コンピューター・サイエンスの祖、ライプニッツの普遍記号学

▲ライプニッツが書簡に記した二進法(引用

 コンピューター・サイエンスの歴史を遡っていくと、哲学者も何人か登場する。なかでも特によく言及される哲学者はライプニッツだろう。ゴットフリード・ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者である。前回の連載を読んでいただいた読者のために正確に言うと、神聖ローマ帝国の領邦のひとつであるザクセン公国のライプツィヒ出身であり、ライプツィヒで学んだ後、歴史家や政治顧問として三代のハノーファー領主に仕え(その中にはのちにイングランド王となるハノーファー選帝侯も含まれる)、晩年には神聖ローマ皇帝カール6世(オーストリア大公でもあり、マリア・テレジアの父)の命を受け、ウィーンで帝国宮廷顧問官も務めた。ライプニッツの業績は哲学に留まらず、数学や科学にも及んでおり、特にニュートンとは独立に微積分法を発明したことはよく知られている。
 ライプニッツが考案した現在のコンピューターの基礎となる考えとして、普遍記号学と二進法が挙げられる。普遍記号学とは、計算ひいては思考全体を、記号の形式的な操作(オペレーション)とみなすことである。現代のコンピューター言語は、数式を記号によって表し、それを命令によって操作するものであり、この発想を基礎としている。二進法という発想そのものは紀元前からあるとされているが、あらゆる数を0と1だけによって表すことが可能だということを数学的に定式化したのはライプニッツである。
 だが、現代のコンピューター・サイエンスは、ライプニッツ以降、着実に歩みを進めていったわけではない。ライプニッツの死後、普遍記号学という構想に大きく立ちはだかった哲学者がいた。カントである。

ライプニッツ=ニュートン論争を調停しようとしたカント

 イマニュエル・カントはライプニッツより後、18世紀ドイツ(厳密にはプロイセン王国)の哲学者である。カントもライプニッツ同様、哲学だけでなく様々な分野で業績を残しているが、彼も数学を研究していた。カントにとって数学が重要だったのは、ライプニッツとニュートンの間で行われた論争に関わる。ライプニッツは、万有引力の法則の発見者である物理学者ニュートンの同時代人であり、両者の間には様々な論争があったことが知られている。有名なのは、どちらが先に微積分法を発見したかについての争いである。ライプニッツが仕えていたハノーファー選帝侯の一人、ゲオルク・ルートヴィヒはイングランド王ジョージ1世として即位し、ロンドンに移り住むのだが、ライプニッツは同行を許されず、ドイツに留まった。それにはこの争いが関わっていたのかもしれない。
 哲学に関しては、ライプニッツとニュートン(の支持者)の間で、時間と空間に関する論争があった。ニュートンは時間と空間がまさに文字通り存在すると主張した。それに対しライプニッツは、時間と空間は文字通り存在するのではなく、あくまでものごとの間の関係として存在するに過ぎないと主張した。いわば、ライプニッツは時間と空間は数学的抽象化として存在しているのに過ぎないと考えたのに対し、ニュートンは我々がそうした抽象化をする以前から自律的に存在していると考えたのだ。現代では、ニュートンの説は「実体説」、ライプニッツの説は「関係説」と呼ばれているが、カントがしようとしたことは、実体説と関係説の統合であり、そのためにはニュートン力学や微積分という当時の最先端の数理科学を理解することが不可欠だったのだ。
 では、カントはどのようにしてニュートンの説とライプニッツの説を統合しようとしたのか。これを簡単に説明することは明らかに筆者の力量を超えている。だが、カント哲学とコンピューターの関係を見るためには、避けて通ることができない。というわけで、多少ややこしい話になるが、しばらくお付き合い願いたい。

