観光しないほうが京都は楽しい

 前回取りあげた伊根と同じように、僕は毎年同じ季節に足を運ぶ土地がいくつかある。一番よく足を運ぶのが京都だ。僕は大学に入学してから、東京に引っ越すまで7年のあいだこの京都という街に住んでいた。僕は子供の頃から親の仕事の都合でいろいろな街を引っ越して生きてきたけれど、いま住んでいる東京の次に京都に長く住んでいた(ほかは長くても5年くらいで引っ越している)。そしてこれまで住んだ街の中で、唯一もう一度住んでみたいと思えるのも京都だ。

▲僕が京都に宿泊するたびに走っている鴨川の土手から見た風景。鴨川の土手は街に住んでいる人の生活道路になっているので、普通に通勤通学や買い物に向かって歩く人や自転車に乗った人が通る。

 この本を読んでいる中学生や高校生の人たちも、たとえば修学旅行で京都などを訪れた人もたくさんいると思う。そして、「みんな」でワイワイと古い神社や寺を回るのが楽しかった人も多いと思う。けれど京都という「街」、つまり人が住む場所がどういうところか、自分が普段住んでいる街で過ごすことと、京都という街で暮らすことがどう違うのか、というところまで感じることができた人はほとんどいないと思う。

 しかし僕はこういう旅、つまり観光旅行が昔からあまり好きじゃなかった。僕は京都に何年も住んでいたので、観光客が名所旧跡の写真を絵葉書と同じ構図で撮って満足して、その場所のガイドブックの解説とWikipediaを引いて満足して帰るのをたくさん見てきた。そしてそんな観光客を見るたびに、この人たちは街の上っ面のところだけを見ていて、大事なことはなにも感じ取れていないなと思っていた。もちろん、そういう旅の楽しさもあってもいいとは思うけれど、僕はどうせなら実際にその場所に足を運んだからこそ味わえる体験をしたほうがおもしろいのにな、とずっと感じていた。

 だから僕は京都に滞在しているとき、かつて住んでいた頃にそうしたように、朝起きて、走って、食事をして、仕事をして、本を読む。もともと長く住んでいた街だったし、去年まで京都にある大学で講師をしていて、そのために4月から7月の夏学期は隔週で出張していた。そもそも僕にとって京都は、観光のために足を運ぶ街ではなかったけれど、僕は「観光しない」京都がもつ魅力が好きだ。 

 京都は、1000年以上前からこの国の文化の中心にあった街で、こうして普通に過ごしているだけでも、たくさんの刺激を受けることができる。僕が昔住んでいたのは、右京区の花園という地区だ。右京区や西京区といった京都の西側は少し古い住宅街が広がっているエリアだ。有名な観光地としては嵐山や太秦(うずまさ)映画村があるのだけれど、中心部の中京区や東側の左京区に比べるとそういう特別な場所はとても少ない。それでも、少し歩けばとても古いものにしばしば出会ってしまう。僕の住んでいたアパートのすぐ近くに双ヶ丘(ならびがおか)という小さな森があって、そこはあの『徒然草』を書いた吉田兼好の庵のあった場所だ。そして、歩いて100メートルくらい先には妙心寺というとても大きなお寺があって、そこには室町時代の建物がいくつも残っている。中には応仁の乱の矢傷がまだ残っているものもあるらしい。この妙心寺は地域の人の生活と密着している。広い境内は地域の人の通り道になっていて、僕も毎朝ここの境内を自転車で通り抜けて大学に通っていた。公園のように散歩する人も多いし、また、境内には幼稚園があって、地域の子供がたくさん通っていた。京都の暮らしでは、歴史や古い文化は何気ない日常の生活の一部になっていた。僕が京都に足を運ぶのは、日常の中で、何か自分の人生を超えた途方もなく長い歴史を感じさせるものに常に「見られて」いた、あの7年間の暮らしの感覚を思い出すためでもある。

