2022年5月、編集長・宇野常寛の新刊『水曜日は働かない』(ホーム社)が刊行されました。水曜日が休みになると1年365日がすべて休日に隣接する──その真実に気づいた宇野は「急ぎすぎ」で「がんばりすぎ」なこの国の人々に提案します。「水曜日は働かない」べきなのだと。毎週水曜日を「自分を大切にするための時間」に充てることにした宇野の日常を綴ったこのエッセイ集の、最初の一章を特別公開します。
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端的に言うとね。
2019年の7月24日の、たぶん午前11時30分ごろ。僕たちは毎週水曜日に働くことを、やめた。
それは夏の、暑い日だった。僕と相棒のT氏は朝いちばんで集まって、10キロのランニングを終えた。見上げた空はピーカンで家から一歩出るともう、それだけで茹で上がったような気分になっていた。僕たちはビルの谷間の日陰を選んで、身を隠すように走ったのだけど、それでも走り終えたときは全身から汗が吹き出して、雨上がりの傘のようになっていた。コンビニに駆け込んで、僕はオールフリーの350ミリリットル缶を、T氏はストロングゼロレモンの500ミリリットル缶を買い求め、そして乾杯した。キンキンに冷えたそれを、気が済むまで飲んで、身体を内部から潤した。そして厳かに誓い合ったのだ。僕たちは決して、水曜日は働かないことにしよう、と。
なぜこのような結論に達したのか。それを説明するためには、まずは僕と相棒のT氏の関係について説明する必要があるだろう。
T氏はもともとはある出版社の編集者で、10年ほど前から僕の本を担当していた僕より少し年上の男性だ。仕事を通じて個人的にも親しくなり、6、7年前はよくつるんでいた。多いときは週二回から三回のペースで会っていたと思う。僕は当時から今までずっと高田馬場に、彼は当時早稲田に住んでいて家も近かった。そして当時の僕たちはどちらも夜型で、大体夜の22時とか、23時とか、仕事が一段落ついたところでどちらからともなく連絡を取り、そして大体は新宿か神楽坂の店に出かけた。
店は決まっていなかった。酒を飲まない僕は禁煙であればどこでもよく、ヘビースモーカーのT氏はそれがひどく不満のようだったが同じくらい酒も好きだったので結局は、酒が飲めればどのような店でも文句は言わなかった。なので人生を半分降りたような熟年たちの集う、たぶん店主と常連客はシックで上品だと思っているであろう気取ったバーに半分嫌がらせのつもりで居座ることもあれば、ぱっと見何も考えておらずその実ほんとうに何も考えていない学生たちに交じって24時間営業のファミリーレストラン(意外とアルコールを提供する店も多い)で朝を迎えたこともあった。
あと、僕たちはよく深夜の都内を歩いていた。深夜に高田馬場から四ツ谷、麹町あたりまでただ話しながら散歩することが多かった。都内が大雪に見舞われた日の夜は、靖國神社に見物に出かけたりもした。休憩によく使っていた歌舞伎町の24時間営業の喫茶店では、ホストやキャバクラ嬢や限りなく反社会的勢力に近しい何者かたちに囲まれながら延々と話し込んでいた。話にも特に一貫性はなく、エヴァンゲリオンの新作映画の話をしていたかと思えば10分後には深センのメイカーズのことを話していたりした。最近手に入れた空母の模型の話からなぜか転じて、当時世間を賑わせていた反原発運動について議論したこともあった。
このようなつるみ方をしていたため、当時T氏の妻は不倫を疑っていた。そしてその結果T氏は、会合の相手が同世代の男性であることを証明するためによく僕の写真を撮ってはLINEで彼女に送付していた。当時彼女は一面識もない僕がダブルピースをしていたり、仮面ライダー1号の変身ポーズをとったりしている写真を累計で数十枚ほど目にしていたはずだ。
この時期の僕たちは確実に夜の世界を生きていた。文壇や出版業界の陰湿な人間関係や業界内政治から距離を置いて、物書きと編集者が、だらだらと、しかし自由に夜の東京を闊歩しながらものを考え、そして語っていた。それはひどく自由な時間だった。ここでだけは、いかなるしがらみもなく物事の本質だけを語り尽くすことができる。そんな解放感があった。