科学と数学にまたがる認識の源としての「直観」

 カントによれば、まず、我々は時間と空間を直接認識できるわけではない。逆に、我々が様々なものごと(例えば、いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターや、今朝から続いている頭痛)を認識できるのは明らかだ。だが、時間や空間に一切関わらない仕方で認識することはできないだろう。「いまこの瞬間」が時間的な認識なのは言うまでもないが、目の前のコンピューターには一定の大きさがあり、大きさの認識は空間的な認識だからだ。ということは、我々は時間と空間そのものではなく、それらに関わる何らかの能力を用いて、現実に存在する様々なものごとを時間や空間に関係づけることにより認識していると考えられる。その意味で、時間や空間をものごとの間の関係だとしたライプニッツは正しい。
 だが、時間と空間はどちらも無限であるという特徴を持っている。我々が認識できるものごとの数は有限のはずであり、どうしてそこから無限の時間と空間が生まれるのだろうか。むしろ逆ではないか。無限の時間と空間は、我々が様々な認識に先んじて獲得しているものであり、それなしには何も認識できないようなものなのではないだろうか。つまり、時間と空間に関して、我々の知性に内在的に備わっているような何か──カントはこれを「直観(Anschauung/intuition)」と呼ぶ──があるのである。その意味で、時間と空間が全てに先んじた絶対的なものであるという点では、ニュートンは正しい。このようにカントは考えた。

 このことはカントの科学観と数学観に関わってくる。数学でも当然無限が登場するからだ。時間と空間の場合、それらに関する「直観」が認識に先んじる絶対的なものだったとしても、我々の認識は、感覚器官からの情報がこれらと組み合わさることで生まれる。いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターを認識するには、視覚や触覚や聴覚からの情報が使われているはずだ。つまり、我々は様々なものを見聞きすることで様々な認識を得ることができるのである。さらには、実験器具を用いて新たな現象を見聞きする(つまり「発見」する)ことにより、それまでには得られなかった新しい認識を得ることができる。これが科学である。
 しかし、数学の場合はどうだろうか。数学、特に計算は、何かを見聞きすることによって行われるというよりは、純粋に頭の中で行われるのではないだろうか。そうだとすると、結局は認識に先んじて持っているものがあるだけで、新たな認識など得られない、ということになってしまわないだろうか。

 もちろんカントはこれを否定する。カントによれば、我々は既存の概念を組み合わせることで、新たな概念を生み出すことができる。幾何学を例にしよう。三角形は「三つの直線によって形作られる図形」と定義でき、直角二等辺三角形は、そうした図形のうち「二つの辺の長さが等しく、かつ90度の角を一つ持つもの」と定義できる。等式や証明も同様である。数学によって得られる認識とは、このように特に何かを見たり聞いたりすることなく、様々な仕方で概念を組み合わせることによって得られる創造的なものであり、この「組み合わせる」ことにはやはり、時間つまり「直観」が必要なのである。また、図形を使った証明を考えれば、そこには明らかに空間に関する「直観」が関わっている。
 カントがライプニッツの普遍記号学を受け入れなかったのも、こうした彼の数学観のためである。数学、計算、証明は、たしかに一見したところ、記号を様々に組み合わせているだけのように見える。だが、それは表面上のことである。その内実は、我々が持っている概念を頭の中で「直観」と共に創造的に組み合わせたことの結果なのであり、記号はそれを効率よく行うための道具に過ぎない。事実、ライプニッツが普遍記号学を提唱してから100年近く経ったカントの時代まで、実際に数学を記号の操作として実現することには誰も成功していなかった。カントからすれば、普遍記号学はいかに魅力的であっても、結局は実現不可能な企てと映っていたことだろう。
 カントを安易に責めることはできない。実際に数学が記号の操作としてみなすことが可能であることが示されるのは、それからさらに100年が経った19世紀終わり、ドイツ帝国が誕生した後、ライプニッツの母校であるイェーナ大学の数学者ゴットフリート・フレーゲによってであり、それが広まるのは、20世紀に入り、哲学者ラッセルが師の数学者ホワイトヘッドと共に『プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica)』という、ニュートンによる『自然哲学の数学的諸原理(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)』と似たタイトルを持つ本を出版してからのことである。

