「逆ポーランド記法」の由来

 今回は、「オーストリア的」な要素を持つ国のひとつ、ポーランドに焦点を当てるのだが、まずは「逆ポーランド記法(Reverse Polish Notation)」の話から始めたい。逆ポーランド記法とは、計算式の表記法の一種である。我々に馴染みの深い通常の数学では、「1+2」のように、数字(1や2)が演算子(+や-)の前および後に位置する表記法が採用されている。だが、逆ポーランド記法では「12+」というように演算子の前に数字が並ぶ。いかにも奇妙な表記法に見えるかもしれないが、この数式「12+」が「1と2を足す」というように、日本語と同じ語順で読めるということに気づかれただろうか。このことに気づけば、むしろ通常の表記法を特に不都合を感じずに使えていることの方が不思議に思えてくるかもしれない。
 逆ポーランド記法はいくつかの点で通常の表記法よりコンピューター上の処理に適している。たとえば、カッコがあってもなくても計算する順序が変わらないため、カッコは無視して計算できる。そのため、ヒューレット・パッカード社が1970-80年代に発売した関数電卓で採用され、広く知られるようになった。

逆ポーランド記法を採用したヒューレット・パッカード社の関数電卓HP-35。通常の電卓とは違って「=」ボタンがない。 By Mister rf – Own work, CC BY-SA 4.0

 ちなみに、「逆」がつかない、ただの「ポーランド記法」もある。この表記法では、「+12」というように演算子の後に数字が並ぶのだが、こちらがオリジナルである(だからこそ「逆」ポーランド記法なのである)。ともあれ、どちらも「ポーランド」式だとされていることには変わりない。その理由は、最初の開発者がヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz)というポーランド人だったからだ。
 ウカシェヴィチは、別にポーランドで関数電卓の開発に携わっていたのではない。また、フォン・ノイマンのようにアメリカに移住して開発に携わったのでもない。逆ポーランド記法が最初に提案された論文では、その元になった表記法として、ウカシェヴィチの著作が参照されているのだが、その著作のタイトルは『現代形式論理学の観点から見たアリストテレスの三段論法(Aristotle’ Syllogistic from the Standpoint of Modern Formal Logic)』という。ウカシェヴィチは、記号論理学を用いてアリストテレスを研究する論理学者だったのだ。
 本連載の第3回でも触れたが、記号論理学は19世紀終わりから20世紀にかけて、フレーゲやラッセルらの手によって生まれる。これを用いて古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスを研究するとはいったいどういうことなのだろうか。どうしてどのようなことが行われることになったのだろうか。これらの問いに答えるためには、まずはポーランドという国家が辿った数奇な運命を眺めてみよう。

国家間の争いに振り回されたポーランドの都市ルヴフ

 第二次世界大戦の前まではポーランドが現在の位置になかったことはご存知だろうか。現在のポーランドは、第二次世界大戦以前のポーランドと比べると西寄りに位置する。第二次世界大戦でドイツとソ連に占領されたポーランドは、ポツダム会談の結果、東部をソ連に割譲し、代わりとなる領土を西側に位置する敗戦国のドイツから獲得することになったからだ。この結果、ある都市がポーランド領からソ連領に移ることになった。その都市は、ウカシェヴィチが生まれ育った都市であり、現在ではウクライナに位置するリヴィウ(Lviv)、ポーランド語ではルヴフ(Lwów)という。もっとも、ルヴフは第二次大戦後にソ連領になるまでずっとポーランド領内にあったというわけでもなかった。本連載の第2回でも触れたが、1772年のポーランド分割により、ポーランドのガリツィア地方がオーストリア帝国に割譲される。ルヴフはこのガリツィア地方の首都なのである。こうしてオーストリア帝国の都市となったルヴフは、レンベルク(Lemberg)と呼ばれるようになる。ポーランド時代のルヴフは、ガリツィア地方最大の都市であり、ポーランド全体でも主要都市の一つだったのだが、オーストリア領のレンベルクとなることにより、広大な帝国の片隅にある一地方都市になってしまったのである。

▲第二次世界大戦前後でのポーランドの位置の変化。東側のグレーの領域がソ連に割譲され、西側のピンクの領域をドイツから獲得する。
By radek.s – Own work, CC BY-SA 3.0,