その後T氏は家庭の事情でフランスに移住し、4年間帰ってこなかった。その間彼はEメールを駆使して、僕の本の編集に参加していたのだが、一度も帰国しなかった。その4年間で会ったのは一度きりで、昨年僕がまったく別の仕事でパリに出張したときだった。そしてその直前にT氏の一家は急遽帰国することになり、僕が会ったときは入れ違いでT氏の妻が東京で2ヶ月後からの新居を探しているタイミングだった。
T氏が日本を離れていた4年間、僕はいわゆる「業界」からいよいよ完全に距離を置くようになった。僕がかつてかかわっていた出版業界の、俗に論壇とか文壇とか言われる業界はほんとうに陰湿なコミュニティが多く、自分たちの村の空気を読まない人間や、目立ちすぎた人間がいると、すぐに業界の中ボスのような人間が出てきてその取り巻きたちに袋だたきに遭う。具体的には、そのコミュニティのボスのような存在がいて、取り巻きは機嫌を取るために主に「飲み会」でそのボスが敵視している人間の悪口を言う。それが時折、TwitterやFacebookに漏れ出して、こいつはみんなそうしているのだから叩いて良いのだという「いじめ」的な空気がつくられていく。僕も、さんざん年長の物書きから悪意を持って脚色された風評を流されたり、彼の取り巻きに嫌がらせをされたりした。普段口では「分断を許さない」とか、「友敵関係を超えた思想」とか言ってる人たちが裏ではどれだけ陰湿なコミュニケーションを取っているかを思い知って、心底ウンザリした。
そして僕はそのような業界に本当に嫌気が差して、付き合う人そのものをがらっと変えていた。その手のコミュニケーションが好きな人たちとは距離を置き、業界の「飲み会」の類には一切出なくなった。
生活も朝型に切り替えた。このころ僕は走ることが好きになって、その結果として特に夏場は早起きするようになっていた。1日のある時間を切り取って、自分をネットワークから半分だけ切断する。そして、無目的に走る。ただ単に走るのが楽しくて、僕はこのころからずっと走り続けている。
走るというのは、とても主体的な行為だ。歩くときも、乗り物に乗っているときも、僕たちは一定の速度で世界に接することをいつの間にか強いられている。けれど、走るとき僕たちは自分の身体の許す範囲で自由な速度で移動することができる。走るときに僕たちは世界に対しての距離感と進入角度を、とても自由に設定できるのだと思う。
走るときに人は街々のつながりを読むように移動することになる。閑静な住宅街から、ごみごみした学生街へ。そしてコリアンタウンから歓楽街へ。流れを感じながらの移動は点から点への移動ではなくて、線の移動になる。散歩は寄り道をしながら、ひとつひとつの街の中にふかく潜るように移動するのに対して、ランニングは街と街のつながり、町並みの流れをより強く意識することになるのだ。
出張や旅行で訪ねた街で走るのも好きだ。京都で、福岡で、香港で、シリコンバレーで……この4年、行く先々で走ってきた。旅先で僕たちは常に余所者だ。しかしランニングウェアに着替えて、朝の街を走っているときはその街の風景に溶け込むことができる。すれ違いざまに挨拶してくる現地のランナーもいる。普通に街を歩いていても、なかなか声をかけられることはないが、走っているとたまにある。走ることは半ば匿名化して、風景に溶け込むことでもあるのだと思う。僕はその感覚が、とても好きだ。
ランニングの愛好家として知られる村上春樹が昔エッセイで、「少なくとも最後まで歩かなかった」ことを墓碑銘に刻んでほしいと誇っていたけれどそういう気持ちは端的に「わからない」。僕は単純に趣味で、楽しみで走っているので疲れれば休むし、中断して帰る。のどが渇けばスターバックスでコーヒーも飲む。ボディビルディングにも興味はなく、大会への出場も特に目的にはしていない。一応目安の距離は決めているけれど、タイムを気にしたことも一回もない。それが「走る」ことそれ自体を目的に楽しんでいる僕のランニングだ。