▲ゴットフリート・フレーゲ(出典

カントを乗り越えようとしたフレーゲと、それを阻んだラッセルのパラドックス

▲フレーゲの概念記法セミナーに出席していたルドルフ・カルナップのノート(ピッツバーグ大学図書館所蔵)(引用

 フレーゲとラッセルはどちらも分析哲学の始祖とされる。分析哲学の始まりは1879年、フレーゲが「概念記法(Begriffsschrift/Concept Notation)」と呼ばれる、独自の表記法を備えた記号論理学の書籍が出版された年とするのが一般的だ。概念記法によってフレーゲが成し遂げようとしたことはまさに、ライプニッツの普遍記号学である。数学の証明が厳密に正しいことを保証するために、機械的な仕方で証明をチェックできるシステムを開発したのだ。概念記法で採用された表記法そのものは二次元的な構造を持った極めて特殊なものであり、印刷が困難であるということもあって一般的に採用されることはなかった。しかし、証明を機械的に──すなわち、一定のアルゴリズムに従って──チェックできるという点で、コンピューター言語の前身とみなすこともできよう。
 どうしてフレーゲは概念記法を開発したのだろうか。フレーゲ本人が目指したのは、普遍記号学の実現そのものではなく、それを用いて、数学の基礎づけを与えることだった。具体的には、自然数や実数を用いた証明がすべて無矛盾であることを「証明」しようとしたのだ。通常の数学の証明ではなく、証明の「証明」を与えるためには、新たな手法の開発が必要である。フレーゲは、普遍記号学を実現することにより、それを実現しようとした。そして生まれたのが概念記法である。

 しかし、そもそもなぜ数学に基礎づけが必要なのだろうか。当時のドイツは、プロイセン時代から引き継がれている大学政策ともあいまって、科学大国への道のりを歩んでいた。とりわけ物理学に代表される数理科学は大きく発展し、自然現象をそれまでは不可能なほど厳密に記述することが可能になり、また、それに基づいた技術開発を行う企業も現れるようになった。メルセデス・ベンツで知られる自動車企業のダイムラー社や、電子通信機器企業のジーメンス社もそのひとつであり、その後の産学協同の走りである。
 フレーゲ自身もこうした産学協同の恩恵を大きく被っている。彼はイェーナ大学の大学生の時に、アッベという数学者の指導を受ける。アッベは1846年イェーナ創業の、カメラなど精密光学機器で知られるカール・ツァイス社の技術顧問をしていた。それだけでなく、同社を大きく育て、のちに同社が財団化する際にはその立役者となるほど、同社の歴史にとって重要人物であった。フレーゲ自身もカール・ツァイス財団から多大な支援を受け、アッベの母校であるゲッティンゲン大学に移ることになる。当時のゲッティンゲンは長年に及ぶ黄金期にあり、フレーゲ在学とは時期を前後するが、ガウス(磁場の単位ガウスの由来である天才数学者)やリーマン(一般相対性理論で用いられたリーマン幾何学を生み出した数学者)、クライン(位相幾何学の発展に大きく貢献した数学者、「クラインの壷」で知られる)など錚々たる数学者が集っていた。
 19世紀後半のドイツでは、同じ数学でも図形を扱う幾何学と、自然数や整数、実数などを扱う算術がどのように異なるのか、それとも本質的には同じと考えてよいのか、といった問題が議論されていた。議論の焦点のひとつが「直観」である。図形を使って行われる幾何学の証明が空間と関係していることは明らかであり、証明の正しさも描かれた図形を見れば一目瞭然だ。だから、そこでは空間に関する「直観」が使われているのだ、というカント的な主張はもっともに見える。しかし、19世紀は非ユークリッド幾何学が成立した時期である。非ユークリッド幾何学の図形は、ある意味で「曲がった」平面上の図形であり、目の前の机に紙を広げて書く、ということができない。それでも証明には空間の「直観」が必要なのだろうか? 現代の我々は、非ユークリッド幾何学に従う「曲がった」平面や空間の実例を知っている。例えば地表面がそうだ。また、一般相対性理論で用いられるリーマン幾何学も非ユークリッド幾何学のひとつだ。普段はまったく気づかないが、我々がいるのは、厳密には「曲がった」平面や空間なのである。だが、19世紀の人々にとって、非ユークリッド幾何学は実例がまったく存在しない、数式の中だけの幾何学のように映っていた。そんなものを幾何学として認めてよいのだろうか? それとも、非ユークリッド幾何学には空間以外の「直観」が関わっているのだろうか? それは算術に必要な「直観」と同じものなのだろうか? あるいは、他の数学とはまったく異なり、「直観」が関わらないのだろうか?