 1819年、時のオーストリア皇帝フランツ1世により、レンベルクに大学が再建される(それ以前のポーランド時代から大学はあったが、ナポレオン戦争によるオーストリア財政の悪化により閉鎖されていた)。とはいえ、一地方都市に過ぎないレンベルクの大学には特に目立ったところは何もなかった。だが、20世紀に入ってから大きな変化が訪れる。最初の一歩は、1895年にカジミェシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski)という哲学者が赴任してくることだった。

▲カジミェシュ・トファルドフスキ(出典

 トファルドフスキは本連載の第2回でもわずかに登場している。彼は新カント派のいないオーストリアで大きな影響力を誇った「ブレンターノ学派」の一人だ。トファルドフスキは、1866年にウィーン在住のポーランド人の両親の子として生まれ、哲学を志してウィーン大学に入学する。そこで彼が師事した哲学者がブレンターノだ。そして無事にウィーン大学で学位を取得したトファルドフスキは、レンベルク大学の職を得て赴任するのである。ウィーン生まれとはいえ、ポーランド人だったトファルドフスキは、ポーランド人の土地であるレンベルクへの赴任に運命的なものを感じたらしい。当時のレンベルク大学は、ハンガリーのプラハ大学がハンガリー人のためにハンガリー語で授業を行うようになったのと同様に(第5回参照)、ポーランド人のためにポーランド語で授業を行うようになっていた。トファルドフスキは、近代科学の方法論に基づく心理学とアリストテレス哲学を接合させたブレンターノの志をさらに発展させ、それを哲学と論理学にまで拡張しようとしたのだが、それをポーランド人の土地であるレンベルクで、ポーランド人たちの手によって行おうとしたのだ。

 トファルドフスキのレンベルクでの最初の講義はほとんど聴衆がいなかったと言われている。しかし、徐々に受講生の数は増えていき、やがては大教室が満員になるほどにまで至る。しかも、トファルドフスキがレンベルクで行ったことは授業だけではなかった、彼はポーランド哲学協会(Polskie Towarzystwo Filozoficzne/Polish Philosophical Society)を組織し、ポーランド語の哲学専門誌『哲学運動(Ruch Filozoficzny/Philosophical Movement)』を創刊し、さらには心理学実験室を設置する。こうしてトファルドフスキの手により、レンベルクには、実験心理学と哲学と論理学のすべてにまたがるポーランド人の研究者コミュニティが生み出されるのである。

 ポーランド記法の発明者であるウカシェヴィチは、トファルドフスキの最初の教え子のひとりだ。1878年にレンベルクの軍人の家に生まれたウカシェヴィチは、レンベルク大学に入学して数学を専攻するのだが、そこでトファルドフスキと出会う。トファルドフスキの情熱に感銘を受けたウカシェヴィチは、トファルドフスキから哲学を学ぶようになり、1902年にトファルドフスキの指導のもと、帰納法についての博士論文によって博士号を取得する。その後、1906年にはレンベルク大学で教授資格を取得し、師のトファルドフスキを同僚として支えるようになるのである。

▲ヤン・ウカシェヴィチ(出典

 ただし、これはウカシェヴィチがトファルドフスキの忠実な弟子だったということではない。両者の間には大きな違いがあった。トファルドフスキは、ブレンターノを受け継ぎ、科学や哲学の根幹にあるのは「考える」という心の働きであり、それを明らかにする心理学が諸科学の基礎だと考えていた。それに対し、数学出身のウカシェヴィチは論理学こそが諸科学の基礎だと考えていた。なぜなら、単に「考える」というだけでは科学や哲学にとって不十分である。科学や哲学が追求する「客観的真理」、あるいは「正しい認識」に至るには、論理的に考えることが必要だからだ。さらには、フレーゲとラッセルの「論理主義」によれば、彼らが開発した記号論理学は数学の基礎としても使える。このように考えたウカシェヴィチは、アリストテレスが論じた問題──たとえば、未来が不確定である(すなわち、決定論が誤りである)ことを示したとされる「海戦問題」──をフレーゲ、ラッセルらの記号論理学を用いて厳密に表現することを試み始めた(どうしてアリストテレスなのかは本連載の読者なら不思議に思わないだろう。もちろんレンベルクがカトリックを国教とするオーストリアの大学だったからだ)。ポーランド記法も、そのための努力から生まれるのである。1924年のことだった。