だから、眉間に皺を寄せて、苦痛に耐える「部活」的な苦行をすることに価値があるなどと考えたこともない。むしろああいったものから切り離されて、自由に身体を動かすのがこんなに気持ちいいのかと驚いている。これは学校の「体育」ではまったく学べなかったことだ。「お国のための」軍事教練をルーツに「みんなのために」個を殺した身体運動を叩き込まれる「体育」からは学べなかったことだ。
僕は小中学のころは身体が弱かったこともあってとにかく学校の「体育」が嫌いだった。中学の終わりの方からは授業を真面目に受けずにサボるようになった。高校卒業間際には、もうすぐ定年を迎える体育の林先生に「俺は3年間お前の体育を担当したが、ついに一回も身体を動かすことの楽しさを教えることができなかったことが本当に残念だ。それが教師生活の心残りだ」と真顔で言われたくらいだ。
その僕が毎朝のように走っているのを中高の同級生たちが知ると心底驚く。「あの、宇野が」と。僕自身も驚いている。でも、腑に落ちてもいる。僕が嫌いだったのは「体育」というイデオロギーであって、身体を動かすこと自体ではなかったのだ。体育の林先生にも、この場を借りて謝りたいと思う。あらゆる体育の授業を可能な限りサボタージュしていたことを。林先生に注意されても、右から左に聞き流していたことを。そして体育の期末テストを真面目に受ける気がなくて、柔道の技名を解答しなきゃいけないところをふざけて「ライダーキック」とか書いたりしたことを。
そして走ることに加えてもうひとつ、僕は朝に習慣を持った。僕は朝起きてから昼食までの時間は自分にとっていちばん大事な、本を書く時間にしようと決めて、予定を一切入れずに机に向かうことにした(フランスにいるT氏と進めていた本だ)。要するに夜の社交を人生からアンインストールして、その分朝に自分の時間をもつことにしたのだ。特に孤独は感じなかった。むしろ、それでも追いかけてくる「世間」から距離を取るのに大変だった。このころにはすっかり定着していたFacebookやTwitterを開けば、そこは24時間どこにいても、業界の飲み会のようなコミュニケーションが目に入った。そして僕はどちらかと言えばその種のコミュニケーションに空疎で醜悪なものを感じ、目にするたびにミュートしていった。
その結果として、僕はこの時期にすっかり夜の世界の住人ではなくなっていた。かといって、昼の世界の住人になったわけではない。スーツを着て、ネクタイを締めている人たちの世界とは、相変わらず隔絶して生きていた。強いて言えば、僕はこの時期に朝の世界の住人になっていた。昼の世界の住人たちが朝の身支度や通勤といった1日の準備運動をしている時間に、あるいは夜の世界の住人たちがようやく眠りにつく時間に、僕は街を走ることと本を書くことという、いちばん楽しいことといちばんしんどいけれどやり遂げたいことをするようになったのだ。
僕はこの朝の世界に暮らすライフスタイルに、手応えを感じていた。ついでに言うと(それを目的としたわけではないが)T氏と再会したころには4年間健康的な生活を送った結果として、自分は実年齢より5歳は若く見えるようになったと、自惚れていた。高校時代の仲間たちが集まる機会には(洒の席が嫌いであるにもかかわらず)必ず出席し、相応に老け込んだかつての級友たちに対し密かに優越感を覚えていた。そしてもっと正直に言うと4年間の海外生活で、相応にくたびれているだろうT氏に対しても、優位を主張できると思ってそれを楽しみにしていた。要するにこの4年の間に、T氏も相応に老けているだろうと僕は予測していた。だがそれは大きな過ちだった。
その日──22018年5月某日、パリ郊外のカフェで僕らは4年ぶりに再会することになった。そして4年ぶりに再会したT氏の外見はほとんど変わっていなかった。いや、それどころかむしろ若返っていた。見るからに肌はみずみずしく、そして声には張りがあった。僕より5歳年上のはずなのに、僕以上に若く見えた。いや、それを「若さ」と表現するのは間違っているだろう。再会したT氏は言ってみれば生物として強力なエネルギーに溢れているように思えた。そして、4年ぶりに再会した彼は述べたのだ。自分はいま、ちょっとした「余生」を生きている。特に仕事はしておらず、パリの大学で哲学を勉強しながら、朝は早く起きて合気道の道場に通っている。残った時間は家事と子育てに使い、そして僕の本を編集するためにインターネットの動画サイトでひたすらアニメを見ていたのだ、と。