▲地表面のような球体型の平面では三角形の内角の和が180度とは限らない。(引用

 前述のガウス、リーマン、クラインはいずれも、非ユークリッド幾何学から位相幾何学へと至る発展に大きく貢献した数学者である。フレーゲもゲッティンゲンで彼らの教え子たちから学び、幾何学で博士論文を書いている。ゲッティンゲンで学ぶうちにフレーゲは、多くの証明に厳密さが足りないことに不満を覚えるようになっていた。彼が問題視したのも、「直観」である。たしかに幾何学に関しては「直観」が不可欠である。しかし、数学の証明の中には、厳密には「直観」が不要なものもあるのではないだろうか。むしろ不用意に「直観」を用いてしまうことで、証明の厳密さが損なわれているのではないだろうか。だから、証明の正しさを厳密にチェックできる手法があれば、「直観」が必要な数学──具体的には幾何学──と「直観」が不要な数学を区別できるのではないだろうか。そして算術は、「直観」が不要な数学ではないのだろうか。そのようにフレーゲは考えた。
 フレーゲは、カントの数学観を乗り越え、新たな数学観を提唱しようとしたのだ、と言ってもよいだろう。ただし、このように言うと、フレーゲは数学者であったにも関わらず、哲学の研究をしていたような印象を与えかねない。実際、フレーゲの研究は当時の一般的な数学とは大きく異なるものであり、同僚からはなかなか認められなかった。最終的な役職も、正式な教授ではなく、カール・ツァイス財団から財政的支援によって作られた財団教授というものだった。だが、当時のドイツでは、フレーゲのようにカントの時空観や数学観を受け入れる数学者は決して少なくなかった。前回の連載で述べたように、19世紀の後半のドイツでは、新カント派が大きな勢力を誇っていた。その背景には、当時の科学者の中に、新カント派を支持し、カントの科学観に基づいて科学を発展させる科学者たちがいたことがある。代表例はヘルムホルツだ。ヘルムホルツは物理学者として知られているが、思弁的で、現代の我々の目からすると、ときには非科学的とすら見えてしまうヘーゲルらに反発し、科学と哲学を結び付けようとしたカントの哲学を、カントから100年後のドイツで発展させようとしたのだ。このように、新カント派の勃興には、こうしたカントの科学観を支持する科学者も一役買っていたのである。