二つの世界大戦とルヴフ・ワルシャワ学派

 ウカシェヴィチがレンベルク大学で教え始めてからポーランド記法を開発するまでのあいだ、ポーランドはさらなる激動に見舞われる。まずは第一次世界大戦である。前述のようにポーランド分割により、レンベルクを含むガリツィア一帯はオーストリアの領土となっていたが、残る地域は、西はプロイセン、東はロシアの支配下に入っていた。加えて、宗教面ではポーランド人の多くはカトリックだったが、プロイセンの宗教はプロテスタントであり、ロシアはロシア正教であるため、いずれにおいてもポーランド抑圧政策が実施されていた。だが、1918年の第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によりポーランドの独立が回復されるのだ。レンベルクを含むガリツィア地方もポーランド領に戻る。こうしてオーストリア帝国の片隅にあった「レンベルク」大学は、晴れて「ルヴフ」大学へと名を戻し、ポーランドを代表する大学へと歩んでいくのである。

 独立により、ポーランドの大学をめぐる状況にも大きな変化が起きた。ワルシャワには古くから大学があったのだが、ワルシャワを含む地域がロシアの支配下に入ったこともあり、活動を停止していた。しかし、第一次世界大戦が開戦すると、ドイツとオーストリアが揃ってポーランドのロシア支配下地域に攻撃を開始し、1915年夏にロシアがポーランドから撤退する。このときポーランドは独立を回復したのではなく、ドイツ帝国の衛星国となっただけだったのだが、必然的にポーランド人への宥和政策がとられることとなり、ポーランド語で授業を行う大学としてワルシャワ大学が再建される。1915年の秋にはさっそく新生ワルシャワ大学が活動を開始するのだが、まずは教授陣を揃える必要があった。それも、ポーランドの首都であるワルシャワの大学にふさわしい陣容の。当時ルヴフ大学ですでに名声を高めていたウカシェヴィチに声がかかったのは当然のことだった。こうしてウカシェヴィチは再建間もないワルシャワ大学に移ることになる。

 さて、ウカシェヴィチがワルシャワに移った数年後、かつての旧友と同僚として再会することになる。その旧友の名はスタニスワフ・レシニェフスキ(Stanisław Leśniewski)という。ウカシェヴィチより8歳若いレシニェフスキは、ロシアでシベリア鉄道建設に携わるポーランド人エンジニアの家に生まれ、シベリア、特にイルクーツクで育つ。1910年に当時はまだレンベルクだったルヴフ大学に入学し、そこでトファルドフスキ、そしてウカシェヴィチと出会うのである。ウカシェヴィチと同じく、レシニェフスキもトファルドフスキの指導のもとで博士号を取得するが、第一次世界大戦が始まったため、生まれ故郷のロシアに戻り、モスクワのポーランド人学校で数学を教えながら論理学の研究を続けていた。だが、1917年のロシア革命勃発によりポーランドに戻る。そしてワルシャワ大学で大学教授資格を得て、ウカシェヴィチと再会するのである。

▲スタニフワフ・レシニェフスキ(出典

 ウカシェヴィチとレシニェフスキの二人が活躍した時代は、ワルシャワ大学のみならず、ポーランドの哲学と論理学の黄金期と言われている。彼らとその教え子たちは「ポーランド学派」、またはトファルドフスキの薫陶を受けた他の哲学者や論理学者も含めて、「ルヴフ・ワルシャワ学派」と呼ばれている。実際、ウカシェヴィチは1919年にはポーランドの教育大臣を務め、その後も二度ワルシャワ大学の学長を務めるなど、ポーランドの高等教育に大きな影響を与えた。

 このようにウカシェヴィチは、第一次世界大戦後のポーランドを代表する学者だった。しかし、その業績はポーランド国内では広く知られていたが、国外ではわずかな例外を除き、ほとんど知られていなかった。理由は単純である。彼の業績の大半がポーランド語で書かれていたからだ。ウカシェヴィチの業績が海外、特にアメリカに伝わるのは、1951年に彼が初めて英語の書籍を公刊してからのことである。この書籍こそ、逆ポーランド記法が最初に提案された論文で引かれた『現代形式論理学の観点から見たアリストテレスの三段論法』だ。当時の彼は73歳。高齢になっていた彼が初めての英語に挑戦することになったのは、当時彼がいたのがアイルランドのダブリンだったからだ。ウカシェヴィチは夫人とともに、第二次世界大戦の戦火を逃れるため、ポーランドを脱出していたのである。

 ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まった1939年、ウカシェヴィチはワルシャワ大学の教授職にあった。戦火により自宅は焼失し、貴重な草稿は失われ、ワルシャワ大学はドイツ軍によって閉鎖される。収入を失ったウカシェヴィチはそれでも数年間は友人たちの援助を受け、ワルシャワで暮らしていたが、最終的にポーランドを離れることを決意し、ただ一人のドイツ人の友人だった数学者ハインリッヒ・ショルツに助けを求める。ドイツのミュンスター大学の教授だったショルツが提案した脱出案は、いったんウカシェヴィチをミュンスターに招き、そこからスイスへ脱出させるというものだった。しかし、不幸なことに、ミュンスターに到着したウカシェヴィチは連合軍の爆撃にさらされる。ミュンスターは第二次世界大戦中に最も被害を受けた都市の一つである。その被害は凄まじく、市街地の90%以上が焼失するほどであり、ミュンスター大学も例外ではなかった。連合軍の爆撃のさなかにスイスへ脱出することは困難を極め、結局ドイツ敗北の直前まで彼らはドイツに留まることになるのである。

 終戦後もウカシェヴィチはポーランドに戻ろうとしなかった。共産主義国家となったポーランドでの生活を恐れたのである。ドイツやベルギーを転々としていたウカシェヴィチがアイルランド王立アカデミーから数理論理学の教授として招聘されるのは1946年のことだった。そして1950年、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでアリストテレスの三段論法の講義を依頼されたウカシェヴィチは、1929年にポーランドで出版した論理学の教科書の内容を発展させた講義を行う。これが例の1951年の書籍となるのである。

 ウカシェヴィチは1951年の書籍の内容に満足せず、大幅に充実させた第二版の作成に取りかかる。しかし、それが出版されるのは、彼の死の1年後、1957年のことだった。

「天才」ユダヤ人論理学者タイテルバウム

 ところで、1918年、ワルシャワ大学にひとりの学生が入学する。彼の名はアルフレート・タイテルバウム(Alfred Tejtelbaum)。1901年ワルシャワ生まれのユダヤ人だ。彼は生物学を専攻していたのだが、1919年にワルシャワ大学にやってきたレシニェフスキがすぐさま彼の才能を見出し、数学専攻に変えさせる。そこでウカシェヴィチら、ルヴフ・ワルシャワ学派のメンバーと出会い、その一員になるのである。それも後にウカシェヴィチ、レシニェフスキを並び称されるほどに。

 レシニェフスキの目は確かであり、1921年にまだ若干19歳のタイテルバウムは集合論の論文を発表する。そして1924年、22歳の時にワルシャワ大学の史上最年少で博士号を取得するのである(ちなみに、いまだこの記録は破られていないという)。当時の彼の業績で有名なのは、ルヴフ大学の数学者ステファン・バナッハと共著の論文だ。その論文で彼らは、球を三次元空間内で分割し、組み換えることで元の球と同じ半径を持つ球を二つ得ることができる、という奇妙な定理を証明した。この定理は、今日では「バナッハ・タルスキのパラドックス」として知られている。なぜなら、アルフレート・タイテルバウムは、博士号取得の少し前に姓を「タルスキ」に変えていたからだ。彼はその後、アメリカに移住して「アルフレッド・タルスキ」と名乗るようになる。本連載の第1回で、フォン・ノイマン、ゲーデルと共に登場したタルスキは、フォン・ノイマンと同じように、生まれた時はその名ではなかったのだ。

 タルスキが「タルスキ」に姓を変えた理由のひとつに、当時のポーランドのユダヤ人差別があったことは間違いない。「タイテルバウム」はユダヤ系の姓であるのに対し、「タルスキ」はポーランド系の姓である。「タイテルバウム」から「タルスキ」に姓を変えるということは、ユダヤ人からポーランド人になることを意味していたのだ。事実、タルスキは姓を変えると同時に、ユダヤ教からポーランド人では一般的なカトリックに改宗している。

 フォン・ノイマンが入学したブダペスト大学にはユダヤ人入学者数に上限があった(第5回参照)。タルスキの入学当時のワルシャワ大学にはそのような上限はなかったものの、後に導入されている。また、ウカシェヴィチがルヴフからワルシャワに招かれたように、当時はまだポーランド人で博士号を取得した人数はそれほど多くなく、大学でポストを得る際にポーランド人が優遇されるという風潮もあった。こうしたことから、レシニェフスキやウカシェヴィチがポーランド風の姓への変更を勧めたのだ。