僕の本の編集が「仕事」の中に入っていないことに軽く衝撃を受けたが、再会したT氏から感じた生命体としての強さのようなものの理由はわかったような気がした。T氏もまた、夜の世界の住人ではなくなっていたのだ。かといって昼の世界の住人に回帰したのではない。僕がそうしたように、T氏もまた朝の住人になっていたのだ。
そしてT氏は続けた。もう一生、自分はこの「余生」を過ごすつもりだったのだけれど、家庭の事情で再来月に急遽帰国しなければならなくなった。また日本で会社勤めをするかと思うと正直言って憂鬱である。しかし仕方ない。せめて、パリの4年間で身につけたものを捨てないかたちで東京での生活を再設計したい、と。
そして僕らはどちらからともなく、「朝活」を提案した。帰国したT氏と僕は、週に一度朝に集まるようになった。そしてかつてのように、世界のすべてを語り尽くす勢いで喋り倒していた。ただし、あのころのように夜を通してバーやファミリーレストランをはしごするのではなく、朝の決められた時間に街を走りながら僕たちは過ごすようになった。
こうして僕たちは週に一度、水曜日の朝に集まって走るようになった。水曜日になったのは僕のレギュラーの仕事のスケジュールと、T氏の道場通いのスケジュールをすり合わせた結果だ。僕たちは毎週水曜日の朝に、近所のオフィスビルの1階にあるカフェに集合し、そして30分くらいかけてコーヒーを飲んだあと、続きは走りながら喋ろうと10キロのランニングに出るようになった。
僕たちが集合する時間はいわゆるサラリーマンたちの出勤時間で、名のしれた会社がいくつも入居するそのオフィスビルには毎朝膨大な数のサラリーマンたちが、軍隊アリのように列をなして出勤してくる。そして彼らはビルの1階に設けられたセンサーにパスをかざして、まるで通信販売番組の掃除機のデモンストレーションのようにエレベータールームに吸い込まれていく。彼らがゲートを潜るたびに、彼らの存在を認証する電子音が鳴り響く。朝の時間のそのビルの1階に足を踏み入れると、ピコーン、ピコーン、と電子音がひっきりなしに鳴っていて、ほとんどベルトコンベアの中にいるような気分になる。
T氏はそんな彼らを指して「NPCのようだ」と述べた。NPCとは「ノンプレイヤーキャラクター」の略だ。人間ではなくゲームAIによって動かされているキャラクターのことだ。RPGで、村の中を用もないのにウロウロしていて、話しかけるといつも同じセリフを返してくる(「西のほこらに宝箱がある」とか)あいつらのことだ。そしてこう言っては失礼だけれど、このNPCたちの大抵の人は、死んだ魚のような目をしていた。
そしてあの日、T氏とこのNPCたちはそもそもどんな会社に勤めているのだろうかと議論になった。そして入居している企業の一覧を見ようと、受付に近づいたらちょっとあなたたちはなんなんですかと、ビルの警備員のおじさんに呼び止められた。カフェの客ですと述べるとそれ以上は追及されなかったが、彼は僕たちがその場を立ち去るまで決して目を離さなかった。明らかにおじさんは僕たちを不審者と見做していた。社員証をセンサーにかざして、メンバーシップを確認する電子音を伴って入場する彼らこそが、おじさんにとってはまっとうな「人間」であり、安心してコミュニケーションの取れることが保証された対象であり、そしてPC(プレイヤーキャラクター)なのだ。そして僕たちがこのビルに勤める会社員たちをNPCのようだと感じたように、警備員のおじさんには、僕たちこそがNPCに、いや、モンスターに見えていたのだ。