 カントを支持するか支持しないかはどうあれ、当時のドイツでは、哲学をはじめとする人文学だけでなく、物理学や数学も含む幅広い分野でカントの哲学が広まっていた。フレーゲも、カントを頭から否定するのではなく、数学の基礎づけという目的のもと、カントの数学観を大枠は受け入れた上で、より適切なものへとアップデートしようとしたのである。数学を記号の操作とみなすライプニッツの普遍記号学が実現されるには、そうしたアップデートが必要だったのだ。
 フレーゲは、主著『算術の基本法則(Die Grundgesetze der Arithmetik/The Foundations of Arismetic)』(1893年に第I巻が出版)で、概念記法を用い、自然数、整数、有理数、無理数のすべてを純粋に論理的かつ機械的に定義でき、既知の証明が展開できることを示した。だが、ドイツ国内はもちろん、ヨーロッパの他国でもフレーゲの成果が大きく広まることはなかった。その要因はおそらく、独自の表記法にあっただろう。その中で、若いイギリス人哲学者がそれに目を留めた。それがバートランド・ラッセルである。
 当時20代の若きラッセルは、フレーゲの著作に大きな感銘を受けたのだが、ひとつの瑕疵を発見した。たしかに『算術の基本法則』で示された手法により、自然数から実数に至る厳密な証明が与えられるのだが、それを用いて矛盾も生み出されてしまうのである。これがいわゆる「ラッセルのパラドックス」の発見である。
 『算術の基本法則』の執筆からおよそ10年後の1902年、フレーゲはラッセルから一通の手紙を受け取る。パラドックスの存在を知らせるその手紙は、フレーゲを大きく落胆させたという。その後数年、フレーゲは自身のシステムの改良に努めるのだが、結果ははかばかしいものではなく、晩年には長年の試みを断念するに至る。1848年生まれのフレーゲは、概念記法の頃はまだ30歳になったばかり、ラッセルの手紙を受け取った時は54歳。生涯を費やしたプロジェクトの断念をせざるをえなかったフレーゲの心境は、想像を絶するものがある。
 ラッセルとホワイトヘッドが『プリンキピア』で示したことは、表記法こそ概念記法とは異なっていたが、実質的には『算術の基本法則』の改良である。皮肉なことに、フレーゲ独自の表記法を捨てることにより、フレーゲが掲げた記号論理学による数学の基礎づけというコンセプトの成果は広まっていくのである。

数理論理学による全数学の基礎づけを夢見たヒルベルト

 『プリンキピア』は三巻本であり、1910年から1913年にかけて出版され、国際的に大きな反響を呼んだが、なかでも影響が大きかったのは、フレーゲの母校、ゲッティンゲン大学である。当時のゲッティンゲンには、ヒルベルトがいた。1862年、当時はまだプロイセン王国だったケーニヒスベルクに生まれたダフィット・ヒルベルトは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツを代表する数学者であり、「現代数学の父」とも呼ばれる。ヒルベルトもフレーゲと同様に数学の基礎づけを目指しており、『幾何学の基礎(Grundlagen der Geometrie/Foundations of Geomerty)』という書籍を出版して、フレーゲと論争をしたこともあった。ただ、『プリンキピア』出版当時に没頭していたのは集合論であり、フレーゲからの手紙で「ラッセルのパラドックス」について教えられた時も、集合論で同様のパラドックスが以前から発見されており、特に目新しいものではない、と返している。