 だがこれは、彼らがユダヤ人差別をしないということではなかった。後年、タルスキは姓を変更した後も、レシニェフスキやウカシェヴィチが彼と同じテーブルにつくことはなかったと回想している。そしてアメリカに移住後のタルスキが師であるレシニェフスキの名を口にすることもなかった。学生から指導教員を聞かれたときも、ユダヤ人差別に敢然と立ち向かったワルシャワ大学の別の哲学者の名を挙げたと言われている。

 レシニェフスキは、タルスキに愛憎相半ばする感情を持っていた。彼はタルスキの才能を最初に見出した一人であり、自分の教え子であるタルスキを天才だと公言すらしていた。しかし、師のトファルドフスキに宛てた手紙でレシニェフスキは、タルスキが教育と研究に専念できる職を用意できればワルシャワ大学の学術発展にとってこの上ないことだと述べる一方で、彼がワルシャワ以外のどこか、例えばエルサレムで教授職を得て論文を送ってくれるような日が来れば嬉しいと告白しているのである。

 もっとも、ポーランド風の姓になったとはいえ、元ユダヤ人がポーランドの大学で職を得るのは難しかった。事実、タルスキは博士号取得後の15年間をウカシェヴィチの助手兼高校の数学教師として過ごすことになる。この間に若き天才数学者として国際的な名声を得ていたにもかかわらず。

 このようにタルスキは改姓後もユダヤ人として差別を受け続けてきたのだが、彼自身は一方的な被害者というわけではなかった。タルスキは学生に対するセクシャル・ハラスメントの悪質な常習犯として知られている。生前にそれが問題視されることはなかったため、公式な記録には残っていないが、公然の秘密として語られていた。その意味では、彼のことをゲーデルと並ぶ20世紀最大の論理学者としてもてはやす時代は過去のものとなったと言ってよい。

 この当時、タルスキは重要な発見をしている。それは決定問題に関するものだ。決定問題は本連載の第3回で登場しているが、ヒルベルトと弟子のアッカーマンによる『数理論理学の基礎』で提示された中心問題の一つであり、「任意の命題について証明可能かどうかを判定(決定)する方法はあるか」というものだ。そのような方法がないことを示すためにチューリングが考案したのがチューリング・マシンであった。それに先立つことおよそ5年前、1930年ごろにタルスキは、ユークリッド幾何学などに関しては、そのような方法があることを発見したのだ(ちなみにこのような方法があることは、ゲーデルの不完全性定理の意味で「完全」であることを意味する)。しかし、タルスキが発見した方法が公刊されるのは、彼がアメリカに移住した後の1948年にランド研究所に提出した報告書としてである。興味深いことに、その報告書では、そのような手法があるということは、命題を入力すればそれが定理かどうかを判定する機械すら作れるということを意味しており、そのような「決定機械(decision machine)」が具体的にどのように役立つかが1ページ強ほどにわたって論じられている。この興味深い報告書については、本連載でもまたどこかで触れることになるだろう。

ウィーン学団との出会いが変えたタルスキの運命

 タルスキにとって大きな転機となるのは、ウィーン学団との出会いである。本連載の第1回で触れたが、1929年にウィーン学団のメンバーである数学者カール・メンガーがワルシャワを訪問する。タルスキに深く感銘を受けたメンガーは、翌年タルスキをウィーンに招待し、そこでタルスキとゲーデルは出会うのだった。その後もウィーンとワルシャワの交流は続く。中心にいたのはタルスキだ。1935年には、フォン・ノイマンと同様、ロックフェラー財団から奨学金を得たタルスキは半年間ウィーンに滞在する。ウィーン学団とライヘンバッハらのベルリン・グループが「統一科学国際会議」を開始するのはこの年の秋であり、タルスキももちろん参加している。

 タルスキは統一科学国際会議の中心的な参加者の一人であり、そのほとんどに参加しているが、中でも重要なのが1939年秋に開催されたハーバード大会だ。当初タルスキはこの大会には参加しない予定だった。この年の5月にレシニェフスキが亡くなる。まだ高校で数学を教えていたタルスキは、レシニェフスキの後任なら自分がそれを得るチャンスは比較的高いのではと考えていた。だから、しばらくワルシャワを離れるべきではないと考えていたのだ。タルスキに翻意するよう説得したのは、アメリカの哲学者W. V. O. クワインである。クワインは1933年にワルシャワを訪れ、それ以降、二人は友人になっていた。