▲妙心寺の境内。僕はここを毎朝自転車で通り抜けて大学に通っていた。

 僕が住んでいた頃と比べて、いまの京都は観光客がどっと増えて、中心部はホテルだらけになってしまい、ちょっと街の雰囲気が変わってしまっている。だからこそ、というわけではないけれど、僕はこの街を訪れたときはかつて住んでいた頃と同じように過ごしている。
 たとえば、僕が京都でよく食べるのは洋食とパンだ。京都というと、祇園周辺の料亭で食べる高級な和食というイメージが強いかもしれない。しかしもともと住んでいた人間からすると(そして、たくさんの街に住んできた人間からすると)京都で食べたほうがいいのは洋食とパンだ。(洋食というのはハンバーグやエビフライなど、外国の料理を日本人向けにアレンジして定着したもののことだ。)
 もちろん、京都には外国の有名なガイドブックに載っているようなレストランがたくさんある。僕も何度か、食べ歩きが趣味の人に連れて行ってもらったことがある。それはたしかにおいしいのだけれど、値段も格式も高くて、特別な場所に来ていると感じてしまう。それはつまり、「そのお店の良さ」を味わっているのであって、「その街の良さ」を味わうなら、その街の人が普段食べているものを食べるほうがよくわかるはずだ。だから僕は、京都に行くと必ず洋食とパンを食べる。京都は平安時代から続く伝統文化がたくさん残っている街である一方で、明治時代から昭和の前半にかけて、欧米の文化をいち早く取り入れた街のひとつだ。だから日本のいろいろな街の中でも、洋食やパンを日常的によく食べる文化があって、とても安くておいしいお店がたくさんある。京都は大学が多い街で、人口の10%は大学生だと言われている。そのせいか、実はこうした安くておいしいB級グルメのお店がとても多い。

▲北大路にある洋食屋さん「はせがわ」のAミックス(エビフライ+ハンバーグ)。ここのハンバーグのやわらかさと、トマトソースは絶品。ぜひ京都に来たら一度食べて欲しい。

 この本を読んでいる人には中学生と高校生が多いはずだ。この本のテーマとは大きく外れてしまうけれど、もしも修学旅行で京都に行く人がいたら、そのときは、ぜひ洋食屋やイートインコーナーのある大きなパン屋で食事をするといいと思う。値段も安くて、そしてたぶん君たちが住んでいる街のたいていの店よりもきっとおいしい。修学旅行で訪れると、祇園や金閣寺など観光地を巡ることになると思うけれど、自由行動のときに食事の機会があるなら、ぜひ普段着の京都を味わってみて欲しい。あの街は、普段着で過ごしたときにいちばんその良さがわかる街なのだ。

目的のない旅のほうがたくさんのものに出会える

 走ることと同じように、旅もあまり目的がないほうがたくさんのものに出会うことができる。これを見に行こうと決めて出かけると、どうしてもあらかじめ決めたものしか印象に残らない旅になりがちだ。だから僕は、旅先で「いつものように」過ごすのが好きだ。
 いつものように過ごすからこそ、自分が普段暮らしている土地と、旅で訪れた土地との違いがわかる。それは気候だったり、町並みだったり、食べ物だったりする。いつも暮らしている街よりも寒い土地で朝目覚めたとき、自分はそのほうがすっきり目が覚めることに気づく。少し遠い街では、定食屋で出てくる醤油や漬物の味が普段住んでいる街とは違うことに気づく。さっきも書いたけれど、こうした「違い」がわかるようになると、普段暮らしている街も細かく見えてくる。たとえば、いつも何気なく前を通り過ぎているけれど、このちょっと変わった建物はなんだろうとか、なぜこの路地にはたくさん銀杏の木が生えているのだろうとか、そういうことが気になりはじめていく。そして調べる。調べる癖がつくと、毎日の暮らしが楽しくなっていく。これが旅に出て人が変わるということだと僕は思う。衝撃的な、特別なものに出会って人生観や世の中の見え方が変わった、という話を僕はあまり信用していない。人間の心はスイッチじゃない。オンからオフに、ワンタッチで切り替わったりはしない。そういう話をしてみたくなる気持ちはわかるけれど、たぶんそれはあまり本当のことじゃない。そうじゃなくて、こうした日々の暮らしの中で、人間は少しずつ変わっていく。だから僕は旅に出たときに、いつものように過ごすほうが好きなのだ。

