『Minecraft』的なサバイバルのゲームでも、ストラテジー系(シミュレーション系)のゲームであっても、しばしば見られる構造である。
 こういった形で並列的に複数の側面にプレイヤーの注目がいく状態を構築しながら、それをネガティブで忙しすぎる刺激ではなく、ポジティブな刺激として解釈されるような状況の枠組みを構築できれば、これにやや近しい体験は成立する。
 YouTubeでの散歩では、足を動かして「散歩」しながら、「映像の内部に注目し」「会話をする」という形で、複数のことを同時に行いつつ文脈を調整することでこの体験は可能になっている[*3]。なお、筆者の講義でも受講者に、ZOOM越しに数人の小グループをつくってもらい、散歩動画を歩いてもらったのだが、当初は、初対面同士の会話のグループで、かつ「授業」という状況だと、ポジティブな刺激としての文脈付けをするハードルが高くなる傾向が見られた。この問題に対応するため(1)グループの誰かが任意の土地の散歩動画を見つけてきて、(2)土地の名前を隠した形で、その動画をグループの他のメンバーに提示し、(3)その動画が世界のどこのものかを推測してもらう、推測ゲームをアイスブレイクとして遊んでもらうようにすることで、若干雰囲気は良くなった。
 とは言え、基本的には、一緒に旅行に行ってもよい程度に、仲の良い相手同士で楽しんでもらわないことには、ポジティブな刺激として解釈するのはやや難しいかもしれない。

 なお、本稿の議論をわかりやすくするため、「劇的な事件」を映像メディアは扱いがちであるという話をここまでしてきたが、正確に言うならば、事件のほとんど起こらないTV番組などは今まで、存在はしてきた。『笑っていいとも』や『水曜どうでしょう』『ブラタモリ』はそういった事例として挙げられるだろう。ざっくりと言えば、こうしたTV番組は、芸能人という「キャラ」への注目を基底に据えることで、ゆるい雰囲気であっても映像を見続けることができるような工夫がある。


▲見るという行為を成立させている要因の整理

 ただ、「TV」の限界は、やはり、そのコンテンツ制作のバリエーションに限界が伴うことである。YouTubeの散歩動画は、世界中のさまざまな場所と時間を記録し、「観光」以上にその場所の特殊性の一端をゆったりと見せつけてくれる。
 リオデジャネイロや、ヨハネスブルグの危険区域から、人がほとんど寄り付かないような田舎の風景、その土地の人間にとっては観光地としての価値を見出しにくいような世界中の住宅地の風景を見ることができる。そして、ときには祝祭や、抗議活動のような一回限りのタイミングが記録されている。
 現在では、こういった動画の撮影には、機器のセッティングを意図的にしなければならないが、数十年後には今の車載カメラ並か、あるいはそれよりももっと簡便な形で撮影の仕方が変化していく可能性が高い。「常時、日々の映像がライフログとして記録される」という世界が、スマートグラスなどの普及とともにやってくる未来は、やがてやってくるだろう。
 そのとき、我々は「事件」をキーにしない形で現実を捉えるための作法をもう少し身につけることができていれば、と思う。

[*1]「黙読は、まず古代末期のキリスト教徒たちのあいだで姿を現わし、七世紀から十一世紀までのあいだにまずブリテン島の修道院、ついで大陸の修道院の筆写室に伝播し、十三世紀には大学やスコラ学者たちに広がり、その一世紀半後には世俗の貴族階級にも普及したのではないか」R・シャルチエ著/福井憲彦訳『読書の文化史 テクスト・書物・読解』(新曜社、1992 p.43)

[*2]「この新鑑賞システム「毎回定員入替制」とは、要するにすべての観客に座って映画を楽しんでもらおうという試みである。ところがこの新システムは、導入からわずか一か月後、時期尚早と判断され撤廃を余儀なくされる。同じく地元紙広告によれば、「さきにゆっくり娯しく映画を観て戴くために定員入替制を断行大方の御好評を得ましたが同入替制による時間拘束が皆様の余りにも御多忙なる御日常にマッチしない場合がありいま一歩のうらゑがありましたので研究の末更に進歩的なる自負のもとに定員交流制──即入替なしの定員制──なる理想的新システム」へと再度変更されるのである.」加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006 p.266-267)

[*3] 本稿の内容に比較的近い議論をしているのは、ラウラ・エルミとフランス・マユラ「ゲームプレイ経験の基本要素──没入を分析する (Fundamental components of the gameplay experience: Analysing immersion.)」(2005)だろうか。ゲームのプレイ経験とゲームへの没入を「多次元的現象」捉え、感覚的没入 Sensory immersion、フロー体験的な没入 Challenge based immersion、小説などでも見られるフィクショナルな没入 Imaginative immersionなどと分解して捉え、こうした複層的な没入が、ゲームのメカニクスと、プレイヤーの主観的な経験を媒介するというSCIモデルを立てている。

[了]

この記事はPLANETSのメルマガで2021年12月7日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年2月24日に公開しました。
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