 クワインは分析哲学を代表する哲学者である。1930年、彼は論理学者になるためにハーバード大学の大学院に入学する。当時のハーバードには、ラッセルとともに『プリンキピア・マテマティカ』を書いたホワイトヘッドがいたからだ。ところが、クワインがハーバードに入学した頃、ホワイトヘッドはもうすでに論理学をやめて久しい状態にあった。仕方なく独学で論理学を勉強し始めたクワインに救いの手を差し伸べたのは、ハーバート・ファイグルである。本連載の第4回で少しだけ登場しているが、ウィーン学団の若きメンバーだったファイグルは、ロックフェラー財団の奨学金を得て、1年間ハーバード大学に滞在していたのだ。ファイグルはそのままアメリカに移住することになるのだが、彼がクワインにカルナップら最先端の論理学に詳しいウィーン学団のメンバーのことを教え、ウィーンに行くことを勧めたのである。

 2年という驚異的な短さで博士号を取得したクワインは、留学のための奨学金を得て、ウィーンに向かう。ところが、お目当てのカルナップは、その頃プラハ大学に移っていた。クワインはしばらくウィーンに滞在し、ウィーン学団の会合にも参加していたが、1933年2月にプラハへと向かう。アメリカから自分に会うためにやってきた若者がいることを知ったカルナップから招待を受けたのだ。念願かなってカルナップと出会ったクワインは大いに感銘を受けるのだが、その時にワルシャワに行ってタルスキに会うことを勧められるのである。

 ワルシャワでクワインは、ポーランドに初めてやってきたアメリカ人論理学者として歓迎される。ウカシェヴィチやレシニェフスキも彼を自宅での夕食に誘い、タルスキとは深夜遅くまで議論した。こうしたウィーン、プラハ、ワルシャワでの経験により、クワインはウィーン学団に大きく傾倒することになったのである。彼らの進んだ論理学、科学哲学をアメリカに広めたい。そう思ったクワインは、第5回統一科学国際会議をハーバード大学で開催するために全力を注ぐ。

 当然クワインは、しぶるタルスキにアメリカを訪れるよう説得した。最終的にタルスキは友人であるクワインの説得に応じる。タルスキを乗せた客船ピウスツキ号がポーランドのグディニャ港からニューヨークに向けて出発するのは、1939年8月のことだった。タルスキは2週間だけのつもりで旅立ったのだが、結果的に思いがけない長旅となった。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったからだ。ピウスツキ号はポーランドからアメリカへ向かう最後の船となり、11月にはイギリス近海でドイツの潜水艦の攻撃を受け、沈没するという最後を迎える。タルスキがポーランドに残してきた家族と次に会えたのは、ピウスツキ号の出港からなんと7年後の1946年のことだった。

▲タルスキをアメリカに運んだ客船ピウスツキ号
By Henryk Poddębski , Public Domain

 第二次世界大戦後、ウカシェヴィチやレシニェフスキ、タルスキらルヴフ・ワルシャワ学派のメンバーは、バラバラとなった。レシニェフスキは開戦前に亡くなり、ウカシェヴィチとタルスキ以外にも多くのメンバーがポーランド国外に移住する。また、タルスキが乗ったピウスツキ号の次の船でアメリカに向かう予定だったために出航できず、ナチス・ドイツによってアウシュヴィッツで非業の死を遂げることになった者もいれば、なんとか陸路でソ連に脱出したものの、ポーランドに帰ることはかなわなくなった者もいた。それでも一部は戦後もポーランドに残り、なかには大学で教鞭を取り続けた者もいたのだが、共産主義国家で哲学の研究を自由に行うことは困難であり(とりわけ、カトリック神学と固く結びついていたアリストテレスについての研究は大きな危険を伴っていた)、戦前に比べるとかなり限定された範囲でしか研究できなくなってしまった。

 しかし、ルヴフ・ワルシャワ学派によって花開いたポーランドの論理学の命脈が途絶えることはなかった。生き残ったメンバーのひとり、カジミエシュ・アイドゥキエヴィチ(Kazimierz Ajdukiewicz)が1953年に復活させたジャーナル『ストゥディア・ロギカ(Studia Logica)』は、往時の伝統を受け継ぎ、今日でも数理論理学と哲学の専門誌として国際的に高く評価されている。

 ルヴフがオーストリア領となったことをきっかけに誕生し、第一次世界大戦後にワルシャワで花開いたポーランドの「ルヴフ・ワルシャワ学派」は、第二次世界大戦によって大きなダメージを受けることとなった。しかし、その伝統は今日でも脈々と受け継がれているのである。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年2月27日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年4月22日に公開しました。
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