▲ダフィット・ヒルベルト(出典

 数学の基礎づけに対するヒルベルトのアプローチは、「公理化」と呼ばれる。数学の諸分野、例えば幾何学や算術ごとに、その分野にとって最低必要限の前提(「公理」と呼ばれる)と定理の証明に必要な規則を特定することで、各分野の独立性や無矛盾性を証明しようとしたのである。こうすることで、「直観」の対象を公理に限定することができるからだ。『幾何学の基礎』でヒルベルトが行なったのも、幾何学の公理化である。さらにヒルベルトは、このアプローチをニュートン力学にまで適用することで、理論物理学の基礎づけも行なっている。そしてフレーゲとの論争も、公理化による基礎づけが妥当かどうかについてだった。
 このように、ヒルベルトはフレーゲのアプローチを受け入れていなかったのだが、『プリンキピア』の出版後しばらくしてから、『プリンキピア』で展開されたフレーゲに由来する記号論理学を改良することにより、公理化が容易になることに気づいた。ヒルベルトは1928年に教え子のアッカーマンと共に『数理論理学の基礎(Grundzüge der theoretischen Logik/Principles of Mathematical Logic)』という書籍を出版する。この本は1917年に彼が行った講義に基づいたもので、数理論理学を概説した最初の教科書だとされている。数理論理学が広まるのにこの本は大いに貢献したのだが、そこで採用された『プリンキピア』の表記法を改良したものは「ヒルベルトスタイル」と呼ばれ、数理論理学の標準的表記法となっていく。
 ヒルベルトがどのようなきっかけで『プリンキピア』の記号論理学の有用性に気づいたのかは、あまり定かではない。ゲッティンゲン大学で最初に『プリンキピア』に注目したのは、おそらくレオナルト・ネルゾンという哲学者である。ネルゾンもまた、傍流ではあるが新カント派とされている。ネルゾンは哲学に公理化を適用することにより、当時数学で行われていたような基礎づけと体系化を哲学に与えようとしていたのだ。ヒルベルトより20歳若いネルゾンは、ベルリン大学で博士号を取得した後、ゲッティンゲン大学で教授資格を取得しようとしていたが、当時哲学科の教授だった哲学者フッサールと折り合いが悪かったこともあり、教授資格取得に失敗する。失意のネルゾンを救ったのがヒルベルトだった。ヒルベルトはネルゾンに、数学科で科学哲学を教える機会を与えている。そこまでするほど、ヒルベルトにとって数学と哲学と論理学を組み合わせることは重要だったのだ。ネルゾンの強烈なキャラクターは、ヒルベルトの教え子たちに大きなインパクトを与える。その一人である数学者のパウル・ベルナイスは、ネルゾンに関する哲学の論文を書いたほどだ。おそらくヒルベルトは、ネルゾンと彼に自分の近しい教え子たちのおかげで、『プリンキピア』の有用性に徐々に気づいていったのだろう。
 最終的にヒルベルトが至った境地は、数学とは、公理から出発して厳密に定められた規則に従って証明することであり、ゆえに数学的真理はすべて証明可能であり、矛盾は存在しない、というものだった。この立場は「形式主義」という名で知られるようになる。加えてヒルベルトは、形式主義の正しさを数理論理学によって証明しようとした。これは「ヒルベルトのプログラム」と呼ばれる。1928年の時点では、ヒルベルトは「ヒルベルトのプログラム」の完遂に楽観的だった。彼と共に『数理論理学の基礎』を執筆したアッカーマンと、ヒルベルトの指導のもと大学教授資格を取得するため、少し前にハンガリーのブダペストからゲッティンゲンに移ってきたフォン・ノイマンにより、かなりの部分が達成されていたからだ。しかし、その後まもなく、1930年にヒルベルトのプログラムがそのままでは完遂できないことが証明される。それこそまさに、本連載の第1回で登場した、あの「ケーニヒスベルクの会議」でゲーデルが公表した不完全性定理である。
 とはいえ、ヒルベルトのプログラムは完全な失敗に終わったわけではなかった。ヒルベルトのプログラムの達成のために発展した数学的手法は、証明論という新たな分野を作り出す。そして証明論によって、数学のそれぞれの分野について、公理などの道具立てがどの程度必要かが探求されるようになる。現在では、数学の大部分について、その分野ごとの「ヒルベルトのプログラム」が限定付きで達成されている――残念ながら、ヒルベルトが夢見た数学全体については、ゲーデルが示したように達成不可能なのだが。

決定問題とチューリング・マシンの誕生

 ところで、『数理論理学の基礎』には、ひとつの問題が提示されていた。数理論理学の任意の命題について証明可能かどうかを判定(決定)する方法はあるか、というものである。これは「決定問題(Entscheidungsproblem/decision problem)」と呼ばれ、数理論理学の中心問題とされていた。決定問題が解決されたのは1936年だ。この年、アメリカの数学者アロンゾ・チャーチにより、そのような方法が存在しないことが証明される。チャーチは、1932年に「ラムダ計算(λ-calculus)」という、コンピューター言語LISPの元になった計算システムを考案する。チャーチはゲッティンゲンに留学したことがあり、ラムダ計算によってヒルベルトのプログラムを達成しようと試みたのだ。この試み自体は失敗に終わるが、ラムダ計算は関数に特化しており(だからこそ、これを元にして関数言語であるLISPが生まれるのだが)、ラムダ計算上で定義された関数は、その結果を計算するアルゴリズムが必ず存在する(これは「計算可能関数」と呼ばれる)。これにより、決定問題は、数理論理学の任意の命題について真偽を計算する関数は計算可能関数か、という形に置き換えることができる。チャーチはそれが計算可能関数ではないことを示したのだ。