僕たちは少しムッとしたけれど、気に留めることもしなかった。そして僕が昼食を買うために、同じビルの1階に入っているコンビニに行きたいと言うと、T氏もついてきた。まだ昼休みではなかったはずだけれど、コンビニのレジには早くもNPCたちが列をなしていた。僕は牛丼弁当とサラダ、そしてオールフリーの350ミリリットル缶を手にとって、その列に並ぶと後ろにT氏が続いた。彼の手にはストロングゼロレモンの500ミリリットルロング缶が握られていた。この時間からストロングゼロのロング缶を飲むのかと僕が尋ねると、T氏は答えた。「水曜日は働かないことにしているんですよ」と。ほんの、ほんの一瞬だけ列をなすNPCたちの間の時間が止まったのを、僕は感じた。
水曜日は働かないことによって1年365日、ありとあらゆる日が休日に隣接することになる。路上でストロングゼロを開けながら、T氏は述べた。オールフリーを開けながら、僕は思った。もしかしたらあのNPCたちも、水曜日に働くことをやめられたら世界の見え方が、もっと変わるかもしれない、と。
この4年間で、僕たちが身につけたこと。それはオンとオフ、昼と夜に境界線を引かないことだ。あのころ、僕たちは昼の仕事を終えて集まって、夜の街で語り合っていた。昼間には語れないことを、夜の間だけ語ることが許される世界の真実を述べることに夢中になっていた。それは当時の僕たちがまだ昼間は何かを諦めて、自分でも信じていないような嘘を真顔で述べて自分に言い聞かせる世間の中に身を置いていたことを意味していたのだと思う。
しかし、あれから4年経って、僕たちは少し賢くそしてタフになった。僕たちにはもう夜の時間は必要ない。いまの僕たちは夜が明けて、昼が始まる朝の時間に、それも平日の、週の真ん中の水曜日に、誰もが死んだ魚のような目をしてオフィスビルに吸い込まれていく朝のあの時間に集まって、いちばん自由な時間を過ごすことができるのだ。そして、あのNPCたちもこうして昼の世界と夜の世界との境界線をなくして朝の世界に接することができるようになれば、NPCではなくPCとして、もっと自分の物語をちゃんと自分自身が主役として生きることができるのかもしれない。そう、思うのだ。そんなことは余計なお世話だ、自分は社員証をセンサーにかざして鳴る電子音にこの上ない承認を感じるのだという人もいるのだと思う。社内忘年会の出し物のために、夜の10時から近所のカラオケボックスでサカナクションの「新宝島」あたりを練習して、それが意外とうまく歌えて上司に褒められたら気持ちがほっこりして、この会社も悪くないなとか思ってしまう人も少なくないのだと思う。しかし少なくともそういうタイプの人が十人いたら一人くらいは、もし可能なら社員証を放り出して、電子音を無視してゲートを飛び越えて、忘年会の練習なんかぶっちぎって、僕たちと一緒に街を走って乾杯したいと思ってくれる人がいるのではないかと僕は思う。少なくとも、会社員だったころの僕はそうだった。もしかしたら僕たちをつまみ出そうとしたあの警備員のおじさんもそうかもしれない。
もちろん、ほんとうに社員証を投げ出してゲートを飛び越えて、こちら側に来てくれる人はほとんどいないと思う。けれど、そのゲートの向こうに小さく切込みを入れて、まんなかのあたりにぽっかり穴を空けて、そしてゲートの向こう側とこちら側が不意につながってしまう。そんなことならあり得るのではないかと思う。この連載はこれから、そんな僕たちの日常が、非日常的な日常が、夜のような昼(具体的には朝)の出来事が綴られていくだろう。だがその前にまずは世界にこう提案したい。人類は水曜日に働くことをやめるべきなのだ。365日すべての日が、休日に隣接すること。灰色の日常のまんなかに、ぽっかり穴が空いてそこから色鮮やかな世界が垣間見えること。それだけで、世界の見え方はぐっと変わる。だから意外と真剣に僕は全人類に提案したいと思う。水曜日は働かない。いや、水曜日は働くべきではないのだ。
[了]
この記事は宇野常寛『水曜日は働かない』(ホーム社 2022年)所収「水曜日は働かない」を特別公開したものです。2022年6月2日に公開しました。
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