「近くて遠い街」に出かけてみよう

 さて、ここまで書いておいてこういうことを言うのもなんだけれど、この本を主に読んでいる中学生や高校生が、ひとりで遠くの場所に、それも泊まりがけで出かけるなんてことはちょっと考えにくい。お金もかかるし、家族も反対する場合が多いはずだ。そこで、おすすめしたいのは「日帰りで出かける」ことだ。行き先は、鉄道で片道1時間から2時間くらいで着く「近くて遠い街」を目指してみよう。
 前にも少し書いたけれど、僕は日帰りひとり旅の場所として、神奈川県の三浦半島がとても好きで、年に何度かここに遊びに行く。三浦半島は僕が住んでいる最寄りの駅からは、鉄道で1時間半ほどの、海と山が両方楽しめるところだ。
 僕が三浦半島を好きになったのは、ある友達に深夜のピクニックに誘われたことだ。神奈川県出身の彼は三浦半島にも詳しくて、そしてキャンプやバーベキューなどアウトドアの遊びが得意だった。彼の提案で最終電車で三浦半島の東側にある横須賀駅に集まり、そこから10人くらいで、半島の南の端ちかくにある三崎港まで夜通し歩いた(僕はこうして「みんな」で遊ぶことが別に「嫌い」なわけじゃない)。半島を歩くというのは海沿いと小さな山を両方歩くことを意味する。潮の香りと森の匂いを一晩で両方、たっぷりと吸い込んだ。河口の橋の上から魚たちを眺めることもあれば、夜の森の道路をすばやく横切るタヌキに出会うこともあった。そして朝に開店と同時に漁港近くの魚屋で食材を仕入れて、浜辺でバーベキューをした。とても疲れたけれど、楽しかった。僕はこの夜のピクニックをきっかけに、三浦半島という場所にすっかりハマって、ときどき考え事をしたいときは、ひとりで出かけるようになっていった。

▲三浦海岸をひとりでぶらぶらすると、ちょっとした世界の果てに触れた気がする。

 三浦半島というのは意外と大きいのだけれど、僕のいちばんのお気に入りの場所は、京浜急行電鉄の終点の三崎口駅からバスで2駅行ったところに入り口のある「小網代の森」だ。ここは、30年ほど前にゴルフ場ができる予定だった場所なのだが、計画が中止になって放置されたのち、現地の人たちが保護運動を何年も続けて守ってきた場所だ。数年前に、歩きやすいようにボードウォーク(木の道)が設置されて、一般市民にも公開された。僕が昔から仲良くしてもらっているヤナセさんという編集者の人(いまは、東京工業大学の先生になっている)が保護団体に昔から関わっていているのだが、僕が三浦半島を好きなのを聞いて、この森が一般公開されるよ、とそっと教えてくれたのだ。

▲夏の小網代の森。ボードウォークを歩くと小さい山(丘)の上から河口までを1時間くらいで下ることになる。

▲小網代の森ではバッタやトンボなど、いろいろな虫にも出会える。

▲河口まで歩くと、小網代湾が見える。この眺めが素晴らしい。
▲河口近くの干潟ではカニの求愛行動(ダンス)がみられることも。

 小網代の森には、三浦半島の魅力が凝縮されている。この森には小さな川が流れていて、しかもその川の水源から河口までがまるまると含まれているのだ。三崎口駅に近い側から小網代の森に入ると、この川の流れにほぼ沿って、森の中の道を降りていくことになる。つまり、小さな山の頂上近くから、海まで降りていくことになるのだ。少し歩いて降りるだけで、生えている木や草や花や、見かける虫や小動物がどんどん変わっていく。これがとても楽しくて、ひとりで歩いていてもまったく飽きない。入り口から河口まで、ゆっくり歩いても1時間ちょっとだ。ものすごく狭い範囲の、短い距離にびっくりするくらいたくさんの自然が詰まっているのが、小網代の森なのだ。たとえば入り口から中腹にかけては、バッタや蝶など森の生き物をたくさん見ることができる。そして湿地を経て干潟に降りると、さまざまな魚やたくさんの種類のカニを見ることができる。山から海までの距離が近い半島の魅力が、この森には詰まっているのだ。

 ちなみに、僕はほかにもこの三浦半島で好きな場所がいくつかある。ひとつは金沢文庫駅にある横浜市立金沢動物園だ。ここは、コアラを見ることができる動物園として有名で、そのコアラをはじめとするオセアニアの動物(カンガルーとか、ウォンバットとか)に力を入れているようで、ほかの動物園では見られないような動物を見ることができるし、ほかにも草食動物がとても多くいて、牛や馬の仲間たちをたくさん見ることができる。そのかわりライオンやキリンのような、普通の動物園で人気の動物はあまりいない。この偏った感じが、僕は大好きだ。