 その1936年の秋、チャーチが勤めるプリンストン大学に、ひとりのイギリス人大学院生が入学する。チャーチは、決定問題の解決についての論文が出版される前に、知人であるイギリス・ケンブリッジ大学の数学者ニューマンにそれを送っていた。ニューマンからの返信は驚くべきものであり、なんと彼の学生のひとりが独力で同じ結論に到達したというものだったのだ。その学生の名前はアラン・チューリングといい、彼が決定問題を解決した論文「計算可能数について、および決定問題への応用」こそ、チューリング・マシンの構想が初めて述べられた論文である。ニューマンの推薦により、チューリングはプリンストン大学の大学院生として、チャーチの指導のもとで博士号を取得することになる。

▲アラン・チューリング(出典

 チャーチによる決定問題の解決は、ラムダ計算を使って計算可能な「関数」を定義することによるものだった。一方、チューリングの解決は、計算可能な「機械」——すなわち、チューリング・マシン——を定義することによるものである。チャーチとチューリングの結果は実質的に同じものだと言われることが多いが、二人の違いはどこにあったのだろうか? チャーチのやりかたは関数や計算という抽象的な数学の世界に収まっていたのに対し、チューリングの方は、実際に作ることもできそうな具体的な機械についてのものだった。しかも、チューリングは、自分の結果がすでにチャーチによって得られていることをニューマンから教わった後、自分の定義した「計算可能」とチャーチの定義した「計算可能」が一致することを示し、それを補論として付け加えている。チャーチによる純粋に数学的に定義された抽象的な「計算可能」が、原理的には現実に製作することも可能な機械の「計算可能」と一致する。これこそが、チューリングの論文が、同じ結論を持つチャーチの論文より後に出版されたにも関わらず、コンピューター・サイエンスの出発点を成す金字塔とみなされている理由である。

 このようにして決定問題は、ヒルベルトのお膝元のゲッティンゲンではなく、ドイツですらないアメリカとイギリスで解決された。これは、ヒルベルトとその教え子たちが寄ってたかっても解決できなかったほどの難問が、海外のアメリカ人とイギリス人によって解決された、ということではないだろう。おそらく、ゲッティンゲンの数学者にとって、決定問題は重要でこそあれ、数学的にはそれほど面白味のない問題のように思えたのではないだろうか。実際、チューリングの証明は、チューリング・マシンという独自に定義された対象に用いて、対角線論法というゲーデルの不完全性定理でも用いられた有名な手法を適用したものにすぎない。また、もともとヒルベルトが目指していた数学の基礎づけにも特に影響するものではない。その意味で、あくまで「応用」にすぎないという見方もできるだろう。

 しかし、少なくともチューリングは自分の証明をそのようには見なかった。決定問題の背景にあるヒルベルトのプログラムや数学の基礎づけ、さらにはフレーゲやカントの数学観のことは、ドイツならいざ知らず、イギリスで数学教育を受けたチューリングにとっては、知っていたとしてもおそらく縁遠いものだっただろう。決定問題を本来の文脈から切り離し、人間の思考と計算を実行する機械というアイデアと結びつけることがチューリングに可能だったのは、彼がドイツの知的伝統にどっぷり浸かってはいなかったからであることはほぼ間違いない。ライプニッツやカントといったドイツの哲学的伝統の中から生まれた数学的問題である決定問題を、部外者が解決する。
 これがコンピューター・サイエンスの第一歩だったのである。

 ところで、前回の連載で見たように、ドイツの外、と言えばオーストリアである。チューリング同様、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人もやはり、ドイツ人とは少し異なった仕方で、ヒルベルトのプログラムや数理論理学を捉えていた。次回はオーストリアに話を移そう。まずはゲーデルから。舞台となるのはオーストリアの首都、ウィーンである。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2019年10月9日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年1月14日に公開しました。