 これはひとつの例だけれど、日帰りで行ける距離に、自分の好きな場所を見つけること。そしてその場所に繰り返し訪れること。それが僕のすすめる「ひとり旅遊び」だ。
 僕は東京の、それもわりと中心に近いところに住んでいるので、こうして日帰りで自然の豊かな場所に出かけるのが好きだ。けれど、実際に10代までの僕がそうだったように、地方に住んでいる人たちは特に豊かな自然に触れることが、それほど珍しくないかもしれない。昔の僕のように、地方に住んでいる人たちは隣の街か、さらにその隣の街か、鉄道で片道1時間かせいぜい2時間以内で行けるところに好きな場所を見つけるのがいいと思う。
 僕は小学生のころ、長崎県の大村市という街に住んでいた。長崎県は長崎市を中心とした南部と、佐世保市を中心とした北部(と、あとものすごく島が多い)に大きくわかれているのだけれど、大村市はそのふたつのちょうど中間の、少し長崎市寄りにあった。僕がいた頃は人口が7万人くらいの小さな街で、海と山との距離が近くて自然は豊かだった。僕も友達とフグを釣りに行ったり、カブトムシを捕まえに出かけたりしていたけれど、人間がつくったものはあまり充実していなかった。僕の好きな図書館もあまり大きくなかったし、当時はインターネットもなかったので、大村駅前のアーケードにある商店街で売っていないものは基本的に手に入らなかった。ところが、鉄道で2駅離れたところにある諫早市は大村市よりひとまわり大きな街で、そこには大村にはないものがたくさんあった。駅前の本屋も模型店も図書館も大村よりもひとまわり大きくて、大村では手に入らないものが手に入った。いまとなっては、インターネットの通信販売でたいていのものは手に入るから、すでによくわからない感覚かもしれないけれど、20世紀の世の中では、ある場所で手に入るものが他の場所でも手に入るということがものすごく価値のあることだった。そして人間はそのために移動することを面倒だとは考えていなくて、むしろ最高に楽しいことだったのだ。そう、20年くらい前まで、「買い物に行く」ことは人間にとって最高に楽しいことのひとつだった。
 もちろん、いまでは「買い物」をすることの楽しさにかんして、ある街と別の街との差がつくことはあまりないと思う。ただ、ここで大事なのは「自分が普段暮らしている街とは別の街に好きな場所を見つける」ことだ。それはお店でも、公園でも、川でも畑でもなんでもいい。たとえば、諫早には大村にはない大きな運動公園があって、小学生の頃の僕は緑の多い場所がとにかく好きだったので、ここに出かけるのも楽しみだった。大事なのは、土地が違えばそこで出会えるものも必ず違うことに気づくことだ。その違いはじっくりその街を歩いてみないと、なかなか気づかない。そして自分の住んでいる街にはないものや場所を見つけたら、そこにときどきでいいので繰り返し足を運んでみる。もちろん、そのときはひとりのほうがいい。何度か足を運んでいると、その「違い」からその街が自分の住んでいる街とは違うしくみや事情があってつくられていることも見えてくる。本を読むように街が「読める」ようになっていく。

 このことを覚えておくと、休みの日などに家にいたくないけれど、誰も遊ぶ相手がいなくて退屈するなんてことがなくなる。ほんの少し足を伸ばすだけで、気分をガラッと切り替えることができる。そこは、普段自分たちが生活をしている場所から遠く離れているわけではない、地続きの場所だ。でも、確実にそこは普段の暮らしの中では出会えないものがある。そんなお気に入りの場所をひとつでも見つけておく。ほんの少し離れた場所に、普段暮らしている場所と違う世界が広がっている。そのことに気づくことができると、毎年季節が巡るのがぐっと楽しみになる。夏になったら、またあそこに行こう、冬になったらあの場所はどんなだろう、と考えるようになる。それだけで、普段自分たちが暮らしている世界の見え方も、まったく変わってくるはずだ。

[了]

この記事は、「よりみちパン!セ」より刊行予定の『ひとりあそびの教科書』の先行公開です。2021年1月7日に公開しました。
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